side.ブラックロータス
大陸南部、ミラネア皇国とアストリア帝国の国境付近に広がる深い森の中を、一人の男がただあてもなく走り抜けていく。
「くそっ! くそっ! なぜ僕がこんな目に!!!!」
涙目で叫びながら、何かから逃げるように走り続ける男の名はミュラー。レミィの実兄にして、魔法傭兵集団ブラックロータスの一員である。
そんなミュラーの後を、一人の少年、ロンディルシアが狂気染みた笑みを浮かべながら、軽やかな足取りで追う。
「待ってよミュラー! せめて最期くらい潔く狩られてくれないかなぁ!!」
そう叫び、ロンディルシアは左腕を逃げるミュラーの背中へと向ける。身に纏った長袖のローブで隠されて見えはしないものの、左腕の肘部分にはまだきえ完全に消え切っていない切断の傷痕が残っている。
あのグリーズベルの熱帯領域でレミィとリシュアの殺害依頼を達成できないまま、サポート役のアルヴィースによって皇国と帝国の国境付近に存在するブラックロータスの本拠地に連れ戻されたミュラーとロンディルシアは、共に依頼失敗への処罰を言い渡されていた。
「最初から戦意を失っている君はどうでもいいけど、君をぶち殺さないと、僕も殺されることになるんだからね!!!」
処罰の内容は、「どちらか一方がもう一方を処刑すること」。片方は生き残り、もう片方は死ぬ。至極簡単にして残酷なものだった。
が、その処罰が言い渡された時点で、どちらが生き残るかは、周囲の目から見ても明らかだった。何しろ、一方は首筋に刃を突き付けられただけで失禁するほどの臆病者で、もう一方は最上位の恐怖系催眠魔法を受けてなお戦意を失っていないどころか、むしろ残虐な性格が以前より増したとさえ思えるほどの狂った人間。
百回、千回と繰り返したところで、その結果は変わらないだろう。
「そんなこと知るか!! お前も逃げればいいだろう!?」
幾度も木の根に足をとられ、転びそうになりながら後方を追ってくるロンディルシアへ向けて叫ぶミュラーの脳内は、レイトの刃を首にあてがわれた時点で死への恐怖に完全に支配されている。
「? 何で僕が君の側に回らないといけないのさ。君を殺せばめでたく組織の一員として復帰、おまけに君の遺体からその眼を移植して、僕のオリジン・アーツもより強く、より残酷なものにできるってのにさぁ!!」
ロンディルシアの左手から、豆粒ほどの碧色の光球が連続で撃ち出され、走るミュラーがギリギリ喰らわない程度の距離に無数の風の刃を振り回しながら炸裂すると、次々とそこにあった木々をズタズタに引き裂いていく。
「やめっ!? やめてくれ!!!」
ミュラーの必死の叫びに、背後のロンディルシアは口元を釣り上げて笑う。
「あははははは! そんなに死にたくないって言うんなら、ミュラーも応戦すりゃいいじゃん。僕の右手に収まるはずの眼はまだ君の右手にあるんだからさ!!」
ロンディルシアの手からビーム状に撃ち出された風のマナが、ミュラーの頬を掠め、軽く切り裂いていく。
「うぁぁぁっ!?」
ほんの少し血が流れる程度の軽微な傷。しかし、そんな傷ですら、ミュラーの戦意をマイナスに振り切り、恐怖で足をただの日本の棒切れにするには十分すぎた。
恐怖で完全にバランスを崩したミュラーが悲鳴と共に倒れ込み、二、三回派手に転がって、傍の大木にぶつかって止まった。
そんなミュラーの前に、ロンディルシアがゆらゆらと不気味に笑いながら歩み寄る。その左手には既に
碧色の光球が急速にその体積を増大させている。
「ひぃぃっ!? たすっ、助けてくれ!!! なんでもする! どんな命令だろうが聞く! だから殺さないでくれ!!!」
なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのか。これはレミィが受けるべきものだったのではないのか。
クソっ! クソッ!
頭の中に浮かぶ妹を殺しながら、ミュラーは止まることなくゆっくりと近づいてくるロンディルシアに命乞いするものの、そんな必死の命乞いを前に、ロンディルシアは左手の光球を育てたまま、さらに口元を釣り上げる。
「ふーん。なんでも、ねぇ。でも、首筋に剣を当てられただけでお漏らしするような奴が今後まともに敵と殺り合えるとも思わないし、僕が必要なのは君のその、火属性のマナを吸収できる眼だけだからね」
心の底から楽しそうな様子で、左手を顔のすぐ目の前に翳すロンディルシア。もはやどう足掻いても助からないと、ミュラーは本能的に悟る。こちらもオリジン・アーツで抵抗できるかもしれないが、既に恐怖で手足はおろか、呼吸さえも上手くできない以上、もう自分の命は目の前のロンディルシアに握られているのだ。
そして、
「僕の言うことを何でも聞くって言うならさぁ、とりあえず、その顔をこの世界から消してくれないかな。その情けない顔見てるとさ。イライラするんだよね」
ミュラーの顔を照らす光球の碧色が一気に豆粒サイズに圧縮されて行く。それがミュラーが見た最期の光景だった。
「じゃあね、出来損ない二号さん!!!」
バシュウッ!!!
罵声をと共にほぼゼロ距離でロンディルシアの放った、指向性の特性を付与された原初の神嵐旋が、ミュラーの顔の中心を撃ちぬいた