第十五話
リットとマグダホンは北島と西島の間にある龍腕海峡に来ていた。
そこで、カラクサ村で知り合った男の祖父に話を聞いているのだが、第一声は言葉ではなく「うーん……」という唸り声だった
「ダストホール……ダストホールねぇ……」
老人は小舟の上で川波に揺らながら、絡まった網を解く手を止めて悩んだ。
「龍の産声伝説ってもんと関係ありそうだと思うんだけどよ」
リットはピンと来るものがないかと聞いてみたのだが、老人は首を傾げてから、否定するように首を横に振った。
「龍の産声伝説というのは引き潮のことだぞ。引き潮で露出した浜の模様が、龍の鱗のように波打って見えるからそういう話が出来たんだ」
あっさりと伝説のネタばらしをされたリットは、なんとも言えない気持ちでいた。こうも簡単に手がかりが消えるとは思わなかったからだ。
無言になるリットに、老人は網を軽く持ち上げて「まだ聞きたいことはあるのかい?」と聞いた。ないなら、漁道具のメンテナンスを先にしてしまいたいと圧力をかけて来たので、リットは立ち去ろうとしたのだが、マグダホンは小舟から勝手に釣り針を取り出してまじまじと眺めだしていた。
マグダホンは「なんじゃあこりゃあ」と、小指の爪の大きさもない程の小さな釣り針に驚いた。サイズもそうだが、形も湾曲していなくまっすぐの針だからだ。
「それは小物釣り用の針だ。気を付けてくれよ、曲がると釣れなくなる」
「こんなんで何を釣るというんだ?」
「ワシらが龍の糞って呼んでいる小魚だ。目を凝らして覗いてみろ。そこらにうようよいる」
言われたとおりマグダホンは川面を覗き込んだ。
そこには小指サイズの細長い魚が、川砂利についた藻に我も我もと群がっていた。
「こんな小さな魚が釣れるのか?」
「釣るって言っても針に引っ掛けるわけじゃない。よく見ろ、いくつも返しがついてるだろう?」
老人が軽く触れてみろと言うので触れてみると、マグダホンの指先に釣り針がくっついた。これは汗や川水などの水分でくっついたわけではなく、極小の返しが皮膚をひっかけたからだ。
この返しに、餌の藻をくっつけて川に垂らし、龍の糞という魚がしっかり食いついたところを見計らって竿を上げる。餌を咥えた瞬間に魚を持ち上げるという釣りだ。
「これはすごい。ドワーフの私が感心するほどの出来だ」
その針の精巧さにマグダホンはただただ驚いた。
「なにただの爺の趣味だ。船を出せない時は暇でね。ここらの漁師はみんな自分の針を持ってるのさ。なんだ、龍糞釣りに興味があるのか?」
「釣りそのものより、釣具に興味がある。特にこの針だ。この細い針には、どんな道具で返しをつけているんだ?」
「それは色々だ。長く生きた爺の知恵の中には、役に立つものも役に立たないものも色々詰まっている。どら、みんなを集めてやる。ここで待ってろ」
老人はどっこいしょと重い腰を上げると、手入れしていた網を置いて村の方へ歩いていった。
「技術というのは面白いな。生活様式に合わせて研ぎ澄まされてきたものは、どれも独特だ」
マグダホンは興奮気味に言うが、語りに熱が入れば入るほど、リットは冷めていった。
「あのなぁ……船を手に入れるために、こうして東の国くんだりまで来てんだぞ。のんきに釣りでもして帰るつもりか?」
「せっかちに海を渡るつもりか?」
マグダホンは河口の小舟から、広がる海峡へと視線を移した。
天気は曇り、青黒い海が強風に煽られて白く波立っている。今日は北島へと向かう渡し船も休業だった。リットがいくら焦ったところで、今日はここで足止めされることは決定していた。
「まだ爺さんの仲間入りをする気はねぇって言ってんだ。そっちはもうすぐかも知れねぇけど、こっちはまだまだなんだよ」
「なにを言っている……私だってまだまだだぞ。爺さんが海賊船に乗り、東の国まで来るなんていう大冒険をすると思うか?」
「そういうのを中年の危機っつーんだよ。刺激を求めて家の中から外へ。初めての景色にテンションが上って、若い女に手を出した結果、家に帰れなくなった奴を何人も知ってるぞ。そういう奴は、たいてい酒場で文無しになって途方に暮れてる」
「決めつけはよくないぞ。私は酒場に寄る前から文無しだ。リットのところで稼いだ金も、ドゥゴングで使い果たしたからな。……よく金もないで旅を続けられるな」
マグダホンは尊敬とも蔑みとも言えない目でリットを見た。
「そりゃ誰かに寄生して旅を続けてるからな。今だって、本当に困りゃ、鍛冶屋にマグダホンを売りつける。それにな、なくなったのはマグダホンの金で。オレが用意した金は残ってる。人の為に自分の金を進んで使うほど、お人好しじゃねぇからな」
「そんなことは気にすることじゃないぞ。どうせ、これからはリットの金を使わないと旅を続けられないんだからな。まずは今日の宿代からだな」
マグダホンは調子良く笑うが、リットが宿代を払うことはなかった。なぜなら、宿に泊まることはなかったからだ。村の老人達と気が合ったマグダホンは、夜通しで龍の糞釣りを楽しんでいるからだ。
リットの持っている妖精の白ユリのオイルが入ったランプで川面を照らすと、昼だと勘違いした魚が集まってくるので、普段は出来ない夜釣りに、村の漁師はこぞって参加していた。
「重りも重要なんだ。針が流されると、餌の藻も流れていくからな」
「でも、針と重りの位置が近いと、魚が警戒して寄ってこない。長年の経験が物を言うわけだ」
漁師達はマグダホンにアドバイスをしながら、自分達も釣り糸を垂れた。
針につけた餌の藻に寄ってきた魚を、食いついた途端に器用に引っ張り上げて、誰が一番小さいのを釣ったのかと競い始める。
マグダホンも教わりながら何度かチャレンジすると、引っ張り上げることに成功した。だが、バケツ代わりの小皿に入れる前に、魚は餌から口を離して川に飛び込んで逃げていってしまった。
元々口の力が弱く、引っ張り上げたら素早く水を張った小皿で受け取る必要がある。釣り上げるのではなく引っ張り上げる理由も、魚の口の弱さのせいだ。針が引っかかってしまったら、口元が千切れてしまう。魚を傷つけずに釣るのが、この釣りの醍醐味だった。
「リット、本当にやらんのか? なかなか楽しいぞ」
マグダホンは釣り竿を持った手を振るが、リットは遠くの木に背中を預けたまま、立ち上がることもなく、手を払うようにして振り返して拒否を示した。
リットは宿に泊まるつもりだったのだが、この近くの村の宿の主人は漁師も兼任しているので、集まって釣りをする集団の中にいた。
布団で眠ることも出来ず、酒もない。リットはただぼーっと眠気が襲ってくるまで待っているしかなかった。
やることといえば、時折焚き火に薪をくべるくらいだ。一本薪を足すと、しばらくの沈黙の後、木の命を吸ったように大きく燃え上がった。
一瞬辺りを明るく照らすと、はしゃぐ老人達の姿がはっきりとリットの目に映った。
「いいか? 魚もバカじゃない。様子見に咥える時に竿を動かしちゃいかん。これは目で見る釣りだ。食いつく時の口の開け方を見極めるのだ」
「食いつくとも言っても、魚は咀嚼するわけではない。口を開けて飲み込もうとする。大きく口を開けた時に……」と、老人は一度自分の言葉を頭で反芻すると、急にリット方へ振り返った。「そうだ、思い出したぞ。『龍口島』だ」
「なんだよ……龍の糞する場所か? オレは釣りはしねぇぞ」
「アンタが聞いたんだろう。なんとかホールってところはないかと。北島の近くに龍口島という島がある」
「オレが探してるの島じゃなくて穴だぞ」
「穴かどうかは知らんが、そこはもう島ではない。大昔に地盤沈下で崩れてしまったからな。潮の流れが早すぎて、誰も近付くことの出来ない島だ」
「あるんじゃねぇかよ……。どう考えてもそれがダストホールだ」
「最近まで龍口島のある海域は闇に呑まれていたからな。すっかり存在を忘れていた。だが、大昔過ぎて誰も島のことは覚えていないと思うぞ。何百年も生きる妖怪でもない限りな」
老人はそれっきりリットに話しかけることはなかった。隣の漁師が記録的極小サイズの龍の糞を釣ったことにより、全員が真剣モードに入って黙ってしまったからだ。
翌日、一睡もしないまま渡し船に乗ったマグダホンは、陸に打ち上げられた魚のように横たわっていた。
マグダホンは「ここは本当に海なのか……」と、息も絶え絶えに言った。
「何言っているんじゃ。揺れない船などあるものか。龍腕海峡の波は複雑だと言っても、今日は十分穏やかな波だ」
船頭の老人は、船酔いにダウンしたマグダホンに情けないとため息を付いた。
「まだ嵐にも遭遇してないからな。船っては気楽なもんだと思ってんだ」
昨夜に酒を飲んでいればリットもマグダホンと同じように船酔いしていたが、酒もなく、睡眠も十分だったおかげで、揺れて暴れる小舟の上でも平気だった。
北島の岸へ辿り着いたときには、マグダホンの顔は真っ青になっていた。
「ひどい目にあった……」と浜に倒れ込むマグダホンを見て、リットは今日は海岸の村に泊まったほうが良いと思った。これから向かう龍頭温泉郷は山の中にあり、船酔いで胃の中のものをすべて海にぶちまけたマグダホンに山道は無理だと考えたからだ。
宿を取って、しばらくベッドに横になったマグダホンは「まいったまいった……」と体を起こした。「すまんな。余計な一日を取らせてしまった」
「気にすんな。気にするなら、一日だけじゃなくて、船探しをしてる余計な日々全部を気にしてくれ」
「なら気にしないことにしよう。こんなに長い日々のことをいちいち覚えていられん」
「嘘でも覚えてるって言えよ……苦労の日々だろう」
「苦労してるのはリットだからな。私は波に身を任せるだけ、まるで船のように」
「船っていうのは漕ぐから船なんだよ」
「ならリットが船だな。よし! 存分に大海原で暴れろ!」
「今の今まで船酔いでダウンしてた奴の言うことかよ」
リットが呆れると、返事の代わりにマグダホンのお腹が鳴った。
「確かに今言うべきことは、空になった胃になにかを詰めることだな」
その後マグダホンはいつも以上に夕食を食べると、ぐっすり寝て、翌朝には元の体調を取り戻していた。
だが、山道を進み、立ち上る湯けむりに姿を隠す長い道を見て、再び具合が悪くなったような気がしていた。
「なんじゃあ……ここは……」
マグダホンは龍頭温泉郷の通りのど真ん中で立ち尽くしていた。
狭い木道の両端には、食べ物から土産物まで屋台がびっしり並んでいるので、他の客とすれ違うたびに肩がぶつかる。温泉だけが目的ではなく、ただ山を超える者もここを通らなければならないので、人が少ない日はなかった。
そんなところで突っ立ったままのマグダホンは邪魔でしかなかった。
リットに背中を乱暴に押され歩き出したものの、見たことのない提灯の明かりや活気のよい客引きの声に気圧されて、マグダホンは心ここにあらずだった。
しかし、長い道の最後の難関と言わんばかりの長い長い階段の前に来ると、我に返って「こんなところ上ったら死ぬぞ……」と言った。
「この上が温泉宿なんだよ。安心しろ、前に上った時は死ななかったからな」
「ランプ屋の癖に、あちこち旅している男と一緒にするな。私はドワーフで、ドワーフらしく穴蔵で生活していたんだぞ」
「そんな奴が船を欲しいって言い出すから、こうなってんだ。何度も言わせんな」
リットが先に歩き出すと、ここではぐれたら二度と会えないと、マグダホンが慌てて追いかけてきた。
階段を上り切った時には、マグダホンの口から言葉は出ず、ただ空気だけを求めて口を開けていた。
そんな疲れも、温泉に浸かると溶けてなくなっていくようだった。
「いやー……湯に浸かるというのはいいものだな」
マグダホンは口まで湯に浸かると、ゆっくり息を吐いてブクブクと音を鳴らした。
「おっさんと同じ風呂に入ってなけりゃな」
リットが入っている風呂は、前に来た時と同じ升形の風呂が階段状に重なって高く伸びているものだ。上の升風呂が一番熱く、下に行くにつれてぬるくなっていく。
「私だって入れるならノーラと入りたいものだ。どれだけ成長したのか見ものだ」
「どう考えても成長してねぇだろうよ」
「そんなはずはない。まさか見たんじゃないだろな……」
「ちんちくりんは、いつまでたってもちんちくりんってことだ。ドワーフが成長するとこなんて、髭くらいのもんだろ」
「まぁ、背は伸びんことは確かだな。だが髭が伸びなければ、子供に見られて困る。子供と言えば、東の国の子供はずいぶんうるさいものだ……」
マグダホンは迷惑そうに眉をひそめた。
「そんな声が聞こえるか?」
「リットの方は、湯が流れているから聞こえないんだろう。こっちに来てみろ。よく聞こえるぞ」
マグダホンに無理やり引っ張られると、リットの耳には小さく子供の声が聞こえた。
「注意したほうが子供のためかもしれんな……」
「ほっとけよ、うるさいガキに絡むと、それ以上にうるさい大人が出てくるぞ」
「なら、場所を変わってくれ」
マグダホンがあまりにうるさいので、渋々場所を変わったリットの耳には、今度はハッキリ子供の声が聞こえてきた。
「その時――拙者の刀が、おなごの悲鳴の元を切ったでござる!」という武勇伝を揚々と語る声だ。




