人と魔族と(前編)
パチパチと薪の爆ぜる音で、レイトはゆっくりと目を開けた。天井に渡された木の梁から視線を窓へと移すと、外にはあの鬱蒼と茂った森の名残は一切なく、葉の代わりに雪を纏った木々が、しんしんと降る雪の向こうで静かに揺れている。
窓の反対へと顔を向けると、隣のベッドで浅い呼吸とともに少し苦し気な様子で眠るレミィの姿と、その奥、暖炉の前で彼女の額のタオルを洗面器に張った水に浸すリシュアの姿。彼女の背中はいつもよりもずっと小さく見えた。
「……おはよう。リシュア……」
そんなリシュアの姿から目を反らしながら、レイトはあの時と同じ台詞を言う。
一瞬、リシュアの身体がピクリと震え、レイトを見つめたまま固まる彼女の手からよく絞られて丁寧にたたまれた濡れタオルが床に落ちた。
「レイト…………!」
タオルを拾うことも忘れて、リシュアは心からホッとしたような表情を浮かべた。今まで泣いていたのだろう、安堵の笑みの浮かぶ彼女の頬にはうっすらと一筋の涙の後が残っているようだった。
「……体の損傷の方は、予想していた程酷くはなかったけど、どう? どこか痛んだりしない?」
ティーカップに熱い紅茶を注いでレイトに手渡しながらリシュアが聞いた。
「……あぁ、一応は何ともない……な。どこも痛みはないし、むしろ今の方が調子がいいような気もするな」
カップから昇る湯気を軽く吹いて、ゆっくりと啜りながら、レイトは答える。
強化魔法を使って意識を失う前よりも、全身の感覚がスッキリしているというか、身体が軽いというか、言葉通り身体の調子は以前よりも向上しているように感じていた。
「……そう、それならよかった……治療は成功していたみたいね」
「本当、リシュアのおかげだよ。と、俺のことはまぁいいとして、今更だけど、ここは何処なんだ? それに……レミィの方の容態も、ライナの安否も気になるし」
ほんの一瞬、彼女の笑みに悲しそうな影が落ちた気がしたが、レイトにはその真意を尋ねるより先に聞きたいことが山ほどあった。自分達の現在位置。レミィの傷の具合に、一人でアルヴィースと戦闘を繰り広げていたライナの安否。寝起きのぼんやりした頭に浮かんだ疑問をそのまま口から吐き出す。
「……ああ、そうね。順番に話すわ。ここはグリーズベルの森を抜けた先、皇都へ続く街道から少し北に逸れたエトラム山脈の麓にあるトリネコっていう小さな村よ。丁度空き家があったから、頼み込んでしばらく使わせてもらうことにしたのよ。一応村全体とこの部屋に、感知用の結界陣を張っているわ。ライナの方は全くの無傷でピンピンしてるから大丈夫。さっき暖炉用の薪と食料調達に飛び出していったし………………それで、レミィの事だけど……」
レイトの質問に一つ一つ答えていくリシュアの声が急に小さく、暗くなる。その原因が未だに目覚めぬレミィの身体にあることは明らかだ。
「……彼女の傷はまだ完治していないのよ……もちろん、身体の損傷は、右腕の肘から先以外の治療は完了しているわ。肘から先は彼女の眼に溜まっているマナの影響かなにかで治りが悪いのだけれど、それ以外の傷は完璧に治した。これは私の誇りにかけて誓ってもいいわ……」
「……でも、それじゃあどうしてレミィは目を覚まさないんだよ…………傷が完治してるんなら今すぐにでも目を覚ますはずだろ?」
「…………」
レイトの言葉に、リシュアは目を閉じて静かに首を振る。その彼女の柔らかな唇から血が一筋、顎を伝って床の古びたカーペットを赤く染めた。
「……魔法だって完璧じゃないわ……そりゃあ、古今東西ありとあらゆる回復関連の魔法に精通しているような、転生者もびっくりな魔法使いなら別でしょうけど、少なくとも私の持つ回復魔法じゃ、身体の傷は治せても、心の傷は治せない。レミィが目を覚まさないのは心的ショックが大きすぎたからよ……」
そう言いながらレミィの頬の汗を優しく拭き取るリシュアの姿には、もはや魔王の面影はなく、ただただ自分の無力さを呪う一人の少女だった。
「……心の、傷か…………」
それはいったいどれ程悲しい事だろうと、レイトは目を閉じて思う。血のつながった人間達から出来損ない扱いされ、あげく命を狙われるなど、想像しただけでも胸が苦しくなるような事を、レミィは実際に体験したのだ。
おまけに彼女へ致命傷を与えたのは、彼女の兄であるミュラー。こんな残酷な仕打ちを受けて、心に傷を負わないはずがない。
「……情けない話だけど、彼女の心の傷ばっかりは、あの子自身にケリをつけてもらうしかないんだと思う……。真正面から挑むにしろ、これから先、ずっと怯えながら逃げるにしろ、私達にはもうどうにもできないのよ、この問題は……」
窓の外へと視線を向けて、リシュアは続ける。
「時間が経って、心が少し落ち着きを取り戻せば、レミィは目を覚ますはずよ。だけど、それがいつになるかはわからないの。おそらくは一週間ほどで目を覚ますだろうけど、その間に襲撃が来る可能性だって十二分にあるわ。今度は相手を完全に殺さないと抜けられないような状況になるかもしれない。……だから、今の内にあなたも相手を殺すという覚悟を決めておいて……」
「……あぁ…………」
まるで自分自身にも言い聞かせるようなリシュアの言葉に小さく頷きながら、レイトも視線を窓へと向ける。
雪はいつの間にか吹雪に変わり窓の外を白一色に染め上げていた。