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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第21話 宵闇の頁

数日後。マルヴィスは都の一角、古びた煉瓦造りの貸しギャラリーで新作の披露を行った。

場内は静まり返り、観客たちは一様に息を呑んでいる。中心に据えられた大きなキャンバスを覆っていた重いベルベットの布が外され、そこに鮮烈な、あまりに扇情的な「青」が露わになった。

夜明け花の露を媒材にし、水晶魚の鱗粉を溶け込ませたその青は、単なる色彩の域を超え、物理的な“湿度”を伴って視界に侵入してくる。

それは、まだ夜の重みが残る乾ききらない朝の空気、湿り気を帯びて眠る屋根瓦、そして声を出すのを忘れたかのような静寂の中の小鳥。

だが、その色彩の完成度とは裏腹に、キャンバスの構図は絶望的なまでに崩壊していた。描かれた人物の肢体は蛇のように奇妙に歪曲し、何もないはずの余白が生き物のごとくざわついている。視線の焦点が二つ三つと画面内で激しく衝突し、見る者の平衡感覚を容赦なく削っていく。

「……天才か、それともただの狂気か」

「いや、これはただの……。見るに堪えない、冒涜的な何かだ」

観客たちが困惑と恐怖の入り混じった囁きを交わす中、ソランがリュネルの袖を掴み、小声で呟いた。

「……なぁ、先生。これ、俺にはあの市場で話してた『全部ぶち込んだ闇鍋』の方が、よっぽど芸術に見えるぜ。なんだか、見てると内臓がひっくり返りそうだ」

「ソラン、君は一生、高尚な芸術家にはなれないね」

「えぇー!? 先生、それ本気で言ってるのかよ。厳しいなぁ!」

リュネルは穏やかに返したが、その視線はキャンバスの一点に縫い付けられていた。

マルヴィスは壇上で自身の胸に手を当て、陶酔しきった表情で高らかに宣言する。

「この作品はいずれ宮廷の回廊を飾り、人々の色彩概念を根底から変えるだろう! 歴史を変えるのは、常にこの剥き出しの真実なのだ!」

リュネルは苦笑の奥で、ほんのわずかだけ眉を寄せた。

(宮廷、か。文化と政治は、離れているようでいてその実は常に背中合わせだ。……この毒を含んだ青を、宮廷の誰が、どう扱うつもりなのか)

「せーんせっ、もう帰ろーぜ。オレあの絵見てるとなんか、三半規管がやられて目ぇ回りそうだ」

ソランが顔を青くして促すと、リュネルはふっと思考の海から浮上した。

「……ん? あぁ、そうだね。せっかくここまで来たんだ、中央通りの馴染みの店も回ってから帰るとしようか」

群衆の熱気から逃れるようにギャラリーを抜け、黄昏時の石畳へ出る。

夕暮れの残光が街並みに薄い金色の帳を落とし、影が長く伸びる時間帯。

そのとき――リュネルの背中を、一本の冷たい針のような線が撫でた。

「……っ」

見られている。

行き交う人々、辻馬車の喧騒、売り子の声。

その膨大な情報のノイズの中で、その視線だけが不自然に浮き上がっている。

それは芸術への感嘆でも、素材屋への羨望でもない。

獲物の急所を無意識に探るような、研ぎ澄まされた「狙う視線」。

リュネルは歩調を一切崩さず、睫毛の僅かな隙間で周囲の反射を拾い上げた。

ショウウィンドウのガラス越しの影、細い路地の入り口、三階建ての屋根の縁、辻馬車の車輪の回転。

だが、そこには何もない。

気配は、熱が冷めるよりも速く霧散した。

「……気のせい、かな」

自分に言い聞かせるように、リュネルは低く呟く。

だが、その指先は無意識に、かつて剣を握っていた頃の感覚を呼び覚まそうとしていた。

「先生ー、早く行こうぜー。今日の特売、終わっちまう!」

ソランが元気よく腕をぐいっと引く。

「あぁごめんごめん、行こうか」

そんな2人のやり取りを立ち並ぶ建物の深い陰で、誰かが短く、喉を鳴らすように息を笑わせていた。

「……元気そうだねぇ、リュネル」

その声は、雑踏の波にほどけるようにして消えた。

影は猫のようなしなやかさで歩幅を変えず、夕闇に溶け込んでいった。

店へ戻る道すがら、二人は不足していた備品の買い出しを済ませた。

上質な羊皮紙、アウリダ地方産の輸入果実酒、最近流行し始めた魔力順応性の高い植物の種、そしてリュネルがこよなく愛する東方の茶葉。

リュネルは素材の目利きとして、見ただけでその品質の底を見抜いていく。

ソランは荷物の袋を片手にぶんぶん回しながら、「今日の晩飯、肉三倍増量!」と叫んでリュネルに即座に止められ、「じゃあせめて野菜二倍増量!」でまた止められ、最終的に「おかわりの回数を一回増やす」ことで手を打った。

アルカナ堂の扉を開けると、真鍮の鈴が「ころん」と軽やかに鳴る。

カウンターで薬草の整理をしていたリラが、厳格な小姑のような、それでいて温かい顔を上げた。

「お帰りなさい。――ソランさん、リュネルさん。手洗いとうがい、それからその上着にブラシをかけるまでがセットです」

「ほら来た! リラ嬢の小言、今日は一段と鋭いぜ!」

「では、その鋭さに負けない『成長』を、洗面台で見せてくださいね」

「失礼しましたぁ!」

言いながら、ソランは素直に水場へ駆けていく。

リュネルはクスクスと笑いながら、丁寧に手袋を外した。

ふと、カウンターの上に、見慣れない一通の封筒が置かれているのが目に留まった。

封蝋は乱暴だが、紙自体は驚くほど上質。軽い筆圧で躍るような字形には、書いた主の奔放な性格が表れている。

「あぁ、その手紙。先程どなたかが置いていかれました。お名前も仰らず、風のように去ってしまって……」

リラが不思議そうに付け加える。

リュネルは封筒を指で挟み、夕闇の迫る明かりにかざした。厚みはない。紙が一枚入っているだけのようだ。

〈アルカナ堂 店主様へ〉

その宛名に添えられた線の癖を追った瞬間、リュネルの脳裏に、軽薄な笑みを浮かべた男の顔が思い浮かんだ。

蝋を外し、中から二つ折りの紙を引き抜く。


リュンちゃんへ

面白い話がある。

夜に《黒猫亭》で一杯どうだ?


ヘルメス


リュネルの瞳が僅かに見開かれ、ついで、諦めたような、懐かしむような光を湛えてふっと緩んだ。

「……ヘルメス。君か」

その名を、唇の間で大切に、あるいは呪文のように低く呼ぶ。

「先生、どうしたの? 眉間にシワ寄ってるぜ」

タオルで顔を拭きながら戻ってきたソランが覗き込む。

リュネルは流麗な所作で、手紙をソランの視界から外した。

「ん、なんでもないよ。前にギルドの知人に頼んでおいた調べ物。急ぎで伝えたいことがあるそうなんだ」

「夜に呼び出しかよー。明日じゃダメなのか? 先生、働きすぎだぜ」

「まぁ、僕が頼んだことだしね。相手が相手だから、何か事情があるのかもしれない」

裏口で荷物の整理を終えたベルギスが戻り、カウンターに置かれた封筒をちらりと一瞥した。

彼の眼光が、一瞬だけ野獣のような険しさを帯びる。

「……気を付けろよ。アイツがやってくる時に、まともな試しがあった記憶はない」

「分かっているよ、ベルギス」

「深追いすると痛い目を見るぞ。……まぁ、お前なら大丈夫だろうがな」

ベルギスはそれ以上詮索せず、「行くなら入り口まで送るか?」と短く問うた。

リュネルは「大丈夫だ。あそこは僕一人の方が動きやすい」とだけ答えた。

リラは台所から声を張り上げる。

「何時にお戻りですか? せめて温かいスープだけでも、帰宅に合わせて間に合うように準備しておきますから!」

日が完全に落ちる。

アルカナ堂の看板の三日月と太陽が、夜風を受けてカランとやわらかく鳴った。




夜の石畳は、昼間の活気を吸い込み、代わりに濃厚な「秘密」の香りを吐き出していた。

目的地は目抜き通りから一本入った、入り組んだ曲がり角。

赤銅のランプが二つ、赤い光を地面に落としている。

《黒猫亭》は、裏通りに佇む中堅どころの酒場だ。

看板の黒猫は片目を細め、まるですべてを見通しているかのように座っている。

リュネルは外套の襟を立て、重い樫の木の扉を押し開けた。

熟成した葡萄の芳香、弾ける麦の香、そして幾人もの人生が染み付いた煙草の焦げ甘い匂いが、重層的に混ざり合って鼻腔を突く。

この混沌とした香りは、リュネルにとって「素材」としての分析対象ではなく、かつての自分の一部だったような懐かしい残響だった。

客入りは上々。低い笑い声、隠語で交わされる紙片、街道から持ち込まれた乾いた土の匂い。

リュネルは店の中をざっと一瞥した。

探している人物を見つけるのに、一秒もかからなかった。

――奥の、壁を背にした最も「逃げやすく、かつ全体が見える」特等席。

茶に黒を混ぜたような、野良犬のように乱れた髪。

手ぐしで無造作に撫でつけられているが、隠しきれない野生味が溢れている。

背もたれに猫背気味に預けた身体は気怠げに見える。

だが、その瞳。琥珀色の彩彩が、磨き抜かれた刃物のような冷徹な冴えを放っている。

男がグラスを口に運ぼうとした時、視線がバチリと重なった。

男は下卑たところのない、それでいて人を食ったような笑みを浮かべ、指先を軽く振った。

「よぉ、リュンちゃん。よく来たね、お利口さんだ」

リュネルは外套を脱がず、やれやれといった表情で対面に腰を下ろした。

「……ヘルメス。相変わらず、人使いの荒い呼び出し方をするね」

「ハハッ、愛されてる自覚があるだろ? 俺だって、君みたいな美人と飲むためなら、地の果てからだって這ってくるさ」

リュネルはヘルメスのセリフを慣れたように鼻だけであしらう。

ヘルメスは、かつて軍の包囲網を嘲笑うように抜けていった義賊の頃と、寸分違わない軽薄さで椅子を引いた。

「飲むかい?」

「……君は何を?」

「アウリダ地方のウイスキー。なんだかんだコレが1番ウマい」

ヘルメスはグラスの中の琥珀を回しながら、満足そうに目を細める。

「じゃあ、僕はシードルを」

ヘルメスは、指一本で通りがかった給仕を呼び止めた。

「スイートシードルのスティルタイプを一つ。あと、このコイツのおかわりを頼む」

「かしこまりました」

ウェイターは浅く腰を折り、カウンターへ戻った。

「元気そうだな、リュンちゃん。店も繁盛してるみたいだし、あの筋肉ダルマのベルギスまで手なずけてるんだろ? 人徳だねぇ」

「ベルギスは友人だよ。……君こそ、店まで様子を見に来るなんて、よっぽど暇を持て余しているのかな?」

「職場見学だよ、職場見学。いつか君が俺を雇いたくなった時のための下見さ」

ヘルメスはへらりとした笑みを浮かべ、リュネルの反応を楽しむように身を乗り出した。

「僕の店に来る気になったのかい?」

「んん〜、自由を失うのは死ぬより辛いが、君の元でなら……まぁ、いつか一文無しになったら考えてやるよ」

「期待せずに待っているよ。……それで、用件は何だい」

リュネルが探るように群青の視線を投げると、ヘルメスはふっと肩の力を抜き、グラスをくるりと一回転させた。

その琥珀色の渦の中に、一瞬だけ、笑みを沈める。

「たまには旧友の顔を見たくなるもんだぜ。俺だってね」

「本当にそれだけかな?」

「ははっ、やっぱりリュンちゃんは鋭いね。素材屋になってから、さらに磨きがかかったんじゃないか?」

話の切れ目丁度を見計らったかのようなタイミングでウェイターが酒を運んできた。

それぞれの前に置くと、またカウンターへと戻っていった。

その軽口という名の薄皮を、指先で一枚ずつ剥がしていくように、二人の間の空気はゆっくりと、そして確実に重力を増していった。

「……で。僕に持ち込もうとしている、『面白い話』を聞こうか」

リュネルがシードルで喉を僅かに湿らせると、ヘルメスは笑みの角度を一段階落とし、グラスの影に隠すようにして囁いた。

「最近、君が素材屋として嗅ぎつけた、妙な不自然さ……苔の洞窟の異常繁殖、湿原に転がっていた『あるはずのない』魔獣の死骸。……あれ、気になる事は無かったか?」

リュネルの指が、ぴたりと止まった。

(……やっぱり繋がっちゃうか)

リュネルの表情が僅かに潜む。

「はっはーん、やっぱりお前も気づいてたか。俺は、お前のその『最悪を想定した顔』を待ってたんだ」

「……かまをかけたのかい?」

「信頼の確認だよ。俺たちの仲だろ?」

ヘルメスは指先でテーブルをトントンと規則正しく叩いた。

「王都近衛の外郭に、秘密裏に造られた『箱』があってねぇ。表向きは新薬の研究施設だが、中身は――戦のための、素材の人工培養。魔獣のキメラ化だ。

……まぁ、あくまで俺の耳に入った噂、だけどな」

「噂にしては、あまりに具体的すぎるね」

ヘルメスは笑った。

その笑いに棘はないが、奥底には絶望を知る者の乾いた油断のなさが潜んでいる。

「さらに最近、中央の役人連中が、素材の流通経路を強引に囲い込み始めている。 

……リュンちゃん。このままじゃ、君の店で売ってるハーブすら、いつか国に没収されるかもしれねぇぜ」

「それを、わざわざ僕に教える理由は?」

「俺の知る限り…『素材』の真価を見極め、その悪用を止めることができるのは、世界に二人といない……お前だけだ。俺は鍵を開けるのは得意だが、その奥にある難解な数式を読むのは好きじゃないんでねぇ」

ヘルメスは笑みを完全に畳み、昔と寸分違わない、旧友に対する呼び方でその名を置いた。

「リュネル。……お前が動かなきゃ、この国はまた血の匂いで埋まるぞ」

酒場の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。

杯が触れ合う音も、角灯の火が吐き出す熱い息も、すべてが薄い幕の向こう側へと退いていく。

リュネルは目を伏せ、少しだけ長く息を吐いた。

肩の力が、憑き物が落ちたように抜けていく。

「……厄介ごとを持ち込むのは、昔から変わらないね。君と関わると、ロクなことがない」

「お互い様だろ? 俺だって、厄介事に首を突っ込むの覚悟でここまで来てるんだ。…で、どうする?素材屋としての平和な日常を守るか、それとも――」

ほんの短い沈黙。

リュネルはグラスに残ったシードルを飲み干し、いつものアルカナ堂の店主としての、柔らかな、けれど決意を秘めた笑みを浮かべた。

「……とりあえず、調べてみるよ」

「ハハッ! リュンちゃんはそうでなくっちゃな! 俺の気に入った男は、いつだってこうだ」

氷がカランと鳴った。

「まぁ、話は5割増しで盛ったけどな、面倒な事になりそうなのには変わりねぇぜ」

「分かってるさ。だから引き受けたんだ」

壁に揺れる角灯の焔が、ヘルメスの手のひらで弄ばれる銀貨の輝きを反射し、猫の切り紙のような影を不気味に躍らせた。


夜が深くなる前に店を出る。

外の冷気が、酒で火照った頬を心地よく撫でる。

「ヘルメス、あまり無茶はしないようにね」

「お前もな。……それから、リュンちゃんの店。看板の鈴の音、あれ、いい音だな。優しい響きだ。あれも、今のリュンちゃんの『色』なんだろうな」

話はそれ以上、深入りしなかった。

良い情報屋は、真実の横に必ず余白を置く

それが、かつて彼がリュネルに語った流儀だった。

背後で、黒猫亭の扉が閉まる。

真鍮の鈴が、街の寝息を妨げないように、転がるように軽やかに鳴った。

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