第19話 湿原の怪②
静寂を、一筋の鋭い殺気が切り裂いた。
先に異変を察知したのは、ルーガルだった。
その凛然とした耳がぴんと直立し、湿原のさらに奥、深い霧の向こうへ向けて低く地を這うような唸り声を漏らす。
同時に、周囲の光景が歪み始めた。
風もないのに葦の群生が逆立ち、鏡のような水面が何かに吸い込まれるように不自然に凹んでいく。直後、その窪みから粘り気のある泡が湧き出した。
湿原の“水”は音よりも先にその形態を変え、迫りくる危機の輪郭を象る。
泡は気まぐれに弾けるのではなく、底知れぬ深淵から押し上げられるように統率の取れた軍勢のごとく揃って立った。
葦の先が同じ方向へ一斉に倒れ、泥の鏡面には幾重もの禍々しい皺が走る。
風の匂いが一瞬だけ鋭い酸味を帯びた。
それは先ほどまでの死骸の腐敗臭とは一線を画す冷たく凍てついた金属、あるいは血を想起させる匂いだ。
ルーガルの唸りはさらに低く、重くなる。
その喉の奥の震えは単なる警告を越え、本能が警鐘を鳴らす“生存への危機感”を孕んでいた。
リュネルは解体用の刃先から視線を逸らさないまま、胸の奥で静かに数を数える。
彼がカウントしているのは敵の数ではない。
「敵との絶対距離」「風の指向性」「泥濘の足場」「背後に確保すべき撤退路」。
それらの変数が最適解を満たしていない時、戦いはたとえ勝利したとしても致命的な損失を招く。
多くの冒険者が命を落とすのは怪物の強大さゆえではない。
往々にして、場の悪さと判断の遅れこそが人を殺すのだ。
「……来るぞ。総員、迎撃態勢!」
グレイスの短く、鋼のように硬い号令が響き全員の呼吸が一点に揃った。
洗練された抜剣の音、盾の縁が泥を力強く噛む鈍い音。
顔を引き攣らせたソフィアの詠唱は恐怖にわずかに震えてはいたが、その言葉の芯は決して折れていない。
守るべき街を背負った、責任あるヒーラーの顔だった。
泥の中から黒ずんだ影が3、4、5――。
腐肉の臭いに引き寄せられた飢えた四足の魔獣たちだ。
白濁した眼球は理性を失い、裂けた唇の間からは不浄な泡が絶え間なく滲み出している。
だが、真の脅威はそれらではなかった。
群れの後方、地表すれすれの空間を滑るように蠢く、複数の“薄い影”。
本体を持たぬ“抜け殻”のような、剥離した悪意の塊。
それは確かに“生き物”としての形を成していながら、呼吸の音も生命の拍動も、体温すらも存在しない。
視線を向ければ向けるほど、その輪郭は曖昧にボヤけ溶けていく。
目が焦点を合わせようと試みるほどに、その像は捉えどころなく薄く伸びていくのだ。
まるで濡れた紙の上に落とされた墨が、意志を持って勝手に広がっていくように。
それなのに間合いに入った瞬間だけは、吐き気がするほど現実的な殺意を放つ。
湿った皮膚に触れる直前の、あの嫌な予感だけが確かな感触として刻まれる。
ソフィアが一歩だけ後ろへ下がり、その足首が重い泥の中に沈んだ。
「……悪魔の影。あの腐臭に集まってきたのかな。……死骸に群がる下位の不浄種だ」
リュネルは一度だけ視線を上げ、戦場の全容を把握すると、即座に手元の刃へと意識を戻した。
「ソラン、そいつらは任せる。ここに一歩も入れないでくれ」
「任された! 先生はそいつに集中してな!」
ソランが戦場へと飛び込む刹那、リュネルは結界の境界線を一瞬だけ確認した。
「入れないで」という言葉は、命令ではない。
対等な相棒への、絶対の信頼に基づいた頼みだ。
今のこの場所は、神聖な“処理場”であり、魔獣の死骸は“精密な作業台”だ。
ここが乱されれば、溢れ出した瘴気と周囲の汚染が混ざり合い、収拾のつかない連鎖を引き起こす。
最悪の場合敵を討ち取る前に、全員が濃厚な瘴気に蝕まれて倒れることになるだろう。
ソランの動きは一見して派手だが、その本質には一切の無駄がない。
彼は火を噴かない。
無闇に燃やし尽くすこともしない。
湿原の泥は水分を過剰に含んでおり、炎の伝播速度や爆風の広がりが予測不能であることを熟知しているからだ。
ソランは火を“直接の刃”として振るうのではなく、自身の動きを加速させるための「熱量」と「推力」へと変換する。
爆発的な踏み込みを生むための熱、拳に重さを乗せるための温度、そして仲間の視界を奪わない抑制された輝き。
「いい子だ。その調子で頼むよ」
「先生、それ言うと本当に子ども扱いだっての! ……おらっ!」
軽口を叩き返す余裕があるのは、肺に十分な呼吸が残っている証拠だ。
戦いの最中に冗談が出るのは、勝利への道筋が見えている時だけ。
リュネルはその“余裕”を、あえて否定しない。
否定すればソランの血は過剰に沸騰し、制御を失った炎が周囲を焼き払ってしまうからだ。
紅金の瞳が、猛禽類のように鋭く燃え上がる。
ソランは泥を蹴り、最小限の炎による指向性爆発で推力を得ると、最短距離で敵の間合いへと肉薄した。
その拳は地を叩いて衝撃波を発生させ、迫りくる棘の軌道を強引に逸らし、流れるような足払い一閃。
炎を拳の一点に極限まで集中させ、精密な狙いを定める。
数に任せた攻撃に惑わされることなく、一体ずつ確実に、その生命の灯火を消していく。
不意に、抜け殻の影が結界の縁へと接触し、ぱしっ、と静電気に似た鋭い音を立てた。
影は苦悶するように形を歪め、近くにいた魔獣の個体へと染み込むように同化した。
影を宿した個体はその瞬間、物理法則を無視したかのような瞬発力を得る。
「影移りか。……厄介だね」
リュネルは杖を小さく振るい、不可視の魔力の糸を紡ぐ。
魔獣の足元に複雑な魔障の紋章が刻印されると、足の自由を奪われた影移り個体は、踏み出しのタイミングが半拍だけ不自然に滑った。
その刹那に生じた空白へ、ソランの重い拳が吸い込まれるように落ちる。
「っとォ! 逃がさねぇぜ!」
鈍く、重厚な破壊音。
牙の列ごと顎が粉砕され、魔獣の躯が大きく宙に浮き、体勢が完全に崩れる。
そこへグレイスが矢継ぎ早に詰め寄り、大盾で圧殺し、研ぎ澄まされた剣でトドメを刺していく。
だが頭上――半球状の結界膜を舐めるように、一つの“抜け殻”が滑るように這った。
ぱり、と不気味な音を立てて膜に細い裂け目が走る。影が舌のような不定形の肢を伸ばし、内側へと侵入を試みる。
「ソラン!」
「わかってるって!」
ソランの紅金の光が、空中でその“肢”を真正面から掴み取った。拳で打つのではない。万力のような力で捻り上げ、逆に影の内部へと炎を逆流させるように食い込ませる。
影は激しく痙攣し、べり、と引き剥がされるように地面へ叩きつけられた。
「押さえたぞ、今だ!」
「数秒あれば十分だ!」
その時、ルーガルがほんの一瞬だけ首を傾げた。
狼の鋭敏な目は、実体なき“影”そのものを見ているのではない。
影が触れた場所の局所的な温度変化、泥の撓み、大気中の匂いの微細な変質――それら“事象の端々”を的確に拾い上げているのだ。
リュネルはその情報を、自身の呼吸を通じてリアルタイムに受け取る。
もはや言葉による伝達は不要だ。
彼が見ている世界の半分は、主の皮膚感覚へと直接流れ込んでくる。
リュネルは杖先を、地面に縫い付けられた影の核へと向けた。
「――《脆さの印》」
青白い繊細な光が薄膜を走り、影を構成する魔力の“芯”が鮮明に浮き上がる。
そこへソランの踵が寸分の狂いもなく正確に落ちた。
影は断末魔の叫びすら上げることなく、ガラス細工のように音もなく砕け散り、泥の中へと溶けて消えた。
残る二体の魔獣は、核を失ったことで目に見えて勢いを失い、グレイス隊の洗練された連携に呑み込まれるようにして沈黙した。
ざわついていた葦に、再び静かな風が戻る。
波立っていた水面の輪が幾重にも広がり、やがて静かに消失した。
「ふぅ。……先生、今日はこのくらいで勘弁してやるよ。控えめにしておいて正解だったな」
「うん、よく我慢したね。闇雲に殴るだけが能じゃないからね」
「へへっ、褒められた! 最高の気分だぜ」
邪魔者が完全に退けられたことで、中断されていた解体作業が再開された。
リュネルの操る刃はさらに深く、だが驚くほど慎重に肉壁を下ろしていく。
致命的な毒嚢をミリ単位で避け、筋壁の複雑な走向に沿って、淀みなく切開を続ける。
筋繊維の不気味なぎらつき、皮下脂肪の異常な色、そして血の粘度――。
微細な異常があれば、彼の研ぎ澄まされた指先が必ずその違和感を拾い上げる。
――不自然だ。
腱の束の中に、一本だけ周囲と調和しない不自然な繊維が混じっていた。
血色、繊維の密度、向き、そして何より接合部のわずかな段差。
それは、まるで熟練の職人が精巧に縫い合わせたかのような、異質な“手触り”を伴っていた。
肝臓の一部には、人為的な魔力過多による病変のような斑点。魔核の外層を覆うのは、薄い痂皮。
どれもが、自然界の悠久の時間がつくる「均質さ」を根本から損なっている。
「……先生?」
不審な沈黙を察し、ソランが横から覗き込む。
「……大丈夫。少し、確認したいことがあるだけだ」
刃先で組織をわずかに押し開き、奥から糸状の細い線を引き出す。
それは天然の魔法糸ではない。タンパク質を強制的に固着させた、粗雑ながらも強固な接合痕。周囲の組織との境界には、微細な壊死帯が形成されていた。
(移植、か。あるいは過剰な再生促進剤の乱用による、強引な肉体改造……)
それは「気づける知識」があるから気づいた、というより、彼の素材屋としての倫理観が「見逃すことを許さない」から見えたものだった。
肉の不自然な張り、薬臭い血の匂い、そしてあまりに薄すぎる壊死帯。
自然界で負った怪我は、これほど人工的な形では治癒しない。
生き物の自然治癒は、決してこのような人工的な“美しさ”を纏うことはないのだ。
だがこれは、一見すると美しさを装うように整えられている。
それなのに、その根幹は驚くほどに雑で、命への敬意が欠落している。
目的が“生命の維持”ではなく、単なる“動力源としての稼働”に特化しているのだ。
リュネルは、刃先を置いた瞬間の静寂を何よりも大事にする。
勢いに任せて切り続ければ、観察眼は濁る。
観察が濁れば、作成する記録もまた濁る。
記録が濁れば、いつか後で守れるはずの命を、守れなくなる。
(できることなら、関わり合いたくはないのだけれど……)
胸の奥でそう願う自分とは裏腹に、その指先は既に、この異常事態を解析するための次の手順を無意識に構築していた。
「放っておく」という選択と、「知らずにいる」ことは似て非なるものだ。
知らないふりをして通り過ぎ、その結果として誰かが病み、街が傷つくのは耐え難い。
結局それはいつか巡り巡って、アルカナ堂の店先にまで漂ってくる不吉な匂いになるのだから。
呼吸を整え、一度刃を置く。
記録板へ、見出した異常の簡略図と所見を克明に書き込んでいく。
発見場所、組織の長さ、縫合の方向、推定される組織齢。
グレイスが横からその記録を覗き込み、眉間に深い皺を刻んだ。
「……王都の御用学匠の暴走か、あるいは禁忌に手を染めた闇の術者の仕業か。こんな街の近場でこれほどの大掛かりな真似をされては、我々としても看過できんな」
「どちらなのか、あるいはその両方が裏で繋がっているのか。何にしても、厄介な火種であることに変わりはありませんね」
ルーガルがそっと寄り添い、濡れた鼻面でリュネルの肘を軽くつついた。
「わかっているよ。無理はしない。……今は、ね」
(できるだけ、関わり合いたくはない……はずなんだけどな)
彼は苦笑混じりに狼の柔らかい耳を撫で、再び作業へと没頭した。
採取可能な部位は最小限に留め、薬用、研究用、そして学術的な標本用へと厳密に分類していく。
腐敗度の高い部位は魔法薬による中和、あるいは魔法による直接的な分解処理を施し、表層は浄化の炎で丁寧に焼き固めた。
結界は三段階を経て慎重に縮退させ、周囲の瘴気濃度曲線が緩やかに、自然界の許容範囲へと降下するよう緻密に制御をかけた。
全ての工程を終える頃には、空は淡い群青色へと傾き始め、葦の影が湿原の上に長く、静かに伸びていた。
「……よし、全ての作業を完了しました。皆さん、本当にお疲れさまでした」
リュネルが丁寧に頭を下げると、グレイスが豪快に肩で笑った。
「礼を言うのはこっちだ。君の結界がなければ、我々の盾も心も持たなかっただろう。……ソラン、今日のお前の押し引きは実に見事だったぞ」
「へへっ! 先生に“控えめ”って釘を刺されてたからな。見てろよ、俺だってやればできる子なんだからさ!」
「うん。今日は最後まで“鍋にしよう”って言い出さなかったのも偉かったよ」
「結局最後までそこかよ!」
乾いた笑いが湿原に弾け、張り詰めていた重苦しい緊張がようやくほどけていく。
だが、帰路につく直前、リュネルは無意識にもう一度だけ湿原を振り返った。
いつも通りの平穏を取り戻したはずの景色だが、リュネルの心の中には、喉に刺さった小さな魚の骨のような違和感が残り続けている。
世界にばら撒かれた不穏な欠片が、どこか遠い場所で一枚の巨大な地図へと少しずつ寄り集まり始めているのかもしれない。
焦る必要はない。
自ら首を突っ込むのは御免だ。
だが、自分たちを守るための手段だけは、決して妥協せずに用意しておこう。
ギルドへと帰還すると、待ち構えていた受付の面々が目に見えて安堵の溜息をつき、彼らへ向けて深々と感謝の頭を下げた。
「街が、そして農村が救われました。農民たちからの悲痛な苦情も、これでようやく収まりそうです。……リュネル様、ソラン様。お二方の協力がなければ、我々だけではどうにもできませんでした」
「いえいえ、僕たちも普段この街にはお世話になっていますから。……まぁ、本来の仕事の範疇は、少々……いえ、かなり超えてしまっていますが。協力できることは、可能な限りやっていくつもりですよ」
滞りなく報酬の受け渡しと口頭での状況報告を済ませる。
見出した異常所見については、この場では簡略な記述に留め、詳細な解析レポートは後日改めて提出することを約束した。
ギルドを出ると茜色の空は既に紫がかった夜の帳へと溶け込み始め、石畳の上には長い、長い街灯の影が落ちていた。
「結局、期待してた『魔獣鍋』にはありつけなかったなぁ」
ソランが空腹を訴えるように腹をさすり、疲れの滲んだ顔でぼやく。
「当然だよ。今日の依頼はあくまで“不浄物の片づけ”であって、食材の調達じゃないんだから」
「流石のオレだって、あんな臭ぇのは食えねぇってことくらい、見てりゃわかるぜ!」
「ソランが隙あらば鍋の話を持ち出すからいけないんだよ」
懐かしい店の扉を開ける。――からん、と。
カウンターの向こう側、リラが素早く薬草の包みを結び終え、パッと顔を上げた。
「お帰りなさいませ! ……さあ、即座に着替えと手洗い、そして入念なうがいをお願いしますね」
「ほら来た! やっぱり最後は子ども扱いだ!」
「公衆衛生は最も大事なことですから。今日は特に、ね」
リュネルは苦笑を浮かべ、使い古された革の手袋を外す。
袖口に僅かに残っていた魔力の灰を指で払うと、ルーガルが満足げに足元で鼻を鳴らした。
「ルーガルもお疲れさま。まずは美味しい水をどうぞ」
リラが用意していた清潔な皿を差し出すと、狼は礼儀正しく一口ずつ慈しむように水を飲む。
ソランがそれを羨ましそうに眺めていると、すかさずリラの鋭い視線が飛んだ。
「ソランさんも。まずは“うがい”からですよ」
「はいはい、わかってますよ……」
軽口を叩き合う日常の向こう側、リュネルの網膜には、あの湿原の静まり返った不気味な景色が薄く焼き付いている。
人為的に縫合された腱、異常な痂皮の核、そして掌に残った、あの冷徹なまでの“無機質な手触り”。
(――間違いなく、何者かが意図的に魔獣を“再構築”している)
急ぐ必要はない。
焦って深追いすれば、相手の思う壺だ。
静かに証拠を積み上げ、判断はどこまでも慎重に、けれど決断の瞬間は迷わずに。
それが、ここに集う大切な仲間たちを守り抜くための、彼なりの戦い方だ。
リュネルは静まり返った自分の作業部屋へと入り、本棚の奥から一冊の古い装丁のノートを抜き取った。
そこへ、今日の出来事を淡々と、けれど克明に書き足していく。
《湿原CC案件/内臓差替痕・核痂皮 記録写 保管:本棚B-3》
《苔喰い洞の特異所見と照合のこと。後日、詳細解析》
《ソフィア:呼吸系補助魔法の練度に向上あり。次回、より高度な連携を観察》
窓の外、店の看板に名残惜しそうな夕日が当たり、三日月と太陽を象った意匠が柔らかく光を反射している。
扉の内側にはいつも通りの、忙しなくも愛おしい一日が流れている。
日常とは、こうして絶え間ない努力の積み重ねで回っていくものだ。
けれど棚の奥、書庫の最下段に挟み込まれたこの記録は、次なる一歩を踏み出すための“しおり”として静かに出番を待っている。
今夜はきっと心地よい眠りにつけるだろう。
全力を尽くして働いた日は身体が眠りを欲する。
今日の疲れは、今日のうちに使い切る。
そして心の憂いは、記録という名の墓標としてここに置いていく。
リュネルは作業机の灯りを、ゆっくりと落とした。
帳場の隅には鋭く削った鉛筆の芯の粉が、薄く白く散っている。
指先でさっと拭えば消えてしまう程度の、けれど確かにそこに存在した“今日”という時間の、ささやかな痕跡。
奥の居住スペースからは鍋の蓋がカチカチと当たる軽快な音と、リラの忙しそうな足音が聞こえてくる。
そして、ソランの「腹減った!」という、遠慮のない、けれど生命力に満ちた叫び声。
ベルギスの重厚で低い笑い声が一つ混ざり合い、アルカナ堂は完全に、瑞々しい“生きている音”に包まれた。
湿原のあの忌々しい腐臭は、もうここには微塵も残っていない。
満ちているのは、芳醇な香草と乾いた木の香り、そして食卓から立ち昇る温かな湯気の匂いだ。
それでも。
袖口の奥底に僅かに残った、あの縫い合わされた肉の感触だけは、執拗に指先に絡みついて離れない。
あの不自然な段差。痂皮の薄さ。
そして、影が移ろう時の不吉な気配。
世界は静かに、けれど確実に、少しずつその“形を変えようとしている”。
だからこそ。
眠りにつく前に、一度だけこの記録を閉じる。
「閉じる」という明確な行為が、今日と明日の間に、一本の揺るぎない線を引く。
その線を正しく引けるからこそ、彼は明日もまた、変わらぬ笑顔でこの店の扉を開けることができるのだ。




