【江戸時代小説/男色編】嵐の花
わたしは長男ではないから、家督を継げない家の厄介者だったために陰間茶屋(売春専用の美少年がいる傾城屋)に売りに出された。
そして、十二の齢で芸を学び、男を知ることとなった。
家のためになるならと、売られたのを不幸とも思わず落ち込みもしないが、お尻の窄った穴に太い男根を受け入れる痛みを鑑みれば、ひとより幸福という訳でもないだろう。
踊りを見せる舞台の後ろで、屏風が立てられ布団が敷かれる。
やがて茶屋の下男(召使いの男)が声をかける。
「お床がまわりました」(布団の準備が整った合図)
今夜は角屋の息子に見初められ、呼び出された。
ボテ腹客相手の伽が始まるのだ。
太った客は体重をかけてくるから重くて敵わない。
内心、嫌すぎて鳥肌を立たせながらも作り笑いを浮かべ、深々とお辞儀をし、相手へ躙り寄る。
「今宵お相手を務めさせていただきます、野分と申します」
野分とは源氏名である。
秋風が吹く長月(九月)。わたしが初舞台を踏むその日は、看板を下ろすほどの強い風が吹き荒れていたので、台風を意味する野分という名があてられた。
茶屋で本名は使われず、売り子たちは自分であって自分でない。そういう心構えでいたほうが精神的にずっと楽だと教わる。
むさい客の精液が吐き出された。
「お迎いでございます」(遊び時間終了の合図)
ちょうど線香が燃え尽きたようだ。(線香一本燃え尽きるまでが一切(約一時間~二時間)という時間単位)
襖ひとつ挟んだ暗部屋でこちらの様子を伺っていた、わたしのまわし(お付きの者)の乙吾郎殿が時間だと告げる。
ここで客が「ああ」とか「ええ」とか、相打ちを打てば延長として線香がもう一本立ち、売上が増す。
しかしこの日の客は、なにも言わずそそくさと褌をまいて帰る支度をしている。
もう少し羽振りのいい客がきてくれたらなぁ。
「そいじゃ、また今度」
朝焼けの中に消えてゆく客を、作り笑いで見送りつつ、もっと金子(お金)を持って出直してきなさいよと心の中で罵ってやる。
ある日の晩、何度か体を重ねたことがある客が、面白半分か、その最中に、わたしに刀剣を咥えろと言ってきた。
差し出された刀の峰をおずおずと咥える。
わたしは口が切れてしまうのではないかと不安になって咥えたくなかったが、客の要望は絶対で、拒むことは許されない。
こんなことをさせるなんて、異常だ……。
嫌で嫌で仕方がなくて、断ることもままならないから泣くしかない。後ろから犯されているから睨むこともできない。
ああ、口元の感覚がなくなっていく。怖い……痛いのは嫌、苦しいのも……止めて。お願い。
「お直しの時間でございます」(遊び時間終了の合図)
まわしが一言、わたしを救う。
無論、あちらからすれば線香が尽き、時間が来たのを報せただけのことだろう。至極当たり前のことをしたまでなのだろう。
それでもこのとき、わたしは救われたと思った。
客が帰り、ひとりきりになった布団の上。
中に出されたものを早くかき出さなきゃ……。
思考だけ回って、体が重くて追いつかない。
布団の上でため息をついていると、まわしの乙吾郎殿が客を送ったその足でやってきた。
「口、大事ないか」
「……はい」
「傷がないなら早く下の処理をしてきなさい」
「……」
おだてもせず優しくもされないで淡々と言われたので、嫌だという意思表示に軽く睨みつける。
すると、それを見た乙吾郎殿はやれやれといった感じでわたしの頭をぽんと撫でた。
「馴染みの客ゆえ、今回ばかりは目を瞑ったが……次は止めに入る。よく、辛抱したな」
乙吾郎殿は普段、無口なだけあって、こんな風に褒めてくれたことなどなかった。
わたしは尚更、嬉しくなって、今度の客の無茶を承知してよかったと思った。
「ほら、後が閊えている。早く支度なさい」
よい夢ほど、覚めるのは早いのだった。
わたしは元々、借金のカタに身売りされたわけではないので、焦って稼ぐ必要もなかった。けれど、それなりに根を詰めて働くのには訳があった。
幼いときに川で溺れて助けてくれたのがここの楼主なのだ。
そのため、恩返しにわたしはここで働き、その賃金は最低限の生活費と実家への仕送りを除き、ほぼ全て店の営業に充ててもらっている。
この訳を知る者はいない。雇い主の楼主さえ聞いてはこない。
店が損をしなければ良し、わたしたち売り物が壊れなければ良しの付かず離れずの関係を保っている。
ある日の夕方、客を取る前の少し開いた時間に、ある人物の部屋を訪ねた。
「野分でございます。菊の字姐さん、居られますか」
「ああ、居るよ。お入んなさい」
ふすまを開けると、そのひとは、煙管を吹かしながら沈む夕陽を眺めていた。
もうじき仕事が始まる。その前の一服というところだろう。
このひとは、茶屋に来てもう五年になるそうで、わたしに対してなにかと世話を焼いてくれる。聞くところによると、わたしと七つ離れた十九の齢で、この歳になると骨ばった躰になるために女客相手が主になるらしい。
男も女も知る、大先輩である。
「菊の字姐さん、相談なんですが……“心中立て”は、好いた相手でなくとも、お客に迫られたならば、やらねばなりませんか」
菊の字姐さんは「おや……」と首を傾げて、どこか遠くを見ながら言った。
「ここん所、足しげく通ってくる、あの角屋の息子になにか言われたのかい」
きっと色んな経験をしてきたのだろう。わたしの悩みもこのひとはわかったように、まさしく障子が合うようにぴしゃりと言い当てられる。
「ありゃあ、止めときな。そのうち金子が尽きるから。そうだねえ……あと三、四回顔見るのが関の山さ。それに、貫肉(腕や股を刀で突いて真意をみせること)の痕だけ残りゃあ、客商売のこっちが損するよ」
煙管の灰を落とした菊の字姐さんと目が合う。
わたしは以前、聞いたことがあるうわさの一つを持ち出した。
「稼ぐためにあちこち痕をつける売り子もいると、聞いたことがあります」
「そうだね。落語の寄席の席で“三枚起請”ってのを見たことあるけど、今にそれと同じ仕舞いになるさ。こういう世界、躰を求められるから、そういう気分になっちまって、流されるまま契りを結ぶ輩もいるけど、客の相手をしているお前はあくまで“野分”であって、ほかの誰でもない。こころの奥まで、ただの客にやる必要はないんだ。それに、お前には岡惚れ(ひそかに恋すること)しているひとがいるだろう」
「え、どうしてそれを……」
「見てりゃわかるよ。お前は良くも悪くも顔に出るからね。乙吾郎の旦那も、気づいているんじゃないかい。あのひとも物を言わない性分だろうから、気づいたとしてもなにも言わないだけで」
「雇われているというか、売られているわけだけど、どうして“忘八”がいいんだい」
忘八とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳を忘れたということから楼主を指す差別名だ。
「救われたことがあるんです。いつしか……川で溺れかけたときに……」
「まわしならともかく、楼主だからね。一緒になるには一苦労いると思うよ」
「いいんです。一緒になれずとも。わたしはあのひとのために、わたしがやれることをやっていくつもりです」
「年季明けても、ここでまわしとして働くのかい」
「おそらく」
「一途だねえ。わたしなら、すべてきっちりケリつけたら、お得意さんに見受けしてもらって、窓からは見えない外の景色を見てみたいねえ。この仕事より上手くできる物事を持ち合わせちゃいないけど、夜鷹(夜道で客を引く売春婦)にだけは成り下がりたくないよ」
そう言っていた菊の字姐さんは、あっさりと道楽な知らない男に身請けされ、この店を出て行くこととなった。
「菊の字姐さん、今までありがとうございました。どうかお元気で。お幸せに」
暮れの頃だ、別れの時間の短さに胸が痛む。
「野分、お前も元気でやるんだよ。わたしは、お前自身の幸せを見つけられることを、こころから願っているからね」
目に光るものを輝かせながら、菊の字姐さんは出て行った。
それから、ひと月。
どうやら、菊の字姐さんは出てゆく直前、菫という後輩の芸子に、わたしの世話を頼んでおいたらしい。
わたしより一年早くこの世界に入ったそのひとは、おしとやかさはどこ吹く風で竹を割ったような性格の人物だった。
「汗をかいたら、ちゃあんと体洗っておかないと、垢はすぐ溜まるんだから」
菊の字姐さんを思い出すくらい、菫姐さんも世話焼きだった。
物怖じしない言い方と気遣いに加え、年齢も一つか二つ上という近さもあってか、菫姐さんを慕う時間はそれほど長く要しなかった。
そして、ある日のこと、菫姐さんもわたしが楼主を好いていることを不思議に思って尋ねた。
「言っちゃあ悪いけどさ、あんな老いぼれよか、あんたのまわしの乙吾郎さんとか、取ってる客の若いののほうが、一緒になるんにはいいんじゃないのかい」
わたしは菊の字姐さんに言ったことをもう一度、菫姐さんにも伝えた。
「過去に川で溺れたことがありまして、命の恩人がここの楼主と、人づてに……」
最初はふーんと流すように聞いていた姐さんが、首を傾げる。
「あんた、それ、いつ頃の話だい」
随分、昔のことだ。わたしはまだ幼い時分のことだから——……。
「おおよそ、七年前……くらいでしょうか。なにぶん、昔のことでおぼろげにしか思い出せませんで」
そう言い終えた途端、菫姐さんが口を大きく開けたかと思うと、怒涛の早口でわたしを責めたてた。
「なに寝ぼけたこと言ってんだい。あんたを助けたのは、あんたのまわしの乙吾郎さんじゃないか。その事件、場所は三丁目を横切るあの大きな川だろう。あたしゃ物覚えがいいんだ。ああ、忘れるはずないさ。あのとき、あたしゃ弥次馬の一人だったんだから。あんたは水の中で意識がなかったかもしれないけどね、乙吾郎さんが飛び込むのをこの目で見たんだ。それはもう必死で助けに行ったんだから。乙吾郎さんのあんな必死な顔見たの、初めてだよ。あたしゃ泳げないんでね、遠目に一連の事を見てただけだけど、誰もが躊躇する中で、真っ先に飛び込んでいったのは、ほかでもない、あんたのまわしだよ。それをあんた、ここの忘八が助けたってぇ、ぬかしてんじゃないよ。命の恩人を間違えるなんてこと——……そういや、あんた、そもそも自分を助けてくれたひとが忘八だと思った根拠は、一体なんだったんだい」
初めて耳にする事実と、菫姐さんのあまりの口調に、あっけらかんと聞いていたわたしだったが、ふと我に返り、答える。
「それは……しゃんとして働けるようになってから、轡の女房(楼主の妻)だったというひとに呼ばれまして“拾われた恩はきちんと返しなよ”と言われたものですから、てっきりここの楼主に助けていただいたのだと思っておりました」
「あのひとったら……そこんとこはっきり言いやいいものを。ちょいとばかり言葉足らずなんだもの」
菫姐さんはそう愚痴をこぼし「はあ……」と大きなため息をつく。
「すみません、なにからなにまでご迷惑をおかけしまして」
頭を下げると、それを見た菫姐さんは苦笑した。
「いいよ、あたしゃ、あんたのことが気に入ってんだから。これ以上ないってくらい、世話焼き冥利に尽きるよ。そいでも、野次馬から事を聞くより、もっと前にしっかり当人同士で喋っときなさいね」
菫姐さんはそう言いながら、わたしの頭をこつんと小突いた。
七年前、わたしは確かに命を落としかけた。
人づてにここの楼主が命の恩人だと知り、この店で働き、少しでも恩返しができたらと思っていたが、まさか救ってくれたのが別人だったとは思いもしなかった。
わたしはその晩、暇を貰い、乙吾郎殿をいつもの客間に招いた。
毎晩懸命に働いてくれている分だと少しばかり酒をくれた轡の元女房に感謝しつつ、行灯の明かりの下、彼と話をすることにした。
乙吾郎殿はただ勧められた酒を一口、口にするだけで、なにも聞いてこない。
わたしは妙な空気に乗せられながらも、お猪口の酒をぐびと一気飲みし、口を開いた。
「あのっ……」
わたしは緊張のあまり相手の目を見れずにいた。
しかし、乙吾郎殿がわたしを見ている。その視線だけはやけに敏感に感じ取れた。
「あのですね、い、いつもお世話になっています」
自分の意志に反して声が上ずる。
恥ずかしさのあまり顔が火照るのがわかった。
「ああ」
彼は低い声でそれだけ返した。
「今日は……その、ずっと言えずにいたことがあるんですが……」
ふと顔を上げ、乙吾郎殿を見た瞬間のことだった。
気がつくと、その感覚はあった。
唇に感じる生暖かい初めて覚える感触。
乙吾郎殿と、接吻している——…………。
頭で理解する頃には、唇はとうに離れ、その感触が残るだけになっていた。
それは軽く唇に触れるだけのものだったが、わたしのこころは確実に奪われていた。
それからなにをどう話し、どうやってあの夜を乗り越えたのか、まったく覚えていない。
あれから数日が経った。
乙吾郎殿とは仕事で以外、一言も言葉を交わしていない。
しかし、わたしの中で、乙吾郎殿のあの晩のあの行為が反芻して忘れられなくなっていた。それよりむしろ、考える割合は日に日に増すばかりだった。
気になるなら、聞けばいい。どうして接吻なぞしたのかと。
だが、聞いてどうする。なにがどうなるかわからない。
恐怖心が勝っていた。
「おい」
乙吾郎殿はいつになく不機嫌な顔をして尋ねた。
「具合が悪いのか」
「い、いえ、そんなことは……」
「今夜は、今のが最後の客だな。少し待っていろ」
一方的に言い放ち、どこかへ消えてゆく乙吾郎殿を、体を濡らした手ぬぐいで綺麗にしながら待った。
服を整える頃に乙吾郎殿は戻り、差し出されたのは白い粉と徳利だった。
「飲みなさい」
「薬、ですか」
薬と乙吾郎殿を交互に見る。
「外は吹雪きだ。寒さにも応えたのであろう。体の具合がよくないなら早く治せ。そうでないにしろ、これは飲んでおけ」
今まで踏ん張っていたが、言われてみれば緊張の糸がほぐれて体が熱い感じがする。
「お前の仕事は体が資本なのだ。あすの仕事に差し支えがあってはいけない。今夜はゆっくり休め」
言い終えるなり、乙吾郎殿は出ていこうとなさったが、ふと障子にかけた手を止め、振り返る。
差し出された薬を飲みながら、彼の言葉の続きを待った。
「……気張ることが悪いわけではないが、お前はなんでもかんでもひとりで悩み、抱えすぎる。このところのお前は、こころ、ここにあらずといった感じに思う。話してみなさい、悩み(それ)を聴くのもまわし(わたし)の仕事だ」
促され、わたしもようやく言い出せなかったものを口にしてもよいかという気になった。そう、こころに突っかかったままの大きなものを。
「……あの夜のことが……忘れられぬのです……」
乙吾郎殿は口を挟まず聞いてくれている。
「接吻は金で買われた相手とだけやるものだと、教えてくれたのはあなただ……なのに、どうして——」
「そのことか。……すまない。しなければよかったな。忘れてくれ」
すぐさまそう言い返され、わたしは柄にもなく憤慨した。
「そんなの答えになってないっ。あんなに、気持ちよかったのにっ……」
「——っ……」
心なしか、彼の耳が赤くなった。
「なぜしたのですか、教えてくれたっていいでしょう」
乙吾郎殿は困ったというように口元に手をやって、視線を逸らした。
「わたしは川で溺れた過去があります。助けてくれたひとはこの店で働いていると人づてに聞き、その恩義に報いる今までここで働かせていただいておりました。わたしはてっきりこの店の楼主が助けてくれたとばかり思っておりました。しかし、先日、助けてくれたのは乙吾郎殿だったと菫姐さんから伺って、とても嬉しかったのです。だから、接吻されたあのときも、求められた気がして、嬉しかったのです」
想いが届くようにと、わたしは訴えかける。
「お願いです、あなたの口から理由が聞きたい。知りたいのです、あなたのことを」
そう迫るわたしが折れないのを悟ってか、乙吾郎殿は徳利をお猪口も使わずに飲みなさって、渋々、語り始めた。
「……肉親に売られたという、自分の境遇を卑下することもせず、ただ有りの儘、日々の仕事をこなす姿に目を奪われた。ほかの芸子のように一度は斃れるものと思って見ていたが、そうとは違う、なにかがお前の中にはあるんだと、それに惹きつけられた」
わたしは紡がれる言の葉を、乙吾郎殿の気持ちを、決して忘れまいと黙って聞いた。
「お前が川で溺れた、あの日のことはよく覚えている。助けに入ったのはまったくの偶然だ。考えるまでもなく、体が動いていた。息をしていないとわかったとき、生死を彷徨うお前を、こちら側へ呼び戻そうと、必死になった、ただそれだけだった。数年後、この店にお前が来て心底驚いた。あのとき助けたわたしを捜してかと思ったが、親に売られたのだと楼主から聞いて、ほかの芸子と変わらない理由で再び会うことになって、悲痛な思いをした。思えば、二度目にお前の姿を見たあの日から、わたしはお前のことを特別に想っていたのかもしれない。だから今度も助けねばと、お前のまわしになれまいかと楼主に頼み込んだのだ」
そこまで聞いて、わたしには一つ疑問が浮かんだ。
「では、どうしておっしゃってくださらなかったのですか、わたしたちが会うのは二度目だと、溺れたとき助けたのは自分なのだと……」
「わざわざ言うほどのことでもないと思ったのだ。覚えていないのならばそれでいい、川で溺れた記憶なぞ、呼び起こすものでもないと思った」
どこまで優しいひとなんだと思った。
「ならば、口づけたのは……」
「野分、お前を特別、好いているからだ」
いつの間にか饒舌になっている乙吾郎殿に、このひとは酒に酔うと口が滑るのかとおかしくなった。
「わたしも、です」
酒が一等、美味しく感じられた。
気がつくと、吹雪は止んでいて、雪はゆっくりと地面に降り溶けていた。
「締めに」
乙吾郎殿が問う。
「鮭の茶漬けでも、どうだ。一緒に……」
わたしはふっとほほ笑んで引き受けた。
「はい、是非に」
夜はまだ長く、わたしは、自分の幸せの形を、このとき、ようやく見つけた気がしていた。
おしまい