第12話 いざ!苔喰いの洞窟へ
夕刻、空が燃えるような朱から深い群青へと溶け合う頃。
店先の古びた木の扉に下げられた札をリラが丁寧に裏返すと、そこには使い込まれた「準備中」の文字が静かに現れた。
外の通りにはまだ帰路を急ぐ人々のざわめきが賑やかに残っているが、アルカナ堂の中には、張り詰めた糸のような心地よい静けさが訪れる。
リュネルはいつもの帳場に深く腰を下ろし、ランプの灯火に照らされた机いっぱいに依頼書や地図、そして多様な魔導文献を広げていた。
「よし……今日はコレで締めだね」
「はい。表の戸締まりも済みました。これで、もう邪魔は入りませんよ」
リラが鈴の鳴るような声で応じると、控えていたソランは待ってましたとばかりに大きく伸びをして、薬棚の横にどっしりと腰を下ろした。ルーガルも、主の足元という定位置でゆったりと身を丸める。
リュネルは再び地図に鋭い視線を落とし、指先でその等高線をなぞりながら低く呟く。
「西の湿地帯……苔喰いの洞。環境そのものが牙を剥く場所だね。毒霧が主な脅威、か」
彼は棚から一点の曇りもない灰水晶を取り出し、片目を細めて光に透かした。水晶の内部に刻まれた微細な亀裂の向き、魔力を通した際の屈折の筋を精査する。
「まずは、最優先で呼吸器を守る道具が要るな。布と灰水晶を組み合わせて簡易フィルターを作るか、あるいは浄化作用のあるアミカゲ草を加工して使うか……。ただ、それだけじゃ長時間の探索には持続力に不安がある。やはり、体中から毒の侵入を阻む魔法薬を併用すべきか?……」
「なぁ先生、いっそのこと魔法でまるっと守っちまうってのはどうだ?」
ソランが楽観的な声を上げる。
「……理論上は可能だよ。だけど、広範囲の浄化魔法を維持しながら、鼻や口の周りへ個別に対毒防御魔法を展開し、しかもそれを自分だけでなく同行する全員に……となると、僕の負担が大きすぎないかい? それだと、僕は防御と索敵にしかリソースを割けなくなる。ソランやグレイスさん達に攻撃を完全に丸投げすることになるけど、それでもいいのかな?」
「えぇ〜、先生なら何とかなるだろ?」
ソランの全幅の信頼がこもった眼差しがリュネルに向けられる。確かにリュネルには、その期待に応えうるだけの練達した技術がある。だが、念には念を入れ、石橋を壊しかねないほど叩いて渡るのが彼の流儀だ。不確定要素の多い未知の探索において、保険はきっちりと掛けたいのである。
「不測の事態に備えないとね。未知の魔物が操る霧なら、通常の魔法が中和される場合だってあり得る」
「なるほどねぇ。じゃあ『道具』と、『魔法』の両方を用意しておくってわけか」
「そう。リスクを分散して、生存率を少しでも上げる。それが一番だよ」
リラは深く頷き、作業用の棚から生成りの布束を抱えてきた。
「フィルターに使う布はこの織布でどうでしょう? 目が非常に細かいので、薬液をたっぷりと染み込ませれば、揮発しても効果の持ちは格段に良くなります」
「うん、それでお願い。――浸す薬液はセロベール薬を主軸に、あとアレシオ抵抗薬も念のために用意しておこう。確かセロベールは作り置きの余剰分がなかったな。……リラさん、悪いけれど裏庭の棚から『緑炎樹の樹脂』を取ってきてください」
「分かりました。すぐに持ってきますね」
リラは軽やかな足取りで、夜の香りが漂い始めた裏庭へと向かった。
一方のソランは、手持ち無沙汰を解消するように自慢の袋を掲げて笑う。
「先生、ほら見てくれよ。この前仕留めたあのトカゲの鱗! 盾の表面に貼ったら相当強いだろ?」
「……確かにアレは硬度も魔法抵抗も防御にもってこいだけど、密度が凄すぎて普通の人間じゃ重すぎて使えないよ」
「じゃあ俺専用だな! 俺なら軽々振り回せるぜ」
「うん。だから、明日の『囮役』も謹んでソランにお願いするね」
「……えっ。先生、それはあんまりだ!」
静かな店内に、温かな笑いが広がる。その和やかな空気の中でも、リュネルの手は止まることはない。彼は頭の中で緻密な計算を繰り返し、道具と魔法の両面から、鉄壁の対策を組み立てていった。
店の奥、そこにはリュネルの聖域とも呼べる調薬部屋がある。数多の素材の香りが混じり合った独特の空間で、年季の入った黒鍋を前にリュネルは薬の調合を開始した。
リュネルは慎重に薬包紙を開き、微細な粉末を小匙で厳密に量り取る。鍋からボコボコと重い音が響き始めた絶妙なタイミングで、細かく刻んだ薬草を二掴み投入する。
さらにそこへ量り取った粉を入れると、どろりとした不透明な茶色の液体は、徐々に粘り気を失ってさらりとした質感になり、色もまた清涼感のある爽やかな緑色へと変化した。
少し離れた作業台では、リラが布を一定の力加減で薬液に浸し、余分な水分を丁寧に絞ってから乾燥棚に広げていく。
「乾きの速さはどうだい?」
「今夜の湿度なら、このまま放っておけば2時間で半乾き。弱風を当て続ければ1時間というところですね」
「じゃあ、弱く風を回そう。――ソラン、頼めるかな?」
「おう、任せとけ」
ソランが指先で空中に軽く弧を描くと、術式に従って見えない風が棚の上で静かに循環を始める。窓辺に吊るされた瓶の風鈴が、ちり……と涼やかな音を鳴らした。
「上手。でも温度は上げすぎないで。成分が変質してしまうからね」
「わーってるよ。風鈴がうるさくない程度、そよ風くらいだろ?」
リュネルは満足そうに笑顔で小さく頷いた。
(……ああ)
「……こうして準備している時が、一番心が落ち着くな」
独り言のように漏れたそのささやかな声に、リラがふと手を止めて柔らかい笑みを浮かべる。
「きっと、お祖父様もそうだったんでしょうね。リュネルさんのその横顔、そっくりですよ」
「……そうかもしれませんね」
リュネルは短く、照れ隠しのように返したが、その群青の瞳には明日を見据えた確かな決意の光が宿っていた。祖父が残した帳簿の隅に、今も残る独特の書き癖。それが机の端で、静かに彼らを見守っているような気がした。
「先生ってさ、いつでもどこでも落ち着いてるよな」
ソランが完成した瓶を棚に整然と並べながら、ふと口にする。
「俺なんか、とにかくドカン! と殴ることしか考えてないのにさ」
「それはソランの類まれな長所でもあるからね。迷いがないというのは武器になる。……ただし、毒霧の中で闇雲に殴っても意味はないけどね」
「うっ……先生、たまにそういう身も蓋もないこと言うよな。冷たいぜ!」
「冷たいんじゃなくて、現実的って言ってくれるかな」
「ははっ、言い換えが上手いな!」
リラはくすっと笑い、対照的な二人を交互に見比べた。
「でも……こうして準備を整えているお二人を見ていると、本当に頼もしいです。きっと明日も、何事もなく無事に戻って来られますよね」
その言葉に、リュネルは一瞬だけ黙り込み、群青の瞳を伏せた。
そして小さく、心の澱を吐き出すように息をつくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろん。……明日もまた、ここで『ただいま』と言えるように、必ず帰ってきますよ」
リラは満足そうに深く頷き、ソランは大げさに自分の胸を拳で叩いてみせる。
「任せとけ! 邪魔な霧も魔物も、俺が全部吹き飛ばしてやる!」
「……それで洞窟ごと跡形もなく消すつもりじゃないよね?」
「えっ」
場が一気に和らぎ、快活な笑い声が静かな夜の店内に響き渡るなか、入念な準備は深夜まで続いた。
薬液布の乾き具合を指先で確かめながら、その一枚一枚に、さらに劣化を防ぐ保護魔法を丁寧に定着させていく。
その魔法のかかった布に、リラが顔に固定するための紐を素早く縫い付けていく。一見すると分業だが、そこには長年の信頼関係に基づく完璧な連携があった。
ソランはいつの間にか自分の装備の最終確認を終えたらしく、しばらく姿が見えない。
やがて、夜の見回りを終えたベルギスが裏口から静かに戻ってきた。
「今晩は少し風が強いな。念の為に店の周囲に防風陣を重ねておいた。……お、まだやってるのか。何か手伝うことはあるか?」
「ありがとう、ベルギス。助かるよ。でも、これでもう最後の一枚だから大丈夫だ」
リュネルが最後の一枚に術式をかけ終えたその時、外の夜風がひときわ強く鳴った。
店の看板がこつん、と乾いた音を立てて壁に触れ、その余韻だけが暗闇の中に長く残る。
「よし。今日は、ここまでだね」
リュネルは満足げに手を止め、こわばった掌を一度だけ強くこすり合わせた。
「先生、夜食だ。腹を満たしておけってのが、じいちゃんの教えなんだろ?」
ソランが厨房から小さな鍋を掲げて現れた。姿が見えないと思えば、どうやら火の番をしていたらしい。
「まさか……さっきのトカゲを調理したわけじゃないだろうね?」
「違う違う、普通にシチュー。香草は……ちょっと棚の“余り”をちょい足しさせてもらったけどな」
「なら、ありがたくいただこうかな。……やっぱり、素材を少し掠めてたな」
「たまたま、そこに落ちてただけだよ」
四人と一匹は、厨房の小さな木の卓を囲んだ。
スプーンが陶器を叩くかすかな音。立ち上る湯気に紛れて、摘みたての香草がやさしく、そしてどこか懐かしく香った。
外灯の橙色が窓ガラスにぼんやりとにじみ、夜はさらに深く、静かに降りていく。
戸締まりの前に、リュネルは店内の灯りをひとつずつ丁寧に落としていった。
帳場の小灯だけを残すと、看板の影が店内の床に長く揺れる。ルーガルは短く鼻を鳴らし、主の先を歩くように扉の方へ。
リュネルは鍵の閉まりを指差し確認し、最後に札を裏返して「準備中」へと変えた。
ルーガルがそっとリュネルの足に大きな頭を擦り付ける。リュネルは愛おしそうに、その温かな頭を撫でた。
「大丈夫。いつも通り、入念にやれば何の問題もないよ」
翌朝。
まだ太陽が地平線を離れきらぬ、薄青いベールに包まれた空の下。
街の石畳は夜露に濡れて、街灯の光を反射して鈍く光っていた。
通りを急ぐのは、市場へ向かう早出の商人や、同じく遠征の途に就く冒険者たち。街には活気と眠気がまだ半分ずつ同居しているような、独特な時間帯だ。
リュネルとソランは、街の中央広場に面した威厳ある冒険者ギルドの前に立っていた。昨夜遅くまで準備をしていたせいか、ソランは大きな欠伸を噛み殺しながら、ごりごりと肩を回している。
一方のリュネルは、手元の本を片手に、昨夜のシミュレーションを反芻しているようだった。
「……先生、よくそんな涼しい顔してられるよな。俺なんか寝不足で頭がぼーっとするぜ」
「慣れだよ。素材屋としての遠征前は、いつもこんなものだからね」
リュネルは淡々と答え、本を閉じると同時に、軽く指を弾いて異空間へと収納した。その無駄のない動作一つ取っても全く隙がなく、ソランは感心半分、呆れ半分で肩をすくめた。
やがて、重厚なギルドの扉が開き、石畳を叩く重い足音が響く。
堅牢な鎧に身を包み、すべてを見透かすような鋭い眼差しを持つ男――グレイスが姿を現した。彼の背後には壮年の冒険者が従っている。その表情には隠しきれない緊張が滲んでいるが、装備自体はきっちりと整えられていた。
「よし、全員揃ったな」
グレイスの声は低く、そしてよく通り、自然とその場の空気を戦場へと引き締める。
「おはようございます、グレイス隊長」
「おはようございます!」
冒険者たちは声を揃えて背筋を伸ばし敬礼する。リュネルとソランも軽く頷いてそれに応えた。
「それじゃあ、予定通り出発だ。遅れるなよ」
一行は広場の中央へと進んだ。そこには古代の知恵が刻まれた円形の石造りの台座があり、精緻な魔法陣がその表面を覆っている。淡い蒼光が刻まれた溝を伝って脈動し、まるで巨大な生き物の心臓のように明滅していた。
「それにしても、この『転移ポータル』なんてモン考えた奴はマジで天才だよな。こんな人数を一度に目的地までポンッだぜ?」
ソランが、何度見ても飽きないといった様子で感心しながら魔法陣を覗き込む。
「……古代の魔導師たちの遺産だよ。………どっかの家系の人が、独自の術式を刻んだ巨大な魔法石を動力源として提供しているんだ。起動には膨大な魔力が要るから、一定以上の魔力適性のある管理者がいないとポータルは使えない。そもそも、受け手側にも魔法適性がなきゃ、転移魔法による空間の歪みに体が耐えられないからね」
リュネルは淡々と、博識な講義を添える。
「その家の人、めちゃくちゃ太っ腹で偉いな」
「……どうして、そう思うの?」
「だってよ、ポータル使うのって今はタダだろ? 俺が持ち主なら、ここぞとばかりに使用料をがっぽり貰っちまうけどなぁ」
ソランはにんまりと世俗的な笑みを浮かべる。一方のリュネルは何気なしに、どこか遠くを見るような目で答えた。
「……きっとその家の人たちは、お金なんて執着しないくらい、別のものに執着しているんだよ。あるいは、取る必要がないほど満たされているのか」
「へぇー、……それはそれで、ちょっと羨ましい話だな」
そんな他愛のないやり取りに、緊張で強張っていた若手の一人が思わず苦笑し、場の空気が少しだけ解ける。グレイスは無言のまま、使い込まれた剣の柄にそっと手をかけ、魔法陣の中央へと堂々と進み出た。
「行くぞ! 転移開始だ!」
その言葉と同時に、魔法陣が目も眩むような強烈な輝きを放つ。重力から解き放たれるような浮遊感と共に、眩い光が一行を優しく、そして力強く包み込み、次の瞬間には視界が真っ白に弾けた。
視界が戻った瞬間、足元の感触が一変した。
硬い石畳の感触は消え、じめじめとした冷たい土が靴底を吸い込み、湿った濃密な空気が肺の奥まで入り込んでくる。泥の生臭い匂いに、鼻を突くような苔の香りが混ざり、周囲には絶え間なく水滴が草木を叩く音が不気味に響いていた。
「うわっ……マジかよ、靴がもう泥だらけじゃねぇか!」
ソランが悲痛な呻き声を上げ、片足を泥から引き抜こうとするたびに「ぐぽっ、ずじゅっ」という不快な音が響く。
「防御魔法を応用するんだよ」
リュネルは呆れたように笑いながらも、自分自身はまるで雲の上を行くかのように、軽やかに泥の上を歩いていた。彼の靴には泥どころか、水滴の一つすら付着している気配がない。
「それ、先生はいつも簡単に言うけど、マジでどうやるんだよ……」
「靴の表面に極薄の魔力膜を形成して、泥の粘性と表面張力を反発させる感じかな。ソランなら、身体強化の応用で足裏にだけ意識を集中させるイメージを持てば、上手くできるんじゃない?」
「うぅ……俺にそんなこまけぇー魔力操作ができるわけねーだろ……」
二人の慣れたやり取りを聞いて、若手冒険者の一人は思わず吹き出してしまった。すぐに気まずそうに口を押さえるが、グレイスもまた、楽しそうに笑いを堪えるように咳払いをする。
「相変わらずだな、君たちは。どんな過酷な場所でも調子が変わらない」
湿地のあちこちには、見たこともない色形の苔や草が生い茂り、ところどころに奇妙な燐光を放つ塊が混じっていた。
突然、リュネルは何かに気づいたように足を止め、その場に静かにしゃがみ込んだ。
「見てごらん。これは《灯苔》。夜になると周囲の魔力を吸って淡く光り、旅人の道を照らすと言われているんだ」
「へぇ! じゃあ、それを大量に店に持ち帰ったら、インテリアとして売れるんじゃないか?」
ソランが商売チャンスとばかりに目を輝かせる。
「残念だけど、これはこの湿地みたいな環境でしか光らない。乾燥させるとただの茶色い苔になっちゃうんだよ」
「ちぇっ、意味ねーじゃん!」
「でも、適度な水分と魔力の循環があれば維持は可能だよ。霧が立ち込めていれば乾燥はしないから、もし探索が長引いて夜に迷ったときには、これ以上ない道標になるよ」
若手の二人は感心したように、食い入るようにその苔を見つめて頷いた。
「やっぱりリュネルさんは頼もしいな……歩く図鑑みたいだ」
だが、湿地帯の苦難はまだ序の口に過ぎない。この深い靄の先に、不気味に口を開ける洞窟が彼らを待っているのだ。
湿地帯は歩みを進めれば進めるほど、道という道が不明瞭になり、苔と草が奇怪に絡まり合って視界を遮った。足元の淀んだ水たまりには無数の小さな虫が群れ、一行が通りかかるたびに耳障りな羽音を立ててまとわりついてくる。
「げっ……今度は虫の大群かよ。こりゃたまんねぇな」
ソランは顔をしかめて手で追い払う。だが、払っても払っても「ぼふっ」と音を立てて、また別の羽虫が雲のように群れ寄ってくる。
「彼らは光と熱に集まってるんだ。ほらソラン、安易に炎を出すのはやめなよ」
リュネルが振り返り、群青の瞳で鋭く釘を刺す。
「えぇ!? 俺が今から炎を出して焼き払おうとしてたの、もうバレてる!?」
「君の顔を見ていれば、次に何をしようとしているかなんて手に取るように分かるよ」
「……先生、ちょっと俺のこと観察しすぎじゃね?」
ソランの軽口に、若手冒険者たちが再び緊張を忘れて声を上げて笑う。
しかし、その直後だった。
足元の泥がずぶりと音を立てて不自然に沈み込み、若手の一人が悲鳴を上げた。
「うわっ、足が、抜けない! 底なし沼か!?」
「慌てないで、待って!」
リュネルが素早く駆け寄り、長い杖を取り出す。それを泥の深みに差し込むと、リュネルが短く、鋭く呪文を唱えた。杖の先端はじゅわりと青白い光を放ち、周囲の泥を凍てつかせるような魔力を放つ。
魔力の波紋が広がり、一瞬にしてぬかるみが岩のように硬化する。若手はそれを足場にしてすぐに足を抜き、息を荒げながら深く礼を述べた。
「助かりました……死ぬかと思った……!」
「焦って踠くと、余計に深く沈み込むのが湿地の罠だからね。泥や沼に嵌っても冷静になること。まぁ、急には難しいかもですが、それが一番の脱出方法ですよ」
リュネルの諭すような声は静かだが、死線を越えてきた者特有の重みがあり、若手たちの心に深く刻み込まれた。
さらに奥へと進むにつれ、周囲の空気は一段と重苦しさを増していった。それは単なる湿気による不快感ではない――目に見えない何かが肺をじわじわと圧迫するような、生命の危険を知らせる圧力だった。
「……なんか、急に息苦しくなってきたな」
グレイスが不快そうに眉をひそめる。
「苔の胞子が空気に混じり始めているね。まだ致死量には程遠いけれど、長時間吸い続ければ判断力が鈍り、頭がぼんやりしてくる。今のうちに、昨夜作ったフィルター付きのマスクを装着しようか」
リュネルは腰のポーチから小瓶を取り出し、湿地の靄を注意深く採取した。瓶を軽く振れば、中で微細な粒子が燐光を放ちながら不気味に舞う。
「やっぱり……。この胞子が風に乗って広がれば、下流の村の水源に甚大な影響が出てもおかしくない」
グレイスは腕を組み、険しい表情を浮かべて洞窟の方角を睨んだ。
「報告にあった通り、いや、それ以上の汚染速度かもしれんな」
若手たちは不安げに顔を見合わせ、お互いの無事を確かめるように肩を寄せた。
「……俺たち、本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫。そのために、僕が最高の準備をしてきたんだから」
リュネルが短く、けれど力強く答えると、彼らは救われたように安心した表情で頷いた。
湿地の最奥、樹々が力尽きたようにまばらになった先に、それは忽然と姿を現した。
切り立った岩肌が、巨大な獣が口を開けたように不自然に穿たれた暗い穴――そこから絶え間なく、白濁した毒々しい靄が吐き出されている。
苔に覆われた岩壁は緑黒く変色してぬらぬらと光り、夥しい数の水滴が絶え間なく地へと滴り落ちていた。
洞窟の入口は人一人がようやく立って入れる程度の高さだが、その奥は底知れぬ闇と、異質な魔力の気配に繋がっている。
「……あれが、“苔喰いの洞”」
若手の声は、恐怖に小刻みに震えていた。
リュネルは静かに一歩進み出ると、入口付近の岩肌を観察するためにしゃがみ込んだ。
壁を覆う苔は、まるで呼吸をするかのようにわずかに脈動しており、指先を近づけると、生物の体温のような生暖かい熱気が伝わってきた。
「これは、ただの苔じゃない。環境に反応して変質している……いや、何者かに組織的に『操られている』と言った方が正しいね」
「操られてる? 苔をか?」ソランが怪訝そうに眉をひそめる。
「うん。壁一面の苔から、心音に近い一定のリズムを感じる。まるで、この洞窟全体が一つの巨大な生き物の一部であるかのようにね」
グレイスは無言で剣を抜き、その刃を青白い光で薄く包み込みながら仲間たちを見渡した。
「全員、気を引き締めろ。ここから先が、依頼の本当の本番だ」
一行は、吐き出される不気味な靄の向こう側、静まり返った闇の奥底へと、一歩ずつ足を踏み入れていった。




