伝説はいまここに(中編)
「はうわっ!? 冷たっ!?」
突然、全身に恐ろしく冷たい水の様なものを浴びせられ、レイトは口から変な声が出た。
「……何なんだこれ……というか生きてる……」
魔法陣から放出されたのは、予想に反して何やら透明なさらりとした液体だった。氷のように冷たいことを除けば、強酸性の消化液というワケでもなく、これといった毒性のあるようにも思えない、ただの水にしか見えない、そんな液体。それが無数の魔法陣からそれぞれシャワーのように噴射されて、レイトの全身を濡らしながら床に溜まっていく。
「レイトぉ! まだ生きてる!?」
と、ゼリーの壁の向こうからそんなリシュアの声と、加えて同時に幾度も何かが蒸発する、ジュワァッという音が聞こえてきた。
「あ、あぁ、……何か氷水のシャワーを浴びせられてはいるが、まだ死んじゃいないぞ!」
「よかった。しばらくは安心ね。……で、どう? 中からどうにか脱出できそう?」
「……それは……かなり厳しそうだ……。両足をスライムのゼリーにしっかり掴まれて身動きがとれねぇんだ。というか、そもそもこいつの再生能力が強すぎて、いくら剣を振っても斬った傍から斬り口が閉じてどうにもならねぇ!」
外にいるリシュアに向けて声を張り上げながら、もういちど、届く範囲のゼリーの壁に向けて剣を振るってみるもののやはり刃が切り裂いた壁はものの一秒と経たぬうちに結合し、再生してしまうのだ。
ここから脱出するには、あのライナの拳打の如く、圧倒的なパワーで広範囲を一気にぶち破る火力か、再生能力を封じる何らかの魔法攻撃でもない限り不可能に違いない。
強化魔法を使うことも考えはしたが、使ったところで両足の自由が利かない今、攻撃が届く範囲は非常に狭く、仮に強化によってゼリーの拘束から抜け出せたとしても、ぷよんぷよんと柔らかなゼリーの床では体の重心も安定するはずはなく、振るう刃にもろくに力が乗らないだろう。
「わかった。それじゃあレイトはそこでじっとしていなさい。あなたが体温を奪われて凍死する前に、外からどうにかできないか頑張ってみるわ」
「あ、あぁ。そうするしかなさそうだ」
徐々に増していく水位に別の嫌な予感を抱きつつも、レイトは冷え切った体をさすりながらリシュア達を信じるほかなかった。
* * *
「……さて、あいつが完全に喰われる前に、できる限りのことをやらないとね…………」
レイトを飲み込んだまま動かないカイザースライムを前に、リシュアは指を唇に触れさせながら、レイトを救出するための方法を思案する。
先程から何度も火属性魔法のフレイム・バレットを撃ってはいるものの、カイザースライムの分厚いゼリーの防御と再生能力を打ち破るには火力も規模も圧倒的に足りず、せいぜいゼリーの表面をうっすらと溶かすのが精一杯だった。
「もう一度、私がさっきみたいに穴をあけようか……?」
と、ライナが拳を握りしめるが、リシュアはそれを制止して言う。
「……それはできれば遠慮しておいてほしいわね……。あなたのあの攻撃じゃ、スライムの身体と一緒にレイトまで悲惨なことになりそうだから……」
「あ、それもそうか……」
とはいえ、今のこの状況において、カイザースライムに対して最も有効な攻撃は、間違いなくライナの渾身の拳打であることもまた事実だった。むしろあの拳打以外にカイザースライムにあれほどの傷を負わせる手段をリシュアは持ち合わせていない。
(……私がもう少しちゃんと五大属性の魔法を会得していたら…………)
自分の力ではどうすることも出来ない目の前の状況にリシュアは唇を噛んだ。
(……何が魔族の頂点。何が魔王よ……。目の前のスライム一匹倒せない私が、壁一つ挟んだ向こうのあいつを助けることも出来ない私なんて…………)
このままレイトが喰われる瞬間を待つことしかできないのかと、自分の無力さをただひたすらに呪う。「リシュアさん。すごいです。筋力とかは人並みですけど魔力量がとびぬけて高い。それに魔力の属性も一応全属性をお持ちのようです」と、いつかランドーラのギルドでの受付嬢の言葉が脳裏に響く。
確かに全属性の魔力を持つということだけとれば、流石は魔王の系譜と言えるだろう。だが、いくら魔力を持っていたとしても、それらを魔法へと完成させるには、相応の研究や修行が必要なのだ。
リシュアはそれを怠っていた。「自分は魔王なのだから」、「私はあのルドガー=ヴァーミリオンの娘なのだから」と。結局のところ魔王としての地位の上に胡坐を掻いていただけだった。それでいて「魔族と人間をはじめとした他種族が手を取り合える世界を作る」などという理想を声高に語る。そんな自分自身を、リシュアは初めて心の底から恥じ、軽蔑した。
(ハハッ……何もすごくなんかないわよ……。考えてみれば、私なんかがガルアスを倒そうなんて……)
最初から無理だったのよ、という言葉が心の中に浮かび上がる直前、ポンと、温かな手が肩に触れた。
「なーに弱気になってんだよ。それなら鍛えればいいだけの話だろう?」
ふと隣を見れば、ライナがニィっと歯を見せて笑っていた。
「え?」
「全部顔に出てたぜ、リシュア。私はバカだから直感でしかわからねぇけど、魔王だってきっと完璧じゃない。だから、そう気にする必要はないんじゃねぇかな。筋肉にしろ魔法にしろ、もっとここから強くなっていけば、万事解決さ」
彼女の明るく温かな声に、リシュアは心の中に広がりつつあった黒く冷たい感情が薄れていくような気がした。とはいえ、レイトを救えないという状況には何の変化もなく、むしろスライムの中のレイトの状態は悪化しているはずなのだ。
だが、その不安すら見通しているかのようにライナは再び笑う。
「レイトの事だって大丈夫さ。私達にはもう一人いるじゃないか。最強の魔法使いがさ」
彼女のその言葉の直後だった。
「永劫不鎮の炎王弾!!!!」
廃坑の出口へ繋がる坑道の向こうから、眩いばかりの紅い閃光と共に聞きなれた声が凛と響き、一条の紅蓮の火球が二人の頭上を飛び越えてカイザースライムへと着弾した。