黒蓮華は凄惨に(前編)
「……それにしても、本当にこの方向で大丈夫なんでしょうね……? もうずいぶんと歩いた気がするんだけど……」
ライナと共に歩き出してから一時間ほどが経った頃、手帳の地図とにらめっこしながらリシュアは呻いた。
行けども行けども目の前に広がるのは植物ばかりで、徐々に方向感覚も時間感覚も狂い始めているような気さえし始めている。おまけに密林全体を満たす夏同然の熱気と湿気による不快感が加わって、下手な精神攻撃魔法以上に四人の忍耐をガシガシと削っているのだ。
「……この地図が正しいならあと四、五キロ先でこの熱帯領域は抜けるはずさ……」
「……だといいけれど。とりあえずなんでもいいから身体を洗いたいわ……。せっかく温泉でさっぱりしたっていうのに、もう身体も服も汗でベトベトだもの……」
「私もです……ここを抜けたらとりあえず宿のある街を探しましょう……」
「? そんなに暑いのか、この森?」
「……あなたはいいわよね、ライナ。その見えない鎧のおかげで暑くも寒くもない丁度いい状態を保てるんだから……」
ライナの背中を羨ましそうに眺めながらリシュアが言う。
ライナの纏う魔力の鎧は物理攻撃、魔法攻撃はもちろんのこと、極端な気候においては体感温度を快適なレベルに維持してくれるらしい。そして、それ以外にもとにかく彼女自身に不快感や害、変化を与えるものは基本的に全て弾いてくれるという。
「ま、そこは私の自慢できるポイントだな。おかげで季節問わず、砂漠だろうが雪山だろうが関係なく、こんな裸ででも快適に活動できるし。鎧様様ってな!」
「……あぁ、もう。叫ばないでよ……余計に暑苦しいじゃないの……」
この熱帯領域でのライナの言動の熱血バカっぷりは、ただでさえうんざりする蒸し暑さをさらに一、二度あげているのである。もちろん本人は欠片も気づいてはいないが。
「あ、わりぃ。それじゃあもう一度さっきのあの雨降らしたらどうだ? いい感じにひんやりしていて気持ち良かったぜ?」
「……ライナさん。それ、涼しくはなるかもですが、余計に湿度が上がっちゃいますよ……」
「あ、そっか。それじゃあ急いでこの森を抜けるしかないな!! 行くぞ!」
「だから、その暑苦しい大声を止めなさいよ! ……というか走るな! 今走ったら、私達三人の体力が尽きるから!!」
クラウチングスタートのポーズをとって、今にも大地を蹴りだしそうな様子のライナに飛びつきながらリシュアが叫ぶ。
その時だった。
「湿度がいやなら、こんなカラッとした熱さはどうかな? 」
四人の背後から、狂気染みた明るい声が聞こえた。
「!?」
フードを目深に被った男が一人、二十メートルほど後ろの木にもたれかかりながら、やぁ。とでも言うように左手をあげた。その掌の丁度中心で、見覚えのある深紅の眼球がぎょろぎょろと蠢いている。
「さて、と。出来損ないの狩りを始めるとしようか。原初の大神炎」
詠唱もなく、魔法陣を展開することもなく、ただ魔法名を呟いただけの男の左手、そこに蠢く深紅の眼が恐怖の表情を浮かべてこちらを凝視するレミィにピタリと視線と焦点を合わせ、豆粒ほどに小さく、仄かに深紅に輝く光球を彼女に向けて撃ちだした。
「!!!!皆さん、逃げてください!!! 海神の紋章障壁!!!」
両の掌に蒼に輝く魔法陣を幾重にも展開させたレミィが悲鳴にも似た叫びを上げながらレイトとリシュアの間を抜け、飛来する光球の目の前へと飛び出していく。
突然の出来事にレイトもリシュアも、二人の間を駆け抜けていく彼女の姿を困惑の表情を浮かべながら追うことしかできなかった。
直後、展開を終えた複雑な紋様の浮かぶ巨大な蒼の障壁結界に光球が触れ、眼を閉じてなお染みる程の太陽にも似た閃光と、周囲の草木が瞬時に灰と化すほどの熱量をもった衝撃波を全方位へ吐き出しながらそれは爆ぜた。