第七話
リットはバゴダスに背負われるような格好で海を泳ぎ、コーラル海賊団の海賊船『コーラル・リーフ号』に乗り込んだのだが、誰一人その存在に気付く者はいなかった。というのも、海賊全員がボーン・ドレス号に向かって野次を飛ばしに行っているからだ。
縄はしごを伝って甲板に到着するとその理由がわかった。全員が好き勝手に叫んでいるので、あまりに騒々しさに波の音さえ聞こえない。
それに加えて、汗の臭いと化粧の臭いが潮風に混ざって鼻に届くので、リットは耳と鼻をのどちらを手で覆えばいいのだろうと、短い時間に本気で考えていた。
「船長! ティナ船長!!」とバゴダスが大声で呼びかけると、ティナは足元に置いてあったバケツを拾い上げ、それをひっくり返して肩あたりから自分に水を流しかけた。
あまりに勢いがいいので、跳ねた水はリットにも存分にかかってきた。
「見ない顔ね」
ティナはバケツを適当に投げると、リットの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、覚えてくれ。これは突然マヌケを見た時の顔だ」
「人魚が水浴びをしてなにがおかしいのよ」
ティナは髪先についた水気を手で絞るようにして乾かすが、服は全く絞ることをしなかった。ぼたぼたと甲板にしずくが垂れて、そこから細い川をいくつも作って海に還っていった。
それが日除けと乾燥対策なのは、リットにも見てわかった。頭から水をかぶらないのは、厚化粧が落ちないようにだろうというのも。
「今度はなにを見てるの?」
「驚いてるんだよ」
「あら、海賊を見るのは初めて?」
ティナは濡れた指先で唇をなぞって光沢をもたせると、その唇を小さく動かしてくすくすと笑ってみせた。
「いや、ガキだってそこまで自分の顔に落書きはしねぇよ。いっそ型でも取って、仮面を作って身につけたらどうだ? 時間が省けるぞ」
海賊に恐れる様子もなく、ただただ軽口を叩いてくるリットに不快感をあらわにしたティナは「バゴダス!!」と大声で呼んだ。
「はいよ、船長。言いたいことはわかってるよ。リットは用事があるらしく、イサリビィ海賊団の船からオレが連れてきたんだ」
ティナは「ふーん……」とリットの顔をまじまじ眺めると、肩を組んで自分の隣に立たせた。「ねぇ、アリス!! そっちのとこの男が一人こっちに寝返ったわ!! 残念だったわね! これでこっちは二! そっちは一よ!!」
ティナの上機嫌な高い笑い声はとても綺麗だった。まるで歌うように海原に響き渡っている。
それに混ざって「この野郎! 裏切りやがったな!」というアリスの怒声と、「男の風上にも置けんやつめ!」というマグダホンの責め立てる声が聞こえてきた。
リットがなにか言う間もなく、両方の船から「日没です」という声が聞こえると、最後にアリスとティナが一言ずつ悪態をついてから、お互いの船が離れていった。
「みんな見た? あのアリスの顔! こんな痛快なことは久しくなかったわ」
ティナはリットの肩を組んだまま甲板を練り歩き、部下達とアリスの失態を笑いあった。有頂天ですっかりリットの存在など忘れており、思い出したのは夜になり、ある小島についた時だ。島から伸びる木々が、まるで魚を釣るように海面まで枝を垂らしている。そんな緑に溢れた島だが、浜はないので船を停めるような場所はなかった。
「バゴダス!! なにコイツは!!」
ティナは組んでいた肩をほどくと、突き飛ばすようにしてリットから距離を取った。
「船長……それはさっきも言ったよ。まったく……人さらいをするとは、うちの海賊団も落ちぶれたもんだ……」
バゴダスは呆れたように言うと、尻餅をついたリットに手を貸した。
「言い訳はいらないわよ。……まさか諜者!? そんなに賢そうには見えないけど……」
「気が合うな。オレもアンタが賢そうにはとても見えない。仲良くなったところで、話をしてもいいか?」
「良くないわ。どこの誰とも知らない相手と、急に仲良くしろって言うの? 私がそんなアバズレに見える?」
リットは海水で透けた真っ赤なブラを見ながら「見える」と頷いた。
「バゴダス!」
ティナが説明をしろと名前を呼ぶので、バゴダスはまた一からリットのことを説明した。
「アリスのとこのねぇ……。そういえば……」ティナは思い出したと手を打った。「アリスのあの顔見た?」
「……見た。本題に入ってもいいか?」
「話すなら、勝手にどうぞ」
「船をもらいに来たんだ。この船の前に使ってたやつ。もう使ってねぇんだろ?」
「船が欲しいの? それなら最初から言いなさいよ。私は誰にでも船をあげてるんだから――なんて言う人が、この世に一人でもいると思うの?」
「いたらいいとは思ってる。どうだ? 今なら、記念すべき一人目になれるぞ」
「遠慮するわ。最後の一人になる予定だから。みんなが船をあげたら、私もあげる。話はおしまい。後は好きに野垂れ死んで。手っ取り早く死にたいなら、今すぐに海に投げ捨ててあげるから、決心がついたら言って。つかなくてもそのうち投げ捨てるけど」
ティナはリットの今後のことなど興味がないと背を向けたが、リットがある人物の名前を出すと態度が豹変した。
「仕方ねぇ……なんとかアリスを頼るか。一番ノセやすいし、落とすならあそこからだな」
「ちょーっと待った! 今アリスを頼るって言わなかった?」
「言ったよ。間違いなくな。酒も飲んでねぇんだ。言い間違えも、聞き間違えもねえよ。アンタのこともちゃんと厚化粧女に見えたままだ。それが二杯も飲めば見慣れたツラになるってんだから、酒ってのは不思議なもんだよな」
「お酒はないわよ。ここじゃ誰も飲まないからね。そんなことより!! なんで私がいるのに、アリスを頼るって言うのよ。私を頼ればいいじゃない!」
「驚いた……酒を飲まなくても酔っぱらえるらしい……。先に頼ったはずだけどな」
「事情が変わったの。アリスが頼られて、私が頼られないなんてありえないわ! なんでも言ってみなさい」
「おい……バゴダス……」
リットは話が進まないから助けてくれと視線を送るが、バゴダスは難しい表情で肩をすくめた。
「ティナ船長は素だぞ。気分屋で、見栄っ張り、なにより人の話を聞かない。オレの苦労が偲ばれるだろう? 助けてくれてもいいんだぞ」
「今にも海の投げ捨てられそうなオレに助けを求めんなよ」
「誰が投げるって言ったの? アリスに出来て私に出来ないことはないわ。船を見せてあげるから、ついてきなさい」
ティナは茂みに入るように操舵手に指示をする。
船首が枝を折りながら緑の中に入っていくと、イサリビィ海賊団の隠れ家と同じような絶壁に囲まれた入り江に到着した。
高くそびえる木々が枝を伸ばし、葉を重ね合わせて、天井を作っているせいで。夜の闇は一層深くなっている。
ティナが一言「解散!」と叫ぶと、人魚の海賊達はぞろぞろと船を降りていった。イサリビィ海賊団の時のように水しぶきは聞こえない。全員が桟橋を使って岩浜まで降りていった。
そこから改めて海に入り、岩浜下の洞窟へと泳いでいった。
「ずいぶんマナーのある行動をしてるけど、本当に海賊なのか?」
リットが海に映る尾びれを見ながら言うと、バゴダスが肩に手を置いた。
「そうだぞ。みんな初めての客人に緊張してるんだ」
「……本当に海賊なのか?」
「そうだって言っただろう。まぁ、うちの海賊団は化粧をした時としてない時で性格が違うからな。今頃マーメイドハープでも弾いて、今日のことを語らう準備をしてるだろう」
「バゴダス!! 余計なことは言わなくていいの。そこの……リットって言ったけ? ついてきなさい。前に使ってた船を見せてあげるから」
ティナは尾びれで岩浜をのたのたと這って歩くと、さほど離れていない場所で止まった。
「これが先代のコーラル・リーフ号よ」と自慢気に言うが、リットの目には何も見えていなかった。
真っ暗すぎで、葉の天井に陰る月明かりだけでは、どんな船を確認するかは不可能だった。
リットが妖精の白ユリのオイルが入ったランプに火を付けると、真昼の太陽の光が船を照らした。
「眩しい!! ちょっと消して! 目が焼けるわ!!」
「消したら船が見えねぇだろ。目をつぶって十数えてから、ゆっくり開けろ」
ティナは言われた通りにゆっくり十まで数えてから目を開けた。まばたきを繰り返して、明かりに慣れたことを確認すると、ほっと一息ついた。
「あー驚いた……。目玉をもぎ取られたかと思ったわ……。なに? その光は?」
「なにって、ランプの光だ。詳しい話を聞きたけりゃ、リゼーネの軍船か商船を襲って聞け」
リットはティナに許可を取ると、船に乗ってどんなものかと確認した。
船はマストが三つ。三角帆の小型帆船だ。小型と言っても、海賊船として使ってきただけあって、船を動かす準備をするには何十人もいるだろう。これなら、マグダホンも文句を言わなさそうだった。
「十分だな。こんな良い船をもう使わねぇのか?」
「部下が増えたからね。この船だと、もう乗り切れないの」
「イサリビィ海賊団もそうだけどよ……人魚なら泳げよ」
「人魚が船に乗るにはそれなりの理由があるの……海よりも深い理由がね」
ティナは船のヘリに肘をついてもたれかかると、わかりやすい大きなため息を付いた。
「厚化粧が取れるのが嫌なんだろ? 陸の女は賢いぞ。なんてったってな、化粧が崩れないように海賊をやらねぇからな」
「浅い話どころか、陸の話をしないで。厚化粧だって言うけど、元は日焼け止めから始まったのよ。この隠れ家だってそう。太陽が当たらないように選んだの。南の海の太陽を舐めてると死ぬわよ」
「だから海に潜ってりゃいいんだよ。つーかよ、案内してもらってなんなんだけどよ。隠れ家に連れてきていいのか? イサリビィ海賊団の船から来た男だぞ」
「いいのよ。仮の隠れ家なんだから。本来の縄張りはもっと南よ。まぁ、今の時期はこの海域もかなり暑いけど。それに、アリスと違って私は懐が深いの」
「まぁな、アリスは船に乗るも隠れ家に行くのにも、いちいちうるせえからな。懐はアンタのほうが深い」
「そうでしょう!? そうでしょうよ! そうなの! なかなかわかってるわね。正直な男は好きよ」
「そりゃな、タダで船を貰えるんだから媚も売るし、正直者のフリも出来る」
「ちょと待った! 今なんて言った?」
ティナが食って掛かってきそうなほど近付いてきたので、リットは降参だと両手を胸元に上げた。
「わかったよ……認める。正直者のフリじゃなくて、ただ嘘ついただけだ。たいして懐の深さは変わんねぇよ」
「違うわよ。今、タダで船を貰おうなんて言うバカげたこと言わなかった?」
「言ったぞ。言っとくけどな、オレだってバカげたことだと思ってる。でもしょうがねぇんだ。そういうものだと思って譲ってくれ」
「自分でなにを言ってるかわかってるの?」
ティナは厳しく眉をひそめた。まさか海賊相手に本気でタダで船をもらいに来ているなど思いもしなかったからだ。
「わかってるよ。詳しく聞きたけりゃ、マグダホンっておっさんに聞いてくれ。今度はリゼーネの船なんて探さなくても、イサリビィ海賊団のボーン・ドレス号に乗ってるからな」
「なんでそっちを連れてこないのよ……」
「オレだって連れてこられる予定なんてなかった。そっちが勝手に連れ去ったんだ」
「なら、もっとそれらしく怯えたらどうなのよ」
「お望みなら、船で漏らしてやってもいいけどよ。お互い損しかしねぇぞ」
ティナは「あーもう……」とめんどくさそうに空に目を向けた。「いいわ。どうせ明日もアリスと決着をつけるんだから。ついでに帰してあげるわよ。あなたを海に投げ捨てたら、海が汚れそうだもの……」
「世話ついでに、寝るとこも借りていいか? 酒がありゃ石でも気にしねぇけどよ、ないんだろ?」
「もう……勝手にこの船を使って。どうせ一人でなんて動かせないから。……おしっこを漏らしたら怒るわよ」
「安心しろ。もし漏らしても、水浴びしたって言い切るからよ」
「あと、船の話をしたいなら、自分で来るように言って。そのなんとかっておっさんに」
ティナは疲れたと肩を何度か回すと、海に飛び込み顔を洗いながら岩浜下の洞窟へと消えて言った。
リットは波紋を見送りながら「どう考えても、海を汚してるのはあの化粧だな」と呟くと、甲板にごろんと横たわった。
酒も持ってきていないので、早々に寝てしまおうと思ったからだ。静かな夜、目を閉じたらすぐにでも寝られそうだと思ったが、急に海から泡がいくつも湧いてきた。
泡は海面で割れるとハープの音を響かせる。どうやら洞窟の中で人魚の演奏会が始まったようだ。
リットは舌打ちを慣らすと手で両耳を塞いだ。なぜなら、泡が割れて鳴り響く音は音楽ではないからだ。楽譜の断片のようなものが泡ごとでバラバラに響いてくるせいで、陸では騒音にしかならなかった。
子守唄にはなりそうにもない騒音は海の中からなので、潜るわけにもいかないリットは演奏が止むまで眠ることが出来なかった。