魔王リシュア=ヴァーミリオン
「うあぁあぁぁぁぁっ!!? 僕の……僕の腕が……ッ!!?」
腕を切断されたロンディルシアは傷口を押さえて蹲り、悲鳴にも似た叫びを上げる。傷を押さえる掌、その指の間から溢れた血がボタボタと地面に赤黒い染みを落としていく。
「……お前の言う通り、俺にはお前を殺す度胸も覚悟もなかったよ…………。だけど……その腕を……斬り落とせば、お得意のオリジン・アーツくらいは……殺せる、だろ?」
先程の比でないほどの脱力感に襲われながら、レイトは蹲るロンディルシアに吐き捨てる。
初めてレミィと出会ったあの夜、彼女は掌に埋め込まれた紅い眼球を見せて語っていた。「大気中のマナをこの眼から吸収する」と。
その話が事実なら、マナを吸収する部位を斬り離されたロンディルシアにはもうオリジン・アーツは使用できないはずで、最大の脅威の排除を意味している。
視界が急速に暗くなっていく。そして襲ってきた体のぐらつく感覚に、今度は抗うことなく身を任せ、微かに残っていた体中の力を自分から手放した。
一瞬の浮遊感の後、重力に引かれてレイトは仰向けに倒れこむ。ドッという鈍い衝撃とともに視界は完全にブラックアウトし、そのままレイトは意識を虚空に投げ捨てて深い眠りへと落ちていった。
完全に倒れ込む直前、逆さになった世界の隅に一瞬だけ、こちらを見つめるリシュアの姿が映っていた。
「……うぅッ…………ちくしょうッ、僕の大切な「眼」をよくも……!!!」
目の前に倒れ込んだレイトの姿を睨みつけ、傷の痛みによろめきながらゆっくりと立ち上がったロンディルシアは右腕を目の前に意識を失って倒れるレイトへと向ける。
「……オリジン・アーツを封じたからって、いい気になってもらっちゃ困るよ…………。あれが使えなくたって
、ここにいる全員を殺すだけの通常魔法はいくらでも使えるんだからね…………!!」
左腕の仇にとどめを刺すべく、ロンディルシアの右手が淡い緋色の光を灯す。それは直ぐに幾本もの光の帯へとばらけ、一つの複雑な紋様を持った緋色の魔法陣を構築していく。
そして、魔法陣の輝きは周囲を緋色に照らすまでに強くなり、紋様から細か炎が燻り始めた。後は術者たるロンディルシアの意思一つで上位クラスの炎属性魔法「メギド・フレア」は発動し、レイトの身体を灰になるまで焼き尽くす。はずだった。
「…………この炎で、最後まで苦しんで死ね!!! メギド…………!?」
苦痛と悦びの入り混じった表情で魔法名を唱えるロンディルシアの動きが止まる。否、止められたのだ。
「……悪いけれど、オリジン・アーツを封じられたあなたにはもう勝機はないのよ。魔法使いの坊や?」
リシュアの術だった。木漏れ日に照らされて地面に落ちる彼女の影。そこから無数の手の形をした影が触手の如くうねりながら地面を走ってロンディルシアの足を這い上り、彼の全身に巻き付き、ギチギチと締め付ける。
「……いったい何をしたんだ…………!」
「「影に囚われし哀れな蝶」一部の魔族にしか使えない、拘束と拷問用の暗黒魔法よ。このままあなたを絞め殺すこともできるのだけど、少しお話ししましょうか」
普段の彼女とは違う妖しく暗い笑みを湛えて、リシュアはゆらゆらと一歩ずつ、拘束されたロンディルシアへと近づいていく。
「フンッ、何がお話だ。この僕の左腕を斬り落とした奴も君も、どっちも考えが甘すぎるよ。突然身体が締め付けられたから驚いたけど、僕の右腕はまだこの男を捉えてるんだ。それに、魔法陣も構築済みなんだよ? さっきの内に絞め殺しておけば、この男を失うことはなかったのにね! メギド・フレア!!!!!」
目の前に近づいてくる標的、リシュア=ヴァーミリオンに自分を殺すつもりがないと見たロンディルシアは傷の痛みも忘れて笑い、メギド・フレアの発動のための最後のトリガーを引いた。
だが、魔法陣からすべてを焼き尽くす灼熱の業火が放たれる瞬間はやって来なかった。代わりに「ボフン」という間抜けな音と共に小さな火の粉を噴き出して魔法陣は宙に霧散した。
「……え?」
何が起こったのかと困惑するロンディルシア。そんな彼にリシュアはフフと笑う。
「一つ、言い忘れていたけれど、このイーター・パペットって、対象者の精気や魔力も吸収してしまうこともできるのよ? あなたのそのメギド・フレアのための魔力は全部私がおいしく食べてしまったわ。御馳走様」
「…………そんな!? くそっ、くそっ……!!」
オリジン・アーツのみならず、魔法攻撃まで封じられたという状況に、ロンディルシアはあの余裕のある表情を完全に崩し、化け物に怯える子供のように体を震わせながら、どうにか拘束から抜け出そうと必死にもがく。
だが、いくらもがこうとも拘束は微塵も緩むことなくロンディルシアの身体を縛り続けている。
そして、
「あら、かわいい顔をしているのに、そんな汚い言葉を使ったらダメじゃない」
ついにロンディルシアの目の前まで近づいたリシュアは、足元に横たわるレイトにチラリと視線をやってから、そっと両手でロンディルシアの頬を包み込むように撫でる。
「ひっ……!?」
リシュアの意味深な行動に、ロンディルシアは怯える。先程までかる側に立っていたはずの彼は、今はもはや蜘蛛の巣に囚われて喰われるのを待つ蝶のようだった。
「このまま、あなたの精気と魔力を一滴残らず搾り取ってもいいけれど……どうしようかしらね」
妖艶な口調でロンディルシアに語りかけながら、リシュアは人差し指で彼の首から腹部へとそっと指を走らせた。
「ひゃん!?」
リシュアの愛撫にも似た行動に、ロンディルシアは少女のような小さな悲鳴で鳴く。
「このかわいいお腹に一生消えない淫紋でも刻んでみる? ……まぁ、そんな甘い仕打ちじゃ済まさないけれど……」
瞬間、リシュアは表情を変えた。あの妖艶な笑みから一転、今度は氷の如く冷たい表情でロンディルシアを睨みつける。
「……あなたたちがいなければレミィが心と体にあんなに深い傷を負うことも、レイトが命を賭して魔法を使うこともなかったのよ。だから、今度はあなたにそれと同じくらいの傷を負ってもらうわ」
冷たい表情のまま、リシュアは両の手をロンディルシアの顔に翳し、妖しく黒色に輝く幾重にも重なった魔法陣を構築していく。
「…………!!!」
ロンディルシアは涙を流して首を振るが、リシュアは一切の容赦なく魔法の詠唱を淡々と紡ぐ。
そして、その時は来た。
「絶望の底に眠る漆黒よ。生贄は来たれり。踊り歌いて悦び喰らい給え。その心に晴れることなき黒雲を、明けることなき夜の帳を。永夜に踊る侵食の晩餐」
魔法陣から溢れた艶やかな漆黒はロンディルシアを包み込むように優しく、そしてねっとりと広がりながら、魔法と恐怖で絡めとられた彼の身体を這い上り、咀嚼するように彼の心を喰らい始めた。