二つの航路(後編)
秘密のドックでの整備を終えてから早一時間。レイト達一行を乗せた鋼鉄蒸気船は、東方の群島領域へ続く航路の上を脇目も振らずただひたすらに走っていた。
マストの代わりに聳え立つ三本の煙突からは黒煙をもうもうと吐き出し、蒸気と魔力の二つの機関から伝わる動力が両舷に備え付けられた巨大なパドルを回して水を掻く。
まるで鉄の海獣だ。と、甲板の手摺にもたれかかって風を受けながらレイトは独り言のように呟いた。
実際、この船の速力は、レイトの知る船とは一線を画している。
ギアン老人曰く、本来の帆船ならばどれだけ風に恵まれたとしても十日はかかる航路を、この鋼鉄蒸気船は、正確な操舵と機関制御を行えば、その半分、僅か五日という日数で走破してしまうらしい。
そして今、操舵室で舵輪を握るのは、人生の大半を船と共に過ごして来たギアン老人本人、機関への魔力供給と制御を行っているのは最上位の魔法使いレミィ。とくれば必然的に船は一ミリののズレも遅れもなく、むしろ皆の予想を上回る速さで東方の群島領域の中でも最大の都市、桜花へと近づいている。
「あら、レイト、こんな場所にいたのね」
背後からリシュアの声がした。
「ああ、船に乗るのなんてこれが初めてでさ。客室に篭ってるのもあれだから……な……」
と、言いながら振り返って、レイトはリシュアの姿に目を疑った。
「どうしたの、私の身体をマジマジ見つめて。何かついてる?」
うん。羽が付いてる。ついでに尻尾も。
要するにいつもの。魔族としての姿のリシュアが目の前に立っていた。
「何かついてる、どころじゃなくて、今の自分の姿を鏡で見てこいよ。変身の効果が切れてるぞ……!」
まさか気付いていないわけではあるまい。そうは思いながらも、一応小声でレイトは言った。
別に普段なら、リシュアが魔族の姿のままでいようが人間の姿をとろうが、本人の好みなのだが、今は船の上。彼女の事情を知らないアイゼンの街の船乗りたちも大勢乗船しているのだ。見つかって騒ぎにでもなれば、東方への旅どころじゃ無くなるのは容易に想像できる。
だが、ある意味今後の旅の行方を左右する大事だと言うのに、当のリシュア本人は全く気にするそぶりも、再び人間態に変身する様子もなく、レイトの隣で手摺から眼下の海を眺めながら、背中の翼をパタパタさせたりしている。
パタパタを続けながら、リシュアはとんでもないことを言い出した。
「あ、そのこと。それならもういいのよ。どうせバレてるし」
「……なんて?」
聞き間違いだろうか。いや、確かに彼女は「バレた」と言ったはずだ。
「だから、バレてるって言ってるのよ。この船の上じゃ、変身しようがしまいが同じなの。それなら魔力消費のない、いつもの姿の方が楽だもん」
状況がイマイチ読み込めないレイト。その後ろを、酒樽を担いだ二人の男が、通り過ぎて行く。
男の一人がすれ違いざまにレイト達の方に振り向いて言った。
「やぁ、お二人さん。気分はどうだい? 普通の帆船と比べて揺れも少ねぇから、乗り心地はいいと思うが……」
目の前に魔族がいるというのに、男は気にするでもなく、世間話をするような穏やかな様子だ。
「おかげさまで船酔いも無いし、風は気持ちいいし、久しぶりに海に出たけど、やっぱりいいわね」
「お、そりゃ良かった。ただ、この風的に、もうすぐ小さな嵐に遭遇しそうなんだ。船の中に戻っておいた方がいいかもしれんぜ?」
男はそれだけ言うと豪快に笑い、酒樽を担ぎ直して去って行った。
「ね?」
「いや。「ね」じゃないだろ……。どうしてバレたのかとか、さっきの男の反応とか、色々気になるんだけど……」
「……そうねぇ、順を追って話す……というか、順も何も無いんだけど。ほら、あの秘密のドックで、私だけあの老人に呼び止められたでしょう? あの時点で彼は気づいてたみたいなのよ」
手摺に背中を預けるようにもたれかかり、リシュアは語り始めた。
* * *
「お嬢さん、人間じゃないだろう?」
笑顔のギアン老人が発した言葉に、リシュアは思わず視線を自分の背中にやった。もしや、と思ったものの、やはり彼女の密かな自慢である大きな翼と艶やかな尻尾は見えない。
人間態への変身は間違いなく完璧に成功している。
「あはは……何言ってるんですか。私は正真正銘の人間ですよ?」
まさか、と大袈裟な身振り手振りを加えてリシュアはギアン老人に言った。
一体何を根拠に自分のことを人間じゃないと言い当てるに至ったのか、それは不明だった。しかし、過程はどうであれ、正体がバレるのは避けたいのだ。
人間と魔族が共に生きる世界というのはリシュアのこの旅の根本に存在する願望。しかし、まだその願望を叶える為の機は遠い。世界では未だに人間と魔族間の大小の戦争が起こり、その溝は底無しに深く、もしも今、自分の正体が老人の人間に広まれば、もはやその勢いが止まることはなく、間違いなく今後の旅に影響が出る。
いずれ、ガルアスを倒す前には自ら正体をこの大陸に示すつもりのリシュアだったが、流石にこのタイミングでは早過ぎるのだ。
が、そんなリシュアの思考をよそに、ギアン老人は怯えるでも、敵意を向けるでもなく、ただニコニコと笑っている。
「ハハハ、誤魔化しても無駄じゃよ。こう見えても七十年以上、東方の鬼達との付き合いをしてきた身。お前さんからはあの鬼達と同じ匂いがするのだ」
老人の言葉と様子に、リシュアは誤魔化す事を諦めるしかなかった。なにしろ年齢に似つかわしくない子供のように澄んだ瞳の奥に、悪意は無いが、代わりに絶対に揺るがない確信のようなものがチラチラと覗いている。
「…………ええ。お爺さんの言う通り。私の正体は魔族。訳あって、冒険者をやってるの」
周りに他の男達がいないことを確かめてから、リシュアは人間態への変身の一部を解いた。直ぐに皮膚の色が本来の青白い色へと変わっていく。
「ほお、やはり儂の思った通り。お嬢さんは魔族であったか。いやはや、外れていたらどうしようかと思ったが、良かった良かった」
正体を明かしたリシュアを目の前にしても、ギアン老人は相変わらずニコニコして言うと、踵を返して船の方へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと⁈ 私の正体を知ってどうするつもりなの?」
「ん? 何もせんよ? お嬢さんからは悪意は感じられんし、儂らはアイゼンの船乗りとして客を東方まで送り届ける。それだけのことじゃ」
フッフッフと笑いながら去っていくギアン老人。そのまま船の整備作業に行くのかと思いきや、もう一度振り返って言った。
「ああ、そうそう。お嬢さんの正体のことは、儂以外にも、ここにいる半数以上が直感的に見破っているだろうから、無理して人間に変身せんでもいいからな」
* * *
「と、言うわけで、この船の上では変身しないことにしたの。魔力も使わないに越したことは無いしね」
事の経緯を話し終えて、リシュアは大きく伸びをした。彼女の話の途中で二、三人の乗組員が通りかかったが、その誰しもが話の通り、特に驚く様子も無く、やぁ、と声をかけて過ぎ去っていった。
「いや、まぁそれならいいんだけど……。それにしたって皆落ち着きすぎじゃないか?」
「見ず知らずの私をいきなり家まで連れ帰ったあなたがいえた事じゃ無いけど。あのアイゼンは東方との私貿易を百年以上も続けてきた街だもの。あの老人も言っていた通り、東方の鬼達との交流も深いみたいだし、同じ祖を持つ魔族が目の前にいるくらいじゃ、別に驚きもしないんでしょうね」
もう一度大きく伸びをして、リシュアは手摺から身体を起こし、船室へ続く階段へと歩き出す。
「そろそろ下に降りましょ。さっきの男の予報通り、嵐が来そうよ」
「え、ああ。確かに……ってか、小さいって規模じゃなくないか?」
船首の方に目を向けて、レイトは思わず目を見開いた。
ちょうど船の進行方向、遥か向こうの空に真っ黒な雲が、渦を巻くように生まれ始めていた。