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症例No.001 神の手を失った外科医

視覚も、聴覚も、触覚も──すべてを失った。

それでも俺には、嗅覚だけが残った。

そして、「匂い」が語りかけてきた。



俺は非常階段の隅に隠れ、失った患者を送るための「儀式」をしていた。

すると不意に、手術室でその患者の中にみた「何か」が発していた、あの「匂い」に包まれた。

そして、まるで全身麻酔をかけられた患者のように、意識が遮断された──


気が付いた時、そこは今までいた場所ではないと、すぐに理解した。


「これは…夢か?」


目を開けているはずなのに、さっきまでそこにあったはずの階段も、病院も、何一つ見えない。

そして…妙に静かだ。


実は俺には一つだけ弱点があった。

いつからか、しばしば不快な耳鳴りに悩まされていた。

しかし、それすらも今は聞こえない。


唯一感じ取ることができたのは、「匂い」


あたりには森林のような香りが満ちていた。

それはまるで、少年時代に昆虫を追いかけ駆け回った場所。

久しく忘れていた、「安らぎ」がある気がした。


そのせいか、あまりの現実感のなさからなのか、

俺は現状を案外冷静に受け止めていた。


「なるほど。視覚も聴覚も無い。触覚は…」


手を動かしてみても、何も感じない。


「はは、そうきたか。これは反則だろう。何も出来やしない。」

「さて、どうしたものか…」


何も感じないなら今はむしろ「儀式」の続きをするのに好都合だと考えた。

しかし…どうしても「匂い」に意識が引きつけられた。

むしろ嗅覚は妙に鋭く感じたのだ。


「五感のどれかを失うと、別の感覚が強くなるってやつか」


俺はやたらと効く鼻に、改めて集中した。

すると、俺がはじめ森林の芳香だと思っていたものには、様々な要素が混じっていることに気がついた。


「甘い」「しょっぱい」「苦い」「辛味を想像させる匂い」


「中々面白いな、まるで犬の見る世界だ。」


そして、隠れていた「匂い」に一つ気付くたび、記憶の中の「何か」が呼び起こされる感覚があった。

けれども、どうしてもそれをハッキリと思い出すための「核」のようなものが足りないように思えた。


俺は再び考え込んだ。


どれほど時間が経ったのか。

足りない「何か」は思い出せないままで、視覚も聴覚も戻らなかった。

あるのは匂いだけ。流石に少々苛立ちはじめた。


「面白いけど、俺は犬じゃない。早く外科医に戻らせろよ」


誰に向けるでもなく、悪態をついてみる。


「そうだ、あのわけわからない物体。あれを見てから調子が変だ。

一体何だっていうんだ、ちくしょう。」


壁でも蹴飛ばしてやりたかったが、視覚を奪われた俺にはどこに何があるのかさっぱりわからなかった。


その時、うっすらと手術室で香った、そしてどこかで嗅いだような

「あの匂い」が、一層強く漂いはじめた。

ゆっくりとこちらへ近づく気配と共に、それは徐々に濃くなっていく。


「そうか、これは…」


思い出しかけた時、その匂い、が語りかけてきた。


「お前、うっすい匂いだなあ。まるで機械みたいだ。

それとも、さっき産まれたばっか?」


声が聞こえたわけではない。

「におい」と共に脳の中に言葉が飛び込んだ。


「俺よりずっと若いくせに、”お前”か」


俺に向かって「お前」なんていう人間は、病院ではどこにもいなかった。


けれど不快ではなかった。

そこには怒りではなく、忘れかけていた感情があった。

そう、そいつは子供…というか──


次の瞬間、俺の目が開いたような気がした。

実際には何も見えていない。

けれど、においから、頭の中に鮮明なイメージが浮かぶ。


黒と白の毛並みに、よく動く尾。そしてだらしなく伸ばした舌。


「うん…そうだよな。」


少しやんちゃそうな子犬が、小首を傾げまっすぐこちらを見ていた。

「お前」なんて言葉が似つかわしくない姿だ。


「やっと"感じた"?」

「ダメだよ、貰ったものはもっと上手に使わなきゃ。これで、この世界を歩けるかな。」


「別に頼んだ覚えはないが。

それに、人を呼ぶのに″お前″はないだろう。せめて″キミ″にしたらどうだ?」


「そう?まあいいや!これからキミは、しばらくぼくの″患者″ってことで!よろしくね!」


やけに素直に、けれどどこか傲慢に、その犬は「答えた」

嗅覚だけの世界。匂いを通して「会話」は成立していた。


圧倒的な実力を誇る外科医──それが俺だった。

でも今は、 メスも、自慢の目も役に立ちそうにない。

頼れるのは、犬と、匂いだけ。


この犬の名前を、俺は…知っている。

そして俺の「匂い」は、どこか″病巣″があるらしかった。

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