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第13話 苔の脅威

洞窟の入り口から吐き出される白濁した靄は、一歩足を踏み入れるごとにその密度を増し、視界を執拗に遮ってくる。

リュネルは慎重な手つきで腰のポーチから、独特の香りを放つ布と、緑色の液体が揺れる数本の小瓶を取り出し、一行の面々に配り歩いた。

「これは、抗毒性の魔法薬を幾重にも染み込ませた特殊な布です。隙間がないよう、しっかりと口と鼻を覆うように装着してください」

受け取った若手冒険者の一人が、震える指先でその布を顔に当てながら、縋るような瞳で問いかける。

「……リュネルさん、これだけで、あの死を招くような毒霧を本当に防げるんですか?」

「……完全に遮断できるわけではありません」

リュネルは淡々と、けれど嘘のない誠実さで答えた。

「ですが、少なくとも肺胞が毒素で侵され、中から壊死していくような最悪の状態には至らせないとお約束しますよ。呼吸が乱れると効果が薄れるので、常に一定のペースを保ってください」

全員が指示に従い、薬液の染み込んだ布を顔に密着させる。鼻腔を突く薬草の鋭い香りに、最初は呼吸のしづらさを覚えたが、次第に喉を焼くような靄の刺激が劇的に和らいでいくのが分かった。

「よし。じゃあ、行きましょうか」

リュネルは杖を右手に構え、底知れぬ洞窟の闇を見据えた。

「《ルクス(明かりよ)》!」

杖の先から眩いまでの純白の輝きが放たれる。

光は濃密な霧を強引に切り裂き、湿った岩肌を露わにした。その光景に、ソランは拳を力強く握り込み、口元に好戦的な笑みを浮かべる。

「いよいよだな。ずっと我慢してた俺の炎、ここいらで一発、爆発させてやるぜ!」

「……くれぐれも、洞窟ごと僕たちを吹き飛ばさないでね」

「先生! まだ何もしてねぇのに、そんな疑うような目で見ないでくれよ!」

一瞬の軽口が張り詰めた空気を和らげ、一行の間に小さな笑いが生じる。

だが、リュネルの瞳から警戒の色が消えることはなかった。彼は杖の先を向けたまま、闇の深淵へ向かって一段と声を低める。

「……何かいる。単なる風の音じゃない、これは巨大な何かの“脈動”だ」

その静かな宣告に、若手たちの背筋に冷たい戦慄が走った。

洞窟の深淵から響いてくるのは、重く、地を這うような鈍い鼓動音。

それが巨大な生物の心音なのか、環境そのものが意思を持ったのか、それとも――。

一歩、奥へと足を踏み入れた瞬間、肌に触れる空気が劇的に変質した。

外の湿地帯のような生温かさとは異なり、油分を含んだような粘りつく湿気が肌にまとわりつく。洞窟特有の、冷え切った冷気と濃厚な腐敗臭が混ざり合い、生物を拒絶するような雰囲気を醸し出していた。靄はさらにその濃度を上げ、リュネルの魔法光を以てしても、視界はわずか数メートル先までしか届かない。

「……っ、空気が……石のように重い」

冒険者が、肺を圧迫されるような苦しさに思わず声を漏らす。

「深く呼吸してはいけません。難しいかもしれませんが、なるべく呼吸は一定に。感情を乱さず、リズムを維持してください」

リュネルの冷静な指示に従い、全員が必死に自己を律して呼吸を整える。

視界に入る壁や天井は、もはや岩肌が見えぬほどびっしりと厚い苔に覆い尽くされており、時折、天井から滴り落ちる水滴が靄をゆらゆらと揺らす。その水滴は、岩清水とは思えぬほど不気味な粘り気を帯び、触れれば生温かい熱を帯びていた。

「まるで……巨大な化け物の内臓の中を歩いてるみたいだぜ」

ソランの吐き出した呟きを、否定できる者は誰もいなかった。足裏から伝わる苔の脈動は、確かに生命の鼓動を思わせ、絶え間なく一行の胸の奥底を揺さぶり続けてくるのだ。


洞窟の中ほどまで進んだ頃、静寂を破って低く湿った不快な音が反響した。

〈ずちゃり、ずちゃり……〉

ぬめりを伴う複数の足音が、前方からこちらへ着実に近づいてくる。

「……来るぞ。総員、構えろ!」

グレイスが鋭い抜き手で大剣を構えた。

靄のカーテンを割り、その醜悪な姿を現したのは、全身にびっしりと苔を纏った異形の魔獣だった。

大きさは屈強な人間の背丈を優に二回りは超え、背中から生えた無数の棘からは、高圧の蒸気のように絶え間なく毒霧が噴き出している。

濁った緑色に発光する三対の眼は理性を欠き、口元からはよだれのように胞子混じりのドロドロとした液体を撒き散らしていた。

「げっ、でかっ! それになんだか気持ちわりぃ! ……さすがの俺でも、あいつは食欲が湧かねぇな」

ソランは減らず口を叩きながらも、瞬時に拳へ激しい魔力を集中させ、炎を纏わせようとした。

「ソラン、待て!」

リュネルが即時に制止させる。

「無闇に燃やすのは危険だ! あの苔は急激な熱に刺激されると、広範囲に強力な胞子を一斉に撒き散らす性質がある!」

「……マジかよ、燃やせないのかよ!」

ソランはしぶしぶ拳の炎を鎮めたが、その隙を魔獣は見逃さなかった。

魔獣は自身の肉体の一部であるかのような苔の触手を、鞭のように長く伸ばし、先頭にいた若手冒険者を絡め取ろうと肉薄する。

「させん、避けろ!」

グレイスが閃光のような踏み込みを見せ、大剣の重みで苔の触手を真っ向から叩き落とした。

だが、驚くべきことに、切断されたはずの苔が生き物のように意思を持ち、刃に絡みついたまま一瞬で増殖を開始した。

苔は柄を伝い、グレイスの手首までを飲み込もうと這い上がってくる。

「……っ、剣を食いつくすつもりか!」

「その苔に素手で触れるな!」

リュネルは即座に腰から小さな薬瓶を取り出すと、中の白い粉末をグレイスの刃に手際よく振り撒いた。

「じゅわっ!」

激しい腐食音と白い煙を上げ、あれほど執拗だった苔が一瞬で枯死し、ボロボロと崩れ落ちる。

グレイスの愛剣は、その自由を取り戻した。

「助かった!ーー おぉぉぉぉ!」

グレイスは即座に体勢を立て直し、今度は剣身に氷属性の術式を重ねがけする。

冷気による霧氷が刃を包み込むと、彼は爆発的な踏み込みで間合いを詰め、魔獣の眉間へと渾身の突きを繰り出した。

魔獣の全身は一瞬にして内側から凍りつき、噴き出していた霧もろとも静止した。

「焼いてはいかんというなら、こうして凍らせてやればいいわけだな」

「流石です。支部トップを張る部隊長の冷静な判断、改めて感服しましたよ」

リュネルは、グレイスの的確な戦術転換を賞賛しながらも、傍らでおもむろに拳に魔力を溜めていたソランの手をそっと制し、静かに首を横に振った。

「あとの処理は必要ないよ、ソラン。完全に凍結した苔は代謝を停止する。もう動くことはないさ」

ソランは不満げに鼻を鳴らしたが、リュネルの言葉を信じて、静かに拳を解いた。


魔獣を退けた安堵も束の間、洞窟はさらなる牙を剥いた。

今度は天井からずるり、ずるり、と夥しい数の、苔に覆われた太い触手が雨のように垂れ下がってくる。

「上だ、警戒しろっ!」

冒険者の一人が叫ぶが、その反応よりも触手の速度が勝った。

一人の足首が瞬時に絡め取られ、宙へと吊り上げられる。

「っこの! 離せ、このバケモノっ……!」

宙吊りになった少年は必死に剣を振るい、絡みつく苔を削ぎ落とそうとするが、苔の膜は驚異的な再生能力を持ち、並大抵の刃物では傷一つ付けられない。

「表面を削るんじゃない! 触手の根元、岩盤との接合部を正確に狙うんだ!」

リュネルの鋭い指示に、待機していたソランが跳ねるように跳躍した。

彼は炎を一切纏わぬ、純粋な身体強化のみによる回し蹴りを触手の根元へと叩き込む。

〈バキィッ!〉

乾燥した木が折れるような悲鳴を上げて、触手は地に崩れ落ちた。

だが、落ちた触手は地面に伏してなお、獲物を求めて打ち上げられた魚のように狂ったように跳ね回る。

その不気味な光景に、経験の浅い若手冒険者たちは腰を抜かさんばかりに逃げ惑う。

グレイスはそんな情けない部下たちの様子に、「やれやれ」と溜息をつきながら剣先で触手をあしらっていたが、もはや数で押し切られるのは時間の問題だった。

見かねたリュネルは、意を決して杖を上段に構え、高密度の魔力を一点に集束させる。

「《トニトルム(豪雷よ走れ)》!」

次の瞬間、眩い紫電の稲妻が地を這う大蛇のように走り、鼓膜を劈く雷鳴と共に、うごめく触手の群れを一瞬で炭化させ消し去った。

「……た、助かった……ありがとうございます……」

若手は震える声で礼を言うのが精一杯だった。

「まだこれは序の口ですよ、いわば洞窟の防衛装置のようなもの。苔の動きはさらに予測不能になるでしょうね」

涼しい顔で警告を言い放つリュネルの姿に、冒険者たちは揃ってごくりと唾を飲んだ。

再び沈黙を取り戻したはずの洞窟。

だが、空気は先ほどよりもさらに密度を増して重く、足元の地面からは心臓に直接響くような、冷たく不気味な脈動が伝わってくる。

「……リュネル、感じるか?」

グレイスが低く問う。

「えぇ、嫌でも伝わってきます。この奥だ。この異常な苔たちを統率し、操っている“本体”が確実にそこにいる」

リュネルの声には、冷徹な確信がこもっていた。

ソランは改めて拳を握り直し、相変わらずの不敵な笑みでそれに応える。

「へっ、面白ぇ。つまり、その根っこの大玉を叩き潰せば、この気味悪い遠足も終わりってことだろ?」

「……そう単純な話ならいいんだけどね」

リュネルの群青の瞳が、さらに深い暗闇を射貫く。

苔喰いの洞は、まだその入り口を彼らに見せたに過ぎない。

その奥底には、自然の理を逸脱した、さらなる深淵の脅威が口を開けて待ち構えているのだ。



苔の触手を退けた一行は体力の消耗を抑えるため、一度壁際に身を寄せた。

周囲の安全を確かめ、リュネルは結界を張る。

湿った濃厚な空気が肺を圧迫し続け、ただ静かに息を整えるだけでも、体力が削られていくのが分かる。

だが、休息の間も一瞬たりとも緊張が解けることはない。

壁一面を覆う苔は未だに「ざわざわ」と意思を持つように脈打っており、洞窟全体が彼らを監視しているかのような、得体の知れない気配を放っていた。

「なぁ、先生」

ソランがリュネルのそばに寄り、周囲に聞こえないよう低く呟いた。

「この苔の異常っぷり……普通の魔獣ごときが操れるようなもんなのか?」

「いや、それは無いと思う。これほどの広範囲に及ぶ成長速度、胞子の精緻な反応、そのすべてが自然界の魔獣の範疇を超えている。……おそらくは単なる魔獣じゃない。神代の遺物が目覚めたのか、魔力の異常集積地点を“核”にした未知の変異体だと見ているよ」

リュネルの群青の瞳は、暗闇を透視するかのように鋭く光る。

グレイスも大剣を磨き、付着した苔の残骸を払い落としながら問いかける。

「その『核』とやらを物理的に潰せば、この異常な苔の増殖は止まるのか?」

「可能性は極めて高いでしょうね。この苔たちは、核から供給される魔力を増幅して動いているに過ぎないと推測します。本体という供給源が断たれれば、ただの無害な植物に還るはずです」

重苦しい沈黙がその場を支配した。

若手たちの顔に浮かぶ、耐え難いほどの不安を払拭するように、ソランがわざとらしく声を張り上げる。

「だったら話は簡単だ! ぐだぐだ考えてねぇで、奥に隠れてるそいつを引きずり出して、俺が木っ端微塵にぶっ飛ばしてやるよ!」

その無鉄砲な言葉に若手たちが思わず吹き出し、張り詰めた緊張がわずかに解けた。

リュネルは口元に微かな苦笑を浮かべつつも、その眼差しはどこまでも真剣だった。

「……でも、忘れないでほしい。奴らにはこちらの動きを察知する生命体としての知性がある。何を仕掛けてくるかも未知数だ。目に見える物理的な敵よりも、ずっと厄介だよ」

洞窟の壁は、まるで彼らの会話を盗み聞きしているかのように、一層激しくざわめき始めた。

その奥に潜む“本体”の影を予感しつつ、一行は再び重い足取りで歩みを進める。


小休止を終えた一行を待ち受けていたのは、より一層険しさを増した地形だった。

道は次第に狭まり、壁に張り付いた苔はもはや岩の形すら判別できないほど厚みを増し、不気味な肉塊のように盛り上がっている。

滴り落ちる水音だけが不規則に反響し、洞窟はもはや、巨大な生物の喉の奥深くへと迷い込んだかのような錯覚を抱かせる。

やがて――。

足元の大きな水たまりが、予兆もなくボコボコと泡立った。

途端、辺りに「生臭さを極限まで凝縮させた腐敗臭」が津波のように押し寄せてきた。

足元を見下ろすと、そこには苔まみれになった魚や小動物の死骸が幾つも沈んでおり、白濁しきった眼球で一行を呪うように見上げている。

「……うわ、こりゃひでぇな。鼻が曲がりそうだぜ」

ソランが顔をしかめて肩を竦めた、その瞬間だった。

壁一面の苔が「ずるり」と一斉に蠢き、低い地鳴りのような振動音が洞窟全体を震わせた。

床が波打ち、苔の脈動が心臓の鼓動と完全に重なり合う。

「っ……来るぞ、構えろ!」

若手冒険者が震える手で剣を握り直す。

「落ち着いて、隊列を崩さないで」

リュネルの声だけが、この狂った空間で唯一の理性を保っていた。

奥から流れ込んでくる空気が、物理的な質量を伴って重くなる。

酸素が急速に失われていくような激しい圧迫感に、全員の呼吸が荒く乱れ始めた。

そんな中、苔の厚い隙間から――数多の「不気味な紅い光」が漏れ出した。

それは緑の苔に赤を混ぜたような、血走った巨大な瞳を思わせる禍々しい光彩。

「……『核』の入り口は、もうすぐのようですね」

リュネルが低く、けれど力強い声で呟く。

次の瞬間、洞窟全体が悲鳴を上げるように激しく震動した。

奥の闇で何か巨大な質量を持ったものがうねり、苔の壁を内側から突き破りながら、猛烈な勢いでこちらへ迫ってくる。

足元の水たまりが狂ったように波立ち、そこから「どろり」とした不浄の塊が這い出してきた。

それは、剥き出しの獣の骨と、腐った泥、そして無数の苔が寄り集まって人の形を模した“苔の分体”。

「ひっ! な、なんだ……この死霊みたいな化け物は!」

若手冒険者が恐怖に腰を引かせる。

分体は四肢を無理やり繋ぎ合わせたように不格好で、一歩歩くたびに骨が関節から外れ、それを苔が粘液で繋ぎ直すという冒涜的な動作を繰り返している。

その顔面に当たる位置にある「口のような裂け目」が大きく開き、致死レベルの濃い霧を直接こちらへ吹き付けてきた。

「あれは胞子の集合体だ……苔が周囲の死骸や有機物を媒介にして、物理的な質量を与えられた『端末』だ」

リュネルの分析は冷静だが、その瞳には戦闘の火が灯っていた。

「うわっ、きめぇ! 理屈はいい、ぶっ飛ばせばいいんだろ!」

ソランが弾丸のような速さで飛び込み、魔力を込めた一撃で分体の胴体を粉々に砕く。

だが、砕け散った苔と骨の破片は地面に落ちるや否や、磁石に引き寄せられるように再び寄り集まり、瞬く間に元の形を取り戻した。

「馬鹿な、打撃が全く効いていない……!」

グレイスが苦々しく舌打ちをし、大剣を横一文字に振るうが、斬っても斬っても泥のように再生を繰り返す。

リュネルは素早く腰の袋から、青く発光する小瓶を数個取り出すと、杖で軽く叩いてから分体たちの中心へと正確に投げつけた。

空中を舞う小瓶は、分体に触れたした瞬間に小さな爆光を放ち、特殊な薬液を広範囲に撒き散らしながら砕け散った。

その液体が触れた瞬間、分体たちの全身から激しい青い煙が立ち昇った。

〈ギィ、ギチギギ……ッ!〉

声にならない断末魔のような音を上げながら、分体たちは痙攣し、見る間にその構成物である苔が萎縮し、砂のように崩れ去っていく。

「リュネル、今のは何の魔法薬だ?」

グレイスが、一歩引いた間合いで驚愕と共に尋ねた。

「これですか? 持ってきて正解でしたね。この魔法薬は、特定の植物の細胞代謝を強制的かつ不可逆的に停止させる、『対植物壊死薬』の改良版です。……あ、もちろん人体にも決して無害というわけではありませんから、その残留液には絶対に触れないでくださいね」

リュネルは、滅多に見せない不敵な笑みを浮かべ、足元でただの黒い泥と化した「かつて苔だったモノ」を杖で指し示した。

その笑顔の底知れなさに、グレイスはわずかに後退り、複雑な笑みを返した。

冒険者たちが、安堵のあまり大きく息を吐き出す。

「……リュネルさんがいなければ、俺たち今ので全滅してましたよ……」

「知識がどこで役に立つか、それは誰にも分かりません。力任せに振るう剣だけが、戦いのすべてではありませんよ」

リュネルの声は淡々としていたが、若手たちの瞳には、もはや単なる店主への信頼を超えた、確かな「畏敬」の念が宿っていた。

静まり返った洞窟のさらに奥から――再び、ずしん、ずしんと、これまでで最大級の脈打つ音が響き渡る。

それは、自分たちの末端を消されたことへの“本体”の怒りか、あるいは招かれざる客を嘲笑う誘いか。

苔の分体が泥に還り、再び洞窟を支配する偽りの静寂。

だがそれは、これから始まる真の死闘を前にした、嵐の前の一瞬の静けさに過ぎなかった。


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