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第16話 花に誓うは愛たるか

朝の陽光が、アルカナ堂の古い窓ガラスを通じて踊る埃をキラキラと照らし出している。

真鍮の鈴が時折、気まぐれな街風に揺れて微かに涼やかな音を鳴らし、店内には棚に並んだ乾燥薬草の芳香と淹れたてのハーブティーから立ち上る、心解きほぐすような香気が穏やかに満ちていた。

石造りの壁が夜の冷気をわずかに残しながらも、差し込む光が少しずつ店内の温度を上げていく、そんな平和な一日の始まり。

しかし、その穏やかな空気の中に一つだけ「淀み」が混じっていた。

カウンターの奥、光が差し込む特等席で薬草を仕分けしているリラの指先が、さきほどから何度も止まっている。

普段の彼女ならば、多種多様な乾燥植物をその効能や形状ごとに、正確かつ迅速に捌いていく。

淀みのないその所作は、店を訪れる客が見惚れるほど洗練されたものだ。

だが、今日の彼女の動作はどこか覚束なく、数分おきに店の外、馬車の車輪の音が響く石畳の通りをぼんやりと見つめては、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように小さく、けれど重苦しい溜息を漏らしていた。

その様子を棚の陰から、潜む野獣のような鋭さでじっと見守る紅金の瞳があった。

「……リラ嬢、あんた。さっきから同じ束を三回も数え直してるぞ。その調子じゃ、午前中のうちに終わる仕事も日が暮れちまうな」

不意に背後から声をかけられ、リラは弾かれたように肩を跳ねさせた。

そこには、磨きかけの短剣を手に不思議そうに眉を寄せるソランが立っていた。

彼の瞳は、悪戯っぽく、それでいて仲間を案じる独特の暖かさを湛えている。

「ソ、ソランさん……。驚かせないでください。ちゃんと、仕事は進めています。これくらい、すぐ終わりますから」

「嘘つけ。お嬢のそんな『心ここにあらず』な顔、初めて見たぜ。さては――またベルニキに強い酒でも勧められて、二日酔いでもしてるのか?」

ソランは短剣を鞘に収めると、ひょいと身を乗り出してリラの顔を覗き込んだ。

「違います。ベルギスさんはそんなことしません。……ただ、少し、個人的な悩み事があるだけです」

リラはそう言って、慌ててトレイからこぼれた束を拾い上げ、再び作業に戻ろうとした。

だが、その白い指先の震えや、伏せられた睫毛の影に宿る翳りは隠しきれない不安を雄弁に物語っていた。

ソランは鼻を鳴らし、カウンターに肘をついて身を乗り出した。

その仕草には、彼なりの不器用な優しさが滲んでいる。

「隠しても無駄だぜ。お嬢の悩みは、だいたい『誰かのため』だろ? 自分のことじゃそんなに深く溜息つかねぇもんな、あんたは。先生もみんなお節介で、あんたのそういう顔を放っておけない性質なんだよな。ほら、吐いちまえよ。言葉にすりゃ、少しは楽になるぜ?」

ソランの子供っぽいが真っ直ぐに心へと届く言葉に、リラはついに折れた。

彼女は手にした薬草をそっと置き、今日一番の深く、切実な溜息を吐き出した。


「実は、休日に街で会った友人のエリーナのことで……」

リラが語り始めたのは、彼女がこの街で数少ない、幼少期からの記憶を共有する旧友の一人、エリーナについての話だった。

エリーナは商業ギルドの受付で働いている女性だ。勝ち気なところもあるが、面倒見の良い頼り甲斐のある人物である。

彼女には数年前から、将来を誓い合っている恋人がいた。

名をカイル。

冒険者ギルドに所属する中堅の剣士で、派手な手柄を立てるタイプではないが、その実直で一途な仕事ぶりはギルド内でも一定の信頼を得ている男だ。

「カイルさんの様子が、この数週間、明らかにおかしいそうなんです」

「おかしい? 冒険者なんてのは、だいたいどこかネジが飛んでる奴らの集まりだろ。今更驚くようなことか?」

「そういう意味ではありません。エリーナに隠れて、夜な夜なこっそり出かけては夜更けまで戻らなかったり、ギルドの正式な依頼でもないのに、行き先も告げず所在不明な時間が増えたり……。さらには、エリーナが声をかけても上の空で、目が合うと、まるで何かを隠しているかのようにひどく挙動不審になるというのです」

リラは眉を八の字にして、自分のことのように胸を痛めながら続けた。

その瞳には、友人の裏切られたかもしれないという悲しみが投影されている。

「エリーナは、彼が……その、自分には言えないような相手、他の女性と浮気をしているのではないかと、泣きついてきたんです」

ソランは腕を組み、うーんと唸りながら顎に手をやった。

「浮気かぁ。カイルなら、俺も何度かギルドや酒場で見かけたことあるけどよ。石像が歩いてるみたいにクソ真面目な面してるだろ、あいつ。酒も付き合い程度で、女遊びなんてするなんて事どうにも想像がつかねぇな」

「私も、そう思います。カイルさんはエリーナを一途に想っているはずです。でも……彼の最近の行動には、どうしても説明がつかない点が多いようで……。もし本当に彼が、心優しいエリーナを傷つけるようなことをしているのだとしたら、私は……」

リラは、友人の涙を思い出しては胸を痛めているようだった。

ソランはしばらく考え込んだ後、指をパチンと弾いて閃いたような顔をした。

「だったらよ、先生に相談してみりゃいいじゃねぇか。先生なら、その博識っぷりでカイルの行動パターンを読むなり、魔道具や魔法を使って一発で真相を暴いてくれるだろ?」

「……それが、そうもいかないんです」

リラは店の奥、リュネルの自室がある方向を少しだけ不安げに躊躇いがちに見た。

「最近、リュネルさんも外出が多くて。今日も開店早々に『少し調べ物がある』と言って出て行かれましたし、何だかとてもお忙しそうなんです。こんな個人的な男女の痴話喧嘩の相談で、わざわざリュネルさんのお手を煩わせるわけにはいきません」

「あー、確かに。先生も最近1人でどっか行ってるよな……あの人はあの人で、何かデカい案件でも抱えてんのかもな」

ソランは不敵な笑みを浮かべ、少しだけ声を低くした。

それは、冒険のスリルを求める少年の顔だった。

「だったら、俺たちの出番だな。リラ嬢」

「……え?」

「お嬢は友達を助けたい。俺は正直、この平和すぎる午後の暇を潰したい。利害は一致してるだろ? ちょうど明日、店は休みだ。俺たちがそのカイルって野郎が何やってるのかを暴いてやろうじゃねぇか! もし本当に浮気なら、俺がそいつの襟髪掴んでエリーナの前に引きずり出してやるよ」

「そんな、素行調査のような真似……。ですが、エリーナのあんなに悲しそうな顔を見たままでいるのも、やはり耐えられません……」

迷うリラ。

しかし、ソランの冒険心に満ちた淀みのない勢いに、彼女の理性の背中がそっと押されてしまった。

「……わかりました。明日の定休日、二人でカイルさんの行動を追いましょう。あくまで、『心配だから見届ける』だけですよ」

こうして、アルカナ堂の誇る(?)迷探偵コンビ、素人探偵団が結成されたのである。


翌日、アルカナ堂の定休日。

いつもなら朝寝坊を楽しんだり、溜まった家事をこなして身体を休めるはずの朝。

リラとソランは、街の目抜き通りが一望できる古びたカフェのテラス席に陣取っていた。

リラは、普段のアルカナ堂の制服ではなく、街の雑踏に溶け込むような落ち着いた茶色のブラウスとスカートを纏い、目立たないように大きな帽子を深く被っている。

その姿はどこからどう見ても慎ましやかな街の令嬢だ。

対するソランは、「忍び」や「隠密」を意識しすぎたのか、何故か全身を分厚い黒のマントで覆い、口元まで布で隠していた。

「……ソランさん。一言いいですか。その格好、怪しすぎて逆に、街中の視線を集めています。衛兵に連行されても文句は言えませんよ」

「馬鹿言え。黒は闇に紛れる最強の色だぜ? 冒険者の基本だろ」

「今は雲一つない快晴の昼間です。真昼間の大通りで、そんな葬儀屋のようなマントを着ている不審者は、街中探しても貴方一人だけです」

リラに氷のように冷たい正論を突きつけられ、ソランはバツが悪そうにマントを脱ぎ捨て、普通の旅装になった。

その時、通りの向こう側、冒険者が集まる下宿の扉が開き、目指す人物――カイルが現れた。

カイルは、磨かれた形跡こそあるが、使い古されて傷の目立つ装備を纏い、腰には無骨な鋼の剣を帯びている。

彼は周囲を警戒するように一度見渡すと、何かに追い立てられるように足早に歩き出した。

「動いたぞ。行くぜ!」

二人は一定の距離を保ちながら、雑踏に紛れてカイルの後を追った。

流石に現役の冒険者であるカイルは、時折足を止めて振り返ったり、意味もなく小路に入っては戻ったりして、追跡者がいないか神経質に確認している。

リラとソランは、壁の影に身を隠したり並んで歩く仲睦まじい恋人を装ったりして(その際、リラは火が出るほど赤面し、ソランは全身を石のように硬直させていたが)、必死にその影を追った。

カイルが最初に向かったのは、中央広場に面した冒険者ギルドだった。

「あいつ、普通に仕事探しに来ただけじゃねぇのか? 浮気相手とギルドで待ち合わせなんて、聞いたこともねぇぞ」

ソランが建物の陰から中を覗き見ながら、欠伸を噛み殺して呟く。

だが、ギルドから出てきたカイルの様子は、どこか奇妙だった。

新しい依頼の羊皮紙を持っている風でもなく、何やら複雑な、苦悩に満ちた表情で古いメモを何度も読み返している。

続いて彼が向かったのは、街の賢者たちが管理する巨大な王立図書館、そして次は、市場の裏手にある偏屈な主人が営む薬草の卸問屋だった。

「図書館に、薬問屋……。浮気相手と甘いひと時を過ごしている雰囲気では、到底ありませんね」

リラは不思議そうに小首を傾げた。

図書館でのカイルは、およそ武骨な剣士には似合わない、重厚な装丁の「辺境植生図鑑」や「古代魔力の流れ」といった学術書を目を血走らせて数時間も読み耽っていた。

その後、薬問屋では主人が閉口するほど熱心に、何か特定の希少な素材の入荷予定について深刻な面持ちで話し込んでいたのだ。

「浮気ってのは、もっとこう……甘い匂いのする場所でするもんじゃねぇのか? 香水屋とか、宝石店とか、隠れ家風のレストランとかよ」

「そうですね。カイルさんの行動からは女性の影も、軟派な動機も微塵も感じられません。ただ……」

「ただ?」

「何か、命を懸けているかのような……そんな必死な気迫を感じます。一体何のために……」

夕暮れが街を茜色に染め、家路を急ぐ人々の影が長く伸びる頃、カイルは憔悴しきった様子で自分の下宿先へと戻っていった。

結局、初日の調査では決定的な証拠は何一つ得られなかった。

ただ、彼が「何か」に、それも常軌を逸した熱量で執着していることだけが判明したのである。


翌朝、再びアルカナ堂の通常営業が始まった。

ベルギスは朝のルーティンを済ませると、店の様子を見に行った。

するとそこには、慣れた手つきでせっせと開店準備を行っているリュネルの姿しかなかった。

「……リュネル。リラはどうした?裏では見なかったぞ」

リュネルはそのまま作業を続けながら応えた。

「何か用事があるから、今日はお願いしますって。リラさんが珍しいよね」

リュネルはなんだか含みのある楽しそうな顔で言った。

「それに、何よりソランと一緒に出て行ったのさ」

ベルギスはリュネルの表情から何かを察した。

「…お前さん、何か知ってるな?昨日から二人して、妙な隠し事をしてるようだが。店に黙って新しい依頼でも請けたのか?」

リュネルは、手元の帳簿に目を落としたまま、穏やかな、湖面のような微笑を浮かべて応えた。その背後には、彼の持つ知性と、底知れない懐の深さが静かに佇んでいる。

「何のことかな? 僕はただ、二人が自分たちの足で歩き、自分の力で真相に辿り着こうとする姿を、微笑ましく見守っているだけだよ」

リュネルの言葉は、いつも通り穏やかで、それでいて全てを手のひらの上で転がしているような絶対的な安心感と、かすかな茶目っ気が混じっていた。

「お前さんがそういう顔してる時は大概碌なもんじゃ無いんだかな」

ベルギスは額に手を当て、深くため息をついた。


翌日疲れた顔で店先に立つリラとソランが見かけられたとか、いないとか……



次の定休日。

ここ数日追跡を行っているリラとソランは、中々証拠を掴めないでいたが、本日も気配を殺してカイルの追跡を続けていた。

今日のカイルは、先週までとは明らかに動きが違っていた。

街の中を探索するのではなく、意を決したように街の北門を抜け、鬱蒼とした原生林が広がる外縁部、人跡稀な森の入り口へと真っ直ぐに向かっていたのだ。

「おい、あそこを見ろ。あんな寂れた宿の裏口に誰か立ってるぞ」

ソランが低く声を殺し、茂みの陰から指差した先。

古びた宿屋の崩れかけた裏口で、カイルが緊張した面持ちで誰かと待ち合わせをしていた。

その相手が、フードを深く被ったまま振り向き、カイルと視線を合わせた瞬間、リラは息を呑んだ。

「……リュ、リュネルさん!?」

そこに立っていたのは、間違いなく彼らの店長であり、信頼すべき師であるリュネルだった。

リュネルはカイルと、まるで古い戦友のような親しげな態度で言葉を交わすと、リュネルは彼に小さな古びた羊皮紙の巻物を恭しく手渡した。

カイルはそれを宝物のように受け取ると、二人は並んで深く険しい森の奥へと消えていったのである。

「どういうことだ……。先生が、あのカイルと裏でつるんでる? エリーナを裏切ってるかもしれない奴に、何かの情報を流してるってのか?」

「カイルさんの浮気相手がリュネルさんだなんて、そんな天変地異みたいなことはあり得ません。でも……どうして、二人があんなに秘密めいた場所で……?」

リラの脳内は、未曾有の混乱と裏切られたような切なさに陥った。

信頼していた主人が、友人を泣かせているかもしれない男と、自分たちに黙って隠密行動を共にしている。

結局リラとソランは2人を見失ってしまったし、頭が状況に追いつかなかったので、店に戻ることにした。


その夜、アルカナ堂に帰宅したリュネルを待っていたのは、薄暗い店内に仁王立ちし、今にも泣き出しそうなリラと、憤怒を湛えたソラン、そして事の次第を二人の断片的な話から聞き出し、腕を組んで面白そうに待機していたベルギスの姿だった。

「…お帰りなさい、リュネルさん」

リラの声は、今まで聞いたことがないほど冷たく、けれど激しく震えていた。

「少し、お話があります。隠さずに、全てお話しいただけますか? あなたが今日、あの森の入り口で、何をされていたのかを」

灯りも点けず、窓から差し込む青白い月の光だけがカウンターを照らす店内で、リュネルは困ったように、けれどどこか慈しむように眉を下げた。

「……おやまぁ。何か探っているとは思っていたけど。あらぬ誤解をしているみたいだね」


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