ぼくと歌舞伎町で出会った少女との家出人同士の純愛を引き裂いた奴は道理を知らない大人だった
<一日目>
1
とうさんは小さな運送会社に勤めていた。でも半年前にリストラされて職を失った。燃料費の高騰や人手不足から経営が悪化したからだという。
職探しでハローワークに通い始めたときは元気がよかった。何とかなるさ、と言って家族を逆に励ました。ちゃんとした職に就くまでと始めた土木工事の肉体労働にしても文句も言わずに出かけた。
その合間の転職活動でうまくいかず愚痴をこぼすようになった。
そういうときでもかあさんはとうさんを励ました。ぼくもかあさんと同じ気持ちでとうさんに接した。家族はまだ結束していた。
「ついてないな。人手不足といっても中高年の失業者はあふれていてハローワークにわんさか来ていてさ、四十歳以上の正社員募集なんか滅多にない。たまにあると、皆それに殺到するんだ」
職探しのためのハローワークから帰ってくると、そう言って嘆いた。
とうさんは今職探しのかたわら肉体労働の仕事に出かけている。
かあさんは以前からスーパーのレジのパートをしている。
こうして家族が生活できるのは両親が働いているからだ。
ところが最近のとうさんは働きに出る日数も減ったし、職探しもあまり真剣にしなくなった。何度受けても就職が決まらなかった。顔色はくすんで生気がなくなった。
ある日、かあさんが食卓の上に「急募・日給バイト」というチラシを置いた。
それを見たとうさんは激怒した。
「俺にこんな使い捨ての仕事をさせるのか」
「違うわ。手軽なスキマ時間のお仕事よ。少しでも生活費の足しになるじゃない」
かあさんの言葉はチラシそのままだった。
両親の会話は噛み合わなくなった。とうさんを慕っていたかあさんはとうさんを責めるようになった。涙で滲んだかあさんの目を見た。両親の言い争いに、ぼくはじっと身をすくめていた。どうしていいかわからなかった。悲しくって悔しかった。
うちの両親は離婚するかもしれない。それを理由にしたくないけれど学校の授業にも身が入らなくなった。
隣の部屋で両親は遅くまで話し合っている様子だった。ひそひそ声だ。言い争いをしている雰囲気はなかった。かあさんの声はすすり泣いているようだった。
朝起きたらかあさんの姿はなく、食卓の上には何もなかった。いつもはトーストとスクランブルエッグとかの、とうさんの朝食の用意がしてあるのに。それにとうさんはまだ寝ていた。
その日は中二の学年末で、学校で通信表をもらう日だった。でもそんなことなど二の次になった。心の中で昨晩の両親の様子を振り返った。
朝がよわく、食べる余裕がないぼくはもともと朝食ぬきだ。
食卓の上にぼくあてのメモが置いてあった。
――学校帰りに角の伊勢屋さんのおばさんのところに寄ってから帰ってきてね――
何かが予感された。
「あのー、うちの母さんが寄れって、言ったもんで」
下校の途中で伊勢屋のおばさんに声をかけた。
「あー、ケンちゃん。 リョウももうじき帰ってくると思うから上がっていって」
いつもエビス様のような笑顔のリョウの母さんが応えた。
「こんな小銭入れを預かったよ。ケンちゃんに渡してくれって……」
声のトーンが低く下がった。差し出した右手の手のひらの上に小銭入れをそっと置いた。
「しばらくルミちゃんを連れて、家を空けるらしいよ。ケンちゃんに面と向かって言えなくてって」
ぼくはお辞儀をして、その場を離れた。
家に戻ると、とうさんはぼくの部屋でまだ寝ていた。パジャマ姿で無精ひげを生やして横たわっていた。でかい図体が小さく見えた。
かあさんはいなかった。妹のルミもいなかった。
なぜとうさんがひとの部屋にいるのか分からなかった。わざととうさんの寝ている頭のそばにドスンとカバンを置いた。とうさんはそれに気がついたのか、寝返りを打った。寝言みたいに「ケン……」と言った。
ずっと、とうさんが大好きだった。中学高校大学と柔道をやっていたとうさんはたくましくどんな相手にも絶対に負けないようにみえた。その影響でぼくも柔道の猛者になった。
ところがこの数ヶ月だ。就職活動で敗戦が続いた。
帰宅するとうさんの顔は日焼けして黒くなっていたが、目に力がなく定まっていなかった。とうさんは別人のように変わっていった。
かあさんも愚痴を言うようになった。家の中はすっかり暗くなった。
そして今日、かあさんから捨てられた。ぼくと一緒にだ。
「ケン、酒買ってきてくれんか」
怒りが爆発した。「そんな金あるわけないだろ」初めてとうさんに罵声を浴びせた。
椅子にかけてあったジャンパーを羽織って夕暮れの街に飛び出した。
2
公園のベンチに腰掛けた。
格好いいスポーツマンのかつてのとうさんはどこかに行ってしまったのだ。
あのダメで、どうしようもないとうさんが現実の映像になって目の前に現れる。
「くそ! あんなやつ」そう呟いた。
小銭入れを取り出して開けてみた。それを逆さにして左の手のひらで受けると小さく折りたたんだ一万円札と小指の先ほどの金属の蛙のフィギュアと指輪そしてかあさんの中学のときの生徒証が四つに折って入っていた。
生徒証にはかあさんのセーラー服の写真が貼ってあった。初々しい女の子が緊張気味に写っている。自分と同じ年頃かと思うと不思議な気がした。その写真の下に住所・生徒氏名とあり生田美帆と書いてある。生田はかあさんの旧姓だ。そして裏面には「健太くん。ごめんね。母」とメモがあった。
たくましく頼りになるとうさんと明るく優しいかあさんそして可愛いルミ、この家族が永遠に続くものと思っていた。
かあさんが自分に残してくれたもの。それが何を意味するか、わからなかったし、それを考える心の余裕もなかった。
小銭入れをズボンのポケットにしまってブランコに乗った。ブランコが揺れるたびに幼い自分を見守る若々しいかあさんの笑顔が揺れた。涙のしずくが頬をつたった。気持ちが落ち着くまでブランコを漕ごうと思った。身体が疲れ果てるまで漕いだ。冷たい夜風が身体に染みてきた。当分家には帰らない、と心に決めた。
所持金はこの一万円と自分の財布の千二百六十円。数日ならこれで過ごせると思ったら、多少は安心した。
今日の宿はネットカフェに決めた。ネットカフェで暮らすフリーターの若者という番組をテレビで見て知っていたからだ。
背筋を伸ばしたときに黒い人影がかけ寄ってきた。
「おー、やっぱりここだったな」
伊勢屋のリョウだ。母親似で小太りなリョウは不自然な笑顔をつくって、ブランコに座っているぼくの前に立った。
「リョウのうちに電話を入れたら、父さん心配していたぞ」
その表情は真顔になっていた。
「ぼくは当分、家には帰らない。決めたんだ」
「そしたら、どうするつもりだ。泊まるとこは?」
「これから新宿の歌舞伎町へ行くよ。あそこならネットカフェもあるし何とかなるさ」
「あそこは怖いとこらしいぞ。やめたほうがいいよ。それならうちへ来いよ」
「いや、ぼくは行く」
ブランコ台に乗って立ち上がり、小柄なリョウを見下ろした。
「ぼくも付き合うよ。ひとりよりは心強いだろ」
リョウの言葉に耳を疑った。目をじっくり見た。
春休みに入って明日から学校がないこともあるのだろう、リョウはぼくとホントに付き合う気でいた。
ぼくたちは無言のまま新宿にたどり着いた。正直不安で胸が押しつぶされそうだった。リョウはまるでぼくのことを、保護者のように慕っていた。
夜七時の新宿の街は、多くの人が行き交っていた。今日からここの住民になるかと思うと、初めて未知のジャングルに挑む冒険家のように武者震いがする。盛り場の夜の街は、十三歳の身には気後れがして、心と身体が重くなった。
ゲームセンターに入った。ユーフォーキャッチャーで遊ぶ。二人とも一回ずつでやめる。貴重なお金を無駄遣いするわけにはいかない。
きれいな女の人が微笑む看板の店が立ち並んでいる。
おにいさん! 寄ってらっしゃい! 明るい声の呼び込みから次々と声がかかる。
足早になる。でもぼくたちに声がかけられているわけではなかった。
魔物がうごめくジャングルを一周した。
アルタ前に出てきた。もう一周してから今夜の宿を物色しようとリョウに提案した。
リョウは無言になった。
「ケンさあ、ここはぼくたちが来るようなとこじゃないよ。一緒に帰ろうよ」
リョウの意見はまともで納得できる。ぼくだって大賛成だ。こんなところをうろついていたら何があるか分からない。
「ぼくはもう一周してから考えるよ。だからリョウ、おまえ先に帰ってくれ」
気の弱いリョウがここまで付き合ってくれて、本当に嬉しかった。だけど今夜だけはあのアパートに帰れない。とうさんがいる家に帰るわけにはいかないのだ。
リョウは右手を差し出した。握手した。とても冷たい手だった。だけど心がものすごく温かくなった。
ここでぼくはひとりきりになった。新宿の夜の人出はさらに増えてきた。
心を決めてもう一度、歌舞伎町のジャングルへと足を踏み入れた。家族や学校の友だちが頭の中から消えた。自分が誰かにいつも見守られて生きてきた世界から大人の世界へと飛び立つ予感がした。
「ねえ、ひとり?」
その声も背中から吹いてきた風の音も盛り場歌舞伎町の響きではなかった。
ふっと振り向くと少女が立っていた。
「ひとりだったら一緒に遊ばない?」
「遊ぶ?」
ぼくの反応に肩をひそめて笑った。
「まだ初心者ね」
少女は濃いグリーンのハーフコートにジーンズをはいていた。小首を傾げて微笑んでいる小さな顔にロングヘアーの髪がかかって風になびいていた。ボタンをしていないハーフコートの下にはピンクの花柄のTシャツがのぞいていた。化粧はしていたが、そんなに濃くはなくどちらかというと清楚な感じがした。顔で笑っていても目が冷めていた。よく見ると十八、九に見えた。
少女は「ナオミ」と名乗った。ぼくは「ケン」と名乗る。ナオミは家出して二週間ほど経ったという。十五歳、あさって誕生日で十六歳になると言う。ぼくより二学年上の高校一年生。ぼくの様子を見て家出初心者だとすぐにわかった、ともう一度笑った。
一緒に家出をしたもうひとりの少女は飲食店に入って稼いでいるけど自分は嫌だからこうやって毎日ぶらぶらしていると言う。
年を言うのをためらった。だけど正直に十三歳と言った。ぼくも五日後には十四歳になる。ナオミはびっくりして十七、八くらいに見えるよと目を丸くした。その驚きがぼくには嬉しかった。ホントは十八だよって言いたかったけど、この子には嘘をついてはいけないと思った。なぜなら、ナオミは嘘をつくような子ではないと直感的に思ったからだ。
だから初めて自分の家族のことと家出のことを人にしゃべった。
「普通の子ね。みんな普通の子よ。ウチだって普通の子」
ナオミが言う言葉には慰めがないだけにとても心地よかった。
「ウチね、お医者さんの子。だからお金不自由してないのよ。これがあればね」
ナオミは右手の人差し指と中指にキャッシュカードを挟んで振ってみせた。
「ATMに行けばいつもお金入ってる。向こうも引き出しがあれば生きているってわかって安心じゃない。ねえ親孝行でしょ」
ネットカフェの泊りはナオミが慣れていた。受付で年齢を18と書いてペアシートと言うと地下の奥の部屋に通された。18歳未満はネットカフェでの泊まりはできないのだ。
部屋といってもベニヤのような薄い板で仕切られて入り口に黒いカーテンがあって中に入るとパソコンと二畳弱くらいのフラットな黒いシートがあるだけだ。こんな狭くて暗いところに女の子と二人だけになるのは初めてだ。身体全体が震えてこわばってきた。
「ケンは身体大きいからここじゃ二人は狭くてだめね。部屋代節約しようと思ったけど」
もう一度受付に引き返すとその隣のひとり用の個室を自分のためにとった。
「今夜はひとりで広い部屋に寝なさい」
お姉さんのような口調で言った。
ぼくは二部屋になったのを残念に思う気持ちと安堵する気持ちが揺れた。
ネットカフェに入るのが初めてだと知ると、いろいろと親切にこの部屋の設備について教えてくれる。家出初日に彼女に会えてよかったと思う。
飲み物はみんなフリードリンクだし、ソフトクリームもあるよ。食べ物はナイトパックだからパンのサービスもあるし、有料だけどカップヌードルとかあるよ。それからシャワールームもある。
ぼくの広めの個室に入り込むと中の機器の使い方を教えはじめた。
まず、パソコンを立ち上げてね、インターネットでしょ、ゲームでしょ、それから映画でしょ、テレビだって見られるし、全部使い放題、見放題だよ。ね、快適でしょ。
ナオミは身体を寄せてきた。
「ウチね。帰るとこないんだ」
ナオミの声は真面目で真剣だった。
身体を離すと、ナオミは身の上を話し始めた。
「パパの……浮気……それが原因でママとは離婚。そしてその後ね……パパがその相手と……再婚したのよ」
途切れ途切れの話しに言葉を継げなかった。それはぼくには重たすぎる話で受け止めることができなかった。
「ママは?」
「実家に戻った。とても可哀想だったのは、ママはその後病死したの。私ね、ママの死に目に会えなかったの。これって、つい最近のこと。だからね、ウチこれからひとりで生きていくことに決めたの」
「そうだったの」ぼくはナオミの気持ちを思い遣り、息苦しくなった。
ようやく声を絞り出す。「ぼくだってひとりさ」
「ううん、ケンはひとりじゃない」
「何で?」
「ケンのパパもママもケンを愛してる。ウチわかるんだ」
「ぼくは捨てられたんだよ」
「瞬間的にネ。でもね、すぐに復活できるよ」
「何で?」
「だってお金が原因じゃない。お金が回りだしたら解決するじゃない。ウチは違うのよ。信じることができなくなったのよ」
「……お金?」
「そう、たかがお金……」
「……信じること」
「そう、一番、タ・イ・セ・ツなこと……」
涙を見せるような子ではないと思っていたナオミが肩で小刻みに息をし出した。肩を抱き寄せた。
<二日目>
1
いつのまにか朝になっていた。個室の中にはぼく以外には誰もいない。昨夜のことが夢の中の出来事のようだった。
「オッハー! よく眠れた?」
カーテンが開いて元気な声がした。
「はい。モーニングの食事よ」
ナオミはトレーの上にコーラーとコーンスープと焼きたてパンを載せてぼくの部屋に入ってきた。
「これだってナイトパックの料金の中に含まれているのよ」
ナオミはどうみたって普通の女子高生。ぼくはナオミの顔をじろじろ見た。昨夜のナオミと違う人みたいだったから。
朝食が終わって外に出ると太陽の日差しがまぶしい。思わず目をこする。
暖かいので花園神社まで散歩して二人でお参りすることにした。田舎から出てきたのにナオミはこの辺りの地理には詳しい。神社の前で二人並んで手を合わす。
ぼくはまた家族が一緒に仲良く暮らせますようにとお祈りした。家出している身なのに我ながら不思議な気持ちになる。ナオミは何をお祈りしたのだろう、そう思ったけれど質問するのをやめる。
「ケンは何をお祈りしたの?」
先にナオミからの質問。正直に答えようとして息を呑む。
「ああ、二人がずっと元気でいられますようにって」
「ホント?」
ナオミは笑顔になった。
ベンチに座ってまたいろいろと話をする。ゆっくりと時間が流れる。でも気がつくとあっという間に時間が経っている。家出人同士の連帯感みたいなものがある。
また歌舞伎町の新宿東宝ビルあたりまで歩く。
「オー姫じゃないか。オレを振ってさ、そんなダサいやつと付き合ってんのかよ」
サングラスで肩をいからした二人の男が前から声をかける。こんなやつらと関わってはいけない、ナオミに目で合図して通り過ぎようとする。ナオミも目を伏せて相手にしない。
「姫、何だよ。挨拶ぐらいしろよ。歌舞伎町の街を案内してあげた仲じゃないかよ」
「何だよ。ウチはチンピラとは遊ばないんだよ」
ナオミの言葉にやつらの顔色が変わる。それにしても姫という呼び方が気にかかる。
「何だと、田舎もんのくせに、でけえ口きくじゃねえかよ。おい、ボウヤ、おまえが謝れ。おまえの女だろ」
二人は戦闘モードに入っている。ぼくの次の言葉によっては間髪をいれず殴りかかってくるだろう。この状況なら慣れている。慣れていないのは女の子との付き合い方だけだ。
「失礼しました。この通り謝ります」
素直に頭をさげた。
「何だ。このやろー、オレたちをなめてんじゃねえだろうな」
小柄で太めの男が殴りかかる。ナオミはぼくの背中に回る。パンチをかわして腕をとってねじあげた。イテテテといって路上に立てひざをつく。
長身のヒョロがナイフを出した。完全に腰が引けている。
ヒョロめがけて小柄なダルマを投げ飛ばした。路上に転がるチンピラたち。
こういう場合、ぼくは簡単に逃がさない。二人の胸倉をつかむ。
「おい、これからぼくたちに関わるのはやめろ。わかったか」
「はい、承知しました」
手を離すと二人は街の中にゴキブリが身を隠すように走り去った。
「ひゃー、ケン格好いい。強いんだね」
ナオミの紅潮した顔に、見直したよ、って書いてある。
「昔からけんかは強いんだ。幼いときからずっと柔道やっているしね」
彼女はステップを踏みながら数歩先に行って、振り向いた。
「ナオミね。ケンのこと好きだよ」
少女の笑顔と声が津波のように押し寄せた。
「姫って、ナオミのこと?」
気になることを訊く。
「そうだよ。最初にあいつらと会ったとき本名を名乗るのが嫌だからとっさに言ったの。
あたしは歌舞伎町の姫って呼ばれてるんだ。だから姫って呼んでねって」
「歌舞伎町の姫!」
「そう、格好いいでしょ」
ナオミは右手を上げて小首を傾げてポーズをとった。
2
久しぶりに運動したらお腹が空いた。
西武新宿駅前に立って、サイゼリヤとマクドナルドのほうに指を差した。ビッグマックが食べたくなった。ナオミを誘ってマクドナルドに入る。
「ケンのママからもらった小銭入れの中身ってミステリーよね」
ナオミは生徒証と金色の蛙をマックのテーブルの上に並べてハンバーグを頬張りながら言った。メッセージが込められているって何度も繰り返す。
「おいおい、蛙クン。キミの役目は何ですか?」
テーブルの上で蛙をくるくる回すナオミ。回るたびに光が反射してキラキラと輝く。
蛙のおまじないは何ですか? 帰るコール? 蛙飛び? 再会? 帰宅? ぶつぶつとつぶやいている。
急に顔をあげる。
「蛙だから家に帰ってということ?」
「いやだよ。とうさんがいるとこなんか」
次は生徒証だ。
「そうか。わかった!」
ナオミが声をあげる。
「生徒証の住所ってママの実家の住所でしょ。ケンのおじいさん、おばあさんの」
その質問ももう何度目かだ。
「うちの両親の結婚は駆け落ちとかで親から勘当されているんだ」
「へえ、すごいじゃん。あたしは駆け落ちじゃなくて家出だけどね。それで今はケンのおじいさんとおばあさんが二人でその住所に住んでいるんじゃない」
「かあさんには弟がいるから三人かな。でもかあさんの実家は街の再開発にあたって立ち退きしていて、その転居先の住所がわからないって聞いている」
「うーん、でもその住所の近くに行くだけ行ってみようよ。だっておかあさんの故郷でしょ。今どうなっているから見てみたいじゃない」
ナオミは行動的だ。彼女に従って生徒証の住所に行ってみることにした。
JR池袋駅を降りると東口のサンシャイン通りをまっすぐ歩いていった。サンシャイン60のビルの周りには新しいビルやマンションが立ち並んでいた。
二人が大通りを渡るとまだ古い民家がいくつか残っていた。目の前に巨大な高層ビルがそびえ立っていた。ビルの玄関に《豊島区役所》とあった。その周囲をぐるりと回った。すると《旧日の出小学校跡地》と立て看板にあった。その名前にはかすかに記憶があった。かあさんが卒業したという日の出小学校だ。
「ケン、あの古い校門の前のお店、お米屋さんじゃない」
ナオミが何か気づいた。
見上げると紙谷米穀店という年季のいった看板が見えた。
「お米屋さんなら近所の人のことよく知ってるんじゃない」
ナオミは小走りになる。
「あのーちょっと昔のことをお尋ねしていいですか」
ナオミは店先の若い女の人に聞く。このお店の奥さんだろうか、かあさんの生徒証をチラっとみると、
「おばあちゃん、おばあちゃん」
奥のほうに向かって大声で呼んだ。
何ですか、というような顔で奥から出てきた人はもう七十代後半だろうか、刻まれた顔のしわと身体の動きで年齢を察することができた。
「生田美帆さん、生田さんねえ。ええ、よくおぼえていますよ。あのサンシャインのほうの方ですね。あのあたりの方はどなたもいなくなりました」
この辺に昔住んでいた方がよくこの店に尋ねてくるんです、と言った。
おばあさんは生田家のこともよく知っていた。
「ほう、あの娘の美帆さんの息子さんかね」
しげしげとぼくを見つめた。転居先は知らないと言う。最後の言葉が胸に突き刺さった。
「生田さんのところは可哀相でしたね。娘さんが家を出てしばらくしてからその下の坊やが事故で亡くなったんです。たしかオートバイの事故とか」
礼を言って帰ろうとしたらナオミはメモに自分の携帯電話の番号を書いて「何かわかったらここに連絡してください」と丁寧にお辞儀した。
ぼくは携帯電話を持ったことはない。とうさんとの約束で中学生の間は持たないと決めていた。
お米屋さんの店先を出て、振り向いたらなぜか涙があふれてこぼれ落ちた。かあさんの弟は亡くなっていた。かあさんは知っているだろうか……涙がこぼれるのにまかせて肩を震わせた。ナオミは静かにぼくの左腕に右手を絡ませてきた。
今夜はJR新宿駅東口に近いネットカフェのナイトパックにする。
<三日目>
今日はナオミの誕生日だ。
大事なかあさんからのお金だからと言ってナオミはずっとぼくに一万円を使わせないでいたけど、今日はそのお金をくずすことにした。
ケーキ屋のショーウインドウを覗き込むナオミの目が喜ぶ。
「二人用のデコレーションってないのね」
宿なしの二人には買い置きするための冷蔵庫もない。二人には大きいけれどお店の中では小さめの丸いケーキを買った。ケーキはネットカフェで食べるつもりだ。
店の手前で立ち止まった。
ビルの入り口に大人と子どもがいる。お店の看板を見ながら何やら話している。そして店に入った。どこかで見た感じの二人だった。胸が高鳴った。
「やばい! ナオミ、違うところへ行こう」
ナオミの手をとってぼくは反対方向へ行こうとした。
「ねえ。どうしたの。あの二人、知っているの?」
「父さんと友だちのリョウだよ」
ナオミは立ち止まった。
「心配して探しているのよ、ケンのこと。やっぱり、中学生がこんなところにいたらまずいよ。パパのところへ帰って」
お姉さんのような口調だった。
「まだやり残したことがあるよ」
えっ何? と小さな声をあげる。
「これさ。一緒にケーキ食べて誕生日のお祝いしなくちゃ」
ナオミは微笑みながら、「そうね」と言った。二人は方向を変えてその場から走って立ち去った。
歌舞伎町から花園神社方面に歩いていった。歌舞伎町をはずれると緊張感が薄れる。
ここがよさそうね、とナオミ。見上げると新しいネットカフェの店があった。
一つはペアシート。もう一つはリクライニングシート席。最初に出会った夜のときと同じ部屋の取り方をした。
ペアシートのカーテンを閉めて内緒でケーキの真ん中に小さなロウソクを二本立てる。
「一本はナオミのため、もう一本はケンのためね」
ナオミが言った。でもロウソクに火を点すわけにはいかない。ネットカフェの部屋の中は火気厳禁だ。ペンライトの明かりを調整して、暗くしたり明るくしたりする。
「お誕生日おめでとう、ナオミ!」
ぼくはささやく。
「ありがとう。ケン。何だかとっても幸せ」
「ひとりではさびしいけど二人になると全然違うね」
お店のフォークでケーキを切り分ける。ナオミがケーキを頬張るのを見てからぼくも口に含んだ。
「イチゴがのった生クリームがとても美味しい。ひとりだったら美味しくないと思うけどケンと一緒だから美味しい」
「そうそう」
相づちをうつ。
「不思議ね。とっても不思議」
ナオミが消えそうな声で言った。
「ねえ、ウチのこと信じる?」
「うん」うなずく。
「ウチはケンのこと信じる」
ペンライトの明かりのなかから声がする。
「ぼくもナオミのこと信じるよ」
はっきりと言葉にした。
「ホントに!」
大きめの声がした。
ナオミが肩を寄せてきた。誰かの足音がした。そっと二人は離れる。
「ねえケン、家族って何だろう?」
ナオミが急に難しい質問をした。
「……家族って大切なものだと思うよ」
「そうね。特に子どもたちにとってはね」
「ぼくさあ。まだまだ子どもだと思うよ。ナオミはすごいと思う。ひとりで生きていこうとしている。家から飛び出したけど、ぼくには無理だよ」
「家族ってずっと続くものじゃないのね。だから……」
「だから?」
「だからお互いに大切にしないとね。家族の誰かが壊そうとすると全部壊れちゃう。うちはパパが壊した」
「うちもそうかもしれない。とうさんが壊したんだ」
壊したのはかあさんでも自分でもない。妹のルミはあり得ない。とするととうさんに決まっている。とうさんの顔が浮かんだ。
でも、ぼくはふとそうだろうかと思い直した。本当にとうさんが壊したのだろうか、疑問がわいてきた。
「そんなことないよ。ちょっとした気持ちのすれ違いがあったんだと思う。ケンの家は誰も悪くないよ」
ナオミは断言した。ナオミが言うと何だかそう思う。
「誰も悪くないのに壊れるの?」
ぼくの問いかけにナオミは深くうなずいた。
「普通に家族していてもいずれ壊れる。誰かが死んだり、子どもが巣立ったりしたら壊れる。そうでなくても一緒にいられなくなったら壊れる」
ナオミは優しい声で言った。
「家族ってもろいんだな」
ぼくはそれくらいしか言えなかった。そのとき三日後に自分の誕生日がやってくることを思い出した。
ぼくもナオミも三月の早生まれだった。
ぼくの誕生日はたったひとりで迎えるような予感がした。
<四日目>
外から聞こえる音で目が覚めた。パトカーのサイレンのようだった。
「まさか、ウチらかもしれない」
ナオミが叫んだ。
「とにかくここ出よう」
ナオミがうなずく。
受付に行って精算しようとしたとき、黒いコートの大男が背後に近づいてきた。
「西条健太さんですね」
太く低い声だった。
「こちらは速水尚美さんですね」
すぐに刑事だと分かった。
「警察のものです。署まで同行願えませんか」
状況が飲み込めなかった。
「何よ。ウチらは何も悪いことしてないよ」
ナオミが声を荒らげた。
刑事と思われる男がもうひとり増えていた。
「ええ、お嬢さんにはお父さんから家出人の捜索願が出ているんですよ。ですから身柄の保護ということになりますね」
後から近づいてきた小柄の男が言った。
「えっ!」
声を上げてナオミはぼくの腕にしがみついてきた。
「やだよ。やだやだ」
そう叫ぶと刑事があざ笑うように言った。
「西条健太さんは速水尚美さんとここに一緒にいる経緯をお聞きします。あなたも身柄の保護ということですね。お店の台帳に正直に名前を書くのはいいですが、年齢が間違っているんじゃないですか。お二人とも十八歳未満でしょ」
ネットカフェのあるビルの玄関口には二台のパトカーが停まっていた。前の車にナオミが、後ろの車にぼくが乗せられた。車に乗せられるナオミのぼくを見る悲しそうな眼差し……ぼくは忘れられない。そのときからナオミとは会えなくなった。
取調べは思いのほか丁寧だった。ナオミとの出会いの場面をしつこく聞かれた。どっちが先に誘ったかとか、どうでもいいことを。それから毎日の過ごし方。お金の使い方などだ。年配の刑事は自分の娘は十六だと言った。ナオミと同い年だ。
長い一日だった。
<五日目>
次の日の朝だった。
「西条健太、釈放だ」
担当の刑事が無愛想に言った。
「お嬢さんがおまえの容疑を頑強に否定するからな。誘拐という線はなさそうだ。だいいちおまえも未成年だしな。どうやらおまえたちは家出人同士のようだな。実は身元引受人を探していたんだ。やっと昨夜になっておまえの身元引受人が見つかったよ」
刑事は晴れ晴れとした顔に変化した。頭の中に父さんの顔がまた浮かぶ。ケンタァと声を絞り出した生気のないあの顔だ。いたたまれず逃げ出したくなった。
「おばあさんだ」
刑事の低い声に頭の中が混乱した。刑事は続ける。
「おまえの所持品に母さんの生徒証があったろう。そこから調べた。おまえにとっても初対面だろう。おばあさんは孫が帰ってきたといってえらく喜んどるよ」
頭の中で刑事の言葉を繰り返した。あのときの米屋のおばあさんの言葉が甦ってきた。生田さんは可哀相って言っていた。おばあさんというのはあの生田さんのことらしい。
一般待合室へ刑事と一緒に入ると四十歳前後のおばさんがにこやかにぼくに会釈した。黒いスーツに黒い鞄を抱えたその人は胡桃沢と名乗った。
ぼくがきょとんとした表情を見せると、女性は早口で一気に事情を話し始めた。
おばあさんは今、初期の認知症で足腰も弱っており警察まで来られないということ、おじいさんは二年前に亡くなって今はおばあさんひとり暮らしということ、あの生徒証でぼくがおばあさんの孫だと確認できたこと、自分は認知症老人の法定代理人をやっていておばあさんの財産管理を任されていること、などだ。
難しい経緯はよく分からなかったけど、ちゃんとした間違いのない人だと思った。
胡桃沢さんの車の助手席に座った。
「生田のおばあちゃんは少し認知症が進んでいてね。私は頼まれて警察に来たの」
おばあさん宅へ向かう車の中で胡桃沢さんはさっきの早口とは別人のようにゆっくり話し始めた。
あのプラチナの指輪のイニシャル『MI』は旧姓生田美帆というかあさんのイニシャルでおばあさんがかあさんの二十歳のときにプレゼントしたものだという。
おばあさんはいかに娘に会いたがっていたか、そしてその息子のぼくが見つかったとわかってとても喜んだことなどを嬉しそうに話してくれた。
新宿中央署から二十分ほど走っただろうか、閑静な住宅地のなかで車が停まった。
その古い家の表札には生田とあった。玄関チャイムは胡桃沢さんが押した。インタフォンからしゃがれたおばあさんの声が響いた。胡桃沢さんはお孫さんを連れてきましたと答えた。
ゆっくりと玄関ドアが開いた。小柄なおばあさんが首を出す。ぼくを見るなり叫んだ。
「ケイタ、ケイタ。よう戻ってきたな。母さん、待っていたよ」
ぼくは健太であってケイタではないが訂正する暇はなかった。
八十歳くらいのおばあさんがぼくに抱きついてきた。泣きながら顔をくしゃくしゃにさせて身体全体を思いっきりぼくの身体にぶつけた。どうしていいかわからずに、おばあさんを軽く抱いた。深く刻まれたおばあさんの顔のしわの中からあふれでる涙を見たときぼくも堪えきれずに泣いた。涙をこぼしながらおばあさんを強く抱きしめた。ぼくの身体の中におばあさんの小柄な身体がすっぽりと包まれた。
おばあさんの一途な愛が火種になってぼくのハートを揺さぶった。
おばあさんは「待っていた。待っていたんだよ」と何度も何度もぼくの胸のところで繰り返した。
その家は東池袋からすぐ近くの護国寺というところにあった。木造二階建ての古い一軒家で前の家を立ち退きで引き払ってこの家を買ったとのことだった。
おばあさんに手を引かれて仏壇のある和室に入った。部屋の上方を見たときぼくは大声をあげて腰を抜かすくらいにびっくりした。ぼくの写真がそこにあったのだ。そのまま立っていられず思わず畳に尻をついてしまった。絶叫したい気持ちを抑えた。
考えてもみてくれ。初めて上がった家の仏壇の上にある遺影が自分の写真だったら。そんな悪い冗談はあり得ないだろう。
死んだ息子が生きて帰ってきたと思い込んでいるのは認知症の症状に違いないが、その思い込みどおりの若者が帰ってきたのだ。
オートバイ事故で亡くなったおばあさんの息子は慶太といった。かあさんの弟に当る。ぼくからみれば叔父さんだ。
ぼくが今日からこの家に住むものと信じて布団やパジャマなどの準備を始めた。
二階が慶太の部屋よといって二階に上がっていった。ぼくの部屋という六畳の洋間に入ると何年か前に慶太という若者が亡くなった当時のままと思われる状態になっていた。
本棚の中には車やバイクの本が数冊と怪獣のフィギュアが四、五個そしてバイクのミニチュアが三台おいてあった。本棚の一番上にはバイクのヘルメットがあった。机の上には四人家族の写真立てが飾ってあった。それはこの家の中年の夫婦と二十歳前後の姉弟の昔の写真だった。もう一度その慶太といわれる若者を見つめた。
遠い昔にぼくがここに存在してこの家族の一員だった。そういう錯覚に襲われた。
ぼくはこの家に何しに来たのか。おばあさんに何を話そうとしていたのか。思い出せないほど不思議な感覚だった。
ぼくを息子と信じ、甲斐甲斐しくぼくの世話をしようとしているおばあさんがいた。時を越えて母と息子が遭遇した。おばあさんはぼくがひとり娘の息子だということをすっかり忘れている。胡桃沢さんや警察から孫の健太ということを聞いているはずなのに。
あまりにも息子の慶太にそっくりな若者が現れて脳内回路が数十年もタイムスリップしてしまった。
「慶太はね。子供のころから乗り物が好きで。車とオートバイのおもちゃでいつも遊んでいたわね。この部屋をそのままにしておいて良かったよ。あなたも長い旅行から帰ってきたんだろ。しばらくはゆっくり身体を休ませなさい。ここはあなたのおうちなんだからね。お父さんが生きていたら本当に喜んだと思いますよ」
胡桃沢さんはそんなばあさんの言動を否定しないで、ぼくの後ろから静かに見守っているだけだった。
「胡桃沢さん! ぼくは……」
ぼくは救いを求めた。
「今日だけはおばあさんの息子でいてあげなさい」
胡桃沢さんはそう言った。
<六日目>
1
家出してから六日目を迎えた。まさかかあさんの実母が住む家で朝を迎えるとは思わなかった。
ぼくは一生懸命おばあちゃんの娘のかあさんの話をした。かあさんは結婚してぼくと妹を出産したこと。かあさんは母親としてぼくと妹を大切に育ててくれたことなどを真剣に喋った。
おばあちゃんが質問をしたときはチャンスだと思って、できるだけ丁寧に答えた。そうすることが孫にできるすべてだと思ったからだ。
胡桃沢さんの言うとおりおばあさんはたった一日が経過しただけなのに状況がわかるようになってきた。
ぼくのことも「慶太」と呼んでは言い換えて、「健太さん」と言ったりした。話し相手ができたからだろうか、ぼくと話をしているだけで認知症が改善しているような気がした。
胡桃沢さんの勧めもあり、気乗りしなかったけどその日自宅のアパートに戻ってみることにした。
あのアパートには学校の教科書などもそのままにしてあるからだ。そんなことよりも父さんに会いたくなかった。会ってどうするのか、あんな父さんに会っても何の意味がないと思った。
ぼくの正直な気持ちはナオミに会いたいし、かあさんとルミに会いたかった。でも会いたい人には会う術を知らなかった。
ナオミは茨城の田舎に帰ったのだろうか、今どうしているのだろうか、ナオミとの出来事が夢のなかのおとぎ話のように思えた。
心の奥の奥にあるキラキラ光るものがナオミの心と溶け合っていた。ぼくの十四年間の人生の中で初めて本当の心が歓喜の声をあげたひとときだった。あまりにも突然の別れだったのでお互いの連絡先などを交換する暇がなかった。
ぼくは携帯を持っていなかったから、彼女の携帯番号を聞こうとする考えがなかった。
かあさんの携帯番号にしても同様で、いままでその番号を知らなくても不都合はなかった。
だったらどう探せばいいというのだ。
2
久しぶりに自宅の前に来た。アパートのドアの鍵はかかっていた。チャイムを押す。
「はい」と懐かしい、とてつもなく懐かしい声が聞こえてきた。母さんの声だった。
玄関ドアを開けたらかあさんが食卓の前に立っていた。食卓の上にはケーキの箱があった。
気持ちが昂ぶって声が出ない。
かあさんは両手で顔を覆って泣き出した。
とにかくおばあさんのことを話さなきゃいけないと思った。七十八歳のハルノばあさんは実の娘に会いたくて待ち焦がれていた。父さんとの結婚で勘当された理由はわからないけど、そんな昔のことを今わだかまる必要はまったくない。
「会いたくて、会いたくて、たまらなかった。今日はケンタの十四歳の誕生日。だからもう我慢できなくてここに来たのよ。今日は何という日なの、『ケンどこにいるの。どうか会わせてください』ってお祈りしたらあなたがやってきた」
かあさんは大粒の涙を流した。呼吸も乱れて声が擦れていた。あまりにも色んなことがありすぎて自分の誕生日のことなど、ぼくの頭から飛んでいた。
「こんな封筒があって、とうさんの連絡先も書いてあってね。今、とうさんに電話したのよ」
封筒は表の下段に社名が印刷してあるどこかの会社の社用封筒だった。中のものを取り出した。
『西条勇三殿 採用内定通知書 今般、貴殿を正社員として採用することが内定しました。ご連絡の上、来社お願いします。 笹田機械工業所株式会社』
その文書の欄外に父さんのメモがあった。
――当面の勤務場所が埼玉県の川越で少し遠方なので、会社の寮に入ることにしました。
何回も何回もその文書を読み返した。
「内定か……、正社員か……」
ぼくは呟く。そして大声を出した。
「バカヤロー、ホントにバカなとうさんだなあ」
封筒の消印の日付を見る。ぼくが家を出た日だった。ということは、ぼくが家出をした日の翌日に内定通知が届いたのかもしれない。かあさんもぼくもたった一日の差で父さんに見切りをつけたのだ。それにしても何故すぐにかあさんに連絡しなかったのだろうか。
瞬時に顔はくしゃくしゃになって身体は脱力し座りこんだ。
かあさんは嗚咽しながらやっとのことで話を続けた。
かあさんは高校時代の親友が経営するケーキ屋さんで一ヶ月の約束で働いていて、毎日のようにお客さんのバースデーケーキの予約が入るたびにぼくの誕生日の前に飛び出したことを悔やんでいたと頭を下げた。
そしてたった今、父さんの内定通知書を見て飛び上がって喜んで、すぐに父さんに電話したという。
「とうさんからもう一度家族四人でやり直そうって言われたわ。家族バラバラになったのは全部自分が悪かった。わたしとケンに心から謝りたいって」
明日の土曜日は会社が休みなので新小岩のアパートに来るとのことだった。
母さんは自分からの話がひと通りすむとかなり落ち着いてきた。気がついたら、ルミは奥の部屋で寝ていた。
「さあ、ケンタくん! お誕生日おめでとう。ケーキいただきましょう。実はね、このケーキ、わたしも製造に関わっているの。このお祝いの文字を書いたのは私よ」
かあさんはぎこちなく微笑みながらぼくのほうの皿にケーキを一切れ載せてくれた。
ぼくの話は済んでいない。ぼくの話が済まなければ食べる気がしなかった。
「ケーキはルミと一緒に食べようよ」
かあさんは微笑みうなずいた。
「実はその前に重大発表があるんだ」
「父さんのことで他にあるの」
「違う」
「それじゃあケンのことで」
「それも違う」
「実は……」
それは日の出小学校の正門前の紙谷米店から始まり、護国寺に住むおばあさんにつながる話だ。話が始まるとかあさんは動揺してきた。
かあさんが家を出てまもなく弟の慶太さんが事故死したと伝えたとき顔色が瞬時に青ざめた。ケーキのフォークを床に落とした。
「慶太」と小さい声で言った。
「父は弟を溺愛していたのよ。娘のわたしには箸の上げ下げまで気に入らなくて嫌っていたわ。父の勧める結婚を二度も断ってとうさんを家に連れてきたときは家にも上げさせないで追い返されたの。母はただおろおろしているだけ。そのときわたしはそんな生田家と絶縁しようと思った」
「そのおじいさんも数年前に亡くなった」
ぼくはつぶやく。
かあさんは遠くを見遣った。涙がひと筋、頬をつたっていた。
「おばあさんはかあさんのこと、とても会いたがっているよ」
「そうね。わたしとケンタとルミだけが肉親だしね」
「時間はないよ。今は何も問題はない。電話するよ」
かあさんの思いも聞かずおばあさんの家に電話をした。かあさんは慌てた様子で意味もなく歩き回った。
「それじゃあ、おばあさんの娘の美帆に代わるよ」
明日昼にぼくたち親子がそっちへ行くと伝え、かあさんに受話器をわたす。
電話口で立ち尽くすおばあさんの姿が目に浮かんだ。
「母さん、わたし美帆です」
それきり会話にならなかった。
おばあさんとの話が終わり、かあさんはもう一度父さんに電話をかけて、勘当された実家へみんなで明日訪問すると伝えた。
再結集の場所は新小岩のアパートではなく護国寺だ。電話の向こう側で父さんの驚く様子が伝わってきた。
ルミが奥の部屋から起き上がってきた。
「ケンちゃん、どこに行ってたの。かあさん心配するでしょ」
かあさんの口調にそっくりだった。ぼくはたまらず抱きしめた。
でもルミの発言には異議があった。どこかへ行ってしまったのは母さんのほうが先だったからだ。
「ハッピーバースデー・ケンちゃん」
十四歳の誕生日にルミの可愛い声が聞けるとは思ってもみなかった。そばにはかあさんがいる。
ナオミのことはかあさんに話せなかった。
<七日目>
1
おばあさんの家に家族四人が行く前に、とうさんと合流しなければいけない。
護国寺の本堂の前には参拝する人にまじって見慣れた姿の人が佇んでいた。
「ほら、ルミちゃん、とうさんだよ」
ぼくは左手につないだルミに言う。
「あっ、ホントだ!」
ルミはぼくの手を振りほどき、かけだした。ルミの後ろ姿も遠くにいるとうさんの顔も眩しいほど光っていた。
とうさんはしゃがみ込んだ。その真ん中にルミが飛び込んだ。
かあさんは立ち止まり両手を顔にあてた。
ぼくはとうさんとルミの抱擁を眺めていた。ルミを抱っこしたとうさんがぼくとかあさんの前にやってきた。黙って頭を下げた。かあさんは嗚咽しながらとうさんとルミに抱きついた。
「みんな悪かったな。大黒柱が腐っちまった」とうさんが言った。
「私も悪かったわ」かあさんが言う。
ぼくは言葉が出ない。
「さあ行こう。家族全員で。母さんの実の母がすぐそこで待っているよ」
おばあさんの家の前に家族四人が揃った。ぼくが玄関チャイムを押す。
おばあさんが顔を出す。母娘はすぐにそれぞれを認めた。玄関先で抱き合ったまま泣きじゃくる。
おかあさん!
美帆!
ごめんなさい!
会いたかった!
という言葉が繰り返し飛び交った。
喜んだり泣いたり叫んだりわめいたりしていた。母娘再会の暴風雨のなかでぼくととうさんとルミはその光景をしばらく見ていた。
ぼくが新しい家族の生活プランを提案するまでもなく、ぼくたち家族はこの家におばあさんと同居することになった。
「内定したのにどうしてかあさんにすぐに連絡しなかったの」
とうさんを問い詰めた。
「追いつめられていたんだ。何ヶ月も連続して不採用だと内定という文字だけでは信用できなくなるんだよ。実際、最終面接で内定というニュアンスをもらったのに通知では不採用だったこともあった。それをかあさんに伝えて結局は落胆させてしまった。会社に行って、責任者に会って、契約書にサインするまでは家族に言えなかった。すまん」
息子に深々と頭を下げた。ぼくは「わかりました」と応えた。まだ続きがあった。
「今、デジタルの進化はもの凄いけど、信頼の絆を醸成するのはナマの人間のハートの交流だと思う。就活を通じて、それを学んだ」
微笑みながら息子の頭をポンと叩いた。
その夜、興奮して疲れたのか、おばあさんは早く寝た。その隣に布団を敷いてかあさんとルミも休むことになった。とうさんはその隣の部屋に一つ布団を敷いた。
「あの小銭入れに入っていたものは何のおまじないだったの」
二階の部屋に上がる前にかあさんに聞いた。
かあさんの目が柔らかな優しい眼差しになった。
「生徒証は母さんの子どもの頃の故郷よ。本当は今の故郷の新小岩の家にみんなが帰ってこられますように祈って蛙を入れたのよ。蛙は勘違いしてここに家族を集合させたのね。みんなこの蛙の神様のおかげね」
かあさんは財布の中から金色の蛙を取り出して手のひらに置いた。
「母さん。その蛙どうしたの」
思わず叫んだ。
「ケンに渡したものと同じものよ。母さんとケンがそれぞれに同じものを持っていようと思ったの。これね……」
かあさんがその小さな蛙をつかんだとき、「これぼくにちょうだいよ」といって強引に取りあげた。かあさんは一瞬びっくりしてぼくを見た。
「ぼくの蛙がなくなったんだ」
「何だ。そんなこと。もうお役目済んだしケンにあげるよ。お世話になったんだから、蛙さん大事にしてね」
かあさんは笑った。笑顔が綺麗だった。
二階の部屋の机の上に蛙のフィギュアを置いてみた。眺めてみても何も変わらない。
掛け布団の上に大の字で寝転んだ。ナオミの顔が浮かんだ。
「ケンのとこは復活するよ。だってお金が原因じゃない。お金が回りだしたら解決するじゃない。ウチは違うのよ。信じることができなくなったのよ」
ナオミの言葉が天井のところでまわった。
「蛙は再会のため」かあさんの声がした。
「蛙は再会のため」ナオミの声もした。
飛び起きた。金色の金属でできた蛙を指でくるくる回してみた。何の変哲もない蛙。何気なく蛙の背中と腹部の部分の間に親指の爪を入れてみた。二つに割れた。そこから小さく折りたたんだ紙が出てきた。広げてみると二センチ四方の小さい紙だ。そこに何か書いてある。見慣れた母さんの文字だ。
『母さんにどうしても会いたいときは月の第二と第四日曜日の正午に新宿のアルタ前に来てください。健太の母より』
母さんの家出は長期になる可能性をほのめかしていた。
うずくまった。身体が震えて手が震えた。もう一度元に戻そうとしても蛙が小刻みに動いて言うことをきいてくれなくなった。
明日は第四日曜日だったからだ。
<八日目>
翌日になった。気持ちは決まっていた。
机の上に携帯と蛙を置いた。いつものジャンパーを羽織って母さんとおばあさんの前に立った。
「出かけてくるよ」
「ケン。何言ってるの。今日はこれから家族全員でお祝いするのよ」
「わかってる。用事が済んだら戻るよ」
家を出た。池袋を経由して新宿に向かった。これから向かうところが本当の自分の故郷のように思えた。
アルタ前は大勢の人で混み合っていた。
待ち合わせの人同士が手をあげて握手をして消えていった。
交差点で行き交う車の音や人々の話し声で喧騒な場所だったけど、ぼくの心は不思議なほど静かだった。
約束はしていないけれど、待たなければいけなかった。
待つことに夢があった。シャボン玉のようにすぐ消えてしまう夢であってもおぼろげな夢があるかぎり待ち続けよう。
恐ろしいほどゆっくりと時間が流れた。
「ねえ、ひとり?」
ふっと振り向いても誰もいない。聞き覚えのある声。気のせいか。期待しすぎているから幻聴かもしれない。
「ひとりだったら一緒に遊ばない?」
「遊ぶって?」
周囲を見回した。
「ふふふっ」と含み笑いの声。
わき道を見た。ここにもいない。
トントンって肩を叩かれた。ゆっくりと振り向いた。
少女が天使のように見えた。
「西条健太くん! 忘れ物ですよ」
右手を差し出した。手のひらの中に金色の蛙が光っていた。
次の言葉が出てこなかった。嬉しくって胸が張り裂けそうだった。どう表現したらいいか、わからない。
蛙を受け取る。ぼくの右手と少女の右手が重なった。
「蛙のふるさとは?」
そう聞いた。こんなときに我ながら変な質問だった。
彼女は口元を尖らせて小首を傾げた。そして瞬時に目が輝いた。
「歌舞伎町!」ひと呼吸置いた。「あたしは歌舞伎町の姫よ」
ナオミは自信たっぷりに答えた。
「お姫様、これから歌舞伎町で遊ぶ? 泊まりはネットカフェでさあ」
ぼくの声は身体も震度五くらい震えていた。ホントにナオミと一緒であれば、もうどうなってもいいとさえ思った。
「バッカじゃない。ケンは」
ナオミは弾けるほどの笑顔を見せて言い放った。
「ウチ、ケンのお陰でちゃんと生きてみようと思い直したのよ。その恩人がバカじゃない。歌舞伎町の不良に逆戻りするつもり。お母さんに会えたんでしょ。お父さんにも会えたんでしょ。家族が再会できたんでしょ。ケンの顔にそう書いてある」
ナオミはまるで超能力がある少女のように言い切った。
「うん、まあ、そうだけど」
「やっぱりね。良かったじゃない。ホントに。ウチもちょっとは真面目に人生考えようかなって思っているの。こんなふうに思ったのは、ケンのお陰よ。ケンってホントに真面目でしょ。相手のこと親身に考えてくれるじゃない。世の中にはケンみたいな人がいるってわかったの」
ナオミは、満面に笑みを見せた。
「近々、おばあさんの家に家族で引越しすると思う」
途切れ途切れに言った。。
「今日、会えて良かった。本当に良かった。また会おうね」
ナオミの笑顔が泣き顔に急変した。
ナオミは両手を振って、雑踏の中に消えていった。雑踏のなかに黒いコートの長身の男の人がいた。ナオミのパパだ……直感的にわかった。
たったの二、三分だった。これが彼女に許された再会の時間だった。
本当にもう会えないかもしれない。そう思うと切なくて目頭が熱くなった。
(了)
2