第2話 武術の力の確認
屋敷の裏門を抜け、森への道を駆ける。
最初の一歩は、ふらついていた。三日も絶食した身体だ。
だが、思いのほか足が動く。
踏みしめる土の感触。雑草の擦れる音。
肺に流れ込む朝の冷気は少し痛いほどだったが、何故か心地良かった。
――悪くない。
俺の魂がこの身体に入ってから、まだ一時間も経っていない。
だが、不思議と馴染む。
シキの身体は細いが、芯は思っていたよりも強い。
そして、体の奥底に、静かに流れる“星流”――生前の俺がそう呼んでいたもので、この世界の全員の体内を流れている“力”。
シキの中にも確かに星流があった。
それは細く、時に弱々しく、だが絶えず流れている。
――そうか、シキは身体を鍛えていたんだな。
思い出す。
どれだけ無駄だと笑われても、どれだけ「やめろ」と蔑まれても。
シキは毎日、雨でも嵐でも裏庭で剣を振るい、体を鍛え続けていた。
右手を開き、まじまじと見る。
何度も皮が剥けては固くなったマメ。
血の滲んだ痕、変形した指の節。
何度打たれても、握り続けてきた拳。
俺はその手を、無意識のうちにぎゅっと握りしめていた。
不思議な気分だ。
身体を乗っ取った、などという感覚ではない。
むしろ、魂の深い部分で、シキと自分が重なり合っている――そんな感覚さえあった。
俺も、元の世界では家族がいなかった。
親しい友人もいなかった。
強さだけを求めて、生きてきた。
シキも、似ている。
いや、むしろ――家族という名の敵に囲まれていた分、俺より過酷な環境だったのかもしれない。
「……シキ。お前の鍛錬は、決して無駄じゃない」
小さく呟いた。
――俺が、お前の努力を無駄にしない。
そう、心の底から強く決意した。
走りながら、星流を体内で操る。
星流――この世界の全ての生き物が持つ流れ。
前世で最も鍛えた力だ、直感的に理解できる。
“星の流れ”のように、美しく、力強い。
俺はこれを“星流”と呼んだ。
体内で星流を回し、一点に集中させる。
「『心星』」
こうすることで集中力が極限まで高まり、外界の気配をも鮮明に感じ取れる。
森までは十分ほど。
普通なら痩せ細った身体にはきつい距離のはずだが、星流を意識して走れば息はそれほど上がらない。
森の入り口までたどり着いた時、うっそうとした木々の隙間から朝日が差し込み、影がまだらに地面を染めていた。
木々の合間から、一キロほど先に何かの気配を感じる。
心星に集中すると、そこには大きな猪――五メートルはあろうかという巨獣の魔物が、ゆっくりと歩いていた。
あのくらいの肉があれば、今の飢えも十分に満たせるだろう。
「よし」
俺は一気に距離を詰める。
落ち葉を蹴り上げ、まっすぐに獣へと向かう。
体の奥で星流を回し続けながら、無駄な動きをせず、重心を下ろし、地を蹴る。
――いた。
猪は気配に気づき、鋭い牙をこちらに向けてくる。
だが、恐怖も迷いもない。
俺はただ、食うために拳を握る。
「俺の糧となれ――」
一言そう呟き、星流を右手に集中させる。
次の瞬間――。
駆け出した身体が猪の懐に入り、拳が風を切って、まるで刃のように首筋を撃ち抜いた。
猪の巨体が、ぐらりと揺れる。
一拍遅れて、首が落ちる。
大量の血が地面に染み込み、息絶えた獣の体が土に崩れた。
「ふむ、『剛星』もまだまだ未熟だが、この程度なら問題ないな」
肉体を鋼以上に硬くすることができる、剛星。
速度を上げる『迅星』も、この枯れている身体にしては上手くできた。
血抜きをし、手早く枝と枯葉を集めて即席の炉を作る。
火は……指を鳴らす。
星流を指先に集中させ、火花を散らす。
木々が小さく爆ぜて火が点いた。
肉を適当に切り分け、串に刺し、直火で焼く。
煙と肉の焼ける匂いが腹を刺激する。
焼き上がった肉は、見た目より柔らかく、だがジューシーさや旨味はそれほどでもない。
だが今は贅沢を言っている場合じゃない。
「いただきます」
熱々の肉を頬張る。
固い筋を噛みしめ、脂を感じ、ひたすら咀嚼する。
――美味い、とまではいかない。
特に味付けもしていないしな。
だが、空腹が満たされる幸せだけは、何物にも代えがたい。
思えば、前世でも鍛錬以外に唯一の楽しみが食事だった。
身体を作るのにも、強くなるのにも食事は大事だ。
だから肉は好きだったし、美味いものには目がなかった。
「次は、もっと美味いものを食いたいな」
苦笑しつつも、ひたすら肉を食う。
五メートルはある猪の肉――全て胃袋に収めるには、それなりの時間がかかった。
だが、今の俺にはこの程度、どうということはない。
残ったのは太い骨と、体内に埋まっていた魔石一つ。
「これは……確か金になるんだったな」
シキの記憶を探る。魔石は魔術社会で貴重な資源。
魔道具の材料や通貨代わりにもなる。
グレイヴァルド家では自分の自由にできる金などない。
とっておくか。
魔石を懐にしまう。
しばらくその場で一息つき、肉の余韻を噛みしめる。
腹は久しぶりに重みを感じ、血の巡りも良くなった。
「さて、帰るか」
森を抜けて屋敷へ戻る。
道すがら、遠くで小鳥のさえずりや枝を揺らす風の音が耳に入る。
屋敷から森までは十キロはあるだろうが、五分ほどで走り切った。
やはり迅星はこの身体にしては問題ないが、もっと上達しなければな。
屋敷の前まで戻ると、玄関には見慣れぬ光景が広がっていた。
ガタイの良い執事長、数人の侍女――そして、派手なドレスを着て口を真一文字に結んだ女――義母クラリッサが、腕を組んで仁王立ちしていた。
金色の巻き髪で上品な立ち姿だが、俺を睨む瞳は冷たい。
……面倒そうだな。
俺は構わず、そのまま屋敷の入口へ向かう。
「今帰った。出迎えご苦労」
投げやりに告げると、場の空気が一瞬、張り詰めた。
執事長も侍女も、驚愕の表情で俺を見る。
クラリッサの顔は一気に赤く染まり、怒りが爆発した。
「なんですかその言い草は!!」
甲高い声が廊下に響き渡る。
その後も、義母は怒鳴り続けた。
「勝手に外へ出て、家の名を汚すような真似をして! お前は本当に……グレイヴァルド伯爵家の恥です! だいたいその汚いなりはなんですか――」
キーキーうるさいな。
叱責は十にも二十にも膨れ上がるが、俺にはどうでもいい。
「聞いているんですか!?」
義母の顔が目の前に迫る。
「はいはい、わかりました。部屋で大人しくしてますよ」
適当に相槌を打って通り過ぎようとすると、クラリッサがさらに声を荒げた。
「ふざけた態度を……!」
その手が、俺の頬を平手で打とうと振り上げられる。
だが、俺はその手首を正確に掴み――ねじり上げる。
「――このまま折られたいか?」
静かに、だが強く告げる。
クラリッサの瞳に恐怖が宿り、尻餅をついて後退した。
「ひっ……!」
侍女たちが一斉に駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!?」
「お怪我はありませんか!?」
騒ぐ声を背に、俺は気にせず玄関を過ぎて廊下を進む。
執事長と目が合うと、肩が小刻みに震えていた。
「汚れた。風呂の準備をしろ」
そう告げると、執事長は一瞬黙ったが「かしこまりました」と頭を下げる。
自室に戻ると、隣の部屋に湯の準備がされていた。
体についた土や血をしっかり落とし、湯船に浸かる。
「……ふぅ」
生前、風呂は贅沢なものだったが、この世界の貴族では一般的のようだ。
腐っても伯爵家というわけだな。
湯の温かさが、芯までしみ込む。
風呂上がり、部屋に戻り、余計なものは何も口にせず、静かに座禅を組む。
――星流。
体内をめぐる流れに意識を沈める。
「……やはり、シキの身体でも問題ないな。いや、むしろ星流の操作性は純粋で扱いやすい」
もしかしたら、この身体は星流の操作に向いているのかもしれない。
もし俺がこの時代に生まれ、シキと出会っていれば――。
ふと、そんなことを思う。
だが、それはもう叶わぬ夢だ。
「シキ、お前の努力は俺が無駄にはしない。だから……安らかに眠れ」
そう、心から祈るように呟いた。
――そして俺は一晩中、座禅を組みながら星流の流れを鍛え続けた。
新しい世界で、ただ一人。
だが、孤独などは怖くない。
俺は俺の道を――拳で切り開いてやろう。
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