第15話 紅蓮の炎
ソランとリュネルの阿吽の呼吸、そしてグレイス率いる冒険者たちの執念に満ちた波状攻撃が、ついにその結実の時を迎えた。
荒れ狂う蔦を強引に切り裂き、爆炎で外殻を焼き払ったその先――ついに胸甲を成していた厚い苔が左右に大きく裂け、深層に隠されていた剥き出しの「光球」がその全貌を晒した。
淡い緑色の光が、命を削り出すような速度でドクンドクンと脈動している。
その表面を神経系を模したかのような無数の細繊維が、這い回る虫のごとく執拗に蠢いていた。
それらは剥き出しになった外殻の断面と即座に癒着し、瞬きする間に再生を完遂しようとする。
この苔の巨体は肥大化した湿地の悪夢、その権現そのものだった。
これまでの戦いではいかなる強靭な刃を通しても、どれほど高密度の魔法を叩き込んでも、どこか「手応え」が霧を斬るように薄かった。
だが、今この瞬間だけは違う。
ひび割れた胸甲の奥で放たれる光は、紛れもなくこの怪物の“生命の中心”であることを激しく主張していた。
「見えた……! ついに、核を捉えたぞ!」
若手冒険者の一人が、枯れかけた喉から震える声を漏らす。
その声は待ち望んだ「希望」であり、同時に一歩間違えれば全滅するという極限の「恐怖」の裏返しでもあった。
視認した以上、次はそこを叩く以外に道はない。もしも仕留め損ねれば逆上した巨体のカウンターでこちらが全滅の憂き目に遭うだろう。
「ソラン! 迷う必要はない、ここで決めるよ!」
リュネルは肺の底から深く息を吸い込み、魔力を編み上げる。
印を結んだ指先を一点、剥き出しの核へと真っ直ぐに向けた。
リュネルの呼吸が鋭く研ぎ澄まされたものへと切り替わる。
それは素材を鑑定するときの静謐な観察眼ではない。
敵を討ち、仲間を逃がすための明確な「闘う者の呼吸」だ。
「《モートゥス/レタルダ(行動掌握/遅化)》――」
洞窟を照らしていた明かりが、一瞬だけ不自然に陰った。
複雑な幾何学模様を描く「星紋」が核の表面へと冷たい影を落とし、その代謝リズムを強制的に狂わせていく。
その影は魂まで凍てつかせるほどに冷たい。
光の術式であるはずなのに、リュネルが紡ぐ星紋は絶対零度の“夜の温度”を運んできた。
苔の心臓が損傷を補うべく再生へと舵を切ろうとする。
だが、その刹那――呼吸と鼓動の隙間に、回避不能なわずかな「遅れ」が刻まれた。
彼が奪ったのは筋力でも魔力でもない。
相手が次に繰り出すはずだった「未来の一手」を、数秒だけ過去に釘付けにしたのだ。
「おぅ! 最高の舞台じゃねぇか、まかせな!」
ソランは低く膝を沈め、右手に握り締めた槍先に全意識を集中させる。
全身を駆け巡る魔力と、限界まで引き出した身体能力のすべてを右腕へと注ぎ込む。
紅金の火が一点に収束し、高密度の熱量に耐えかねた洞窟の空気が低く唸り声を上げた。
いつもなら、ソランの放つ炎は太陽のように豪快で、周囲のすべてを無差別に巻き込む破壊の奔流だ。
だが今は違う。
その火は広がることを拒み、どこまでも鋭く、どこまでも硬く、針の先のように“尖って”いた。
それは、リュネルがミリ秒単位で作り出した千載一遇の好機にソランが魂のレベルで完璧に同調した証だった。
紅金の瞳が猛禽類のように細くなる。
ソランは爆発的な力で地を蹴り、無防備な核に向かって一直線に光速の弾丸となって駆ける。
足元の苔板が軋み、腐敗した湿地のぬめりがその踏み込みを沈ませようとする。
それでも、ソランは止まらない。
いや、彼を止める術など、この世のどこにも存在し得ない。
彼の背にグレイスの裂帛の気合が飛ぶ。
「道は俺たちが通す! 総員、全力でソランを援護しろ!」
冒険者たちが一斉に突き動かされ、横から迫る蔦の軌道を盾と剣で力任せに逸らしていく。
風を切る矢が鳴り、無数の刃が苔を裂いて囮となる。
泥臭く、執念深い、けれど確実な“勝利への道”が、若者たちの手によって切り拓かれていく。
だが、怪物もまだ諦めてはいなかった。
最後の抵抗と言わんばかりに、死角から無数の細い蔦がソランの四肢を狙って襲いかかる。
ソランの腕を鋭利な蔦が容赦なく掠め、外套と袖が裂け飛んだ。
裂けた布がひらりと宙を舞い、重く湿った空気に貼りつく。
蔦の先端は精錬された刃物のように硬く、掠めただけで皮膚を削ぎ落としていく――本来なら、激痛で一瞬でも足が止まるはずの深手だ。
だが、ソランは止まらない。
襲い来る痛みをすべて“後回し”の感情として処理するのが、彼のやり方だ。
傷口から飛び散る血を熱気で蒸発させながら、ソランは槍を真っ直ぐに構える。
右腕の筋肉が大きく隆起し、溢れ出す炎の熱によって全身の汗が瞬時に白煙へと変わる。
視界の端で、リュネルが指先をわずかに動かし、ソランの障壁となるはずの蔦の一本を“半拍”だけ強制的に鈍らせた。
直接は切らない。派手には燃やさない。
ただ、ソランの槍が一点を貫通するための、針の穴を通すような「空白」を作り出す。
――二人の呼吸が、完全に重なった。
「――昇る陽よ、道を裂き、闇を穿て! ──《エルド・スピョートォォォ(赫陽烈破・槍穿)》!!」
渾身の踏み込み。
爆ぜるような足音と同時に、槍は音を置き去りにして放たれた。
洞窟内の空気が一瞬で真空になるほどの勢いで引き裂かれ、紅蓮の熱が一直線の線条となって闇を走る。
核を包んでいた薄膜が絶望的な悲鳴をあげ、ソランの炎槍が表層の網目を一気に焼き切った。
瞬く間に無数の亀裂が走り、内側に封じ込められていた膨大な魔力の光が臨界点を超えて噴き出した。
核の表膜が内側から激しく爆ぜ、溜まりに溜まった内圧が轟音とともに漏れ出す。
光球が文字通り粉々に砕け散ると、苔の巨体は天を仰いで激しく痙攣した。
ドクン……、と。
そこで脈動は途絶え、洞窟そのものが行っていた“呼吸”が不自然なほど唐突に止んだ。
鼻を突いていた苔の不快な臭気が魔法が解けたように一瞬で霧散する。
代わりに古びた石と湿った土、そして数百年もの間閉じ込められていた冷たく清らかな地下水の匂いが戻ってくる。
それは、この“世界”が不浄な支配からようやく解放されたことを告げる匂いだった。
標的を貫いた炎の槍は、光の粒子となって再びソランの右手へと戻った。
戻った瞬間、槍を握るソランの指先がわずかに、けれど確実に震えていた。
それは魔力の枯渇による反動ではない。
「すべてが終わった」という重い実感が、数秒遅れて身体の芯にまで落ちてきた、歓喜と安堵の震えだ。
次の瞬間、巨体を形作っていた全身の苔が一斉にしおれ、どさり、どさりという巨大な重量音を立てて泥の中へと崩れ落ちていく。
「……終わった、のか」
グレイスが、重い溜息と共に剣先を地面に下ろした。
それを見た若手たちの膝から一気に力が抜け、糸が切れた人形のように皆その場にへたり込む。
へたり込んだ者たちの肩が、激しく上下する。
息は荒く、顔は泥と汗に塗れている。
けれど、誰もが笑っていた。
中には、安堵のあまりボロボロと涙を流している者もいる。
死線の中では決して感じることのなかった全身の痛みが、勝利という名の報酬と共に、いま一斉に戻ってきたのだ。
ソランは肩で息をしつつも、手にした槍をくるりと回して消失させた。
そして、肺にあるすべての空気を吐き出すように叫んだ。
「よっしゃぁぁぁーーーーーっっ!!」
ソランの咆哮が、広大な洞窟内に豪快に反響する。
その響きは、先ほどまでの怪物の唸り声にも決して引けを取らない、生命の力強さに満ちていた。
歓喜の叫び、勝ち誇った満面の笑み――。そして、彼は照れくさそうに、けれど誇らしげに、ちらりとリュネルの方を盗み見る。
“ちゃんと、見ててくれたよな?”という、真っ直ぐな瞳。
最高の褒め言葉を欲しがる、子供のような無邪気な目だ。
けれど、その瞳の奥底には確かな自信が静かに灯っていた。
「はぁ、はぁ……っ。先生……俺、ちゃんとやれたよな」
リュネルは、彼の中に宿ったその尊い火を消さないように――壊れ物を扱うような柔らかさで、その視線を受け止めた。
「うん。最高だったよ。……さすが、僕の自慢の相棒だ」
その一言を聞いた瞬間、ソランの勝ち誇った笑みが年相応のわずかに照れたような表情に変わる。
彼は照れ隠しに鼻を鳴らし、わざとらしく肩をすくめてみせた。
だが、その耳の先が隠しきれずにわずかに赤くなっているのを、リュネルは見逃さなかった。
冒険者たちがそれを見て、緊張の呪縛から解き放たれたように、温かな笑い声を上げる。
雲の上の英雄ではなく、身近で、泥臭くて、誰よりも頼れる兄貴分――そんな空気が、疲弊した一行の心を癒やしていく。
残された違和感
グレイスたちがソランを囲み、その獅子奮迅の働きを大いに労っている真っ最中。
リュネルだけは、崩れ落ちた苔の残骸の傍らにしゃがみ込み、素材の採取に精を出していた。
「貴重な、本当に貴重なサンプルだからね。完全な崩落が始まる前に、回収しておかないと――」
リュネルは膝を泥につき、核の残骸が散らばる中心部から、まだ魔力を帯びている苔の繊維や組織片をピンセットで丁寧に摘み取っていく。
周囲の歓声と労いの言葉が渦巻く中で、リュネルの動きだけが、まるで別の時間軸を刻んでいるかのような静謐さを保っていた。
ピンセット、採取用の小瓶、封蝋、そして分類ラベル。
凄惨な戦いの跡を、淡々と「素材」へと変換していくその手つき。
その度を越した落ち着きは、戦場の喧騒の中にあって、逆に異様なほどの冷徹さを感じさせた。
組織を色々と弄り、分類していたその時。
切り裂かれた核の断面のさらに奥、汚泥に塗れた場所に、鈍い金属光沢を放つ固い破片がリュネルの目に留まった。
「……? 何だ、これ」
苔に浸食され、泥に汚れながらもその数センチほどの小さな破片の表面には、明らかに精密な幾何学的な刻線が刻まれていた――それは、自然界に存在する魔法文字の変形というよりは、高度な計算に基づいた「人工的な回路」にも見える紋様だった。
明らかに自然物ではない。
ピンセットを操るリュネルの指先が、一瞬だけ硬直する。
素材屋としての長年の直感が、彼の脳内で警鐘を鳴らした――これは、この環境に存在するはずのない“異物“であると。
しかも、混じるべきではない最悪の場所に意図的に混入されている。
彼は周囲に悟られないよう息を整え、表情を一切崩さないまま慎重に距離を詰めた。
小刀でそっと周囲の縁を欠き、慎重に破片をピンセットで挟み上げる。
その瞬間、破片は「じゅっ」と短い嫌な音を立て、禍々しい黒い靄を噴き出しながら、リュネルの目の前でサラサラと砕け散った。
痕跡は、灰すら残さない。
外部から強い魔力、あるいは物理的な干渉を受けた際、証拠を残さずに“自己崩壊“するよう設計されたような精緻な仕掛けだ。
立ち昇った黒い靄がリュネルの鼻の奥に鼻をつくような苦い残留臭を残した。
焼けた油、劣化した金属、そして何か――馴染みのない、薬品に似た鋭い刺激。
リュネルの背筋が一瞬だけ氷の柱に触れたかのように固くなる。
“意図的に消える”という設計がなされている事実は、一体何を意味しているのか。
(……こいつは、単なる環境変化による自然発生じゃなさそうだな……)
リュネルは表情一つ変えることなく、シャーレに採取した苔を入れ、空の小瓶に周囲の泥をすくい手際よく封をした。
彼は誰にも、隣で笑っているソランにすら気づかれないほどの速度で、封を確かめ、ラベルの隅に自分だけがわかる小さな秘匿印を付けた。
「みんな、戻ろう。長居は危険だ。この空間の主がいなくなったことで、ここを支えていた魔力の均衡が崩れ始めている」
リュネルはスッと立ち上がると、盛り上がっている輪に向かって穏やかな、けれど拒絶を許さない強さを持った声をかけた。
そのわずかな声色の変化にグレイスの眼光が一瞬だけ鋭くなる。
リュネルが「店主」ではなく「錬材師」の顔でこう言う時は、だいたいにおいて最悪の事態が直後に起こることを彼は経験から知っていた。
こういった未知の迷宮において、最後に待ち受けているお約束と言えば「崩落」だ。
ソランの激しい攻撃による空間への衝撃波と、核が途絶したことにより膨大な魔力の供給を失った空洞は、その構造的な支えを失い、上部の重みがゆっくりと、けれど確実に行き場を失ってずれていく。
〈ぱきり――〉
天井の微かなひび割れを合図に、粉雪のような細かな砂が降り始めた。
砂が落ちる音は耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さい。
けれど、小さいからこそその後に来る破滅の予感が際立ち、恐ろしかった。
“これから、すべてが崩れ落ちる”という無慈悲な宣告に洞窟は容赦がなかった。
「撤退だ! 全員、外まで全力で駆け抜けろ!!」
グレイスの的確な指示の下、一行が入り口を目指して駆ける。
上空から岩塊が降り注ぎ、剥がれ落ちた巨大な苔板が背後を埋めていく。
足元の苔板が不規則に崩れ、膝ほどの高さの段差が各所に生まれる。
逃げる最中、若手の一人が足をもつれさせて躓きかけるが、隣を走っていたベテラン冒険者がその腕を強引に引き上げ肩を貸す。
崩落の轟音の中、彼らにできるのはただ前を向き、互いに支え合って走ることだけだった。
「待ってください! 全員僕の周りに、一ヶ所に集まってください!」
リュネルの表情は相変わらず落ち着いているが、その声には隠しきれない緊張が僅かに乗っていた。
彼が落ち着いて見えるのは、決して恐怖を感じていないからではない。
落ち着かなければ、この崩落の最中で精密な術式を組み上げることができないからだ。
狼狽え、足を止めかける冒険者たちをよそに、リュネルは足元の泥濘に長杖の先を滑らせ、凄まじい速度で巨大な魔法陣を描き出す。
陣が組み上がるとそれは目も眩むような澄んだ青い光を放ち、大規模魔法の発動を全方位に知らせた。
「これ、は――! 転移の術式か? 一体いつ、どこにパスを繋いだんだ!?」
常に冷静沈着を地で行くグレイスでさえ、この土壇場での離れ業には動揺を隠せないようだった。
それも無理はない。
転移魔法は極めて高度な座標計算を要する上に、不完全な状態で発動すれば術者はおろか対象者全員が「空間の隙間」に消える自殺行為だからだ。
それを知っているからこそ、グレイスはリュネルの底知れぬ準備の良さに戦慄した。
「念のため、入る前に洞窟の出入り口付近に帰還用のスポットを作っておきました。……なんとなく、ここは最後には崩れるだろうな、とは思ったので」
そう言うと、リュネルは視線をチラリと隣の熱血漢へと向けた。
「あっ! 先生、さては俺が派手に洞窟ごと吹き飛ばすだろうって、最初から思ってただろ!!」
「いやね、そういう訳じゃ……」
リュネルは苦笑いを浮かべながら、明後日の方角へと顔を向ける。
「先生のその顔は、絶対にそう言ってる!!」
最悪の崩落が迫る中、その場にドッと笑いが起こった。
笑いは凍りついていた冒険者たちの足に再び活力を与える。
撤退の最中にあってなお、笑みを忘れない一行は、確かにこの戦いを通じて「強く」なっていた。
その笑い声は、リュネルたちが放った眩い転移の光と共に消失したが、崩れゆく洞窟の闇の中にはその勇ましい残響が微かに、けれど確かな証として残っていた。
真っ白に塗り潰されていた視界に、少しずつ色が戻り始める。
視覚が完全に回復するよりも先に、鼻腔をくすぐったのは、あの泥臭くも愛おしい湿地独特の生命の匂いだった。
洞窟内の澱んだ、死を予感させる空気ではない。循環する外気の新鮮さに触れ、一行はもはや泥臭さなど微塵も気にせず、ただただ肺を安堵の空気でいっぱいに満たした。
核の消失と共に、湿地一帯を覆っていた有毒な毒素もほぼ完全に浄化されたようだった。
湿地の空は燃えるような茜色に染まっていた。
苔の嫌な臭気は完全に薄れ、心地よい秋の風が、戦いでかいた不浄な汗をさらっていく。
「……生きて、帰ってきたんだな……」
冒険者の一人が夕焼け空を仰ぎ見ながら、笑っているのか泣いているのか判別がつかない声を漏らした。
グレイスが無言で彼の肩を強く叩き、短く「よくやった、誇りに思え」と告げる。
そのたった一言で、地獄を見てきた若者の心は十分に報われた。
戦いはやがて無機質な報告書の文字になる。
だが、現場で分かち合ったその労いは紙には残らない代わりに、彼らの魂の奥深くに生涯消えない経験として残るのだ。
ソランは突き出した拳を一度振り、ふッと体内の熱を抜くように長く呼吸を整えた。
「先生……。晩ごはん、今日は特別に豪勢にいってもいいよな?」
「そうだね。今日は本当によく頑張ってくれたからね。君のオーダーに応えるよ」
リュネルはローブに付いた泥汚れを軽く叩き落としながら、いつもの温和な笑顔を向けた。
「やりーっ! 俺、今日は山盛りの肉が食いたいな!」
「分かったよ。とっておきの最高級肉、出してあげるよ」
“とっておき”という言葉が、ソランの重かった背中を羽が生えたように軽くする。
死ぬ気で頑張った日には、必ずそれに相応しい目に見える形の報酬がある――それがアルカナ堂という場所の、そしてリュネルという男の不変の流儀なのだ。
ソランは意気揚々と、疲れなど微塵も感じさせない軽やかな足取りで街へ繋がる転移ポータルまで駆けていった。
ギルドでも盛大な祝勝会を催す予定らしく、他の冒険者たちの足取りも同様に軽い。
だが、その膨大な酒代と食事代を一手に持たねばならなくなったグレイスだけは、その限りではなかった。
グレイスは表向きは笑っているが、その目は既に「経費」と「軍資金」の厳しい再計算を始めている。
勝利の後に必ずやってくる厳しい現実を、誰かが背負わなければならない。
彼はその割に合わない役目にもう随分と慣れきっていた。
転移ポータルを抜け、一行は懐かしい街の石畳を踏み締めた。
ギルドの掲示板は相変わらずの喧噪に満ち、報告カウンターから漏れる温かな灯りが戦いで疲れ果てた目にやさしい。
街の灯りはあの洞窟の不気味な薄明かりとは決定的に違う。
それは、“誰かが帰ってくること”を前提に、誰かの手によって灯されている、生きた灯りなのだ。
グレイスが報告書を纏めている間、リュネルは手際よく採取品を小分けにし、ギルドへの義務として最低限必要なサンプルだけを速やかに提出した。
「苔の異常繁茂現象は完全に解消されました。ですが、念のため水質の安全性はあと1週間ほど継続して監視することをお勧めします。……それから、今回の現象ですが……僕の見解では、完全に“自然発生”したものとは言い切れません」
書記官がペンを走らせる手を止めて眉を寄せる。
「……人為的、ということでしょうか?」
「断定は避けます。内部に“人工物のような”魔力反応を確認しましたが、解析しようと触れた瞬間に自己崩壊しました。意図的な証拠隠滅式が組み込まれていた可能性があります」
リュネルはここでも、決して言い切りはしない。断定すれば街に余計な波紋が広がり、あらぬ疑念を生むことを知っているからだ。
だが、書記官の手が止まることはなかった。
“記録”は残る。
一度残せばいつか別の事件が起きた際、誰かがその断片を掬い上げることができるかもしれない。
短く、正確に。
リュネルは報告に余計な主観を足さない。
書記は重々しく頷き、その言葉を克明に記録に留めた。
報告をすべて済ませ、グレイスたちとの談笑もそこそこに、リュネルたちはギルドを後にする。
一歩外に出ると、心地よい夜の匂いがした。
遠くの食堂から食欲をそそる香りが漂い、街を歩く人々の笑い声が波のように幾重にも重なる。
自分たちが戦い抜いた今日という日が、この当たり前の街の暮らしを守ったのだと――。
遅れてやってきた実感が、ようやく彼らの心に追いついた。
「からん」と、いつもの懐かしい扉の鈴が鳴った。
「あら、リュネルさん。ソランさん。お帰りなさいませ!」
リラが奥からパタパタと現れ、心底ほっとしたような、春の陽だまりのような笑みを浮かべる。
その笑みを目にするだけで張り詰めていた肩の力が、魔法が解けたように一気に抜けていく。
戦場では決して抜けなかった緊張の残滓が、温かな家庭の空気によって融かされていく。
「無事で何よりです。……って、ソランさん! 外套がボロボロじゃないですか! それにその袖、裂けて血が……!」
「へへっ、これは勲章だよ、勲章! それよりリラ嬢、腹減った!」
「もう! すぐにお直ししますから、後で出しておいて下さいね。……本当に心配したんですから」
リラの声は叱っているようだったが、その響きには心配が何よりも先に立っていた。
“無事に帰ってきた”からこそ言える、ありふれた、けれど何よりも尊い台詞だ。
ベルギスが裏庭から顔を出し、顎で水を指し示す。
「お疲れ。喉がカラカラだろ。さっさと飲んで、泥を落としてこい」
「あはは、助かるよベルニキ」
汲みたての冷えた水が、乾いた喉をするりと通り、遅れて疲れがじわりとほどけていく。
それはどこにでもあるただの水のはずなのに、今日ばかりは妙に美味く感じられた。
身体が「ここは安全な場所だ」と完全に理解して、やっと五感の味覚が正常に戻った証拠だ。
「店の方はどうでしたか?」
「昼間はてんやわんやでしたが、夕方には落ち着きました。……あ、リュネルさん、料理人の青年から“先日の香草のお礼”として、焼きたてのパイが届いていますよ」
「それはありがたいね。後でみんなで切り分けて食べようか」
“みんなで”という言葉が、ごく自然にリュネルの口から出る。
希少な素材も、戦果の労いも、そして日々の食事も――このアルカナ堂では、決して誰かが独り占めすることはない。
ソランが身を乗り出して、ちゃっかりと主張する。
「俺、頑張ったから二切れ!」
「わかったわかった、君は今日一番の功労者だ。好きなだけ食べなね」
ソランの「二切れ」という要求はいつも図々しいが、なぜか不思議と憎めない。
店内に笑い声が弾け、洞窟で浴びた緊張の残滓が一滴残らず薄れていく。
リュネルは静かに帳場へと歩み寄り、そっと引き出しを開けた。
そこへ、あの洞窟で掬い取った泥のサンプルを収められた小瓶を静かにしまった。
その瞬間、彼の群青の瞳が一瞬だけ険しく、そして冷徹に細められた。
ここだけ、空気の温度が数度下がったかのように変わる。
賑やかな笑い声の裏側で、リュネルの思考は急速に冷却されていく。
――意図的に消去された破片。
――緻密な刻線。
――自己崩壊式のトラップ。
その“用意周到すぎる消え方”は、彼の最も嫌いな種類の暗く湿った仕事の匂いがした。
(……ただの“苔の暴走”にしては、あまりにも出来過ぎている。これは……誰かが意図して仕組んだ『実験』か、あるいは……)
彼は思考の断片を胸の奥に押し込み、引き出しを静かに閉めて顔を上げた。
だが、今はまだ飲み込むべき時だ。
アルカナ堂の夜は、戦いの続きをするための場所ではない。
明日という日常を迎えるために、英気を養う場所なのだ。
リラと視線が合い、彼女はいつものようにすべてを包み込むような調子で微笑んだ。
「さあ、夕食は最高に豪勢にいきましょうか!」
「うん。とっておきの良いお肉、ソランのために焼いてあげて下さい」
「はい、お任せください!」
明るく元気な返事。
その声が、今日の過酷な戦いの結末を確かな「勝利」として確定させる。
元気で調子の良い声がアルカナ堂を明るく照らし出し、場の雰囲気を暖め、ここにもまた不変の日常が帰ってきたことを実感させる。
台所からは心地よい油の弾ける音。
鼻をくすぐる香草の芳醇な匂い。
鍋から立ち昇る真っ白な湯気が、店の天井へとゆっくりと昇っていく。
ベルギスが厳しく火加減を見張り、リラが楽しそうに味見をし、ソランが「まだか!」と騒ぎ立てる――。
それはもう、これまで何度も何度も繰り返してきた、彼らにとっての最高に贅沢な“帰還の儀式”だった。
夜更け。
裏庭の栽培ハウスはか細い灯りに照らされて、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ソランは一人、手にした槍を眺め、掌に浮かぶ炎の紋章を確かめるように見つめてから、すぐにそれを解いた。
炎を解くと辺りは急激に静寂に支配される。
洞窟で燃え盛っていた戦いの熱が、指先からゆっくりと抜けていく。
その熱が抜けた分だけ、胸の奥に深い疲労が溜まっていたことを今になって思い出す。
「……先生が隣にいると、俺は“もっと強く”なれる気がするんだ」
誰にともなくポツリと独り言をこぼし、照れくさそうに肩をすくめる。
「ま、先生がいなくたって、俺は十分に強いけどな!」
その強がりは、幼い子供が抱く寂しさの裏返しのようでもあった。
それでも、そんな言葉を迷いなく言えるようになったのは、ソランがここを魂を預けられる“帰るべき場所”だと確信しているからだ。
背後の戸口から、リュネルの抑えた笑い声が聞こえてきた。
「……聞こえてるよ、ソラン」
「うわっ、いたのかよ、先生!」
「まぁね。――今日も本当にありがとう、ソラン。助かったよ」
「……へへっ。よせよ」
面と向かって「ありがとう」と礼を言われると、ソランは途端に言葉を失い静かになる。
英雄として褒め称えられるよりも、ただ一言、礼を言われる方が彼の心には深く、温かく刻まれる。
自分の戦いの成果がただの武勇伝ではなく、誰かの大切な安全に繋がったのだと、肌で実感できるからだ。
夜空には、薄い雲が流れている。
星はまばらだが、風はやさしく、どこまでも穏やかだ。
空高く昇った月は、戦い終えた彼らを祝福するように優しく、それでいて煌々と輝いていた。
表の看板が夜風にもう一度だけ心地よい音を立てて鳴った。
明日もまた、この扉の鈴は鳴るだろう。
人と、街と、そして神秘に満ちた素材とを繋ぐ、アルカナ堂のいつもの一日が再び始まろうとしていた。




