第1話 シキの身体として
俺には、家族もいなかった。
幼いころから一人きりで、誰にも頼ることができなかった。
だから、生きるために強くならないといけなかった。
最初はただ、生きるためだった。
殴られても、蹴られても、泣くことだけはしたくなかった。
力がなければ奪われ、虐げられる。それだけの世界だった。
けれど――不思議なものだ。
拳を握り、ただ必死に自分の身体を守ろうとした日々の中で、
気づかないうちに、“強さ”というものに取り憑かれていた。
「強くなった自分」でいれば、昨日の自分に勝てる。
昨日の自分よりも速く、強く、上手く――。
その感覚が、いつしか堪らなく面白くなっていた。
そうだ、いつの間にか、生きるために強くなるのではなく。
強くなるために生きていた。
勝って、倒して、また勝って。
勝負の高揚、限界の先に一歩でも進んだときのあの快感。
やがて、最強と言われるようになった。
けれど、その頃には、誰も俺の隣にはいなかった。
孤独だった。
だが、それでも構わなかった。
拳を振るい続けることだけが、俺の生きる意味になっていた。
たとえ誰も傍にいなくても、俺は――。
もっと強くなりたいと、拳を振るい続けた。
だが、どれだけ鍛えても老いには勝てない。
最期には拳を振るえず、寝床の中で――俺は死んだ。
◇
しばらく、意識がなかった。
何もない、真っ白な空間。
音も、光も、感情すらもない。ただ終わりだけが、そこにあった。
――それでも、どこか未練だけが残っていた。
(ああ、終わったのか。もっと……戦いたかったな)
そのとき、不意に眩しい光が視界を焼いた。
最初に感じたのは、全身の痛みと重さだ。
腕も脚も、自分のものじゃないような鈍い感覚がまとわりついている。
天井がぼんやりと視界に映る。
どこか古びた、木の板張りの天井。
ベッドの軋む感触。
空気はひんやりと澄んでいるが、どこか薄汚れた埃の匂いが鼻を刺した。
「……ここは、どこだ?」
思わず低く呟いた声が、やけに乾いていた。
上半身を起こそうとして、腹の奥から鈍い痛みが這い上がってくる。
口内は乾ききり、喉が焼けつくように渇いていた。
なんだ、これは。俺の身体か?
どうしてこんなにも、力が入らない。
じわりと、脳裏に鈍い痛みが走る。
「うっ……!」
目の奥がずきんと疼くたび、見知らぬ記憶の断片が流れ込んでくる。
――冷たい石畳の上、土埃と血の味が口に広がっている。
靴のつま先で腹を蹴り上げられ、丸まったまま呻いていた。
『雑魚が、俺たちの前に立つなよ』
『ほんと役立たず。魔術も使えないくせに』
『こいつ、なんで学園来てんの? 家の恥だろ』
何人もの足音と、嘲笑。
ぼやけた視界に、同級生たちの顔が浮かぶ。
俺を取り囲み、興味もなさそうに突き飛ばす連中。
――ふいに別の光景が脳裏をよぎった。
薄暗い屋敷の中、重厚な扉が静かに閉まる音。
背筋を伸ばした金髪の女が、冷たい目で見下ろしてくる。
『また問題を起こしたの? 本当に……あなたには心底、がっかりしているわ』
机の向こうから、ため息混じりに母親らしき女が告げる。
その横で、弟が鼻で笑っていた。
『どうせ兄さんには何もできないし。グレイヴァルドの名を汚さないでくれよ』
弟の金髪が揺れる。あからさまな蔑みと呆れが混じる声。
家族の誰もが、俺をまともに見ようとしない。
その感覚――どす黒い絶望と、どうしようもない無力感が胸の奥に沈殿していた。
――さらにまた、別の場面が浮かんでくる。
泥だらけの手で木剣を握り、夜の裏庭で必死に素振りを繰り返している自分の姿。
涙でにじむ視界の中で、父親の声が遠くから響いてくる。
『剣を振ったって、無駄だ。魔術が使えない者に価値はない』
『体術なんて、貴族の嗜みですらない。……みっともないから、人前でやるのはやめろ』
言い捨てるように父は背を向ける。
その肩越しに、ただ拳を握りしめて立ち尽くす自分がいた。
……なぜ、こんなにも、嫌悪と拒絶ばかりの記憶が次から次へと流れ込んでくる?
まるで自分自身が、その全てを体験してきたかのようなリアルな感覚。
頭の奥が焼けつくように痛む。・
「――俺は、誰だ?」
必死で思考を掘り下げていくうち、断片が繋がり始める。
“グレイヴァルド伯爵家”。
“シキ”。
“魔術が至上のこの世界で、魔術の才を持たずに生まれた落ちこぼれ”。
“努力はしてきたが、家族にも学園にも見下され、居場所のない存在”。
“どれだけ剣や体を鍛えても、誰にも認められず、誰にも救われなかった”。
息が詰まるような閉塞感が胸にこびりついている。
どこにも希望はなかった。
どこにいても、何をしても、誰一人として自分の価値を認めようとはしなかった。
だから、全てを諦めてしまったのだ――。
三日間、この部屋で横になり、何も食べず、何も飲まず、死を待っていた。
心も身体もボロボロになったシキの肉体。
――そして今、この身体に俺の魂が入り込んだ。
「……本物のシキの魂は、死んだのか」
乾いた声でそう呟いたとき、自分の身体に違和感を覚える。
この痩せ細った体。手足は震えている。
鏡台に近寄ると、顔が青白くこけていることがよくわかった。
黒髪の短髪。切れ長の黒い目。
だが、瞳の奥にわずかに光が宿っている。
脳裏に、また空腹感が押し寄せる。
腹が、痛い。内臓が絞られるような鈍い痛み。
武を極めていたころの俺なら、一カ月や二カ月の絶食も意に介さなかったが、
この身体は違う。既に限界を迎えている。
口の中はからからで、唇がひび割れている。
「……まずいな。このままじゃ、本当に死ぬ」
膝を突き、壁をつたってようやく立ち上がる。
頭がくらりと揺れる。足もまともに前へ出ない。
だが、それでも動かなければ本当に終わる。
いまは、何よりも――早く、口に何か入れなければ。
ふらつきながらベッドを抜け出し、シキの記憶を頼りに部屋を出る。
屋敷の廊下。重厚な作りだが、どこか寂れている。
下働きの使用人が何人か通り過ぎるが、俺を見て誰一人挨拶もしない。
――この家の長男であるはずの俺に、この扱いか。
まずは水飲み場に向かう。
冷たい井戸水を柄杓で汲み、がぶ飲みする。
胃が収縮するが、喉の渇きが少しだけ収まった。
だが、腹の空腹は誤魔化せない。
「……仕方ない」
厨房――料理場へ向かう。
厨房は朝食の片付けが終わったあとなのか、下働きの連中がのんびりと動いている。
その中に、偉そうな態度を取る小太りの料理長がいた。
「おい……何か、食い物をくれ。料理しなくてもいい、とにかく食い物だ」
できれば肉が欲しいな、血も滴る肉を。
最悪、生肉でも食えるしな。
あっ、それは前の身体か。
しかし料理長は俺を一瞥して、鼻で笑った。
「あなたに用意するものはありません。夕食まで待ってください」
その口ぶり、明らかに見下している。
おい、俺のほうが上の立場だよな?
一応、この屋敷の長男だ。
使用人風情に舐められて、黙っている趣味はない。
「俺のほうが上の立場だよな? お前」
小太りの料理長がビクリと肩を震わせる。
侮蔑の目を向けていたが、一気に媚びるような目になった。
「は、はい……そ、その通りですが、あの、奥様に、そう言われていて……」
「チッ……」
舌打ち一つ。
女主人――つまり義母か。そいつの命令か。
「この近くに森があるよな。そこに獣は出るか?」
「ま、魔物なら……たまに出ますが……」
「食えるか?」
「魔物にもよりますが……食べられる種類も……」
「なら、そこに行くか」
料理長の顔色が青ざめるのが見えたが、特に何も言わず踵を返す。
屋敷の廊下を歩き出すと、ガタイのいい男が立ち塞がる。
――執事長か。
「どこに行かれるのですか、シキ様」
鍛えられている身体のようだが、俺より弱いな。
見たらわかる。
今の俺でも片手で勝てる程度だ。
「俺がどこかに行くのに、お前の許可がいるのか?」
執事長が僅かにたじろぐ。
「奥様に、“シキ様が勝手をしないように”と言われておりますので……」
どうやらここの奥様とやらは、シキに死んでほしいようだな。
まあ今思い出せることだけでも、それはわかっていたことだが。
(本当にクズな家族だな。いや、シキにとっては家族ですらないか)
「森に飯を取りに行くと言っておけ」
横をすり抜けようとすると、執事長が慌てて追いすがる。
「森に? どういうことですか、お待ちください!」
その腕が伸びてきたのを、俺は気迫だけで睨みつけた。
「――触るな」
執事長がビクリと肩を震わせて、その場に固まる。
冷や汗を浮かべて動けなくなっている。
(こ、この私が、シキ様に気圧された? 本当にこの人は、シキ様なのか……?)
固まっている執事長を無視して、俺はまっすぐに歩き出す。
さて、と……この身体はどこまで動くのか。
腕試しと行こうか。
そう思って、屋敷の外へ出た。
朝の光が、肌に刺さる。
森は少し遠いが、走ればすぐだろう。
俺の魂が乗り移ったこの身体が、どこまでついてこれるか――。
「行くか、シキ」
走り出す。
肉体を鼓舞するように、地を蹴る。
まずは腹を満たすため――。
新しい世界の一歩が、静かに始まった。




