リシュアとレイト(後編)
「クソッ……」
完全に消えた地面のゲートを睨みつけ、レイトは小さく唇を噛んだ。
いくら強力な強化魔法であろうと、肝心の相手が異空間に逃げたとなってはどうしようもない。おまけにレイトが使用した強化魔法はリシュアの回復魔法でも即座の修復が不可能な程のダメージを負う代償付きなのだ。
ロンディルシア本人が言ったように強化の持続時間が切れたタイミングを見計らって再び襲撃されれば今度こそ三人の死は免れない確実なものとなる。それはどう考えても明らかだった。
今はまだ身体に浮かび上がった強化の紋様はぼんやりと黒い輝きを放ち、力が全身に漲っているが、それがいつ失われるかはレイト本人にすらわからない。動かなければ強化時間は伸びるのか、変わらないのか、それすらも不明だ。
「……レイト。あなた、さっきの初撃で迷ったでしょ。あいつらを殺すか否かを」
立ち尽くすレイトの背後から、リシュアがレミィの治療を続けながら顔も向けずにポツリと呟いた。
「せっかく剣を抜いたってのに、どうして斬らなかったの? あの速度なら相手が気づく前に四、五回は剣を振るえたはずなのに」
険しいながらも、どこかほっとしているような感情の混じった口調でリシュアは言う。まるで最初からレイトがロンディルシア達を斬り殺すことができないと分かっていたかのような様子だ。
「…………悪い。俺だって、初めはあいつらを斬るつもりで、殺すつもりでいたんだ……だけど……」
「あいつらの姿を見て、剣を振るえなくなったんでしょう? あの時私が言ったように、あいつらもあなたと同じ「人間」だものね」
「…………」
リシュアの言葉にレイトは無言で俯くしかなかった。
彼女の言う通り、レイトはあの場でわざわざロンディルシア達の腕を跳ね上げてオリジン・アーツを上空に飛ばすような真似をせずとも、直前に抜いていた剣の一薙ぎで二人同時に亡き者にすることもできたのだ。
だが、レイトはその一薙ぎができなかった。自分と同じ「人間」という種族を殺すということが、どうしてもできなかった。
「……勝手なものよね。同じ人型でも、魔族であるジーラフを相手にしたときは、無残なまでに一刀両断していたというのに……」
そこまで言ってから、リシュアはフッと微かに笑って顔を上げた。
「…………でも、まぁ、それが普通よね。戦いに身を沈める戦士や傭兵なら、あのミュラー達のように家族の命でも迷わずに奪えるのかもしれないけれど、あなたはつい一か月前までは何処にでもいるような一人の村人で、おまけに魔族の私を助けるような優しい奴なんだもの……。敵とはいえ、同じ人間を殺す決断なんてできないわよね。私はそれを失念してた……ごめんなさい。だから…………」
レミィの身体を覆うように障壁魔法を幾重にも張り、リシュアは何かを決意したような表情で立ち上がり、レイトの横へ歩み寄る。
「……今は、その決断を私が背負ってあげる」
「!? バカなこと言うな! お前の得意の魔法でも、あいつのオリジン・アーツには勝てないってことぐらいわかってるんだろ!?」
リシュアの顔を睨みつけてレイトは怒鳴る。ただの強がりだと、彼女にも戦いの覚悟など出来ていないのだと確信する。
何しろ今、リシュアの声も身体も、小刻みに震えているのだ。
だが、リシュアはレイトの言葉に首を横に振る。
「えぇ、そうね。でも、可能性はゼロじゃないでしょう? 少なくともここであなたが倒れるのをじっと見ているよりは、ね」
「だからって……ッあ……」
反論しようとして、レイトはあの急激な脱力感に襲われて呻く。手足を見ると、あの黒の紋様は急速に色と密度を薄め、既に辛うじて認識できる程度の薄灰色に変わっている。
クソッ……どうしようもないのか…………
意識が急激に朦朧とし始め、身体がグラグラと揺れる。強化魔法の発動持続限界の合図。そして、ロンディルシアの再襲撃の合図だ。
…………俺のせいだ……
もはや立つ力も失って、地面へと倒れ込みながらレイトはあの時ロンディルシアを殺せなかった数十秒前の自分を恨む。リシュアは最後まで責めはしなかったが、やはりすべての原因は自分の中のあの甘い考えだったのだと。
まるでスローモーションのように過ぎていく一瞬の時間の中で、既に暗闇にのまれつつある視界の隅に、魔法陣を形成するリシュアの姿が映る。
両手に魔法陣を構築し、戦いへの準備をする彼女の表情までは見えないが視界に映る彼女の身体は今もなお小さく震えていた。
……こんなんじゃ、ダメだ。
瞬間。レイトの中で何かが爆ぜた。さっきまで完全に失っていたはずの力と気力がほんの少しだけ戻ってきたような気さえする。
あと少しだけ耐えてくれ……俺の身体。もう一度だけ、チャンスをくれ!!!
蘇ってきた気力を全て使い、レイトは再び体内の魔力を手足に、そして今度は全身の感覚器官にまで集中させる。一度使っただけであの代償を背負うことになる魔法を連続使用したらどうなるか、などはもう考えない。
大きく足を踏み出して倒れ行く身体を支える。直前までの脱力感が嘘のように全身を力が暴れまわっているような感覚が身体を満たし、同時に恐ろしいまでに研ぎ澄まされた五感すべてでロンディルシアの出現予兆を探す。
草木を揺らしながら吹き抜ける風の音、土の匂い、弱々しく拍動するレミィの鼓動、そしてリシュアの荒い呼吸。それら全てを鮮明に感じながらレイトは探す。たった一つの兆候、異音を。
そしてそれは直後に現れた。
ピシリ、と。ガラスがひび割れるような微かな音をレイトは聞き洩らさなかった。ロンディルシアの使う転移魔法のゲートを繋ぐ亀裂の音だ。
レイトの、そしてリシュアの左方十メートルほどの距離に生まれた亀裂は直ぐに人が一人通ることのできる大きさにまで広がり、ゲートを形成していく。その向こう側から口元に狂気染みた笑みをたたえるロンディルシアが左手を正面に翳しながらゆらゆらと現れた。
「オォォォォォォォッ!!!!!」
瞬間、レイトは咆哮した。
ハッとした表情でこちらを見るリシュアの横で、体の中に溢れる力を全て足の裏に集めるように地面を蹴り、先の数倍の速度でロンディルシアの懐に肉薄した瞬間に、今度こそ手にした剣を渾身の力で振り上げる。
「!?」
肘から切断されたロンディルシアの左腕が、鮮血と共に大きな弧を描きながら茂みの向こうへと消えた。