第1話 素材屋
「素材」
加工製品の原料で、元来の性質が比較的に生かされているもの。(単に原材料の意にも用いられる)
――新明解国語辞典より
辞書の文字は、乾いた紙の上で冷静に並ぶ。
けれど“素材”という言葉が指す真実は、本当はもっと生々しい。
血が混ざり、泥にまみれ、特有の香りがあり、時に牙を剥く毒がある。そこには価値があり――そして、命の値札までぶら下がる。
それでも人は、何かを作る。何かを生きる。だから、その根源が必要になる。
そう、何を製造・創作するにしても、この「素材」が無ければ始まらない。
この世界には、日々の食材から建築資材、劇薬、はたまた神話に語られる超激レアの素材まで、それらを専門に扱う者達がいる。
人々は彼らを敬意と親しみを込めて「素材屋」と呼ぶ。
“素材屋”という呼び名は、便利さが混ざった心地よい響きだ。
とりあえず困ったら聞けばいい、買えばいい、あるいは余ったものを預ければいい。
だがその裏側で、素材屋は“素材の機嫌”と“人間の欲”の両方を冷徹に量りにかけている。
そして今日も――誰かの無謀な一歩が、彼らを呼び寄せる。
――湿り気の濃い空気が肌にまとわりつく、鬱蒼と茂るジャングルの中。
(皆さんこんにちは。私はしがない訳あり冒険者……。
先日パーティーを追い出され、そんな奴らを見返す為にダンジョンのボスを倒そうとやってきましたが……。
今、人生最大のピンチ! というか命の危機です!! ただいま絶賛、ボス魔物に追いかけられています!
ドロドロしてるトカゲ……トカゲですか? トカゲは普通、こんなにドロドロしていません!!
私の知っているトカゲとは似ても似つかない姿かたちをしていますが!?
アレはなんなんですかぁーーー!)
湿気は重く、息を吸うたび喉の奥に熱い水滴が溜まる気がする。
分厚い葉が天光を細切れに遮り、ぬかるんだ地面は露出した根と苔が“罠”のように足をさらう。
ジャングルは静かだ。――それなのに、追ってくるものの音だけがやけに鼓膜を叩く。
ぐしゃ、ずる、ぱしゃ。
それは足音というより、腐敗した何かが“溶けて”動く不気味な質量音だった。
「だっ、誰かたすけてぐださぁーーい!」
汗や涙でぐしゃぐしゃになりながら、女――ソフィアは足場の悪い森を全力で走っていた。
倒木を飛び越え、水溜りなど構わず踏み抜く。服が汚れようが、髪に枯れ葉が絡まろうがお構いなしだ。
追いつかれたら最後。あの猛追してくるトカゲ(仮)の昼飯にされる未来しかないのだから。
悲鳴は、最初は“助けを呼ぶ声”だった。
だが今は、吐き出す呼吸の代わりに“自分がまだ生きてる”と確かめるための嗚咽になっている。
叫ばないと、恐怖で心が折れて立ち止まってしまいそうだった。
だが、彼女の体はとうに限界を超えていた。
ダンジョンに入り、彷徨うこと一週間。パーティーで何となくヒーラーをやらされていた彼女が、独りで出来る事などたかが知れていた。慣れない過酷な環境に、悲鳴を上げる筋肉が疲労という毒を溜め込んでいく。
“ヒーラー”は、他者を癒やす役だ。つまり、自分が倒れたらそこで全てが終わる。
仲間がいるときは、誰かが前に立ってくれた。誰かが荷を背負い、誰かが火を起こしてくれた。
――でも今は、全部が“自分ひとり”の重さとして背中にのしかかっている。
魔法で強制的に励起させていた足はとうに感覚を失い、遂に限界を迎えた。
太い蔓に爪先を取られ、足がもつれる。
「しまっ――」
なんとか顔面だけは死守したが、逃走の慣性は殺しきれない。かなりのスピードで走っていた為、受け身をうまく取れず地面を勢いよく転がった。
視界が天地を激しく入れ替える。
えぐれた土の匂い、腐葉土の酸っぱい発酵臭、苔のまとわりつくような水気。
肩が打ち付けられ、肘が擦れ、肺がひゅっと息を詰まらせる。
それでも顔だけは守った。――守ったというより、守るしかなかった。
生き残ろうとする本能だけは、最後までそこを譲らなかった。
「痛ったた……、って何よ、この蔓!」
蔓はまるで悪意を持って編み込まれたように絡み合い、彼女の足はその網目に深く突っ込んでいた。
(どうしよう……火魔法とかなら焼き切れるかもだけど、私、適性無いから使えないし!)
蔓は粘るような湿気を帯びて滑り、手持ちの短剣は思ったより食い込まない。焦れば焦るほど、刃の角度が浅くなり、無益な火花すら散らない。
なんとか抜け出そうと足を掻き回すが、絶望的な時間が無情に過ぎていく。
「ギャロロロロー!!」
「はっ!!」
不気味に腹の底まで響く鳴き声が、遂に彼女の人生に終止符を打とうとしていた。
トカゲ(仮)がすぐそこまで迫って来た。
鳴き声が近い。
近いのに、どこが口なのかさえ判然としない。
湿った臭気が、吸い込む前から鼻腔を暴力的に塞ぐ。腐った沼と、腐敗した生肉と、焦げた油を混ぜ合わせたような致死的な悪臭。
体中からドロドロした液体を溢れさせ、異臭を放つその巨躯。
飢えた獣らしく粘つく涎を垂らし、目の前のランチ――彼女に狙いを定めた。
(……ワタシ、オワッタ)
“終わった”と確信した瞬間、人は逆に静かになる。
逃げるための思考が遮断され、目の前の現実がやけに鮮明に網膜へ焼き付く。
牙の欠け方。舌の毒々しい色。滴り落ちる液体の粘度。
トカゲ(仮)は唸りながら、ズルりズルりと間合いを詰める。
鋭い牙と、赤黒い口腔が視界を埋め尽くした。
長い舌が彼女の首に触れようとしたその時――。
「うらぁぁぁ!!」
凄まじい閃光と爆発的なエネルギーがあたりを白く塗りつぶした。
白炎を纏った拳が、トカゲの巨体を紙切れのように横なぎに吹き飛ばす。
光が、熱が、音が、全部まとめて空間に叩きつけられる。
熱風で髪が舞い、耳の奥がキーンと鳴る。同時に、こびりついていた恐怖が力ずくで“引き剥がされる”感覚。
目の前の「死」が、圧倒的な暴力によって横にどけられた。
眩しさと肌を焼くような熱に、彼女は思わず目を閉じ、腕で防御体勢をとる。
「……え? なに、私、助かったの?」
「ふぅ、ちょっと派手すぎたかな? ――オイ、あんた大丈夫か?」
陽の光を受けて煌めく銀灰の髪、燃えるような紅蓮の瞳。鍛えられた腕には、未だ白炎の揺らめきが名残を残している。
そこには太陽のように豪快な笑みを浮かべた青年が立っていた。
これはまさに、これから運命のストーリーが始まるかの――。
「こら! ソラン! むやみにソレをぶっ放すなと言っているだろう」
――様に思えたはずも無く、彼女の目前で始まったのは、至極真っ当なお説教だった。
運命の出会いどころか、学校の先生か厳しい母親のような声が飛んでくる。
火に水をかけるようなその一言で、場の空気が一気に現実的な“日常”へと引き戻された。
“ソラン”と呼ばれていた男を叱り飛ばしているのは、一見すると穏やかそうな面差しの、知的な風貌の青年だ。
(あの優男、怒るとあんなに怖いんだ……)
突然の事態の暗転について行けなくなった彼女は、ただ呆然と、目の前の出来事を理解しようとした。
理解しようと努めるのは、一種の現実逃避でもある。極限状態の混乱にある時、人は正論や“説明”を猛烈に欲しがるものだ。
――だが、彼女が説明を欲しがっている間にも、現実は勝手に、かつ冷酷に進む。
彼女の視界の端で、不気味な影が再始動した。
「――っ、後ろ!」
息絶えたと思っていたトカゲが、執念深く二人に襲い掛かろうとしたのだ。
毒牙がソランの頭部へ肉薄したその瞬間、トカゲは糸を切られた人形のように動きをピタリと止めた。
「えっ? なに」
止まった、というより“止められた”のだ。
彼女はぞくりとした。目に見える暴力よりも、こういう原因不明の“無音の制圧”のほうが、本能的な恐怖を煽る。
彼女の目に映ったのは、トカゲの延髄を鋭く貫く精緻な魔法陣と、そこから伸びる凍てついた青白い魔力の刃だった。
「……ソラン、詰めが甘いぞ」
「――流石先生、ナイス」
二人は揃って、どこか楽しげにニヤリと笑っていた。
笑ってる。笑ってるのに、見ていて背筋が寒くなる。
“先生”と呼ばれた青年の方は、笑いながらもその瞳は完全に「獲物」としての獣を解体するかのように見据えていた。
――倒すべき相手を、素材として正しく見定めている目だ。
「……それはさておき」
「ん?」
「キミは何度言ったらわかってくれるのかなぁーー!」
ソランは叱られている間、先程の雄々しさはどこへやら、シュンと借りてきた猫のように縮こまっていた。
聞こえてくるお説教の内容から察するに、彼の豪快な行動は日常茶飯事らしく、それが功を奏することもあるが、後始末の手間を数倍に増やしてしまうことも多いらしい。
豪快さは、時に圧倒的な強さになる。けれどその強さは、しばしば膨大な“後始末”とセットだ。
そして、その後始末を担うのは決まって、こちらの静かな方の青年になるのだろう。
この二人はたぶん、長年そうやってバランスを取ってきた組み合わせなのだ。
数分に及ぶ徹底的なお説教の後、優男――リュネルは彼女のもとに歩み寄った。
「お嬢さん、連れが大変失礼しました。私はリュネル、こっちは相棒のソランです」
「そんな、失礼だなんて! 彼は私の命の恩人です」
「いえ、やり方が雑なんです。……それより、どこかお怪我はありませんか?」
リュネルは先程までの叱責の圧を嘘のように消し、元の穏やかな雰囲気に戻って怪我の確認を始める。
その切り替えがあまりにも滑らかで、彼女は逆に背筋を正してしまった。
「先生が防御魔法使ったんだから、無事に決まってるじゃんか」
ソランが口をツンと尖らせて不満げに漏らす。
リュネルがジロリと射抜くような視線を向けると、彼はまた一回り小さくなった。
一瞥だけで、その場の太陽が曇るような威圧感。
なのにソランはどこか嬉しそうでもある。叱られることさえ、彼らにとっては信頼の証なのかもしれない。
「大丈夫ですよ、少し熱を感じただけで怪我はありません」
「んん、そうですか? ――その腕の擦り傷、脚の切り傷、打撲、あとは左足首の捻挫かな。これは十分『怪我』ですよ」
リュネルは彼女の身体にある傷を、まるで透視でもしているかのように次々と目で指摘した。
その指摘の正確さに、彼女の顔が引きつる。
一目見ただけで負傷箇所を完遂に把握するなど、名医か、あるいは修羅場を潜り抜けた職人の類だ。少なくとも、ただの親切な優男ではない。
「あぁ……これは……、勲章ですかね」
彼女はバツが悪そうに目を逸らし、誤魔化しの笑みを浮かべた。
「女性にとって、怪我は勲章にはなりませんよ。そもそも、誰にとっても怪我なんて勲章にはなり得ません」
リュネルは諭すように、あるいは心底呆れたように言った。
その語気は、怒鳴るよりも重い“本気”を含んでいる。
それは単なる優しさではなく、彼が持つ揺るぎない価値観の芯。
ソフィアはなぜか、その言葉に深く救われた気がした。叱られているはずなのに、誰よりも大切に守られている感覚。
リュネルは空間から魔法で救急箱を取り出し、手際よく治療を開始した。
魔法陣が空中に展開され、消毒済みの布や薬瓶、精密な器具が整然と収まった箱が当然のように現れる。
雑多なところは微塵もない。必要なものが、必要な瞬間にそこにある。――この男の仕事の質が、その箱一つに凝縮されていた。
「この切り傷は新しいですね」
「さっき逃げていた時ですかね……」
「ふむ、痛みや痺れはありませんか? 棘でひっかいたような傷跡があります」
リュネルは指先で円を描くように傷口を指し示した。
指先が至近距離にあるのに、嫌な不快感は全くない。
一定の距離を保つべきところは保ち、それでいて“触れる必要がある部位”には一切の迷いがない。
この躊躇の無さは、圧倒的な経験に基づいた「慣れ」だ。命のやり取りに慣れすぎている者の手だ。
「……そういえば、痺れと言うか、少しかゆいような」
「なるほど。……となるとイラクサ系か。この辺りの植生ならムクナの可能性も……」
リュネルは思案するように呟きながら、手持ちの薬草や試薬をチェックしていく。
時折、周囲の植生を鋭い目で見回し、特定の葉を素早く採取したりもした。
彼は治療を行いながら、同時に周囲の環境を“診て”いる。
敵が来るかではない。――傷の原因がどこに潜んでいるかを探っているのだ。
植物の葉の形状、茎の産毛、土壌の湿り具合。
怪我の由来を遡り、最適解の薬を選ぶ。
つまり彼は、ソフィアの身体だけでなく、このフィールドそのものをひとつのカルテとして読み解いている。
「とても手際が良いですね」
「まぁ、職業柄、知識として必要でしたからね。……それよりも」
ふと、リュネルの声のトーンが、深い谷底のように低くなった。
「ここは冒険者ランク“トリ”の方が来て良い探索区ではありませんよ」
一瞬にして周囲の温度が落ちる。
優しさが消えたわけではない。その形が、容赦のない“警告”へと変質したのだ。
危険を未然に防ぐための、絶対的な拒絶の声。
ソフィアは思わず背筋を伸ばし、縮こまった。自分に染み付いた「逃げ癖」が、その声だけで強制停止させられる。
「――っ、ど、どうして私のランクを」
「あなたのランクを何故知っているか、ですか。まぁ、気になりますよね」
彼らのいる区画は、高ランクの冒険者か特定の資格者しか入れないよう厳格に規制されているはずだ。
規制は、自由を縛る面倒なルールだ。
だが同時に、規制が必要なほどに、ここは理不尽な死に満ちている。
――そして彼女は、その境界を“誤魔化して”侵入した。
自分の軽率な無茶が、今、この静かな声によって白日の下に曝されようとしている。
「では、先にどうやってゲートを誤魔化したか教えていただけますか?」
『誤魔化したのか』と疑うのではない。リュネルは明確に『誤魔化した』と断定して問うた。
言葉選びが鋭利で、一切の逃げ道を許さない。
けれど、それは決して詰問ではない。ただ“事実という素材”を正確に把握しようとする、真摯な眼差しだった。
彼女は少しの間、迷うように視線を泳がせたが、リュネルの瞳に気圧されるように正直に話し始めた。
「……コレを使いました」
震える手で差し出したのは、一枚の冒険者カードだった。
カードの角が、握りしめていた汗で少し湿っている。
その歪みが、ここ数日彼女が抱えてきた孤独な不安を無言で物語っていた。
「なるほど。あそこのパーティーのメンバーだったんですね。最近、一人脱退したというのは貴方でしたか、ソフィア……さん」
「えっと……私たちの、っというか、私の事をご存じなんですか?」
ソフィアが見せたのはチーム共有のカードで、個人の氏名は記載されていない。
見ず知らずの男に名前を呼ばれ、胸が締め付けられる。
自分の内側を知られている恐怖。けれど同時に、ようやく一人の“人間”として認識されたような、不思議な充足感もあった。
「まぁ、顧客の情報はできる限り覚えている質なので。それに、あそこのリーダーはある意味有名ですからね」
ソフィアはそれを聞いてもピンと来なかったが、リュネルの上着の襟元に光る、精巧な細工のバッジを見て全てを理解した。
その証を持つ者は、この広大な王国でもほんの一握り。だが、冒険者ならば必ず一度は、その肩書きに命を救われたことがあるはずだ。
無論、彼女もその例外ではない。
目の前の男は、ただの偶然居合わせた通りすがりなどではなかった。
「……素材屋さん?」
「はい、素材屋です」
素材屋、という言葉が耳に届いた瞬間、ソフィアの中で“自分が助かった理由”が一段階鮮明になる。
鮮やかな治療、魔物への冷徹な対処、環境への鋭い視線。
その全てが、一つの“職能”として美しく結びついた。
「まさか、あのパーティーの顧客だったから私の事を……?」
「いたからというよりは……」
リュネルは少し言い淀み、事実を告げるべきか逡巡した。
その一瞬の間が、逆に彼の誠実さを表していた。
彼は“情報”という力を持っていても、それを決して無闇に振りかざさない。
素材と同じく、人の情報も扱いを一つ間違えれば致命的な毒になることを知っているのだ。
「……以前、あなたの元リーダーから依頼を受けた際、メンバーの構成と特徴を伺っていたんです。その時に伺ったことは、全て記憶しています」
ソフィアは複雑な感慨に打たれた。
元リーダーの独りよがりな行動に対する、今更ながらの怒りと呆れ。
一方で、リュネルの徹底したプロ意識と、さりげない配慮。
あいつにも少しは爪の垢を煎じて飲ませたかった――そんな無意味な後悔が、ふと胸をかすめる。
怒りが湧くのに、もう疲れた。
呆れが残るのに、どこか寂しい。
それでも、私は今、ここで息をしている。
ソフィアの心の奥底に、ほんの少しだけ“明日”を思う気持ちが芽吹いた。
「よし、これでいいでしょう。幸い、酷い外傷はありませんでしたが、もし少しでも異変を感じたら、必ず専門の医者に診てもらってください。これはあくまで、その場しのぎの応急処置ですから」
リュネルは手際よく道具を片付けると、ソランのもとへ向かった。
立ち上がる所作の一つ一つが、無駄を削ぎ落としたように軽い。
ソフィアはその背中に、ただ助けられたというより、価値あるものとして“拾い上げられた”ような感覚を覚える。
それが少しだけ悔しくて、けれど、泣きたくなるほど有り難かった。
次の瞬間、彼女の目の前には信じられないほど鮮やかな光景が広がっていた。
ソランが、先ほど仕留めたトカゲ(仮)を解体していたのだ。いや、もはや“し終わっていた”。
頭部、胴体、四肢、尻尾、そして内臓。それらが恐ろしい精度で、かつ清潔に分類されていた。
(すごい……! こんな短時間で、これだけの巨体を……)
“せっせと”という擬音が、これほど似合う光景もないだろう。
さっきまで白炎の拳で怪物を叩き伏せていた男が、今は繊細な刃物使いで命をパーツへと分解している。
圧倒的な暴力と、緻密な手作業。その両極端が、彼の中では矛盾なく同居しているのだ。
「このしっぽ、鍋にしたら美味そうだよな?」
ソランは無邪気な、子供のような好奇心で切り離された尾を見つめる。
その真っ直ぐな瞳は本気だ。
けれど、危険なものを“食えるか否か”という基準で判断するのが、彼の最大の欠点なのだろうとソフィアは直感した。
「いや、こいつは尾の付け根にも潜伏した毒腺があるから食べられないよ」
「……煮込めばなんとかなるだろ?」
「熱湯程度じゃ、この毒は無理。確実に死人が出るぞ。それに万が一腹を壊しても、僕は絶対に治してあげないからね」
「先生は相変わらず手厳しいな、おい」
「……ソラン。この前も僕は、冒険者が持ち込んだコイツの同系統の解体を、君に頼んだはずだよね?」
リュネルの表情から温度が消えた。
笑顔を保ったまま、纏っている空気が一変する。
『笑顔が怖い』というのは、まさにこの事態を指すのだ。
声はどこまでも穏やかなのに、周囲の逃げ場が全て閉ざされたような錯覚。
「――ひゅっ!?」
ソランの身体が強張り、呼吸が止まる。
心臓が凍りつくような、冷たい沈黙。
ソフィアは確信する。――この二人、強いとかいう次元を超えて、魂の階層で繋がっている。
「あの時はまだ二回目だったからね。次からはソランが一人でも完璧にこなせるようにと、一緒に、丁寧に、手取り足取り、教えながらやったよね? ね?」
「あ、あぁ……、お陰で凄く勉強になったぜ……」
ソランから滝のような冷や汗が流れる。
“勉強になった”という言葉が、ほとんど悲鳴のような響きを含んでいた。
ソフィアは笑いそうになり、けれど今ここで音を立てれば自分までこの冷気に巻き込まれると直感し、必死に口を押さえた。
「でも、あの時の個体は酷かったね。持ち込んだ冒険者も、容赦なく攻撃魔法を叩き込んだんだろう。皮はボロボロ、毒腺は潰れて毒が全身の肉に回っていた。最大限に毒抜きはしたけれど、素材としての本来の価値は見る影もなかった。悲しいことだよね」
ソランは、気まずそうに視線を泳がせた。
“価値が損なわれる”という言葉が、単なる金銭の損得勘定には聞こえない。
素材の価値を尊ぶことは、その命がそこにあったこと、その命の使い方を尊重することに繋がる。
無駄に殺め、無駄に壊し、無駄に傷つける。――リュネルは、そういう「生への冒涜」を何よりも嫌うのだ。
「トキシリザードの毒は、適切な処理さえ施せば、薬の触媒にもなるのにねぇ。処理できる人も少ないからとっっっっっても貴重なんだよね。1mlでどれだけの金貨が動くか、彼らは露ほども知らないだろうけど」
「……そ、それは、覚えてるぞ! トキシリザードの毒は、もっとタチの悪い猛毒を打ち消す中和剤になるんだよな! それに……そう、王金貨3枚分(日本円にして約30万)の価値があると言っても過言ではないって、先生言ってたよな!」
ソフィアはそこで初めて、“素材屋”という職業が支える世界の広さを垣間見た気がした。
毒が薬に変わり、毒が富を生み、毒がまた別の命を繋ぎ止める。
そしてその扱いを一つ間違えれば、毒はただの死をもたらす毒として、人を殺める。
「よく覚えていたね。かんしん、かんしん。……あぁ、幸い今回は急所へのピンポイントな一撃だったから、毒腺も無傷だね。……アリガトウ」
「……トンデモアリマセン。ソレニ、シトメラレタノハ、センセイノオカゲデス」
ソランが急にカタコトの敬語になるのが、彼なりの最大の防衛本能なのだろう。
それでも“先生のおかげ”と素直に返すあたり、彼の忠実さと根の良さが伺えた。
「あぁ、でも、目が黒焦げだねぇ。リザード系の目のレンズは、とても使い勝手がいいのにねぇ~」
「――――oh……」
ソランの漏らした落胆の声が、ジャングルの湿った空気に情けなく溶けていく。
だがその危うさと未熟さがあるからこそ、彼は憎めない相棒なのだと、ソフィアは不思議な愛着を覚えた。
二人の、終わりの見えない濃密な会話に、ソフィアは完全に置いてきぼりにされた。
(リュネルさん、目が一ミリも笑ってない……。こっわ……!)
置いてきぼりなのに、なぜか心は凪いでいた。
この二人は、恐ろしく強くて、恐ろしく多忙で、そして恐ろしいほどに日常を生きている。
自分がいとも容易く「助けられる側」に回された事実が少しだけ悔しい。
けれど――その悔しささえ感じられることが、今は、自分が生きている最高の証拠だと思えた。
ソフィアは、胸の奥で深く、静かに息を吸い込む。
湿ったジャングルの濃い緑の匂いの中に、血と土、そしてリュネルが振り撒いたかすかな薬草の香りが混ざり合っている。
それは、今日という悪夢が終わり、確かな“現実”へと帰還したことを、静かに告げる香りだった。




