第20話 天才とナントカは…
昼下がりのアルカナ堂を包んでいたのは、午前の喧騒が嘘のように引いた、穏やかな静謐だった。
高く取られた天窓からは、西に傾き始めた陽光が鋭い斜光となって差し込み、棚に並んだ薬瓶の肩に、眩い金の帯を描き出している。
その光の道の中で、微細な薬草の粉末が、まるで命を与えられた金色の塵埃となって、ゆっくりと輪を描きながら舞っていた。
店内には歳月を重ねた乾いた古木の匂いに、乾燥させた薬草の青い芳香、そして魔獣の素材から漂う重層的な獣脂の匂いがうっすらと混ざり合い、この店特有のどこか浮世離れした香気が満ちている。
リラはカウンターの奥で、真剣な面持ちで厚い帳簿の数字を確認していた。
時折ペンを走らせるカリカリという硬質な音が、静かな店内に心地よく響く。
彼女は使い古された空瓶を手に取ると、白い布でその表面を一点の曇りもなく磨き上げ、細心の注意を払ってラベルを貼り直していく。
商品札の一枚一枚までもが、定規で測ったかのような幾何学的な正確さで整えられていく様は、彼女の誠実な気質そのものだった。
ベルギスは裏庭で荷の整理を黙々と行っている。
縄を締め直し、梱包の隙間に乾燥剤を差し込む。
彼の動きにも無駄が無く、分類別、産地別と恐らくリュネルが後で分かるようにとわけていく。
一方、ソランは勝手口の使い込まれた木の椅子に深く陣取り、膝の上で大きな紙袋をガサガサと賑やかに鳴らしていた。
「……先生。腹減った」
一分おきに発せられるその言葉は、もはや店内のBGMの一部と化していた。
ソランは3回そのセリフを繰り返し、4回目で袋の中身が底を尽きかけているのを悲しげに確認し、5回目で天井を仰ぎ見た。
「やっぱ、どう考えても腹減った! 胃袋が空鳴りして、世界の終わりみたいな音がするぜ!」
「……ソランさん。さきほど、山盛りのご昼食を食べ終えたばかりですよね?」
リラが、呆れと慈しみが混ざったような微笑を浮かべながら、帳簿から目を上げずに窘める。
「リラ嬢、わかってねぇな。あの昼メシはこれから始まる午後のための“前菜”だ。今の俺の胃は、本番の主菜を求めて猛烈に叫んでるんだよ」
「前菜のあとに、前前菜を食べて、さらに間食を……。貴方の胃袋には異空間でも繋がっているのですか?」
リュネルは、カウンターの隅でそんな二人の賑やかなやり取りを、細めた瞳でニコニコと眺めていた。その微笑みは、春の陽だまりのように穏やかだ。
「先生からも、何か言ってくれよ〜!」
ソランが助けを求めると、リュネルは柔らかく首を傾げた。
「ふふ、健やかな食欲は若さの特権だね。
……でも、ソラン。棚にある売り物の保存食を、匂いだけで味わおうとするのはやめおくれ。商品を嗅いでいる所なんてお客様には見せられないよ。それにそのオークの干し肉は、今は数がとれない時期だからね。ロスはできないよ」
「在庫は食わない! 匂いを嗅ぐだけだ! ……でも、匂いだけで飯三杯はいけるな」
「いや、売り物だから嗅ぐのがアウトだよっての。店主としては、嗅ぐのもほどほどにしてほしいのさ」
そんないつもの緩やかな空気を一変させるように、扉の真鍮の鈴が悲鳴を上げるような勢いで激しく鳴り響いた。
「素材屋殿――! 芸術の神が今まさに私をこの場所へと導かれたのだ!」
店の時間が、瞬時に凍りついた。
開け放たれた扉から飛び込んできたのは、一陣の嵐を纏ったような男だった。
派手な羽根帽子が風を孕んで大きく揺れ、深紅の裏地を施した漆黒のマントが、舞台の幕のように美しく翻る。
男は枯れ木のように痩せた身体を持ち、その頬は創作の熱に浮かされたように削げ、鋭すぎる眼光を放っていた。
指先は、洗っても落ちないであろう煤けた絵具の色で、極彩色に染まっている。
男は床を踏み鳴らすように大股で進み、カウンターに身を乗り出して、手のひらを激しく叩きつけた。
「……先生。また変なのが来た。レベル違いの変人だぜ」
ソランが、警戒した野良猫のように身を縮め、リュネルに極小声で耳打ちする。
「うん。……間違いなく、“真の意味で”変だね。ただ、その眼差しには確かな狂熱が宿っている。只者ではなさそうだ」
リュネルは柔らかく笑いながらも、その客人の放つ異様なオーラを受け流した。
男は自らを、孤高の芸術家マルヴィスと名乗った。
激しい呼吸の合間に発せられる言葉は、止まることを知らない滝のように溢れ出す。
「私の新作は、ただの絵画ではない! 魂の深淵を震わせる真なる色彩、世界の奥底で胎動する“音”を描き出すのだ! そのためには、どうしても――特別な、純度の高い素材が要る! 解りますか、この震える魂が、マドモアゼル!!」
リラは、そのあまりの勢いに圧倒され、困ったように視線でリュネルに助け舟を求める。
「リュネルさん……この方は、その、正当なご依頼をいただける、お客様……でしょうか?」
「……そのはずだよ。並外れた熱量をお持ちのようだけど、きっと、確かな目的があるんだね」
マルヴィスはカウンターの机に指をとんとんと叩き、狂気すら感じさせる早口で素材を列挙した。
「水晶魚の鱗粉! 夜明け花の露! そして、天の怒りを宿した雷を纏う樹の樹皮! これらがあれば、私は世界の色彩を塗り替えることができるのだ!」
「おや、おや……。また随分と、珍しいものばかりですね。夜明け花はドーン・リリーですかね」
リュネルが困ったように笑いながらも、その手つきは既に仕事の速度へと切り替わっていた。
必要数と品質規格をさりげなく確認し、頭の中で調達のネットワークを広げていく。
「それ、全部鍋に入れて煮込んだら、めちゃくちゃうまそうだな!」
ソランの目が、好奇心と食欲でキラキラと輝いた。
「いや、これは食べ物じゃなくて――」
「馬鹿者ぉぉ! 崇高なる芸術の素材を、卑俗な胃袋に収めるなど、神への冒涜だ!」
リュネルが指摘するよりも速く、マルヴィスの怒号が店内に轟いた。
「えぇー!? でも水晶魚の鱗粉とか、氷砂糖みたいで美味そうじゃん!」
「味覚で世界を測るな! この俗物が!」
「拳でも測るぜ? どっちが正確か試してみるか?」
「それもやめておこうね」
リュネルが静かに制すると、二人は火花を散らす視線を収めた。
烈火のごとく怒鳴る芸術家の横で、リュネルは淡々と見積書の雛形を引き寄せ、流麗な筆致を走らせる。
「水晶魚とドーン・リリーは、馴染みの商人に仕入れの当てがある。だが、雷樹の樹皮は現地採取だね。ルキフェリアの西、雨雲の小森まで足を伸ばす必要がある。アレを採るのは簡単じゃないぞ。護り手である強力な魔獣が出るからね」
「了解! 最高の鍋――じゃなかった、素材のために、一肌脱いでやるよ!」
「……うん、期待しているよ。別の意味でね」
ソランが「違うんだけどさぁ、絶対いい出汁が出るんだよなぁ」とまだ独り言をこぼしているのを、リラはくすくすと笑いながら、保存用の包み紙をそっと口に塞ぐようにして黙らせた。
「マルヴィスさん、これらすべて、いつまでにご用意したらよろしいでしょうか」
「素材屋殿! 私の情熱は一秒たりとも無駄にはできない! 命の限り、この魂を芸術に捧げねばならんのだ!」
彼のほとばしる熱量に、リュネルも流石に押され気味になる。
リュネルの表情はいつもの笑顔のままだが、その瞳には確かな戸惑いの色が滲んでいた。
「……全力を尽くしましょう。明日の夕方には、すべてを揃えてお見せできるかと思います」
「うむ! よかろう! ならば明日の朝、一番でここに参ろう!!」
マルヴィスは、嵐のように現れた時と同じ勢いで、風を巻き起こしながら立ち去っていった。
残された三人は、唖然と開け放たれた扉を眺めるしかなかった。
「……明日の朝? 随分と、せっかちな人だねぇ」
リュネルは、珍しく呆けたような顔で呟いた。
「アイツ、絶対素材集めについてくる気だぜ。俺の野生の勘がそう言ってる」
「流石にそこまでは無いと……思いたいですね。お客様に危険な場所へ同行していただくわけにはいきませんから」
しかしリラの心配はよそに、ソランのこの発言は、翌朝、不吉なほど完璧なフラグとなって回収されることになるのであった。
翌朝、ルキフェリアの広域市場は、生命の熱気に満ち溢れていた。
石畳の上には色とりどりの天幕が並び、乾物のスパイシーな香り、焼きたての肉の脂が弾ける匂い、そして酸味の強い果実の青い香りが混ざり合う。
商いたちの野太い声と客たちの笑い声が、三重四重に重なり合い、活気に満ちた朝の旋律を奏でている。
その只中を、マルヴィスはマントを翻して突き進んでいた。
彼は露店の前に立つたび、並んでいる品々を鋭い眼光で検分し、「凡庸!」「色彩が死んでいる!」「この素材には魂の叫びが足りない!」と声高に断罪し、善良な商人たちの眉間に濃い皺を刻んでいく。
「……リュネルさん。これ、クレーム処理も素材屋の重要な仕事に含まれるんですか?」
朝市の仕入れついでについてきたリラが、周囲への申し訳なさに身を縮めながら小声で言った。
「まぁ、多種多様なお客様がいますからね。言葉は強いけれど、彼の目は妥協を許さず、真に価値ある本物を探している………と、前向きに捉えておきましょうか」
「先生、俺は本物の、ジューシーな肉を探してる。あの角の屋台、絶対うまいぜ」
「ソラン、さっき朝ご飯をしっかり食べたよね?」
「あれは前前菜だって! この香ばしい匂い、絶対に俺の魂が呼んでるんだ!」
露店を3つ回って、4つ目の、一際古びた、しかし整理の行き届いた店主の前にリュネルは足を止めた。
カウンターの隅に置かれた手のひらほどの極小の薬瓶。
それが朝光を吸い込み、深海のような淡い青色をゆっくりと反射している。
リュネルは瓶を受け取ると、瓶口に指先をかざし、目を閉じた。
粘度、温度、そして香りの奥行き。
「……素晴らしい。これは本物だ。夜明け前の、最も魔力が安定する瞬間に抽出された『夜明け花の露』。香りも揮発層も一切崩れていない。抽出者の腕が光っているね」
マルヴィスは目を見開き、ガバリと地面に膝をついた。その姿は、失われた宝物を発見した冒険者のようだ。
「これだ! 私が求めていた、夜明け前の静謐を写し取る青だ! この色こそが、私の魂をキャンバスへ繋ぎ止める!」
「最初から僕に任せてくれたら、もっと早く見つかったと思うけれどね」
「芸術とは、常に困難な道のりを愛するものなのだよ、リュネル殿!」
「お会計は、ぜひ最短距離の近道でお願いしますね」
リラがにっこりと微笑んで代金を差し出すと、不審者に怯えていた店主は、ようやく地獄の淵から救われたような安堵の表情を見せた。
続いて、水晶魚の鱗粉もリュネルの古い馴染みの商人から最高級品を調達した。
リュネルが瓶を傾け、光の角度を変えて反射を確認する。
微細な粒子のひとつひとつが、七色のプリズムを放ち、まるで生きているかのように輝く。
「これだけ純度が高いと、絵具に混ぜた際の発色が格段に違う。マルヴィスさん、これなら満足いただけるでしょう?」
「うむ……悪くない。いや、極上だ! 鱗の一枚一枚に、海の記憶が宿っている!」
「キラキラしてて、やっぱりうまそうだな……」
「ソランさん、それ以上は禁止です」
ソランが「つまみ食い」をする前に、リラが領収の控えを二重に取り、素材を丁寧に絹の布で包んで収めた。
市場での作業は、マルヴィスの騒がしさを除けば、淀みなく流麗に滑り出した。
雷樹の樹皮を求め、一行はルキフェリアの西に広がる広大な森林地帯の一角、“雨雲の小森”へと足を踏み入れた。
ポータルを抜けた先は、乳白色の薄い霧に包まれた、幻想的かつ重苦しい空間だった。空には常に厚い雲が垂れ込め、小雨がしきりに舞い、巨木の葉脈の先々では青白い火花がパチパチと弾けている。空気は強く帯電しており、息を吸い込むたびに、舌の先に金属的な、ピリピリとした味が残る。
「ここだ……! ここにこそ、芸術の神が私を導く真実の線がある!」
マルヴィスが感極まって両手を広げ、霧の中へと一歩踏み出した、その瞬間だった――。
背後の茂みが爆発したように激しくはぜ、一頭の魔獣が飛び出した。
獣毛が針のように逆立ち、鬣からは稲妻が裂けるような音を立てて走っている。
中型犬ほどのサイズだが、その速度は稲妻そのものだ。
牙は鈍い金属光沢を帯び、地を蹴る足音すら聞こえないほど踏み込みが軽い。
「ライテンだ。雷樹の魔力に惹かれて住み着く種だよ。あの鬣には高圧の電気が帯びているからね、触れると心臓が止まるほど痺れるよ」
「へっ、待ちくたびれたぜ! 俺の出番だな!」
ソランの紅金の瞳が、戦闘の昂揚感で明るく燃え上がる。
ソランは無造作に踏み出すと見せかけ、その実、一瞬で重心を低く沈めた。
拳に必要最低限の魔力の熱を宿し、稲妻の軌道を先読みするように肩を半分抜く。
獣の突進が目の前を通り過ぎる刹那、ソランはその勢いを吸い込むように受け流し、鋭い肘打ちを獣の脇腹へと叩き込んだ。
「おらぁっ!」
一撃。
凄まじい衝撃波が霧を払い、ライテンは森の奥へと転がっていった。
しかし、ソランはとどめは刺さない。
距離を置き、隙のない構えを維持する。
護り手の魔獣は決して殺さずに、退けるのが「素材屋」の鉄則であり、樹に対しての礼儀でもあるのだ。
ライテンはこちらがこれ以上危害を加えない強者であることを察したのか、短く唸り声を上げると、雷光を曳きながら森の深淵へと消えていった。
その一部始終を見ていたマルヴィスは、腰を抜かし、震える声で絶叫した。
「おおぉ……芸術だ……! その流れるような暴力! 破壊と慈悲が共存する、究極の運動体だ!! その拳はまさに、キャンバスを裂く神の筆致だ!!」
「いや……ただ殴って追い払っただけなんだけどな」
「……芸術の定義とは、一体何なのだろうね」
リュネルが遠い目をしながら呟く。
当のマルヴィスは、奇妙にうねるような腰つきでソランの周りを旋回し始め、「今の筋肉の躍動を!」「渦巻く魔力の線を!」などと口走りながら、空中に指で線を描いている。
「先生、助けてくれ。こいつの目がマジで怖い!」
「ソラン、落ち着いて。素材のためだ、1分……いや、30秒だけ、彼のモデルになってあげよう」
「30秒も!? 長すぎるだろ!」
「30秒だけね」
リュネルが懐中時計で正確に時間を計り、約束の時間が過ぎると同時にマルヴィスは「閃いた!」と叫んで満足した。
天才の満足は常に唐突で、常人の理解を拒絶する。
採取自体は、極めて慎重に行われた。
リュネルは雷樹の前に跪くと、短く祈りを捧げた。
樹皮の“生きている層”を傷めないよう、魔力を込めたセラミックの小刀で、最適な角度から薄く削ぎ落としていく。
剥ぎ取られた樹皮は、まだパチパチと小さな電位を保っており、独特の芳香を放っている。
リュネルはそれを特殊な保存紙で手早く包み込んだ。
最後に導電の流れが乱れないよう、軽い術で樹の回路を整える。
その所作には、一切の淀みがなかった。
「……美しい。何という、静かなる無駄のなさ。命を奪いながらも、命を繋いでいる」
マルヴィスの目が初めて静謐に鎮まった。
「力ずくで奪うというのは、可能な限り避けています。私たちは、素材が持つ命の記憶を、そのままお客様に届けるための橋渡しをしているだけですから」
帰路の中、達成感で鼻歌を歌うソランの横でマルヴィスが「そのリズムこそが宇宙の創造!」と激しくメモを取り、リュネルが「二人とも、足元をしっかり見てください」と3回言い、4回目でソランが木の根につまずき、5回目でマルヴィスが盛大に転んで泥まみれになった。
雨上がりの“雨雲の小森”に、アルカナ堂らしい騒がしい笑い声が響き渡った。




