第22話 薄明の頁
朝の陽光は、石畳の継ぎ目に薄く滲む墨のように、鋭くもどこか冷ややかなコントラストを街に刻んでいた。
市場通りの活気に満ちた喧騒を背に、リュネルは冒険者ギルドの重厚な正面階段を上がる。
長年の往来によって角が磨り減った石段の感触は、ここを幾度も行き来した者だけが共有する、くぐもった安心感を靴底に返してくる。
掲示板の前には、既に依頼を求める冒険者の列ができていた。
剣の背には昨日の激闘を物語る塩と土がこびりつき、新人の震える肩には先輩の容赦ない説教が突き刺さる。
受付の職員たちは、押し寄せる書類の山を前に、印章を叩きつける手を一刻も休めない。
――リュネルの目的である記録室は、その喧騒の最奥、最も光の届かない場所にひっそりと鎮座していた。
厚い樫の扉を指先で一度だけノックすると、内側で幾重にも重なる錠が、重々しい金属音を立てて外れる音が響いた。
「おや、リュネルさん。あなたほどの多忙な方が、こんな早い時間から来られるとは珍しいな」
顔を覗かせたのは、記録室の管理係ロークだ。
口が悪く、常に眉間に皺を寄せている男だが、その実、誰よりも記録を愛し、面倒見が良い。
文句を言いながらも、その手は既にリュネルが必要とするであろう棚へと向かっている。
「少し調べ物をしたくてね。討伐記録と被害報告、先月分からすべて。もし可能なら、まだ整理のついていない情報があれば、それも見せてもらいたいんだ」
「未整理の情報だと? 相変わらず、あんたという男は物好きを通り越して執念深い。……まあ、情報の価値がわかるあんたになら、これを見せたところで天罰は当たるまいよ」
ロークが棚から引き抜いた分厚い束が、机の上にどしりと重なった。
古い羊皮紙が放つ特有の匂いは、真夏の陽光に焼かれた乾いた草の香りに似ている。
そこに並ぶ墨の線は、朝の雲の形よりも正確に、世界の歩みを記述していた。
リュネルは短く礼を告げると、細い指の腹でページの角を静かに押さえ、淀みのないテンポで繰り始めた。
彼はただ文字を追っているのではない。
そこに残された情報を拾い上げているのだ。
報告書を書いた者の言い回しの癖、添えられた地図の縮尺の狂い、記述された文字の震え。
紙という媒体は、時に書き手が隠そうとした事実さえ饒舌に語り出す。
(……やっぱり、あるな)
単発の事案として見れば「少し変わった魔獣だった」の一言で片付けられてしまうような小さな違和感が、地図の上に並べると不気味な一条の筋となる。
(一見普通の魔獣に見えるだろうが、それぞれ違った特徴があるのか。…外見だったり、行動に違和感がある、か。魔獣も知性ある生き物だ。情報だけ見るのでは限界があるな。やっぱり自分でも見てみない事には断言は出来ないな…)
頁の端に、極細の字で小さな印を刻んでいく。
その印が重なり、三つ目を数えたところで、傍らで様子を伺っていたロークがニヤリと唇を歪めた。
「そうやって黙々と、公共物に書き込んでいくあんたのその性根は、相変わらずいいのか悪いのか判断に困るな」
「あははは……清書前の記録なので多めにみてください。……ロークさんこのページの写しをお願いしてもいいですか?」
「茶一杯で手を打とう。砂糖は二つ、それもとびきり甘いやつだ」
「健康のために、控えなくて大丈夫ですか?」
「はっ、記録に埋もれて死ぬ年寄りの数少ない楽しみなんだよ。余計なお世話だ」
最後の束に手を伸ばした瞬間、ロークが不意に声を潜め、周囲を警戒するように顔を寄せた。
「……気をつけろよ。上の目が厳しくなっている。何かを調査しているのは間違いなさそうだがなぁ。隠すわけでもなく、かと言って暴こうとしてるわけでもねぇ。お上は何考えてんだかねぇ」
リュネルはその言葉の重みを噛み締め、目だけで深い礼を返した。
「……ありがとう。肝に銘じておきますよ」
「命あってのものだ。あんたまで記録になっちまうなんてよしてくれよ」
席を立ち、束を抱え直したリュネルの肩を、ロークが最後にぽんと小突いた。
「後で受付に顔を出せ。特急で写しを用意しておく」
「助かります。また後ほど」
いつもの柔らかな笑みを湛え、リュネルは埃っぽい記録室を後にした。
次に向かった記録保管所は、ギルドから賑やかな通りを二つほど挟んだ、静寂の支配する区画にある。
紋章の刻印された重厚な鉄の扉を押し開くと、数世紀分の時を吸い込んだ紙の匂いがいっせいに広がり、昼間の喧騒は瞬時に彼方へと遠のいた。
高い天窓から差し込む一筋の光が空気中を漂う塵を星屑のように輝かせ、天を突くほど高い書架の列が、知識の森となってどこまでも続いていた。
「リュネルじゃないか。また妙な風を連れてきたな」
白髪の司書、アスパルが書架の陰から顔を出した。
リュネルがアルカナ堂を継ぐよりもずっと前、学問の講義と激しい論争を等分に与えてくれた、頑固だがどこまでも親切な学匠だ。
「錬材師というのは忙しいはずだろうに、また古臭い文書に首を突っ込みに来たのか?」
「ええ。昔から、静かな場所で本と対話するのは好きでしてね。……突然変異の魔獣や瘴気の持続性に関する異常事例について、旧王政期の資料を閲覧したいのですが」
「ほう、そんな古い禁忌に触れる記述を覚えている者は、今やこの都でも片手で数えるほどだぞ。ついてきなさい」
迷いのない足取りで進むアスパルの背を追い、書架の最深部へ。
そこから引き出された革表紙の書は持ち上げるのも一苦労なほど重く、綴じ紐は寿命を迎える直前の最後の張りを保っていた。
「ここだ。“魔性生物に対する人工介入の試み”。王政末期、内密にまとめられた諸報告の禁断の写本だ。……あの頃は、政治も学問も、自らの器を忘れるほどに欲が深かった」
リュネルは慎重に、壊れ物を扱うように紐を解いた。
一枚、また一枚と頁をめくるごとに、彼の瞳に映る情報の密度が増していく。
頁には図解が多い。魔性生物の体組織の接合図、魔核外層における強制的な再生記録。
そして、何度も執拗に繰り返される"制御"という単語。
リュネルは必要な情報を具に拾い上げ、時折指を止めては、自身の記憶と照らし合わせていく。
頭の中で現代の異常事態と過去の禁忌が、パズルのピースのように埋まっていく。
「王政末期、諸外国で“似たような報告”が連続した年があった。それがあの大戦の引金となったかは、今では分からんがね。皮肉なことに、その同じ年、宮廷では大規模な派閥争いと粛清が起きていた。……まあ、ただの偶然かもしれないがな」
アスパルが、わざとらしく独り言のように付け加える。
「偶然であれば、どれほど救いがあったことか」
リュネルの呟きは、膨大な資料の海へと静かに沈んでいった。
1時間ほど集中して目を通し、リュネルは頃合いを見て書架の間から出てきた。
窓辺で傾き始めた光を眺めていたアスパルが、予言者のような口調で言った。
「自然をねじ曲げようとする愚か者は、いつの世にも現れる。だが忘れるな、リュネル。無理にねじ曲げられたものは、たいてい、より残酷な力でねじ返されるものだ」
「ええ、深く心得ています」
「君は真面目すぎるな。……気をつけろよ。真実を知れば知るほど、それを隠したい者たちからは疎まれることになる」
老司書の目は笑っていたが、その奥底には、冬の湖のような冷徹な警告が潜んでいた。
「ご忠告、痛み入ります。写しの許可と、抜き書きの脚注を添えさせてください」
資料室の外に出ると、鮮やかな昼の光がリュネルの青い瞳に鋭く透かされた。
(……確信した。これは偶然じゃない。誰かが過去の忌まわしい“試み”を、もう一度再現しようとしている)
その確信を胸に、リュネルは早足に自らの店へと向かった。
アルカナ堂の扉を開けると、真鍮の鈴がいつもより軽快に鳴り響いた。
カウンターの向こう側では、リラが手際よく客を捌いていたが、リュネルの姿を認めると、会釈の合間にどこか不安げな、助けを求めるような笑みを投げかけてきた。
「お帰りなさい、リュネルさん。……あの、えっと、奥に、お客様が……」
その「えっと」という言葉に含まれた、いつもとは違う硬い響き。
リュネルは一瞬で店内の空気が変質していることを悟った。
指先で視線を滑らせる。カウンターの端、客用の椅子にこれ以上なく無造作に腰掛けている人影。
手ぐしで整えられた茶黒の髪、独特の猫背、そして、すべてを茶化すような薄い笑み。
――ヘルメスだ。
「やぁ、リュンちゃん。調べ物は捗ったかい? その顔を見るに、あまり楽しい結果ではなかったようだね」
「……ヘルメス」
リュネルの呼吸がわずかに半拍だけ遅れる。
それと同時に、店の奥から二つの巨大な気配がリュネルを守るようにして背後に立った。
「先生、コイツは何だよ。ただの客じゃねーってのは感じるけど」
ソランの紅金の瞳が鋭く細まり、獲物を前にした獣のような警戒色に染まる。
さらにその背後から静かな怒りを孕んだ圧を放って立ったのは、ベルギスだった。
その巨躯が放つ威圧感は、店内の空気の“余白”さえも奪い去る。
「名は聞いている。義賊、あるいは“闇夜の奏者”。まともな国家なら、指名手配のトップに並ぶ顔だ。――この店に何の用だ」
ヘルメスは両手をひょいと上げ、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「こわいなぁ。俺はただ、愛する旧友の顔を拝みに来ただけさ」
言葉は軽い。
だが、その琥珀色の瞳が一瞬だけ、鋭くソランの立ち姿を掠めた。
リュネルの胸の内で、心臓を鷲掴みにされるような鋭利な疼きが走った。
(見られたくなかったーー)
ヘルメスは×の×××を知っている。
あいつの×も…
だから、××"×××"には違和感を抱くはずだ。
それでも、彼は表に出さない。出さない男だ……
でも、他は?…この先×××を知ってる人と会う可能性もある。
対策はしてきたつもりだが、全員が彼のようにはいかないだろう。
さて、どうしたものか………
リュネルは一歩、二歩と、対峙する二人の間に入り、場の緊張を遮断するように立った。
「……大丈夫だ、みんな。彼は、僕が個人的に呼んだ協力者なんだ」
ソランは口をへの字に結び、納得のいかない様子でリュネルの隣を死守する。
ベルギスは低く鼻を鳴らし、圧を解かぬまま一歩引いた。
リラが場の温度を察し、客に茶を差し出しながら、手際よく空気を霧散させていく。
「それで、ヘルメス。君は何を見つけてきたんだい?」
「んんん。街の外れ、森の境界で“変なの”をいくつか採取してきた。公式な報告書には決して残らないような、不自然な破片だ。……俺の目には、それは生物の一部というより、何かの巨大な『設計図』の端切れのように見えたよ」
「設計図? 魔獣に設計図なんてあるわけねぇだろ」
ソランが眉間に深い皺を寄せる。
「比喩だよ、坊や。それだけ“計算され尽くした”歪みだったってことさ」
ヘルメスは不敵に笑う。
「で、リュンちゃん。ギルドと保管所の記録は何て?」
リュネルは、先ほど確認した戦慄すべき事実を簡潔に共有した。
「自然の生態系の範囲内で片付けるには、少し違和感があるね。出現場所、時間、そして特徴と行動。誰かが意図的に“持ち込んでいる”可能性が極めて高い」
ヘルメスは口笛を吹き、愉快そうに目を細めた。
「ほらな、俺の読み通りだ。……じゃあ、行こうか。言葉で語るより、現物を見たほうが早い」
ソランが再び一歩前へ出た。
「先生、本当にこいつを連れて行くのか?」
「連れて行く? 心外だなぁ」
ヘルメスはおどけたように肩をすくめたが、その直後、声のトーンを一段落とした。
「俺が案内するのさ。目的のブツがどこに隠されているか、この街で俺以上に知っている奴はいない」
ベルギスが、鋼のような低い声で問う。
「この街の秩序に背くつもりではないだろうな」
「あるわけないだろ。俺は平和を愛する小市民だぜ」
ヘルメスは笑みを崩さなかったが、その瞳の奥が一瞬だけ冬の月のように冷たく凍てついた。
「……まあ、その『秩序』とやらが、中から腐りきっている場合は話は別だがね」
リュネルは小さく息を吐き、全員の顔を見回して頷いた。
「行こう。――ただし、無茶はしないこと。いいね?」
「……おう、わかってるよ」
「任せろ。先生の背中は俺が守る」
「了解した」
三者三様の重みを持った言葉が重なり、ヘルメスが大きく背伸びをした。
「やれやれ、なんだか緊張するねぇ。……で、坊や」
ふと、ヘルメスの鋭い視線がソランの足元に落ちた。
何かを言いかけ、その口から真実の端くれが漏れ出しそうになるが――彼はそれを強引に飲み込んだ。
「――その立派なカラダ、荷物は十分持てるんだろうね?」
「当たり前だ! 先生の分まで持ってやるよ」
「頼もしいねぇ。若さは美徳だ」
ヘラヘラと笑いながら、ヘルメスはリュネルの横をすり抜けるようにして歩き出した。
「ルーガル、ここはお願いね」
店の奥で微睡んでいたルーガルは、リュネルの呼びかけにゆるりと立ち上がり、その足元まで来て静かに座り込んだ。
黄金の瞳を一度瞬かせ、尻尾をバシッと床に叩きつける。それが彼なりの「任せろ」という返事だった。
「ほら、日が落ちて暗くならないうちに済ませようぜ。夜の森は、俺たちの得意分野だ」
先を行くヘルメスの衣の裾が、アルカナ堂の看板に刻まれた「三日月と太陽」の意匠をかすめた。
その瞬間、夕刻の光を受けた金の象嵌が、ほんの刹那――まるで不吉な夜明けを予兆するように、赤く輝いた。
最初の調査地点は、都の北端を跨ぐ古い石橋の裏側だった。
長い時を経て苔むした巨大な橋脚が、鈍く光る川面を押し留めるように立っている。
橋の下は日中であっても陽光が届かず、かつては近所の子どもたちが秘密基地にして遊ぶような静かな場所だったが、今のそこには「湿った鉄の匂い」がどこか立ち込めていた。
「先々週あたりかねぇ。夕刻にここで“獣の呻き声”が聞こえたって話だ」
ヘルメスがひょいと指で橋脚を叩く。返ってくる反響は石の硬質なそれではなく、どこか空洞を含んだような不自然な鈍さがあった。
「けーもーのーー? こんな街の目と鼻の先に、か?」
ソランが疑り深い眼差しをヘルメスに向けた。
橋の上を走る馬車の音や、通りから漏れる市場の活気がこれほど近い場所だ。
野生の獣は人の賑わいを本能的に避ける。
ソランの反応は至極全うなものだった。
リュネルは無言でしゃがみ込み、古い排水管の大穴から細く流れる水溜まりを見つめた。
「……普通じゃないね。ソラン、少し下がっていて」
リュネルが懐から取り出したのは、微細な銀粉を混ぜ込んだ特別な触媒だった。
それを辺りに撒き、杖の先端で空間を優しく撫でる。
「『跡よ、現れよ(ヴェスティギオ)』」
魔法の波動が波紋となって広がると、銀粉が虚空に静止し、特定の場所だけがドロリとしたどす黒い紫色の燐光を放ち始めた。
「……瘴気の残りだね。厚みはないけれど、コレは結構な濃さだよ。通常なら霧散するはずなんだけど……何かをこぼしたのかな」
「なーんか嫌な感じするな、それ」
ソランが顔をしかめる。
可視化されたそれは、ただの不浄ではなく、人工的な「歪み」を孕んでいた。
ベルギスが周囲に鋭い目を配りながら、低く問う。
「……何かの実験、あるいは事故か?」
「どうだろうね。少なくとも、この場所は隠蔽には向かない。ヘルメス、君の言う『箱』と関係があると思うかい?」
ヘルメスは肩を竦め、目を細めて可視化された残滓を見つめた。
「さあね。どんな結果が欲しくて、誰が何を運んでいたのか。……ただ、この獣の呻きとやらが“喉から出たもの”じゃない可能性は、考えておいた方がいいかもな」
リュネルは薄刃の小刀で、その残滓が定着した石の表面を慎重に撫でた。
どろりとした触媒は黒いヘドロのようで、小刀に乗せていてもあまり気持ちの良いものではなかった。
リュネルは触媒を試験管に入れると、小刀に浄化魔法をかけ、ついでに辺りにも浄化魔法をかけた。
一行は橋を後にし、王都の外れーー新興の開発区へと向かった。
そこはヘルメスが「箱」と呼称した建物が存在する場所だ。
周囲の古びた街並みから浮き上がるほどに、その施設は新しく、そして清潔すぎた。
「リュシェンの技術開発ラボ、ねぇ。表向きはそうらしいぜ」
ヘルメスの視線の先には、高い白壁に囲まれた無機質な建物があった。
窓は少なく、あっても特殊な遮光処理がなされているのか、内部の様子は一切伺えない。
門扉には一流企業の紋章が掲げられ、警備の兵もまた、正規の訓練を受けた者特有の隙のない動きを見せていた。
リュネルは遠目から、魔力探査を極めて細く、糸のようにして放つ。
だが、その探査は施設の外壁に触れる直前で鏡のように滑らかに逸らされた。
(……完璧な遮断。いや、遮断というより、存在そのものを『無』として定義しているのか)
これほどの術式を維持するには、膨大な予算と技術、そして何より当局の強力な黙認が必要だ。
「迂闊に近づくのは得策じゃないね。あの警備、ただの門番じゃない」
リュネルの言葉に、ベルギスが小さく頷く。
「……公的な調査が入っていないのが、何よりの証拠か」
「ま、今のルキフェリア上層部も一枚岩じゃないみたいだからな。古傷が痛んで動けないのか、それとも中から腐ってるのか」
ヘルメスが皮肉げに笑うが、その横顔には一瞬、深い影が過った。
「……手がかりなし、か。仕方ないけど、今日はここまでだね。ヘルメス、案内ありがとう」
リュネルは困った様な笑みをヘルメスに向けた。
「いいってことよ。……さて、俺もちょっと野暮用を思い出した。リュンちゃん、残りの分析は任せたぜ」
ヘルメスはひらひらと手を振り、雑踏の中へと溶けるように去っていった。
ヘルメスは軽い男だ。
マインドもフィジカルも身軽で、夜の義賊、情報屋、疾駆の盗賊……彼の噂は都の至る所で聞こえてくる。
だが、その軽快さこそが、彼の武器であり、同時に彼を守る鎧でもある。
その背中を見送りながら、リュネルの胸には、拭いきれない微かな違和感が澱のように沈んでいた。
店に戻った頃には、空は深い茜色に染まっていた。
屋根の連なりが黒い切絵のように浮かび上がり、看板の三日月と太陽が夜風にやさしく鳴る。
食後、リュネルはカウンターに簡易の分析台を広げた。
物理的なサンプルは手に入らなかったが、可視化魔法の際、微量に反応した触媒の銀粉――その「変色パターン」を分析に掛ける。
試薬を垂らすと、沈殿した銀粉が微かに、だが確実に青緑色へと変色した。
「……反応が出た」
リュネルの声は、沈み込むように低い。
「自然にある生命エネルギーの波形じゃない。
複数の、それも相反する系統の術式が強引に縫い合わされている、感じ。……断定はできないけれど」
「つまり、誰かが魔獣を作り変えようとしている、と?」
肩越しにベルギスが問いかける。
「……何とも言えないね。もしこれが、野心的な魔術集団の暴走なら、早めに芽を摘まないと。でも、実害が表面化していない以上、警察も軍も重い腰を上げないだろう。……もし、国そのものがこの狂気に関わっているのだとしたら」
リュネルはそこで言葉を切り、分析台を片付け始めた。
ベルギスは店の扉に鍵をかけ、リラは台所で夕食の用意をしている。
リュネルが帳場に着くと、店内の静寂が際立った。
「……深入りは、したくないね。少なくとも、僕たちが首を突っ込んで良いのか…」
リュネルが帳場の椅子で思考を巡らせていると、ソランが隣に座り込んできた。
「先生。……俺、あいつ嫌いだ」
「……うん、知ってるよ」
横目に見ると、ソランは俯いたまま、膝に置いた手をぎゅっと握りしめていた。
「でも、あいつは先生の“友達”なんだろ? 昔から知ってる……特別な」
「友達、か。――友達にもいろいろあるんだよ。ヘルメスは、“僕の気付かないところ”を常に持っている。だから、僕は彼といるときほど、騙されないように周りをよく見るんだ」
「……じゃあ、俺は先生を見る。先生が周りを見てる間、俺が先生のこと、ちゃんと見てるから」
その真っ直ぐすぎる言葉に、リュネルは一瞬戸惑い、それから顔に熱が集まってくるのを感じた。
「……そっか。そうだね。それが一番安心だ」
リュネルがソランの頭を優しく撫でると、ソランは「子供扱いすんなよ」と反発する代わりに、ただ黙ってその手を受け入れていた。
「先生は意味のないことはしない。……俺もそう思うから」
その呟きは、夜の帳が降りた店内に静かに溶けていった。
今はまだ、真実の端くれを掴んだに過ぎない。
だが、頁はめくられ、次の行を待っている。




