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第十話 アルカナ堂の定休日②

朝日より早く、土は温かい。

 ベルギスは袖を肘まで折り、畝の端に膝をつく。

 まだ空が淡い色を残しているうちから、畑はもう彼を待っていた。

 土を掬い、手のひらで転がし、湿気を読む。

 土は黙っているようでいて、触ればよく喋る。

「……悪くない」

 ぽつりと呟き、鍬を振るう。

 刃が土の層を返し、ミミズが顔を出す。

 ミミズは、土が生きている証のひとつだ。

 堆肥を混ぜ、古い根を選り分け、石を畝の外へ投げる。

 乾いた音が三つ。リズムは良い。

 石は単なる障害ではない。別の場所で、道を作る材料になる。

 木箱の底板が抜けかけていた。

 目に入ると、放っておけない性質だ。

 納屋から工具を取り出し、釘を抜き、割れ目を削って、代わりの板を合わせる。

「……ここでいいか」

 癖で独り言は少ない。

 けれど、仕上げは丁寧だ。

 目に見えない裏面を一番きれいにするのは、前の職の名残りかもしれない。

 戦場では、見えないところに命が仕込まれていた。

 午前の終わり、汗が背を伝う。

 井戸水を汲んで顔を洗い、髪を掻き上げたところで、畦道に影が見えた。

 ルーガルだ。

 畑の端にどっかり座っている。琥珀色の瞳は静かで、尻尾を一打ちした。

 「見張り番か?」

 ベルギスが問うと、ルーガルはゆっくり瞬きをした。

 返事ではないが、それが十分な応答に思える程度には、二人の間に“付き合い”がある。

 昼は、力仕事。

 樽を転がし、袋を解き、薪を割る。

 縦に、横に、節の逃げ道を読んで刃を入れる。

 割れ目が気持ちよく走ったとき、人は黙って笑う。

 どれだけ静かな男でも、そういう時だけは、口元がかすかに緩む。

 午後の初め。

 誰もいない裏庭で、ベルギスは剣を抜く。

 重い両手剣。

 軍を抜けてからは、滅多に人前で振ることはない。

 だが、刃を鈍らせるわけにもいかない。

 上段からの振り下ろし。

 受け太刀。

 流し。

 速くない。

 速くしない。

 一本ごとに呼吸を合わせ、落ちる刃を腕で止める。

 筋肉が震えるたびに、心も整っていく。

(いち、に、さん……)

 声を出さず、心の中で数えながら。

 数は百を越えても、特に意味はない。ただ、区切りとして。

 肩で息を吐いたところで、気配がした。

「ベルギス、鍛錬は欠かさないね」

 木箱を抱えたリュネルが、裏庭の入口に立っていた。

 柔らかな笑み。だが、目は刃の軌跡をしっかり追っている。

「あぁ。……それ、手伝うか?」

「助かるけど、いいのかい?」

「あぁ。任せろ」

 剣を一度鞘へ戻し、ベルギスは木箱へ歩み寄る。

 中身は乾燥させた素材や、新しい栽培用の器材らしい。

 言葉は少ないが、動きは速い。

 温室まで、三箱を運ぶ。

 そこそこ重いが、問題にはならない。

「入り口近くに置いておいて。日陰になるところがいいかな」

「ここか?」

「うん。完璧」

 ひと言の称賛に、ベルギスは少しだけ眉を緩めた。

「……お前さん、褒め方がうまい」

「本当のことを言ってるだけだよ」

 そのやり取りの横で、ルーガルが大きなあくびをして、空気が一段やわらぐ。

 日が傾くころには、畑は今日できるぶんを終えている。

 土はふかふか、道具は刃が光り、納屋は整頓された匂いがする。

 戦わない日も、体は疲れる。

 けれどこの疲れは、“ちゃんと眠れる種類”の疲れだ。

 屋内から、賑やかな声が聞こえてくる。

 ソランの笑い声。リラの制止。リュネルの、少し困ったような声。

 あの三人は、とても――

(あたたかい)

 ベルギスは、そう思うだけで、それ以上は言葉にしない。

 土の上で剣を振り、お湯で汗を流し、夜は静かに食卓を囲む。

 それが今の、自分の戦い方だ。



 定休日でも、店は「見えないところ」で忙しい。

 寝坊助さんたち――つまりソランと、たまにリュネルの――食器の片付けは済んだ。

 次は、とリラは髪をうしろでまとめ、掃除道具を肩にかける。

 まずは高いところから。

 梁、看板、灯りの縁。

 埃は魔力に反応するので、布に軽く浄化の術をかけて拭う。

 このやり方は、リュネルに教わったものだ。

「魔力の流れを揃えると、埃も“寄らなくなる”んですよ」

 そう言っていたのを思い出しながら、丁寧に布を動かす。

 床は、板目に沿って柔らかく。

 角に溜まる金粉のような「素材の欠片」は集めて小瓶へ入れる。

 あとで、リュネルが「何か」に転用するだろう。

 彼は、そういう細かい“余り物”を決して無駄にしない。

 掃除が終われば、帳場へ。

 整えられた帳簿たちが、先客――つまりリュネル――の仕事ぶりを教えてくれる。

 入出金の計算は、既に終わっている。

 項目ごとに小さく色分けされていて、流れが一目でわかる。

「相変わらず、きれいですね……」

 思わず独り言が漏れる。

 数字は嫌いではない。

 数字が綺麗だと、心が静かになる。

 『商いの手引き』を開き、ページの端に小さく書き込む。

《香草のセット販売→料理人に好評。相性表を小冊子化?》

《常連向けの季節便、原価率再計算:梱包材をもう少し安くできないか》

《“お試し袋”案:余り素材の組み合わせ+簡単レシピ》

 思いつきを「仕組み」に変えるのが、彼女の楽しみだ。

 午前の仕事がひと段落したら、今度は自分の勉強。

 奥の小部屋にこもり、簡易結界の張り直しを練習する。

 昔は、詠唱が少し長く、言葉が絡まってしまうことも多かった。

 今は、リュネルが添削してくれた“短い形”を繰り返している。

「言葉は優しく、線は短く、意図はひとつ――ですよ」

 そう笑った彼の声を思い出しながら、空中に指で線を描く。

 透明な膜が一瞬ふわりと浮かび、すぐに消えた。

 成功だ。

 次に、水晶の中玉を魔法で浮かせ続ける練習。

 机の上に置いた掌サイズの水晶球。その内部に、もう一回り小さな玉が封じられている。

 内側だけを浮かし、回転させ、止める。

 魔力の基礎力と持続力の鍛錬になるらしい。

 ――いざという時、もう、誰の足も引っ張らない為に。

 いざという時が来ないことを願いつつ。

 けれど、来てしまった時に後悔しないように。

 今日も、訓練は欠かさない。


 昼前。

 旧友との約束の時間が近づき、リラは身支度を整えた。

 街のはずれにある、小さな焼き菓子とお茶の店。

 扉を開けた瞬間に、バターと砂糖と、少しだけラムの香りが鼻をくすぐる。

「リラ!」

 奥の席から、手を振る女性。

 同じ年頃の親友で、学生の頃からの昔馴染み。お淑やかに見えて、実は快活で話好き。

「お待たせ!」

「ううん、私も今来たところ。新作のタルト、半分こしよう?」

「もちろん」

 甘いものを前にすると、どうしてこんなに会話が弾むのだろう。

「最近、アルカナ堂すごいって噂よ」

「噂?」

リラはカップを持ったまま首を傾げる。

「そう。“持ち込み断らないし、値付けが誠実だ”って。あんたの店長さん、やっぱり変わってるわ」

リラは思わず微笑む。

「変わってる、か……ふふ。そうね。店長は、“素材は嘘をつかない”って信じてるからね」

「素材?」

「そう。鉱石も、薬草も、お肉も。ちゃんと見れば、“どう扱えば喜ぶか”を教えてくれるって」

「……あんたも、そうね」

 友人はカップを傾けながら、リラをじっと見つめる。

「今は? 楽しい?」

 その問いに、リラはすこしだけ頬を赤らめてから――ぱっと笑顔になった。

「えぇ。とっても」

 くすりと笑って、おかわりの紅茶に砂糖を一匙。

 仕事の話、恋の話、昔話。どれも少しずつ大きな花が咲く。

 午後の光がガラスを通って、カップに小さく光を落とす。

 夕方、店へ戻る。

 埃一つない棚。

 温度の揃った乾燥棚。

 読みやすく並び替えられた帳場の伝票。

 リラは、誰かに見せるつもりはない。

 けれど、こういう「整い」が、明日の仕事を軽くするのを知っている。

「よし」

 誰にともなく小さくガッツポーズ。

 その瞬間、入り口にいたルーガルと目が合った気がしたが――内緒にしておく。

 ふと台所のほうから、お腹が空く香ばしい香りが漂ってくる

「……今日は、魔法の訓練も頑張りましたし。きっと、いっぱい食べても大丈夫ですよね」

 彼女のお箸は、少しだけ早足になるかもしれない。


 

 陽が沈むころ、厨房に灯りがともる。

 ベルギスが鍋を持ち、リラが味見をし、ソランが「早い者勝ち!」と皿を並べる。

「こらソラン、鍋に顔を近づけないの」

「先生!鍋は危険物だ……!」

「それは“あなたにとって”でしょ」

 笑いがひとしきり転がって、湯気が天井へ昇る。

 テーブルには、畑の青と温室の香り。

 鮮やかなサラダ、焼いた根菜、雑穀のスープ。香草とチキンソテー。

 質素だけど、手間が全部おいしい。

「先生、菜園上手くいってるな!」

「ベルギスが面倒見てくれてるからね」

「このチキン、ソテーにピッタリですね」

「リラさんのアドバイスで入れた鳥ですよ。ちょっと値は張るけど……売れ行きもいいしね」

「オレも料理手伝いました〜!」

「……じゃあ、全部みんなの手柄ってことで」

 和やかな笑いと、食器の音。

 食後、明日の段取りを二分だけ。

 依頼の受け口、仕入れの分担、温室の鍵の確認。

 ――二分で終わるのは、それぞれが「整えて」きたからだ。

 扉の札は、裏返したまま。

 けれど、三日月と太陽の装飾は、夜風に小さく鳴った。

 休む日も、店は動いている。整えて、笑って、よく食べて。それが、アルカナ堂の「強さ」のかたち。

「さぁ、明日も頑張るか」

 リュネルがふわりと笑う。

 定休日の夜は静かに更けていき、狼はあくびを一つ、主人の後をついて行く。

 明日になれば、また扉は開き、鈴が鳴る。

 アルカナ堂のいつもの一日が、また始まる。

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