第2話 素材屋 アルカナ堂
ダンジョンの入り口近くに設けられたセーフゾーン。
そこは、洞窟の暗い口を優しく抱くように切り拓かれた小さな広場だった。
周囲には幾重にも光の結界が展開され、深淵から這い出そうとする魔物の影を一切寄せ付けない安全地帯である。
結界は、ただ光っているだけではない。
薄い膜が幾重にも重なり合って揺らぎ、外側から滲み寄る“魔の気配”を柔らかく、しかし断固として押し返していた。
その光は、休息を求める者たちの目に眩しすぎず、しかし注意深く観察すれば、表面を流れる緻密な幾何学紋様が魔力の脈動を伝えているのが分かる。
地面は幾多の冒険者に踏み固められ、所々に白い砂が撒かれている。
岩肌から染み出す湿った匂いと、焚き火から立ち上る煙、そして香辛料と滴る油の熱い匂い。それらが混ざり合い、ここは死と隣り合わせの迷宮にあって、妙に生々しい“生きている場所”の香りがした。
広場の端々では、生還を喜ぶ笑い声が上がり、使い込まれた鍋が火の上で音を鳴らし、行商人が威勢よく声を張り上げている。
アイテムショップや簡易休憩所を兼ねた露店が軒を連ね、泥と返り血にまみれた冒険者たちが安堵の表情で賑わいを作っていた。
片腕に包帯を巻いた男が愉快そうに酒を煽り、煤けた顔の少女が、その日得た小石ほどの宝石袋を握りしめて瞳を輝かせている。
並べられているのは、回復薬、保存食、刃こぼれを研ぎ直す砥石、毒消しの粉、結界札――。
値段交渉の喧騒、品定めの舌打ち、仲間を呼ぶ口笛。
あらゆる音が層を成し、帰還した者たちの放つ“熱”が、この場所の空気を濃密に支配していた。
リュネルたちもまた、その一角に腰を下ろしていた。
木箱を裏返した簡易な卓と、折り畳み椅子。そこはリュネルの目から見ても、絶妙な“いい席”だった。
結界の光が強すぎず、かつダンジョンの入り口が常に視界の端に入る。何より、人の流れが澱みなく読める場所。
リュネルは無意識のうちに周囲の動線を分析し、誰が獲物を背負い、誰が空荷で戻ったかを観察していた。必要な者に、いつでも最適な距離感で声をかけられるように。
リュネルとソフィアの前にはお茶が、ソランの前には魔猪の特大バーガーが鎮座している。
湯気の立つ茶からは、野性味のある薬草の青い香りが立ち上っていた。口に含めば、舌の奥に柔らかな苦みが広がり、緊張で強張っていた身体の芯をほどいていく。
一方で、ソランが頬張るバーガーは、視覚だけで満腹感を覚えるほどの重量感だ。
分厚い肉、溢れる脂、焼けたスパイスの香ばしさ。
食らいつくたびに肉汁が滴り、ソースが口元を容赦なく汚す。
ソランはそれを拭うことすら忘れて豪快に咀嚼する――その飾らない生命力が、この荒々しい広場には酷く馴染んでいた。
「本当にありがとうございました! お二人は私の命の恩人です」
ソフィアが、折れそうなほど深く頭を下げる。
リュネルはカップを持ったまま、柔らかな微笑を浮かべて頷いた。
「気にしなくて大丈夫ですよ。ただ……もう無茶はしないでくださいね」
その声は、諭すようでいて決して刺々しくはない。けれど、軽くもない。
リュネルの言葉には、相手を断罪せずに“次の一歩”を自発的に考えさせる不思議な温度がある。
だからこそソフィアは、己の過ちを素直な痛みとして受け取ることができた。
ソフィアは頬を染め、所在なげに縮こまる。
恥ずかしさと、自分への不甲斐なさ。そして、得がたい安堵感。それらが綯い交ぜになって、彼女の身体を小さくさせていた。
己の振る舞いがいかに浅はかだったか、死の淵から救い上げられた今だからこそ、冷徹なまでの事実として理解できるのだ。
「とりあえずは、どこか相性のいいパーティーに入ることをお勧めしますよ」
「……はい、そうします」
ソフィアはゆっくりと、自分に言い聞かせるように頷いた。
動作は素直だが、その視線は未だに泳いでいる。
理解はしていても、恐怖が消えるわけではない。人に頼ること、失敗すること、そして、再び拒絶されることへの怯え。
「あの環境で一週間もサバイバルできたんです。自分の得意分野を冷静に分析してPRすれば、きっと良いパーティーに出会えますよ」
「――はい! 頑張ってみます」
自分を鼓舞するように、ソフィアは膝の上で拳を握った。その表情に、ようやく前向きな光が差す。
追い詰められていた闇が晴れ、彼女本来の明るい気質が、ようやく顔を覗かせた。
「で、当てはあるのか?」
ソランが口元のソースをペロリと舐めながら、遠慮なく尋ねた。
その問いに、ソフィアの表情が瞬時に曇る。
ソランの言葉には一切の悪意がない。だからこそ、逃げ場のない真実としてまっすぐに突き刺さるのだ。
ソフィアは視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。
「……ギルドの掲示板で募集していたパーティーに、いくつか当たってみようかと」
その声は自信なさげに尻すぼみになっていく。
彼女の中にある不安が、言葉の輪郭を曖昧にさせていた。
確かな手応えも、自分を裏付ける実績もない。けれど、立ち止まっているわけにもいかない――そんな焦燥が透けて見える。
リュネルはそんな彼女の様子を静かに見守り、最後の一口を含んでから、カップを卓に置いた。
カツン、と乾いた音が木の卓に響く。その僅かな音が、場の空気を心地よく引き締めた。
「もし、本当に、どうしようもなくなったら……ルキフェリアの〝アルカナ堂〟を訪ねてください。少しは力になれると思います」
その一言で、ソフィアの瞳に鮮やかな輝きが灯った。
光が差すと、人の顔色はここまで変わるものか。さっきまで灰色の霧が立ち込めていた彼女の瞳が、今はっきりと希望の空を映し出している。
「リュネルさん、ルキフェリアにお店を構えていらしたんですか!? 私も、今はルキフェリアのギルド支部に所属しているんです」
「そうでしたか。……以前のパーティーはヴェルディアの支部でしたからね」
リュネルは中身の空いたコップを軽く揺らす。
残った茶の葉が、小さな波纹を描く。彼女の来歴に触れるその所作は、驚くほど慎重で、かつ温かかった。
踏み込みすぎず、しかし、彼女が抱えた孤独を優しく受け止める。
「私なんかがおこがましいですけど……なんだか、安心しちゃいました」
ソフィアは頬を掻きながら、はにかんだような笑みを浮かべた。
それは、彼女がまだ“人前で強がる癖”を脱ぎ捨てきれていない証左でもあった。
無防備に安心を口にした自分を、少しだけ照れくさく思っている。
「んぁ、ほーいうほほあ?」
「こらソラン。飲み込んでから喋りなさい」
口いっぱいに頬張ったままのソランの頭を、リュネルが軽く拳で小突いた。
こつん、という小気味よい音が響く。
いつもの、淀みのないやり取り。
それを見て、ソフィアの緊張もさらりと解けていった。目の前の二人が纏う“日常”の空気が、凍りついていた彼女の心を解かしていく。
「……私、パーティーを追い出されてから、あの国に居るのがちょっと、しんどくなっちゃって。でも、行く当てもないし、とりあえず大きな支部に行けば何とかなるかなぁ、なんて安易に考えちゃって……。それでも結果が出なくて焦って。あいつらを見返してやりたいとか、馬鹿みたいにやけになって、それで……」
ソフィアの声は今にも震え出しそうで、絞り出す言葉が熱を帯びる。
途切れそうになるたびに、彼女は必死に息を吸い直した。頬を伝う涙を堪えるために。
悔しさは、時として人を無謀な淵へと追いやる。理屈では分かっていても、止められない衝動がある。
彼女が飲み込んだ“それで……”の先に、今日の命がけの無茶があったのだ。
「あぁ、なんとなく事情は分かったわ」
「え?」
「そうだね、察しはつくよ」
「へ?」
交互に顔を見合わせるソフィアを他所に、リュネルとソランは二人だけで納得したように頷き合った。
言葉を尽くさずとも本質を見抜かれたことに戸惑いながらも、ソフィアの胸には救いのような感覚が広がっていた。
“説明しなくても分かってもらえた”という安堵は、彼女の孤独を確実に削り取っていく。
「……とりあえず、ルキフェリアの支部に来たのは正解ですよ。あそこのギルドマスターは面倒見がいいし、あなたに馴染むパーティーも見つかると思います」
「……本当ですか?」
「おう! 先生が言うんだから間違いねぇーよ!」
ソランは口の端にソースをつけたまま、一点の曇りもない眩しい笑顔を向けた。
身だしなみは無頓着だが、その言葉には嘘がない。直球すぎる励ましは、どん底まで落ちた人間には何よりも効く良薬だった。
「ありがとうございます。私、やれる気がしてきました!」
ソフィアの顔に、今度こそ本物の笑顔が戻った。
「私、今度こそ頑張ってみます!」
「空回りしないように、それだけは気をつけてくださいね」
「せんせー……辛辣だなぁ」
三人の笑い声が、セーフゾーンの賑わいの中に溶けていく。
周囲の冒険者たちが一瞬視線を向け、また自分たちの談笑へと戻っていく。
この場所で、笑い声は珍しくない。だが、死線を乗り越えた末の“生への笑い”は、ひときわ澄んだ音色で響いていた。
転移ポータルの光が、境界線の上で揺らめいている。
結界の定常的な光とは異なる、青白く、どこか不規則な魔力の揺らぎ。
足元に緻密な術紋が浮かび上がり、次の瞬間には別の街の、別の空気が肺の奥まで流れ込む。
そんな空間の“切り替わり”を、人々は文明の利器として当たり前のように享受している。
それでも、転移の瞬間に走る独特の緊張感だけは慣れることがない。油断すれば、持っている荷物も、あるいは心の一部さえも、元の場所に置き忘れてしまいそうな感覚。
セーフゾーンを後にした三人は、王都ルキフェリア方面の転移ポータルを潜った。
帰還した街は、既に陽光が翳り始め、夜のしじまが空を染めようとしていた。
夕暮れの街並みは、昼の喧騒を夜の穏やかな温度へと移り変えようとしている。
屋台の灯りがひとつ、またひとつと温かな橙色を点し、甘い菓子の匂いと香ばしい焼き肉の香りが風に乗って漂い始める。
遠くで街の終息を告げる鐘が鳴り、家路を急ぐ人々の足音が少しずつ速まっていく。
街角で別れる直前、ソランが片手をひらひらと軽快に振った。
「じゃあな、嬢ちゃん! 次は気を付けろよ!」
「……はい! 本当に、ありがとうございました!」
ソフィアは何度も、何度も深く頭を下げた。
そのたびに、鮮やかな赤毛の髪が夕陽に照らされて揺れる。
その背中が遠ざかるにつれ、彼女は本来帰るべき場所へと向かっていく。ようやく、自分の足で。
二人はその背中が雑踏に消えるまで、静かに見送っていた。
リュネルは、無意識のうちに止めていた息を小さく吐き出した。
誰かを送り出す時に感じる、この妙な緊張感――「どうか、無事で」という祈りにも似た願いが、胸の奥に澱のように残るからだ。
「なぁせんせー、オレ、すぐにあの嬢ちゃんに再会する気がするんだよな」
「……ふふ、同感だね」
リュネルは口元を掌で覆い、クスクスと喉を鳴らした。
その笑いは、予感というよりは確信に近い経験則だった。
あのような“魂の勢い”で生きる人間は、運命の糸が絡まりやすい。望むと望まざるとにかかわらず。
「見た目はお嬢様って感じなのに、意外と泥臭く突き進むタイプなんだな」
「そうだね。本来は熟考して動ける資質を持っているだろうけど」
リュネルは、既に見えなくなった彼女の残像を追うように目を細めた。
それは、夕陽が眩しいからだけではない。
「え? そうかぁ?」
「……何というか、少し『訳あり』な気配がするんだよね」
リュネルは顎に手を当て、素材を吟味する時と同じ瞳で思案に耽る。
解析は彼の癖だ。人もまた、情報の束として読み解いてしまう。
けれど、決して読みすぎない。土足で踏み込まない。それが、彼が自分に課した境界線でもあった。
「おっ、マジかよ。それ、ヤバいやつか?」
「んん~、プライベートなことだからね。詮索は不要、といったところかな」
「なるほどねぇ」
二人は軽口を交わしながら、夕暮れの色を深める街へと歩を進めた。
石畳を叩く二組の足音が、一定のリズムを刻んで賑わいの中へと溶け込んでいく。
長く伸びた二人の影が、街の色を柔らかく染めていった。
夜が近くても街はまだまだ賑やかで、
中心街の喧騒を抜け、少し外れまで歩くと、音の層が変化していく。
呼び込みの声や荷車の軋みが遠のき、代わりに家々の窓から漏れる温かな灯火が増えていく。
煮込み料理の匂い、洗濯石鹸の清潔な香り、焼き立てのパンの香ばしさ。
人々の営みが醸し出す穏やかな気配。リュネルはそれを肺いっぱいに吸い込み、胸の奥が少しだけほどけていくのを感じた。
そして、見慣れた一軒の店が姿を現す。
石造りの壁に、年季の入った木の看板。日が落ちても道標となるよう、看板は常に丁寧に磨き上げられている。
夕風に揺れる小さな鈴の音が、店の“今”を告げている。
重厚な扉を押し開けると、店内は未だ活気に満ちていた。
棚に並ぶ瓶や袋を熱心に覗き込む冒険者、帳簿を広げて交渉する商人。夕餉の献立を相談し合う街の人々。
店の空気は、外よりも幾分か密度が濃く、そして温かい。
乾燥棚から香る薬草の芳香、樽の木の匂い、研ぎ澄まされた鉄の匂い、そして新鮮なインクの香り。
そこには“何かを必要とする人々”が集う、独特の秩序があった。
その喧騒の中心で、一人の若い女性が鮮やかな手際で客をさばいていた。
よく通る清涼な声、崩れることのない端正な笑顔。
手は絶え間なく動き、視線は客の手元と表情を同時に捉えている。非の打ち所のない、仕事ができる者の動きだ。
「あら、リュネルさん。お帰りなさいませ」
「おっ、店長のお帰りだ。じゃあね、リラちゃん」
客に丁寧な一礼を済ませた後、彼女は柔らかい微笑みを湛えて振り返った。
挨拶の角度、タイミング。その一瞬の所作だけで、彼女がどれほどこの店に溶け込み、愛されているかが分かる。
明るい栗色の髪を揺らすその女性――リラだ。
清潔な白いエプロン姿でテキパキと接客をこなす彼女は、にこやかにリュネルを出迎えた。
エプロンの紐は一分の隙もなく結ばれ、袖は作業しやすいよう機能的に捲り上げられている。
その凛とした佇まいは、アルカナ堂という店の信用そのものを体現していた。
「ただいま。手伝いますよ」
「はい、お願いします」
その光景を見て、ソランは腕を組んで苦笑した。
「いやぁ、相変わらず繁盛してるな……。俺までこき使われるんじゃねぇだろうな」
「察しがいいね。ソランは持ち込み素材の検品と、裏の対応をお願いするよ」
「へいへい」
そんな軽妙なやり取りに客たちがどっと笑い、店内に和やかな空気が満ちていく。
客が笑うのは、この店が“怖くない”場所だと知っているからだ。
それは、リュネルたちが日々の営みの中で積み上げてきた、揺るぎない信用の形だった。
――リュネルは、公認資格を持つ「錬材師」。俗に「素材屋」と呼ばれる職業だ。
錬材師の職分は多岐にわたる。
魔獣の肉や骨、牙等々を武器職人へ。貴重な薬草を調合し、薬師や医者へ。市場に出回らない珍しい食材を料理人へ。
ありとあらゆる「世界の構成物質(素材)」を自ら採取し、鑑定し、価値を定義して流通させる。
錬材師の有資格者は極めて少なく、その希少性ゆえに、国に招致される者やギルド運営の中枢を担う者も少なくない。
資格者が少ないのは、単なる才能の問題ではない。
美しさに隠れた危険を見分け、その危険を適切に処理し、それによって生じる責任を一身に背負える者が限られているからだ。
そして、責任の重さを知る者ほど、自らの肩書きを誇示することはない。リュネルもまた、その系譜に連なる人間だった。
街の片隅に佇むリュネルの店〝アルカナ堂〟は、朝から晩まで人が絶えることがない。
血に濡れた袋を携えた冒険者が訪れ、異国の香辛料を求める商人が門を叩き、武具の補強材を注文する職人が顔を出し、日用品を買い求める街の主婦たちが世間話に花を咲かせる。
多様な階層が混じり合うこの店は、街の健康状態を映し出す鏡のようでもあった。
今日はよく混ざっている。つまり、この街は健やかに回っているということだ。
「リュネルさん、この鉱石はどうだ?」
リュネルは鑑定用のレンズを装着し、まじまじと石の肌を吟味する。時折レンズを外し、ランプの光にかざしては細部を透かし見る。その沈黙を、冒険者は固唾を呑んで見守っていた。
冒険者の指先が、無意識に革袋の口を強く握り締めている。
これが“当たり”か否かで、今夜の酒代が変わる。明日の宿が変わる。そして何より、次の高みへの挑戦権が変わるのだ。
だからこそ、鑑定を待つ時間は永遠のようにも感じられる。
「……うん、純度は申し分ありませんね。ただ混じり物が少し多いかな。……市場価値の三割引き、といったところが妥当なラインだと思います」
「かぁー! まったく、相変わらず目ざとい野郎だぜ」
「正直と信頼が、うちの売りですから」
リュネルはレンズを外し、清々しいほどの笑顔を返した。
その笑顔が爽やかに見えるのは、瞳が一切の嘘を吐いていないからだ。
断る時も、決して買い叩かない。買う時も、決して値を盛らない。
その誠実な積み重ねが、店の鈴の音を途絶えさせない理由だった。
「そりゃ、ちげぇねぇな」
参ったと言わんばかりに、冒険者は豪快に笑った。
店を去っていくその背中は、文句を垂れつつも満足感に溢れていた。
「ソラン、頼んでいた魔獣の解体状況は?」
「とっくに終わってるぜ! 肉はこっち、皮はあっちだ! あと、コイツ魔石を宿してやがったぞ」
「おっ、やりー!」
「『やりー』じゃねぇよ! もっと丁寧に狩ってこいっての。これじゃ傷を塞ぐのが一苦労なんだよ、俺が先生に叱られちまうだろ」
「いや、ソランが叱られるのかい!」
威勢のいい声とともに、ソランは軽快に作業を続ける。
彼の作業は驚異的に速い。一見雑に見えて、要所だけは決して外さない。
手先の器用さというより、身体全体の感覚が研ぎ澄まされているのだ。
だからこそ、料理という未知の領域にその感覚が向くのは非常に危険だと、リュネルは内心冷や冷やしているのだが。
「ねぇ、リラちゃん。今日のオススメは何かしら?」
「今朝届いたばかりのキャベツはいかがですか? 葉がとても柔らかいので、サラダにしても絶品ですよ。デザートにはミルカもオススメです。私は少し凍らせてシャーベット状にして食べるのが好きなんです」
「あら、いいわねぇ。じゃあ、キャベツ1玉とミルカを2つ、それからカル鳥の肉を200グラムお願いするわ」
「はい、ありがとうございます!」
リラもまた、街の奥様方に対して軽快なトークを繰り広げている。
言葉遣いは極めて丁寧だが、心の距離は驚くほど近い。
客は“買わされている”という感覚を一切抱かない。
「今日はこれがいいですよ」という彼女の言葉に、ごく自然に頷ける空気――それこそが、商売の本質。
その傍らで、リュネルは穏やかな笑みを浮かべつつ、冷静に帳場を切り盛りしていく。
帳簿を繰る指先は淀みなく、速い。
現金の計算、顧客情報の照合、そして客が何気なく漏らす言葉の取捨選択。
戦場と同じく、ここでも一瞬の「遅れ」が致命的な事故に繋がる。
だからこそリュネルは、店が忙しさを増すほどに、その呼吸を深く、静かに整えていた。
彼らの仕事は、決して戦うことが目的ではない。
だが、誰かの命を繋ぎ、街という巨大な機構を円滑に回すために、欠かすことのできない歯車である。
店に並ぶ瓶の中には、劇的な回復を約束する薬もあれば、ごくありふれた塩や砂糖も並んでいる。
人が生きるためには、派手な奇跡よりも、地味で退屈な日常の積み重ねの方が必要なのだ。
アルカナ堂は、その“地味な日々”の土台を支えている。
一人の客が、満足げに包みを抱えて店を後にする。
「いやぁ、相変わらずいい仕事をするね、リュネル!」
リュネルは帳場から顔を上げ、柔らかく微笑み返した。
「ありがとうございます。……まぁ、素材屋ですから」
「ははは! じゃあ、またな」
その言葉とともに、彼は肩の力を抜いた自然な笑みを浮かべた。
「またな」と自然に口にできる店は、強い。
日常の風景に溶け込み、あって当たり前の存在として呼吸できていること。
傾きかけた夕陽に照らされ、静かに揺れる看板には、確かに「アルカナ堂」の文字が刻まれている。
客を見送ったリュネルの背後から、遠慮のない軽口が飛んだ。
「先生、今のちょっとカッコつけてただろ?」
振り返ると、ソランがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
リュネルは小さく溜息をつき、苦笑を交えて返した。
「……うるさいよ、ソラン」
その返しもまた、この店を構成する暖かな空気の一部となる。
数人の客が楽しげに笑い、誰かが「本当に仲がいいね」と囁き合う。
こうした小さな温度の集積が、この場所をただの商店ではない「店」にしている。
店先の扉に吊るされた青い鈴が、カランと澄んだ音を立てる。
夕暮れの街並みが緩やかに色彩を変え、静かに夜の帳が降りていく。
街に溢れていた人々の喧騒も遠ざかり、世界の輪郭が穏やかに滲んでいく。
(……そろそろ閉めるかな)
リュネルはふう、と一息つき、帳場の隅に置かれた古い帳簿へ視線を落とした。
それは、アルカナ堂の前店長であり、リュネルの祖父が遺した古い帳簿だ。
紙の端は茶色く擦れ、手垢が染み付いている。
指先で触れれば、祖父の独特な筆致や、インクの香りの奥に潜む“店を守る”という強い意思が伝わってくるようだった。
今日も一日が無事に終わる――そう思うたび、彼は胸の内で小さく頷く。
〝素材屋として、ここで生きる〟。
その確かな手応えとともに。
その実感は、彼にとって誇りと同じ形をしていた。
けれど誇りとは、決して大声で叫ぶものではない。
静かに、確かに、途切れさせることなく続けていくものなのだ。
窓の外では陽が完全に沈み、空は橙から深い紺碧へと溶け合っていく。
街灯がぽつり、ぽつりと灯り、夜の冷ややかな気配が深まり始めた頃。店の奥から、ソランの朗らかな声が響き渡った。
「先生! 今夜の飯は俺が作るぜ! 今日のトカゲの残りを――」
「絶対に止めろ!!」
「せんせー……何事も挑戦だろ? 限界を超えていこうぜ!」
腕まくりをしてエプロンを締め直したソランが、包丁を片手に不敵なキメ顔を作っている。
どうやら本気で、あの猛毒のトキシリザードを調理するつもりでいたらしい。
包丁の持ち方が妙に様になっているのが、余計に恐怖を煽る。
彼はいつだって本気だ。だからこそ、全力で止めなければならない。
「いいかい、ソラン。希望のある挑戦と、無謀な挑戦は違うんだ!」
「おや、先生。オレは希望アリとみるぜ」
自信満々に腰に手を当てるソランの背後から、呆れ果てた様子のリラが姿を現した。
「ほら、言ったじゃないですか。リュネルさんは駄目だと言うに決まってるんですから」
「……リラさん、分かっているなら、包丁を握る前に止めてくださいよ」
リュネルは頭を抱えて深くうなだれた。
そのうなだれ方は、戦場で絶体絶命の窮地に陥った時よりも深刻なものだった。
死地よりも恐ろしいものが、この平和な店には存在する――それが“ソランの気まぐれな挑戦”だ。
その様子を見たリラは、至極真面目な顔で言葉を添えた。
「ええ、もちろん止めるつもりでしたよ。ですが……ソランさんを止めるためには、私一人の力では足りません。あと10人、いえ15人くらい私が居ませんと」
「……物理的な話を言っているんじゃないんです」
アルカナ堂にまた一つ小さな、しかし温かな笑いが弾けた。
その笑い声は、一日の疲れを優しく溶かしていく。
今日の危険も、明日への不安も、この瞬間だけは一旦棚の上に置いて。
店の灯りの下で、彼らは確かに“帰るべき場所”に辿り着いたのだ。
そうして、素材屋たちの騒がしくも愛おしい一日は、穏やかに暮れていった。




