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第18話 湿原の怪①

扉を静かに押し開くと真鍮の鈴が澄んだ音色でころんと鳴り、それに応えるように香草の清涼な香りと、年月を重ねて乾燥した木の芳醇な匂いがふわりと流れ出た。

棚に並んだガラス瓶に反射した朝日が、使い込まれた床板の上へ細く鋭い光の帯を幾筋も落としている。

朝の空気はまだ夜の余韻を孕んでひんやりとしており、鼻腔の奥を洗うようにどこまでも澄んでいた。

夜明けからそれほど時を経ていないこの時間帯、街はまだ深い微睡から完全には目覚めきっていない。

石畳を掃く竹箒の規則的な音、店先で焼き立てのパンを並べる控えめな気配、遠くの市場から風に乗って届く低い荷卸しの声。

それらが幾重もの層を成して、止まっていた街の時間をゆっくりと立ち上げていく。

リュネルは静かに背後の扉を閉め、真鍮の鈴が奏でる余韻が店の奥へと溶け込んで収まるのを耳で待った。

音が完全に消える瞬間が好きだった。

街の喧騒が一瞬だけ遠のき、店そのものが持つ穏やかな「呼吸」が内側に戻ってくる感覚。

ここは物理的には外の世界と繋がっているが、決して外の毒気に飲まれることはない。

亡き祖父が遺した“店の骨格”とも呼ぶべき頑強な魔力回路が、見えないところで今もなお、店主を守るように働いている。

床に落ちた光の帯を軽やかに跨ぎ、棚の端に置かれた小さな籠へと目をやる。

そこには端材のような薬草の束、小さな欠けがあるがゆえに正規の品にはなれなかった琥珀色の小瓶、乾燥が甘く独特の香りが微かに残る花弁が少々。

それらは、通称「余り」の籠。

捨てるにはあまりに惜しく、かといって売るには細かすぎる品々だ。

けれど、これらを切実に必要とする人がこの街にはいる。

店先の目立つ場所にこの籠が置かれていること自体が、アルカナ堂という店の、そしてリュネルという男の処世術を無言で物語っていた。

だからこそ、この朝の静寂と澄んだ空気は何物にも代えがたくありがたい。

今日もいつも通り店を開け、今日も誰かがこの鈴を鳴らす。

世界に溢れる不可解なもの、歪なものはひとまず世界の片隅に置いておき、自分は――日常の側に立っていられる。

ここは、変わらない。

激動する時代の中で、変わらずにあり続けることが何よりの価値になる場所なのだ。

開店の刻限まではまだ僅かに余裕があるため、リュネルはカウンターの定位置につき古びた帳簿を広げた。

羽根ペンを走らせて文字を追い、数字と戯れる。その心地よいリズムに調子が乗ってきたと感じた刹那、入り口の鈴が、外からの切迫した勢いを受けて激しく打ち鳴らされた。

「リュネルさん、ギルドの方がお見えです」

店の奥で開店準備をしていたリラが、仕分け用のカゴを片手にしたまま姿を現した。

声色はいつも通り穏やかだが、語尾に一切の余分がない。

彼女は、緊急事態と通常業務を、その声に乗せる“重さ“で瞬時に切り分ける鋭さを持っていた。

リュネルが顔を上げると、そこには使い古された革鎧を纏った中堅職員が立ち尽くしており、その瞳には隠しきれない緊張と焦燥が混濁していた。

朝の街を遮二無二小走りで駆けてきたのだろう。額には汗が滲み、肩で刻む呼吸はまだ完全に落ち着いていない。

だが、その視線だけは真っ直ぐにリュネルを捉えていた。

それは、自らの力だけではどうにもならない事態を前に、“唯一頼らなければならない相手”を見据えた、悲痛なまでの信頼の目だ。

「開店前の早朝に、失礼致します。ギルドからの緊急要請です。街の近郊に広がる湿原に、討伐済みと思われる大型魔獣の死骸が放置されており……腐敗が異様な速度で進み、周囲に猛烈な瘴気が漏れ始めています。公衆衛生上の危機が懸念されるため、死骸の処理と、可能な限りの素材回収を至急お願いしたいのです」

言葉の途中で、職員は苦渋を滲ませるように一度だけ唇を強く噛んだ。

ギルドという冒険者の秩序を守る組織として、胸を張って語れる内容ではないという明確な自覚があるのだろう。

「ふむ……? “討伐済みと思われる”という言い回しが少々引っかかりますね。正式なギルド案件としての処理ではなかったのですか?」

リュネルは思考を即座に戦場へと切り替え、鋭くそこを突いた。

目前の死体そのものよりも、その死体がそこにあるに至った“経緯”の不透明さこそが、後々大きな問題に発展することを彼は嫌というほど知っている。

「えぇ……近隣支部の過去数ヶ月の討伐記録を全て洗い直しましたが、該当する依頼は一切発行されておらず。所属する各隊からの戦果報告にも、該当する記述は皆無です。つまり、何者かが勝手に仕留め、あろうことかその後始末を放棄して去ったということです」

その場に、重苦しい沈黙がほんの一拍だけ落ちた。

職員の言葉が途切れた瞬間、リュネルは相手の呼吸を静かに観察した。

管理不足を謝罪すべきか、それとも強引に依頼として押し切るべきか。

若い職員の胸の動きはその狭間で迷い、激しく揺れている。

ギルドは冒険者に“頼む側”であると同時に、法と秩序を“管理する側”でもある。

その管理する側が制御不能な不測の案件を持ち込むとき、その心は無意識に硬直する。

そして、その強張った表情ほど、一度綻びれば脆く折れやすいものだ。

「……責任者は?」

リュネルが静かに、短く訊ねると、職員は怯えを押し殺すように背筋をピンと伸ばした。

「現在、ギルドマスターは隣国の支部との別件の協議で不在にしております。私が窓口の責任を負っておりますので、必要であれば、全ての責任は私が――」

「責任の所在を問うているわけじゃありませんよ」

リュネルは、解きほぐすような柔らかい声音で言い、あえて言葉を付け足した。

「“放置された死体”という爆弾は、事が致命的な規模になる前に処理しないと、街が先に癒えぬ傷を負う。責任の追及は後からでもいくらでもできるけれど、漏れ出した瘴気で病人が出始めてしまったら、もう取り返しがつきませんからね」

職員の瞳が、一瞬だけ潤んだように見えた。

日頃上と下からの板挟み状態であろう彼の、誰にも頼れず孤立していた状況で、ようやく確かな救いの手に触れたことに気づいた時の顔だった。

その、どこか弱々しくも安堵した顔を見て、背後で控えていたソランが小さく鼻を鳴らした。

不遜な冗談や軽口を叩く直前の、彼なりの戦いへの“ギアを入れる”癖だ。

「……けっ。どこのどいつか知らねぇが、腕自慢の馬鹿野郎が格好つけて斬るだけ斬って、後は野となれ山となれってか」

「……どこぞの腕自慢が、やってそのまま、か」

リュネルの声は平時と変わらず軽やかだが、その脳内では既に最悪のシナリオを含むいくつもの可能性が整理されていた。

善意による過失か、未熟な慢心か、あるいは不測の事態による逃走、はたまた何かを隠すための隠蔽工作か。

いずれにしても、導き出される結果は一つ。

“意志を持って放棄され、処理を拒む死骸”。

背後から、不釣り合いなほどにのんきで野太い声が飛んだ。

「でもまぁ、つまりは食い甲斐のありそうなでっかい死体が転がってるってことだな? よし、今夜の鍋に――」

「ソラン。食べる話なら、帰ってきてからにしてね」

リュネルは崩さぬ微笑みのまま、相棒を制した。

けれど、その群青の瞳の奥に宿る光は一段だけ鋭利な刃のように研ぎ澄まされている。

「でも、腐敗した生物組織はもはや純粋な毒の塊だよ。不用意に口にしたら、さすがの君のでも一晩中トイレから帰ってこられなくなる」

「……冗談だって、冗談」

ソランは軽快に肩をすくめてみせる。

だが、彼自身も骨身に沁みて分かっているはずだ。

この張り詰めた場で不遜な冗談を飛ばせるのは、当然のごとく自分たちが現場へ“行く”ことが前提となっているからこそだということを。

リラはいつの間にか、カウンターの下から手際よく準備されていた備品一式の包みを取り出していた。

「解毒薬、特殊消毒液、瘴気吸着用の魔法綿、広域結界札、そして精密採取キットと記録用の魔導板。標準装備一式です。現場で追加が必要になれば、戻り次第、即座に補充します」

リラの指先は淀みなく、手際よくそれらを丈夫なレザーポーチへと詰め込んでいく。

ポーチそのものはコンパクトだが、そこには現場の生殺与奪を握る、ずっしりとした重みが凝縮されていた。

「おいおい、リラ嬢。忘れてもらっちゃ困るぜ、先生はいつだってその一式を、肌身離さず完璧に持ち歩いてるんだからよ」

ソランは、まるで自分の手柄であるかのように得意げに胸を張る。

それは、子供が新たに得た知識を自慢するような、どこか誇らしげな声音だった。

「ソラン。それは君の分だよ」

「え? お、俺の……?」

ソランは完全に虚を突かれたように、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

「先週の依頼の時、君は消毒薬と採取キット、それに最も重要な記録板を忘れてきていただろう?」

リュネルは至極穏やかな笑顔のまま、淡々と事実を告げる。

声こそ春の陽だまりのように柔らかい。

だが、その目の奥底にある光は決して笑ってはいなかった。

その無言の圧力に、ソランは石像のように凍りついた。

背中を一筋の冷たい汗が音もなく流れ落ちる。

「……へ、へい」

ぎこちない、油の切れた機械のような動きでソランは恭しくポーチを受け取った。

「それじゃあリラさん、留守中の店は頼んだよ」

「お任せください。――ソランさんは、帰ってきたら“手洗い・うがい・即座の着替え”までが義務のセットですからね?」

「ええっ、そこまで子ども扱いかよ!?」

「あなたがこの店で一番の最年少ですから、当然でしょう?」

リラは、聖母のような慈愛に満ちた、けれど一切の反論を許さない微笑みを浮かべる。

「あと付け加えるなら、そのままの格好で台所の鍋に近づかない、という項目もセットに含まれています」

「そこまで釘を刺されるのかよ!?」

短い笑いが店内に弾け、極限まで張り詰めていた空気が春の雪解けのように少しだけ緩む。

それでも、事態が予断を許さぬ緊急事態であることに変わりはなかった。

リュネルは仕立ての良い外套を羽織り、腰回りの装備の固定を確認する。

洗練された意匠の杖、鋭利な解体用の刃物、複数の簡易採取瓶、そして護身用の符。

そのすべてが、装飾品ではなく“一刻を争う実用”を前提として、淀みなく収まっている。

そして、今なお不安に揺れる職員へ、静かに、けれど力強く頷いて見せた。

「……では、案内をお願いできますか」

「はい! よろしくお願いします!」

リュネルは一度だけ、愛着ある帳場を振り返った。

書きかけのまま広げられた帳簿、半分まで満たされたインク壺、朝の柔らかな光を受けて艶やかな色彩を返す薬瓶の列。

すべてが、いつもの位置にある。

その安寧こそが彼が守るべき世界の象徴だった。

リラは、リュネルが背を向けた瞬間にはもう、次の仕事へと動いていた。

店主の空けたカウンターを素早く拭き清め、籠をミリ単位で定位置に戻し、扉脇の札を「開店」へと裏返す。

それは開店前の慌ただしさなどではなく、大切な留守を預かる側の、静かで揺るぎない段取りだった。

「お気をつけて。湿原は足元が不安定で、場所によっては底なしのぬかるみに足を取られやすいですから」

声は抑えめで、必要以上の過剰な情緒はない。

それでも、その短い言葉に含まれる深い案じの情は、リュネルには十分すぎるほど温かく伝わってきた。

「ありがとうございます。事態が順調にいけば、夕方には戻れると思います」

確実な保証はない。

だが、自身の内にある一抹の不安をそのまま外の世界へ持ち出す必要もない。

ソランは戸口で、外套の留め具の締まりを何度も執拗に確かめていた。

先ほどのリラの一件が相当堪えているのか、その動きはいつになく丁寧で、どこか神妙だ。

何やら小声でぶつぶつとぼやきながらも、ソランはポーチを軽く叩いて位置を確認する。

革同士が擦れる嫌な音がしないよう、細心の注意を払って。

若いギルド職員が、先んじて重厚な扉を開け放った。

朝の冷たい空気が、店内へと一気に流れ込んでくる。

――ころん。

真鍮の鈴が最後にもう一度だけ鳴った。

その音は、非日常へと踏み出す出立の合図であり、同時に――この平和な場所を守るために残る者への、静かな約束の合図でもあった。

リュネルが一歩、外の世界へと踏み出す。

石畳の硬い感触が靴底を通じて伝わり、遮断されていた街の音が、濁流のように一気に戻ってくる。

焼きたてのパンが放つ香ばしい匂い、重い荷車が軋む音、活気ある商人たちの呼び声。

背後で扉が重々しく閉まると、鈴の余韻が短く震え、やがて朝の光の中へと消えていった。

その音を背に受け、リュネルは迷いのない足取りで歩き出す。

湿原へと向かう道は、整えられた街道を外れれば、すぐに剥き出しの土と泥へと姿を変えるだろう。

日常という境界線を一歩超えるだけで、世界はその本性を剥き出しにし、貌を変える。

だが――

戻ってくる時、また同じ鈴の音が自分たちを迎えてくれる。

その確信だけを胸の奥底に秘めて、彼らは目覚め始めた朝の街を、風のように抜けていった。


街道を外れ、湿地帯の特有の湿り気を孕んだ道を歩くこと半刻。

湿原の縁に足を踏み入れたその瞬間、吹き抜ける風の匂いが物理的な重圧を伴って劇的に変化した。

鼻を刺し、網膜まで刺激するような強烈な酸の匂い。

湿った鉄の生臭さと、硫黄のような腐卵臭が複雑に絡み合い、呼吸をするだけで喉の奥に焦げるような痛みを残していく。

「うへぇ……先生、これ、やっぱり何度経験しても慣れねぇな。鼻が曲がりそうだぜ」

ソランは露骨に顔を歪め、思わず厚い手のひらで鼻を覆った。

「慣れないほうが、生物としては健全だよ。人体というものは、“腐敗臭”を生存を脅かす危険信号として認識するように出来ているからね」

リュネルは腰から杖を取り出し、流れるような所作で振るった。

自分とソラン、そして案内人のギルド職員を包み込むように保護魔法を展開する。

だが、感覚を完全に遮断はしない。

周囲の危険を察知するために最低限必要な程度には、あえてその不快な匂いを残すのだ。

背丈ほどもある葦の群生を掻き分けるように進むと、視界が一気に残酷なほど開けた。

眼前に広がるのは、沈滞した泥色の鏡のような水面。

ところどころでメタンガスが黒い泡となって不気味に破裂し、その周囲を異常繁殖した白い羽虫が雲のように群れている。

遠くの浅瀬で水鳥が二度、警告するように鋭く鳴き、直後に死のような静寂が戻った。

本能に忠実な生き物たちは、既にこの場所から十分な距離を取っている。

現場には既に数隊の冒険者が、瘴気の拡散を食い止めるべく待機しており、その中から見知った屈強な男が片手を挙げた。

「よぉ、リュネル。朝早くからすまねぇな、お呼び立てして」

「グレイスさん。……それに、ソフィアさんもお揃いですね」

「ご無沙汰しております、リュネルさん」

若き女性冒険者のソフィアが丁寧に礼をし、その直後、ちらりとわざとらしく悲しげな視線を自らの隊長へと投げた。

「この前の依頼、ご一緒できなくて本当に残念だったんです。隊長が頑なに“お前にはまだ早い”なんて仰るから……」

「状況が、お前の手に負える範疇を超えていたと言ったろう」

グレイスは鉄のような無表情のまま、淡々と応じた。

「たとえ外見上の場が整っていても、ダンジョンというものは常に変化し続ける“生き物”だ。一寸先も見通しがきかないあのような局面に、まだ経験の浅い新人を連れて行くわけにはいかない」

ソフィアは「むぅ」と子供のように唇を尖らせる。

だが、その視線は救いを求めるようにリュネルへと向けられた。

「……リュネルさんは、どう思います? 私、そんなに頼りないですか?」

「グレイス隊長の判断は、誰の目から見ても極めて妥当ですよ。あの時は、厳選された冒険者たちであっても、文字通り死力を尽くしてようやく生還したのですから。……ですが、貴女は間違いなく、誰よりも速い速度で伸びています。今は急がず、根を深く張る時期ですよ」

「……はい、わかりました」

ソフィアの肩から、目に見えて余計な力が抜けていく。

彼女の瞳にある芯は、まだ決して折れていない。

待機している冒険者たちの足元は、すでにこの劣悪な泥濘に慣れていた。

重い板切れを敷き詰め、頑丈な縄で簡易の足場を組み、常に風向きを読みながら細かく立ち位置を変える。

今回の目的は怪物との死闘ではなく、汚染源の撤去だ。

それでも、彼らはこの現場を文字通り“一歩間違えれば命を落とす戦場”と同じ厳格な作法で整え、向き合っていた。

グレイスは湿原の奥、霧に煙る地点を顎で示した。

「……あれだ。昨日の夕刻から異変が始まった。夜のうちに数名で様子を見に来たが、近づくだけでこめかみに刺すような頭痛が走る。瘴気の質が、どうにも嫌な感じだ。単なる生き物の腐り方じゃねぇ」

淡々とした、抑揚のない声。しかし、だからこそその言葉には、百戦錬磨の戦士にしか持ち得ない重みがある。

“嫌だ”という感覚的な言葉を、決して軽々しく使う男ではないのだ。

ソフィアが鼻先を外套の袖で覆いながら、微かに眉を寄せて言う。

「不快な腐敗臭の中に妙にツンとする、揮発した薬みたいな匂いが混ざっているんです。甘ったるくて、ねっとりと喉の奥にこびり付くような感じ。……私、これ、生理的に好きじゃないです」

「好き好んで嗅ぐものではないよ、ソフィアさん」

リュネルは苦笑を浮かべながらも、その内心では思考の海に明確な線を一本引いていた。

薬品の甘さ。腐敗臭の酸。

それは時々、生物組織を無理やり保存・固定するために使われる特殊な保存薬剤の反応と酷似している。

“討伐済みと思われる”。

公式な討伐報告がない。

臭気と腐敗の進行が、自然の摂理から逸脱している。

バラバラだった「点」がリュネルの頭の中で静かに、けれど等間隔に並び始める。

だが、まだそれを強引に一本の線にはしない。推測だけで線を引いた瞬間、本質を見失い、余計な虚飾まで繋ぎ合わせてしまうからだ。

リュネルは、いまだ不安げに事態を見守るギルド職員へ視線を向けた。

「近隣の農作地への被害状況は?」

「今のところは、風に乗って異臭が届く程度です。ただ、周辺の農家では家畜が落ち着きを失って暴れだし……中には、幼い子どもが激しく咳き込み始めた家もあると報告が入っています」

「……そうか。なら、一刻を争うね。急ごう」

その一言でその場の空気が一気に張り詰め、プロの仕事場へと切り替わった。

冒険者たちが手袋の紐を締め直し、固定した縄を引き、予備の刃を丁寧に拭く。

それは今日何かを殺すためではなく、街の明日を守るための準備だ。

彼らが守るべき対象が、今日は“街そのもの”の静穏になっている。

葦の深い茂みを掻き分けた先。

そこには、泥に塗れ、黒く醜悪に膨れ上がった巨影が湿原の底を這うようにして横たわっていた。

水棲の生態を持つ大型魔獣――。

岩石のように隆起した背の甲板、死に際の色を留めた白い腹、そして扇状に大きく広がった鱗を持つ鰭尾きび

強固な皮は腐敗ガスによって無残に裂け、体内に溜まったガスの凄まじい内圧で、もはや死体であるはずのその巨躯が、薄皮越しに内側から“呼吸”をしているかのようにドクンドクンと脈打っていた。

ギルド職員が思わず顔を覆い、えずくのを必死に堪える。

「……これ、です。風向きが変わるたびに、この世のものとは思えない臭気が農地まで流れ出し……」

「まずは安全に作業ができるよう、場を整えます。皆さんは、念のためもう少し風上まで下がってください」

リュネルは精緻な彫刻が施された長杖を泥濘の地へと深く突き立て、静かに、深く呼吸を整える。

その群青の瞳が、魔力の励起に従って淡い神秘的な輝きを放ち始めた。

「――《穢れを祓え(トキシ・バニッシュ)》」

〈ぱんっ〉と、張り詰めた空気が弾ける音がした。

薄青い半透明の光の膜が半球状に滑らかに展開し、吹き抜ける不浄な風の筋を、あたかも目に見えぬ掌で撫でるかのように外側へと曲げていく。

逃げ場を失い漂っていた瘴気の流れは上空へと高く持ち上げられ、街を避けるようにして横へと逃がされていく。

毒を“消し去る”のではなく、無理なく“受け流す”。

次にリュネルは腰のポーチから取り出した小さな銀の瓶の封を切り、その中から細かな灰状の粉末を腐敗した患部へと静かに散布した。

さらに追加で封を切り、その粉末を魔法で全体に振りかけていく。

その灰粒は、空気中に漂う不快な臭気を貪欲に吸着し、周囲のぬめりを巻き込んで抱え込み、やがて重たい泥の団子へと姿を変えていく。

その団子は水面に波紋を立てることなく、音もなく湿原の底へと沈んでいった。

つづけて指先で流麗に印を切り、膜の内側に薄い風の通り道を二筋、精緻に作り上げた。

更に通り道の等間隔に魔法陣が展開される。

巨躯から溢れ出す濃密な瘴気はその魔法の道をたどり、左右へと等分に分配され、魔法陣を通過する中で急速に濃度を下げて霧散していく。

半球状の結界が完全に展開された瞬間、湿原の一角はまるで“別の世界、別の部屋”に切り替わったかのようだった。

外では依然として不快な風が葦を揺らしているのに、膜の内側だけは不思議なほどに凪いでおり、静かだ。

外の音も匂いも、まるで極薄のガラス越しに届くかのように遠ざかっていく。

待機していた冒険者の一人が、思わず深く肺の奥まで息を吐き出した。

「……ふぅ、助かった。鼻が、やっとまともに働き始めたぜ」

「鼻が正常に働くというのは、こういう現場では何より大事なことですよ」

リュネルは短く、けれど教え諭すように応えた。

「働かない鼻は、目前の致命的な危険に対して鈍くなる。逆に働きすぎる鼻は、不必要な恐怖に心を引っ張られてしまう。……どちらにせよ、極端に偏った状態は、正確な判断を狂わせますからね」

冷静に言いながら、彼は灰粒が団子状になって沈殿していく様子を、一瞬たりとも目を逸らさず注視する。

沈む速度、その形状のまとまり方。

溢れ出す腐敗液の粘度、そして不気味な状態。

瘴気の真の濃度と危険性は魔導具の数値ではなく、目に見えるこうした細かな“物理現象”の積み重ねでしか測れない。

ソランが興味深げに膜の縁を指先でつつき、指先でぱちんと静電気が弾けるような小さな音を鳴らした。

「なぁ先生、コレ……見た目以上に瘴気の密度が、かなりやばいことになってるんじゃないか?」

「……そうだね。単なる腐敗じゃなく、瘴気の中に異質なマナが混じり合っているのかもしれない。急ごう、ソラン。これを絶対に街へ流しちゃいけない」

リュネルはさらりと返したが、その声の低さには、決して無視できない緊急性が孕んでいた。

「ルーガル」

リュネルが静かに呼ぶと、純白の幾何学模様を描く魔法陣が足元に展開され、一頭の優美な銀狼が霧の中から実体化するように姿を現した。

出現した瞬間、ルーガルは敏感な鼻を僅かにしかめ、嫌悪を示す。

「ごめんね。今日はとりわけ匂いがきつい」

リュネルが杖の先で虚空に円を描くと、ルーガルの全身を保護する薄い光の膜が形成された。

銀狼は一度だけ鼻を鳴らし、了解したとばかりに太い尾で地面を一度叩いた。

「些細な違和感でもいい、君が何かを感じ取ったらすぐに教えてね」

そっとその誇り高い頭を撫でる。

リュネルは魔獣の死骸の側腹部から解体用の鋭利な刃で最初の切開を入れた。

じゅ、と。

肉が焼けるような、嫌な濁音が湿った空気に響く。

内部に閉じ込められていたガスが抜け、ぱつんぱつんに張っていた薄皮が、わずかに弛んでたわむ。

しかし、刃が皮に触れたその瞬間、指先に伝わってきた手応えはあまりに奇妙なものだった。

激しい腐敗によって本来なら粘土のように柔らかくなっているはずの肉組織が、表面の一部だけ、人工的な“硬い樹脂の膜”のように不自然に張っている。

それはまるで、内部の「何か」が外へ漏れ出すのを防ぐため、あるいは内部を無理やり閉じ込めようとする強固な意志のようだった。

リュネルは刃を入れる角度をミリ単位で微調整し、浅く、どこまでも浅く、溜まった空気を逃がすための道筋を作る。

一気に大きく切り裂けば作業時間は大幅に短縮できるだろう。

だが、その短縮された時間は時として“取り返しのつかない事故”になることを、彼はこれまでの経験から痛いほど理解していた。

更に慎重に切り進めていくと、溢れ出した高圧のガスが結界の膜の内側で荒々しい渦を巻き、即座にリュネルが作った風の通り道へと吸い込まれて、空へと消えていく。

背後で静かに様子を見守っていたグレイスが、地を這うような低い声で言った。

「……流石だな。驚くほどに慎重だ」

「……まぁ、これだけの規模の、しかも出所の分からない代物ですからね。流石に慎重さが要ります。なるべく、この死骸の“流れ”に逆らわないように進めたいので」

リュネルは話しを続けながらも、その指先は一切の迷いなく、淡々と解体の作業を進めていく。

「逆らう……?」

ソフィアが、その言葉の真意を測りかねて首を傾げた。

リュネルは一瞬だけ手を止め、適切な言葉を選び出す。

「腐敗し、朽ちていくものたちは本来あるべき自然の姿へ、大地へと戻ろうとする強い力を持っています。でも、その戻り方を誰かが無理やりねじ曲げたり、間違った方向に誘導したりすると、その反発で周囲を猛烈に巻き込んで壊してしまう。だから僕は、彼らが“正しく土へ還れるよう”に、少しだけ手助けをしてあげているだけなんです」

その声音には、死骸の惨状とは不釣り合いなほどの深い慈しみが込められていた。

ソフィアは、魔獣の変わり果てた姿に対して、リュネルが「優しい」というよりは――この歪な世界そのものに対して「優しい」のだと、彼女は一段遅れて理解したような顔になり、静かに口を閉ざした。


ルーガルが不意に低く唸り声を上げ、湿った泥の上を何かを警戒するように円を描いて歩き始めた。

その濡れた鼻先は地面の至近距離まで下げられている。

ただの“匂い”だけではない。

彼は大地の下、そして大気の中に潜む微細な魔力の揺らぎをその鋭い嗅覚で追っていた。

リュネルはその様子を視線の端で鋭く捉えながらも、刃を一度も止めずに思考を巡らせる。

正式な報告の一切ない討伐。

不自然極まりない保存と腐敗の形。

そして、これほど腐敗が進んでなお、内側から組織を“閉じようとする人工的な膜”。

もし、これが単なる未熟な冒険者による放置であるなら、話はそれで終わるだろう。

だが、もしもこれが何らかの意図を持って仕組まれたものだとしたら――

いや。

今はまだ、早計な答えを出すべきではない。

最優先すべきは、この不浄な死体を完膚なきまでに片付け、無毒化すること。

そして、この街の平和な日常を、今日のまま、明日へと繋ぐこと。

リュネルは、機械のように正確な手つきで、淡々と手を動かし続けた。

すると、その慎重すぎる作業の停滞に痺れを切らしたように、ソランが堪えきれず前のめりに手を挙げた。

「なぁ先生! まどろっこしいぜ、俺がこの場でドカンと一気に燃やし尽くして消しちまえば、それが一番手っ取り早いだろ?」

「こら。さっきから言っているだろう。体内に可燃性のガスが充満しているんだ。今は絶対的な火気厳禁だよ。君の火種一つでここ一帯がどうなるか、分かるだろう?」

リュネルの静かだが重みのある叱責に、ソランの鼻息の荒い勢いが、一気に萎んで抜けていった。

「火気厳禁……か。ったく、俺の最も得意じゃない、窮屈なやつだぜ」

「知っているよ」

返事は素っ気なく、そして軽い。

だが、その間もリュネルの指先はコンマ数ミリの狂いもなく動き続けていた。

腐り落ちた皮、変色した脂、そして癒着した筋膜。

使える素材の層と、徹底的に処分すべき汚染された層。

その境界線を刃は浅く、けれど確実に見極め無駄な一筋すら走らせない。

これは華やかな戦いではない。

だが、一歩間違えれば街全体が死に至る病に侵される、極めて高度で孤独な闘いだ。

リュネルは今日も誰に知られることもない、そんなギリギリの境界線上での仕事を引き受け、静かに遂行しているのだった。


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