素敵な約束
春に手渡されたような気がした何か。ひととせ巡って、それが何だったのかぼんやりと思うころ。今居る住処から引っ越すことに決めて、若干の寂しさも感じつつも開花の知らせを聞き届けた心は期待に溢れている。見納めというほど大袈裟なものではないかも知れないが、いつもの街並みの中に留めておきたい情景を探して歩いたりしていた。気にはなっていたが結局通うことがなかった図書館の敷地にうっすら薄紅がさしている木を見つけ、思わず立ち止まる。
『ありがとうございました』
照れくさそうなその女の子の姿。近くの駅に設置してあるピアノを弾いていた姿に見惚れるように聴き入っていたあの日、彼女は最後に春をイメージしたオリジナルの曲を演奏してくれた。それは小さな蕾が次第に花弁となってゆくような希望が感じられる作品で、聴き終えたその余韻の中で何かが心の中に宿ったような気がしていた。
そして、いま、図書館から出てきた一人の女の子。それは偶然にもあの時ピアノを弾いてくれた子に違いなかった。迷いながらも彼女に声を掛け、心の中に宿っている想いを言葉にしようと思ったとき、それはこんな声になった。
「もう一度あの曲を聴かせてくれませんか?」
彼女は嬉しそうに頷いてくれた。『歌織さん』という名のその人と一緒に同じ駅に向かっている間、彼女が躊躇いがちにこんな風に言う。
「あの時のこと覚えていて下さる方が居るなんて、わたし想像してませんでした」
聞くと彼女は来月に高校3年生に進級するらしい。「受験」や「進路」という文字が否が応にも意識されてしまう時期にある中で、ピアノは彼女にとって癒しであり喜びであり、希望なのだそうだ。
「将来のこととか全然わたし、想像できていないんですけど、ピアノを弾いている時には自分がしたいことをやれているなって思う時があります」
あの時の印象と変わらずどこか恥じらうように伝えてくれた言葉。去るのがどこか残念に思われてしまうほど穏やかな空気に包まれたひと時に、その柔らかな声に秘められた力強いなにかを感じ、刹那、記憶の中にある遠い昔の誰かの姿をそこに垣間見たような気がした。車が通り過ぎて、我に返って、気が付いたら知らずに彼女も自分も微笑んでいた。
駅のピアノはあの日と同じ姿で二人を待っていてくれている。まるで最初からそうなる定めであったかのように、彼女が席に着きもう一人は静かな観客となる。
「それでは聴いてください。『見つけた』」
そうだ、彼女はあの日も『見つけた』と言ったのだ。初々しさのあるその名を持つ曲が彼女の指から奏でられ始めると、周りの空気がたしかに、違う世界の何かを語り始める。演奏に慣れた滑らかな運指の中にも微かな音色の張りを感じ、それでいて愛らしい旋律は無邪気なようにも響くし、その存在の在り方を示すようにも聴こえてくる。
<ああ、そうだったのだ。自分の中にも「居る」ように感じたんだ>
音はいつしか世界に溶け、それが身体に染み込み何かと対話を始めるように展開してゆく。揺り動かされた頭部にひたすらに心地よいものを感じたまま、曲という時間は過ぎてゆく。自らの言葉では言い表すことのできないものに身を委ねたまま、気付いた時には演奏を終え席で数名の『聴衆』に向かって一礼した歌織さんの姿を見届けていた。
その時の心からの拍手は、たぶん本当に自分の中にある想いを伝える為のものだった。新しい街でも、きっとそれは忘れない場面のはずで。小走りで駆け寄ってきた歌織さんは息を弾ませながら言った。
「またいつか演奏、聴いて下さいね!」
彼女のその言葉は自分にとってちょっとだけ意外なものだった。けれど、その時、迷わず答えた。
「またここに来ます」
それはもしかしたら、思い出に溢れたこの街と交わした素敵な約束だったのかも知れない。




