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山川という男

作者: 北野とほ

 生物教師の坂井が勤めているのは、長野県北部の片田舎にある私立高校である。東京の大学を卒業して、新卒の年から非常勤講師としてこの高校に赴任し、早いものでもう十年になる。そろそろ常勤に昇格したいと思っているのだけれど、学校側にもいろいろ事情があるらしい。

 理科の非常勤講師は坂井を含めて三人いた。物理担当が四十三歳の笹木、化学担当が三十八歳の盛岡、そして生物担当が一番年下で三十二歳の坂井であった。しかし実際には自分の専門以外の分野も教えることが多かったから、実際には全員で理科全般を担当しているようなものだった。

 「笹木先生、上のお子さん、今年小学校に入学ですよね?」

 理科準備室の窓際の席から盛岡が声をかけた。

 「そうなんだよ。下の子も幼稚園に上がるから今年はほんと大変」

 笹木には妻と小さな子供が二人いる。何かと物入りの時期だけれど、非常勤講師の給料だけでは家族四人を養うのが大変だと、看護師をしている妻と共働きなのだそうだけれど、それが原因なのかどうか、いつも奥さんには頭が上がらない様子であった。一方、盛岡は、妻と子供が東京にいるのだけれど、訳あって単身赴任中だ。

 「坂井先生はいいよなぁ、一人でずっと気楽なんだから」

 坂井は言うまでもなく、万年彼女募集中であるが、別に好きで一人でいるわけではない。最近流行りのマッチングアプリというのも試してみたけれど、二度目のデートになるといつもすっぽかされてばかりでどうもうまく行かないのだ。

 「二回目のデートで逃げられるなんて、よっぽど魅力がないんじゃないの?」

 盛岡はいつもずけずけとものを言ってくる。

 高校の校舎にはもちろん職員室はあるのだけれど、理科の非常勤講師は職員室ではなく理科準備室に常駐することになっていた。だから昼休みの時間はこのように三人でとりとめもない話をしながら、理科準備室で食事をとるというスタイルが定着していた。

 理科の教師という性質上、授業の一環として生徒を連れてフィールドワークに出かけることがあった。特に坂井の勤務する長野県北部の校舎からは、北アルプスの山々を間近にみることができる。少し郊外に出れば、周りを自然に囲まれており、屋外で授業を行うのには最適だった。生物基礎の学習指導要領においても生物の多様性と生態系の分野については、「観察、実験などを通して探究し、生態系の成り立ちを理解させ、その保全の重要性について認識させる」と記載されている。

 そういう環境に恵まれていたせいか、都会で生まれ育った坂井も自ずと山に魅せられて行った。最初はフィールドワークのために登山靴やウェアを購入したのだけれど、それがきっかけとなって、徐々に高い山にも登るようになり、現在では笹木、盛岡とともに非公式の登山部を結成していた。登山部の名前はいいのが思いつかなかったので、暫定的に「登ろう会」と呼んでいた。三人は休日に近場の山に登っては仕事の鋭気を養っているのだった。ゆくゆくは日本百名山も制覇したいと話している。

 だが登山には少なからず危険も伴う。ちょうど十年前、坂井が大学を卒業した年の三月、まだ雪深い北アルプスの山中で滑落事故が起きた。どこかの大学の山岳部のパーティーが雪で覆われた狭い稜線を歩いていたとき、先頭を進んでいた当時三年生のリーダーが足を滑らせた。そのときはパーティー数名でお互いをザイルでつないでいたそうだが、固定が甘かったため、先頭のリーダーだけがそのまま滑落してしまった。捜索も難航したこの痛ましい事故は当時、大々的にニュースで報じられたのだった。確か亡くなったリーダーは青木という学生だったはずだ。


 四月に入ったある日、坂井は笹木、盛岡とともに校長室に呼ばれた。新たな新人の理科教師が非常勤として赴任するとのことであった。校長の後ろに立っていた、背の高いその男の名前は山川といった。がっしりした体つきであったがどことのなく影のある雰囲気を漂わせた男であった。

 山川は新任といっても卒後八年目であった。年齢的には坂井の二つ下ということになる。担当は生物だから一応、坂井と一緒だ。それまでいくつかの高校で勤務していたとのことであったが、どこも長続きせず転々としていたと聞いた。なぜそのような経歴なのかは校長も教えてくれなかった。

 何はともあれ、こうして理科準備室に新たな机が一つ増えた。


 「山川先生はS大学だよね。学生時代、何やってたの」

 さっそく話しかけたのは盛岡だ。

 「一応…、部活は大学の山岳部に所属していました」

 少し間をあけて、山川が応えた。

 予想外の返答に、三人は顔をみあわせて歓喜した。無理もない、山登りを趣味にしている三人にとって、経験者の参入はこれ以上頼もしいことはないからだ。

 「実は俺たち、非公式に登山部を結成しているんだ。登ろう会って言って、名前はダサいんだけど結構一生懸命活動してるんだ。山川先生も入ってくれるよね! ちょうど今年の夏、白馬岳に登る計画を立てていたところだったんだよ」

 盛岡は喜び勇んで山川を誘いながらスマホを見せて、過去に撮った山での写真を見せびらかそうとしていた。しかし、返ってきたのはさらなる予想外の返答であった。

 「僕、もう山には登ってないんです」

 さらに山川は続けた。

 「これからも山には登るつもりはないです。だって山登りなんて疲れるだけじゃないですか」

 あまりにもぶっきらぼうな返事に三人は、驚きを通り越して淋しさと焦りが混ざったような心境になった。

 「だって、山に登ったら達成感もあるし、山頂からの景色だって格別なもんでしょう。山川先生だってまがりなりにも登山部に所属していたんだから、その魅力わかるよね?」

 若干慌てて坂井が言ったが、山川の返事は実にあっさりしたものだった。

 「上からの景色が見たかったら、ヘリコプターでもチャーターして眺めたらいいんですよ。その方が百倍楽です。わざわざ歩いて登るなんて体力の無駄ですよ」


 せっかく、頼もしい仲間が増えてくれると思って盛り上がっていた気分を一気にぶち壊しにされて、三人は少し白けた雰囲気になってしまった。新しい仕事仲間とのコミュニケーションもいきなり出鼻をくじかれた形だ。

 山川が机に荷物を運びこむために理科準備室から出て行ったあと、三人は顔を見合わせた。最初に口を開いたのは笹木だった。

 「なんだよあいつ、せっかく誘ってやってるのに。俺なんてカミさんの顔色をうかがって、いつもびくびくしながら山登りの許しを得てるんだぞ」

 盛岡もそれに続く。

 「名前だって山川なんだから、山と川が好きなんじゃないのか? 山に登らないでずっと町にいるんだったら、名前も山下に変えてしまえばいいんだよ」

 名前は関係ないんじゃないか、と坂井は思ったけれど確かにあの態度はどうかと思う。

 「まぁまぁ、たぶん新しい職場に赴任したばかりでまだ緊張しているだけですよ。これからゆっくり誘っていきましょうよ」

 坂井は二人をなだめた。


 それからしばらくたった。新任の山川は仕事の覚えも早く、非常勤講師が一人増えたおかげでずいぶん仕事も楽になった。しかし、山川は職場ではあまり打ち解けることはなく、理科準備室での登山の話にも乗ってくることは一切なかった。


 夏も近づいたある日のことだった。いつもの通り理科準備室での昼休みのときだ。笹木はいつも通り、学校の購買で買った焼きそばパンを食べていた。別に笹木は焼きそばパンが好きなわけではない。本当は手作り弁当が食べたいのだけれど、妻が作ってくれないからと仕方なくいつも一番安い焼きそばパンを食べているのだ。もっとも、妻も看護師という不規則な時間での重労働なのだから無理もない。小さな子供がいながら病棟勤務で夜勤も普通にこなしているというのだからすごいとしか言いようがない。ところで、焼きそばパンとは切れ目の入ったコッペパンに焼きそばが詰まっている調理パンのことだ。知っている人も多いかもしれないけれど、あれを食べるのには相当な技術がいる。一口食べるごとに必ず何本か、焼きそばがこぼれ落ちてしまうのだ。しかし笹木は三年間、毎日焼きそばパンを食べ続けた結果、片手で食べても焼きそばを一本もこぼさずに短時間で食べられる技術を習得していた。

 辛いもの好きの盛岡はたいてい韓国製のカップラーメンかレトルトカレーだった。まったく二人とも山に登るのだからせめて栄養には気をつけてほしいものだ。一方、料理だけが取り柄の坂井は毎朝、栄養バランスに気をつけて自分に弁当を作っている。山川はというと、入職した時からずっとコンビニの殺風景な惣菜とプロテイン飲料だけだ。


 「山川先生は彼女とかいないの?」

 理科準備室の隅の電子レンジで激辛カレーを温めながら、デリカシーもなく盛岡が聞く。

 「彼女なんて大学の時からずっといませんよ」

山川はボソッと小さな声で応えたが、それ以上多くを語ろうとしなかった。

「ずっと彼女がいないなんて、坂井先生と一緒じゃないの」

 片手で器用に焼きそばパンを食べながら、笹木が冷やかす。

 「一応先輩だからいうけど、彼女が可愛いのなんて付き合っているうちだけだよ」

 誰も聞いていないのに笹木が身の上話を切り出した。

 「俺なんて最近は家に帰っても、酒も飲ませてもらえないんだからね。こないだなんて、コインランドリーでさ…」


 笹木の話を半分スルーしながら、坂井はたしかに不思議に思っていた。お世辞にもイケメンとは言えない坂井に対して、背も高くてクールな山川はいつパートナーができてもおかしくなかった。

 夏休みが訪れ、登ろう会の三人は予定通り一泊二日の行程で北アルプスの白馬岳に向かった。猿倉から大雪渓を経由して栂池に下るコースだ。一日目は早くに出発して登山口から入山した。天気は上々、しばらく歩くと白馬大雪渓に入った。まぶしい太陽が雪面に反射するなか、アイゼンを装着し呻吟しながら登っていく。

 「山川先生、なんで来なかったんですかね」

 坂井が言った。

 「ああ、山下か? あいつは山には登らないやつなんだよ」

 間髪を入れず、盛岡が応える。山下ではなく、山川だ。実際、ここに来る前に三人はなんども山川を誘った。しかし予定があるとの一点張りでまったく誘いには耳を貸さなかった。もう山には登らないというのは本当だったようだ。素晴らしい天気のなか、しばらくの登りの後で白馬山荘に到着した。白馬山荘は山頂稜線に乗った地点から十五分ほど山頂直下にある。宿泊手続きをすませると三人は荷物をデポしてすぐさま白馬岳に向かった。山頂には大きな石造りの展望盤が設置されている。遮る物のない大展望が日本海から富士山まで続いていた。

 その日の夜、標高二千九百メートルの山には満点の星空が広がっていた。星明かりの下に北アルプスの稜線が鋭く浮かび上がる。坂井はこのとき、やっぱり山は素晴らしいものだと心から思ったのだった。

 翌日は日の出前に起きて、山頂でご来光を拝んだ。朝食を済ませて稜線を白馬大池方面へ進み、小蓮華山を越えて白馬大池に到着した。白馬大池山荘で一休みしてから大きな岩を越えながら白馬乗鞍岳に至る。平坦な山頂からこれまで来た方角を振り返ると、白馬三山と呼ばれる山々の連なりが望まれる。本峰、杓子岳、鑓ヶ岳、そして北西に位置する小蓮華山の東・北面は、バリエーション・ルートを数多く有し、積雪期を対象に登攀されている。ちょうど十年前の学生の滑落事故はあの辺りで起こったものだと聞いている。三人は絶景に後ろ髪を引かれながら道なりに下って、ロープウェイとゴンドラを乗り継いで栂池高原に下山したのだった。


 ある朝、山川はうなされるように目を覚ました。またあの夢だ。右腕にいやな感触が残っている。こんなことが十年も続いている。

 実は山川には学生時代に付き合っていた女性がいた。彼女の名前は里穂といい、二人はまだ学生だったけれど将来を約束した仲であった。だがある日突然、山川は何も言わずに彼女の元を去り、二人はもう二度と会うことはなかった。山川にそんな過去があろうとは、登ろう会の三人は知る由もなかった。


 秋も深まってきたときのことだ。

 「山川先生、青木さんという女の人が面会に来てるよ。面談室に通しておいたから」

 教頭がわざわざ理科準備室まで伝言に来てくれた。それを聞いた盛岡は、

 「おお! 彼女ができたかぁ? ヒューヒュー!」

とはやし立てた。そのリアクションには目もくれず、山川は青ざめた顔をして椅子を立つと走るように部屋を出ていった。

 面談室につくなり、山川はノックもそこそこに部屋のドアを開けた。

 「里穂…?」

 そこにいたのは、紛れもなく山川が学生時代に付き合っていた青木里穂であった。

 「ずっと探してた。どうして連絡もくれなかったの?」

 里穂がいう。すでに目には涙があふれている。山川がこの学校に赴任したことを人づてに聞いたらしい。

 「やっぱり十年前のあの事故が理由だったの?」

 「ごめん…」

 里穂の問いかけに対して、山川はうつむいて黙っているしかなかった。

 十年前の春、北アルプスの雪山で山川の所属するS大学の山岳部が事故にあった。狭い稜線で、先頭を歩いていた三年でリーダーの青木が突風にあおられて足を滑らせ、急斜面にぶら下がった状態になった。その後ろを歩いていたのが当時二年の山川であった。里穂は同じ山岳部に所属していたが、そのパーティーには参加していなかった。パーティーの数名は相互の安全確保のためにお互いの身体を結びつけるアンザイレンをしていたのだけれど、滑落した拍子に、青木のカラビナの安全環が回ってザイルが外れてしまった。山川がとっさに青木の腕をつかんだのだけれど、その拍子にパーティー全員のバランスが崩れて、あわや全員が滑落という危険な状態になった。青木のアイゼンが下に落ちていく。青木の手をつかむ山川の右腕にも限界が近づいていたときだった。青木が口を開いた。

 「里穂のこと、たのんだぞ」

 青木はそっと微笑んだかと思うと、山川の腕を振り払って谷底に落ちていった。


 里穂は、亡くなった青木の妹だった。青木先輩を殺したのはこの俺だ、恋人の兄を俺は殺してしまったのだ、山川は自責の念に襲われた。腕をつかんだ右手の感触が怖いほどリアルに残っていた。罪悪感にさいなまれた山川はそれから登山部をやめ、大学を卒業後は仲間からも音信不通の状態となった。


 「あの時はお兄ちゃんが悪かったの。山川くんが責任を感じる必要はないのよ!」

 「……」 

 肩を落とす山川から嗚咽が漏れた。事故から十年が経っている。過ぎ去った時間はもう戻ってはこない。誰もいない部屋で二人はそっと体を寄せあった。


 翌年の三月、雪の残る北アルプスの尾根を歩く、山川と里穂の姿があった。十年ぶりに登った雪山は朝日を浴びてモルゲンロートにに染まり、三六〇度の稜線がグラデーションの空にシルエットを刻む。


 「先輩。僕、里穂さんと結婚します。一生大切にすると約束します。どうぞ安らかに眠ってください」


 険しい北アルプスの山々にも、遅い春が訪れようとしていた。


(了)

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