第二話
翌日から、マグダホンの様子が変わった。かと言って大きく変わったわけではない。さざなみのように静かに馴染むが、確実に砂浜を削り取るようだ。
例えば、リットの仕事の邪魔をしなくなった。だが、工房に来なくなったわけではない。リットが使っていない時に使わせてもらい、農具や金具などの修理をしている。
始まりはカーターの店の両開きのドアだ。古く錆びていて、誰かが店に入る度にキーキーと耳障りな音を立てていた。この街に来てから随分カーターには世話になっていると、マグダホンが無償で修理を請け負った。
マグダホンが作った蝶番を取り付けたドアは、手を使わずに軽く体で押せば開けることが出来て、杖をついた老人でも簡単に開けられることが出来た。それでいて隙間なくドアは閉まるので、隙間風も入ってこないので寒くない。なによりも、酔っぱらいが寄りかかって壊すことがなくなった。
そんな評判は彼が腕の良いドワーフだという噂と共に広がっていき、この数日はボロス大渓谷の穴の中にいたころと同様に仕事をしていた。
今日もイミル婆さんがパンを焼くための鉄器の調子が悪いと、リットの店まで持ってきていた。
「あぁ……これはヒビが入ってるな。ほら、ここだ」
マグダホンはランプを近づけると、ヒビが入ってる箇所を指でなぞってみせた。
「困ったねぇ……今日は町の子供達にパンを焼く約束をしてるんだよ。いつものパンなら竈で焼けばいいけど、この特製の鉄鍋で焼かないとふわふわにならないんだよ」
「それは一大事だ。イミルさんのパンが食べられないなんて……。まるで雲をちぎって食べているようだと評判だからな。よしきた! ヒビを直すなんて、このマグダホンにかかればあっという間だ。すぐに直して届けよう」
「なんだか他の人に悪いよ」
「子供のほうが大事だと皆わかってくれる」
「そうかい? ならお言葉に甘えようかね。こっちも夕方に出来たてのパンを届けるよ」
マグダホンとイミル婆さんは同時にリットを見た。
「なんだよ。まさか、オレが届けるのか?」
「そうは言ってないよ。でも、そこまで言われたら断れない。頼んだよ、リット」
イミル婆さんはパン生地をこねるために、急ぎ足へで店を出ていった。
カウンターには、店に並べられたランプには似つかわしくない鉄製の鍋が、一際存在感を残して置かれたままだ。
マグダホンは「聞いてただろう? また工房を借りるぞ」と鉄鍋を手に取った。
「かまいはしないけどよ……なんかおかしくねぇか?」
「なにもおかしくないぞ。ほら、見ろ。ここにヒビが入って三股に別れている。長年使われてきたんだろう……歪みのせいだな。だが、こんなものはドワーフの技術を使えば一瞬で終わる」
「オレが言ってるのは、なんでランプ屋に鍋の修理の仕事が入ってくるかってことだ」
「おい、リット……。勘違いするな。この鍋は無償で直すから仕事じゃない。善意だ。対価があって初めて仕事だ。そうだろう?」
「タダ働きとは物好きにも程がある」
「無償だがタダではないぞ。私には私の考えがあるんだ。それも壮大なやつだ」
「なんでもいい。聞く気はねぇからな」
リットは工房を好き使えと言うと、カウンターに足を乗せて大きなあくびをした。
今日はまだランプ屋としての客は一人も来ていない。それに、リットの態度などみんな慣れっこなので、店に入って靴の裏が見えていようが驚くようなことはなかった。
そんな日々が更に数日続いたが、いつからかリットの店にはひっきりなしに客が来るようになっていた。
だが、店にはリットの姿はない。リットはカーターの酒場にいた。
「……乗っ取られた」
ウイスキーを一口。リットはコップを少し乱暴にカウンターに置いた。
「ローレンに女でもとられたか? ハリケーンと一緒だ。過ぎ去るのをひたすら待て。待って待って待ち望めば、空には青空が浮かんでる」
カーターは慰めるように高級なナッツを小皿入れたが、リットが「乗っ取られたのは店だ」と言うと、素早く引っ込めた。
「なんだよ……つまんねぇ話かよ」
「そうだよ、面白えなんて言ったら、酔っぱらいをけしかけてぶっ飛ばしてもらってるところだ」
「いいじゃねぇか。無償は最初だけ、今は金ももらって店は繁盛してんだろ?」
「ドワーフの鍛冶屋だぞ。オレはなんだ? 明かり係か?」
「そう卑下するなよ」
「ヒゲはマグダホン一人で十分だ」
「そう拗ねるなよ。なんなら、今から真面目に働きゃいいじゃねぇか」
「勘違いすんなよ。別に店を乗っ取られたのはいいんだ。いや、よくはねぇけどよ……。問題は、なんでオレが小間使いをしなきゃいけねぇかだ」
「誰も、小間使いだなんて思ってないって。ところで、頼んでたフライパンは?」
「……ほらよ」
リットはマグダホンに頼まれた、コーティング済みのフライパンをカーターに渡した。
「これこれ。焦げ付きにくいってやつだ。ドワーフの技術ってのもすげーな。空焚きする手間が省けるってもんだ。なんなら、これで一品作ってやろうか?」
「悪いな」
「気にすんなよ。誰もタダとは言ってねぇんだからよ。――……冗談だ。まぁ、ゆっくり食って飲んでけよ」
夕方になると、スパッと仕事を切り上げたマグダホンが酒場にやってきた。
「どうだ? しっかり働いたか?」と意気揚々と言うと、酔っぱらい達は適当にコップを掲げて返事をした。
「よう、マグダホン。今日はなにを飲む?」
カーターが言うと、マグダホンは適当に頼んでリットの隣の椅子に座った。
「どうした? 元気がないな。よく働き、よく休めと言っただろ」
「だから、よく休んでんだよ。昼からずっと」
「戻ってこないと思ったら、昼からいるのか、休みすぎじゃないのか?」
「誰かが店を乗っ取ったおかげだよ。ありがとよ」
リットが皮肉で掲げたコップに、マグダホンは陽気に乾杯を鳴らした。
「これもすべて神のお告げに従ったまでだ。前に、この酒場で酔いつぶれて寝てしまった時があっただろう? その時に夢の中で、火の神からお告げがあったんだ。奪えと」
「とんだマヌケな神だな」
「そう言うな。それに従った結果。私は小金持ちだ。これで船が帰ればいいのだが……」
「んなの無理に決まってんだろ。そんなはした金、今日オレに奢って全部消えるぞ」
「ビールの泡になって消えるか……それもまたよし」
マグダホンがビールをお代わりを頼むと、空のコップを取りに来たカーターが思い出した顔でリットのを指した。
「そうだマヌケだ!」
「誰がマヌケだって?」
「違う。リットがマヌケだって言ってんだよ」
「違ってねぇだろ」
「そうじゃない。マグダホンの夢に出てきたマヌケな神様がリットだって言ってんだ。ほら、ここでオレと話してただろう。海賊が奪うとか、神の加護がなんとか。その時に隣で酔って寝てたのが――」
カーターはビールを注いだコップを渡すついでに、マグダホンを指し示した。
リットは真面目な顔で「マグダホン……」と向き直った。「これは神からの言葉だ。今すぐウイスキーをオレに奢れ」
「奢るか。まったく騙しおって……。今日の稼ぎはしっかり貯めておく」
「貯めてどうすんだよ」
「船を買うんだ。何十年かかろうとな。私はやってみせるぞ!! この町から成り上がるんだ!」
マグダホンはビールを一気に流し込むと、自分の声に賛同して声を上げた酔っぱらいの元へ乾杯をしにいった。
カーターは「いいのか?」とリットに聞いた。「オレには、今のは明日も鍛冶仕事を請け負うって聞こえたぜ」
「オレには、この先何十年もオレの家に居座るって聞こえた」
「それもいいじゃねぇか。ノーラにとっちゃ家族と暮らす良い機会だ。ついでに母親も呼んだらどうだ?」
「今、ノーラは家にいねぇよ。鉄臭いのが料理をまずくするって、チルカにくっついてリゼーネに行った。カバンに食い物を詰め込んでな。たぶんエミリアの屋敷に転がり込んでるんだろう」
「それで、毎晩ここで飯食ってるってわけか。どうだ? 久しぶりの一人の生活は?」
「そりゃ最高だろう。本当に一人ならな。知ってるか? 最近のオレは、鉄を叩く音で目覚める。まるで鼓膜に針を刺されてるみてぇだ」
「そりゃ、拷問だな……。そうだな……どうだ? マグダホンみたいに、神のお告げに従って生きてみるってのは」
カーターにとっては他人事なので、からからと笑いながら言ったのだが、リットは思い立って飲み干したコップを強くカウンターに置いた。
「それだ!」
「おかわりか?」
「違う。神に従ってみるってやつだ」
「嘘だろ……リット。オマエさんが神に従うってのか? 勘弁してくれ……明日は鉄が降ってくるぞ……」
「最後まで聞けよ。マヌケな神が言ってただろ。『海賊』だって」
「まさか……海賊になって他の船を奪うってんじゃないだろうな。共犯にはなりたくないから、一応言っておくぞ、やめとけ」
「それも手っ取り早くていいんだけどよ。知り合いの海賊が、沈没船を引き上げてそれを海賊船にしてる。沈没してるもんを引き上げりゃタダだ。マグダホンも納得してかみさんの元へ帰るだろ」
「マヌケな神だから言っておいてやるけどよ。沈没船ってのは、乗れないから沈没したんだぞ」
「なら乗れるようになりゃ、立派な船だ。――おい、マグダホン! 帰るぞ」
「まだ、私は飲み始めたばかりだぞ……」
「船が欲しくねぇのか?」
「欲しいに決まってるだろう。今まで何日もなにを聞いていたんだ……」
「なら、しっかり働け」
「働いていただろう。今まで何日もなにを見ていたんだ……」
「旅の資金がいるって言ってんだ。オレが稼ぐより、マグダホンが稼いだほうが手っ取り早いだろ。行き先は『ドゥゴング』。港町だ」
リットはとりあえず盛り上がれと、関係のない酔っ払いを煽ると、次々におかわりの注文がカーターの元へと飛んできた
「まさか、リットが店に貢献してくれるとはな」
「この酔っぱらい達は、帰りに何かを壊してく。自分の家のドアか、しまい忘れた農具か、酒場の便所か知らねぇけどな。――まいどあり」
リットは明日から忙しくなると、マグダホンと一緒に帰っていった。
カーターは「まったく……神様は今日も人助けか」とリットの背中を見送った。
「おい、カーター! 便所のドアの蝶番がひん曲がっちまった! ちょっと寄りかかっただけなのによ!」
ベロンベロンに酔っ払った男が、剥がれた蝶番をカーターに投げ渡した。
「そりゃ……神の天啓だよ。ちっとは痩せろとよ……」
評判の良いマグダホンの鍛冶仕事は、深夜から朝方にかけて酔っぱらい達が壊した修理の依頼がひっきりなしに入ってきた。そのおかげで旅資金はあっという間に溜まった。今回はノーラもいないので食費を考える必要がないし、宿なしで馬車に寝泊まりすればいいという男二人旅なので、いつもより稼ぐ必要がないのも幸いした。
一番安い馬車と御者を、リゼーネにいるパッチワークに手配してもらい、弊害はなく無事にドゥゴングへと到着した。
雇われの御者とは早々に別れ、二人は港を歩いていた。
「どれだ!? どれが私の船になるんだ?」
港に並べられた様々な船を見たマグダホンは、年甲斐もなくはしゃいでいた。
「どれもなんねぇよ。全部が人の船だ。それに今探してるのは船じゃなくてネコだ」
「ネコだ? ネコなんて船とどんな関係があるっていうんだ」
「ネコの獣人がいるんだ。船のネズミ駆除をしてるな。前に船が必要な時も、そいつに力を借りたんだが……ただのネコも見かけねぇ。飯でも漁りに言ってんのか?」
「私達も飯にしよう。どうせなら人魚がいる店がいい」
「そのうち、見飽きるほど人魚を見ることになるんだけどな。まぁ、あの店は縁起がいい。最初に海賊の話を聞いたのもあそこだからな」
リットは前にも行ったことのある、人魚の料理店のキッチンハサミへと向かった。
店の中でマグダホンは「おったまげた!」と声を上げた。「半裸の姉ちゃんが、恥じらいもせずに歩き回ってるぞ」
「そりゃ、人魚だから。下はなにも履かねぇだろうよ」と、リットは席に座るなり「この辺の海賊ってどうなったんだ?」と店員に聞いた。
「イサリビィ海賊団のこと? まだ暴れてるよ。でも、闇が晴れてから色んな航路が復活してね。それに伴って縄張りを広げてるみたいよ」
「そりゃまた……真面目に海賊してんだな」
「真面目で困っちゃうよ。ここだけの話――」と人魚の店員は言葉を止めて、注文表を差し出した。そして高いメニューの欄を指でなぞった。
「わーったよ。適当に頼む。あと酒もだ」
「はーい」と満面の営業をスマイルをした人魚はリットに背中を向けた。
「おいおい、ここだけの話はどうなった」
「私のかわいい人魚スマイルに騙されないとは、お兄さんなかなかやるね。ワンダホーだよ」と人魚の店員は、尾びれで足元の水路の水を拍手のように叩いた。「さて、ここだけの話だね。復活した航路っていうのは海賊の話ね。商船とか漁船とかじゃないやつ。でも、海が闇に呑まれている間に航路は変更されて新しくなったの。闇が晴れた今となっちゃ、さぁ大変。新旧二つの航路が入り混じちゃって、二つの海賊が航路の取り合いを始めちゃったってわけ。二つとも人魚の海賊で、行動範囲が広い弊害だね」
「人魚の海賊ってのはイサリビィ海賊団だけじゃないのか?」
「イサリビィ海賊団ってのはここらで有名なだけだよ。南の海には『コーラル海賊団』って有名な人魚の海賊がいるんだよ。この二つが縄張りを争いをしてるわけだけど……同じ人魚として恥ずかしいもんだよ」
店員はやれやれと首を振ると、注文を通すために離れていった。
「行動範囲を広げたか……やっぱりチャコールの協力が必要だな。航海中じゃねぇといいんだけどな」
「私にはまったくもって意味不明だ」とマグダホンは顎ヒゲをなでた。「船が欲しいと言っているだけなのに。ネコがどうした、人魚がどうした、海賊がどうしたと、まるでハンマーで頭を打たれたようだ」
「説明すんのは面倒くせえよ。そのうち全部一つにつながる。今やることは食って飲んで、ネコに餌付けすることだな」
リットは先に運ばれたきた酒瓶を手に取ると、マグダホンのコップに注いだ。