ファントム・ロマンス
ハーバーエストの屋上に造られたホテル自慢の大露天風呂は、時間が遅く、雪がちらつき始めていたこともあり脱衣所のカゴは全て空だった。
静寂の中、ガスランプの光に照らされた薄暗い脱衣所に少しばかり不気味さを覚えながらも、頭の中をスッキリさせるには一人の方がいいと考え直し、レイトは手早く服を脱ぎ、浴場へつながる扉を開けた。
「うぅ、さっむ」
雪がちらつく中、レイトは寒さに体をぶるぶるふるわせながら、かけ湯もそこそこに湯の中に体を沈め、そのまま海の見える場所までざぶざぶと進む。
それにしても、さっきのリシュアは何だったんだろうか……
未だに頭の中にはあのリシュアの妖艶な表情と声が鮮明に残っている。あの時リシュアがいたずら気分で魅了でも使ったのだろうと考えれば納得できる気もするが、それでもどこかでその考えに納得できない自分がいることも確かだった。
「まさか……これが、こンンッ!」
「恋」と、何気なく口に出しかけて、急に押し寄せてきた恥ずかしさに咳払い。
「いやいや、まさかそんな……」
仮にも相手は元魔王だぞ? そもそも釣り合うわけが……
などと色々理由をつけてどうにか頭の中のモヤモヤと顔の火照りを消し去ろうとするものの肝心のリシュアに対する妙な思いの存在は否定できず、とにかく気分を紛らわせようと湯船の淵に両腕を乗せて眼下に広がる海を見下ろす。
月明かりの下、黒々と広がる海は、海面近くをぷかぷかと漂うホタルクラゲ達の淡く白い光が散らばり、まるでもう一つの星空のようだった。
……落ち着け、俺……落ち着け
頭の中に浮かぶあのサキュバスの姿を、ホタルクラゲの星空で塗り替えるようにレイトは心の中でそう繰り返すが、そう思えば思うほど、脳内のリシュアはより鮮明に、より妖艶に浮かび上がってくる。
いっそ誰かにこのモヤモヤをぶちまけでもした方がいいのでは?
そんなことを考えていた矢先のこと。
「あれ? レイトじゃないか」
背後から聞き覚えのある声がした。
「あ、リョウジ⁈ お前もこのホテルに?」
つい数時間前にギルドで別れたリョウジが、腰にタオルを巻いて湯船の淵に立っていた。
* * *
「いやぁ、どうにか無事に住民たちの避難を終えて、リシュアの方に連絡をしてみたんだけど出なくてね。まさか僕に仕事を押し付けたまま自分はホテルで爆睡とはね……」
まぁ、リシュアらしいけどね。とリョウジは苦笑する。
「いや、なんか、本当に悪い……朝にでもクレームの一つくらい入れといてくれ……」
せっかくリョウジの登場で薄れかけていた彼女の姿が再び蘇ってくる。
「? どうしたんだい。顔赤いみたいだけど、もしかしてのぼせた?」
「⁈ ……い、いや、気のせいだろう? それより、住民の避難のこと、詳しく教えてくれないか?」
どうにか誤魔化せていると信じてレイトは聞く。
「……あぁ、その話なんだけど。住民たちは全員無事だったよ。ジルバはあれ以来襲撃されてなかったみたいだし、残るガラルとアインズの方は、最初にリシュアの依頼で尋ねたときと変わらずに街の周囲数キロに転移阻害と侵入感知用の結界が張ってあったおかげで魔王軍も侵攻できなかったみたいだ」
「そうか、ありがとな。あいつにも後で礼を言わせねぇとな」
「ハハハ、別にいいってことさ。本来なら魔王討伐までひっくるめて、転生者である僕の使命のはずだったんだから。それをやってくれるって言うんだから、これくらいのことはサポートしないとね? いやぁ、それにしても本当にいい眺めだ」
「そうだなぁ……」
それきり会話も途切れ、湯船の端の滝をイメージした岩場から湯が流れ込む音だけがトポトポと小気味のいい音を立てている。
「……」
頭の中に再び浮かぶリシュアの姿。その訳の分からない感情を誰かに全て打ち明けてスッキリしたいという衝動に逆らうことなく乗り、レイトはおもむろに口を開いた。
「……なぁ、リョウジ。お前さ、恋ってしたことある?」
「ふぇっ⁈ いきなりどうしたんだ……って、あぁ、そういうことか」
リョウジは初めこそ素っ頓狂な声を上げたものの、レイトの言おうとしていることを察したらしく、ククと笑う。
「元居た世界じゃ彼女いない歴=年齢だった僕じゃあ納得できる答えは出せないかもしれないけど、要するにレイトはリシュアかレミィのどちらかに恋愛感情を抱いてるってことだろ?」
「あぁ、まぁ。リシュアの方に少し、な。そもそも今のこのモヤモヤが恋愛感情って言える代物なのかもわからないんだよ.。何しろ初めての感覚だから」
「なるほど……。まぁ十中八九当たりだとは思うけどね。僕だってあっちの世界じゃ二次元にどれほどそんなモヤモヤした感情を抱いたものか……絶対に叶わない感情だってのにさ」
自身の過去を自嘲するかのような笑みを浮かべてリョウジは続ける。
「……でも、君の場合は違う。何しろ対象の次元が同じなんだ。それに同じパーティーメンバーにいるとくれば、それこそいくらでも彼女に打ち明けるチャンスはあるだろうからね。まぁ時間をかけてその感情の正体をじっくり見極めていけばいいんじゃないかな」
「……時間をかけて、か。ありがとう、少しスッキリした気がする。二次元ってのが何かはわからないけど……」
「あはは、次元の話はやめよう。その話は僕に効く。……でもまぁ、こんな話すると、やっぱり僕もこっちの世界では素敵なリアルの彼女を見つけたいよなぁ……この世界なら絶対実在すると思うんだけどな。僕の理想のタイプ」
バシャバシャと湯で顔を洗ってリョウジが言う。
「リョウジの理想のタイプってどういう感じなんだ?」
「あ、気になる? 聞いちゃう? 言ってもいいけど、引かない?」
途端に目を輝かせて振り向くリョウジに、レイトはその時点で既に少し引きながらも
ウンウン頷いた。目の前のリョウジの表情は、ランドーラでリシュアと自分に早口で色々と語りだした時のそれだ。
「まぁ、かなり特殊っちゃあ特殊だけど。まずはまぁカッコいい感じの大人びた女性、だろ?」
「あぁ、うん」
「で、戦うと滅茶苦茶強い」
「うん……」
「ついでに、死線を潜り抜けてきた感じの傷跡とかあればもう直球ど真ん中、だね」
「あ、あぁ……これまた随分と限定的な……」
引くとかそういう以前に、レイトの頭の上には?がくるくる踊っている。
二つ目まではまぁ分かる。が、三つ目はもはやタイプというよりはむしろ性癖なのでは? そんなことをいながらもリョウジを傷つけまいとレイトは苦笑いしながら頷いた。
* * *
「それじゃ、僕の部屋は下の階だから。避難状況のことは伝えといてもらってもいいかな?」
「あぁ、もちろんだ。どうせその内あいつからまた面倒な依頼が来るかもしれないが、とりあえずリョウジの方も自分の旅を続けてくれ。……色々とありがとう」
「オーケー。依頼の時は喜んで引き受けよう。じゃあまた、おやすみ」
「あぁ、おやすみ」
あれからしばらく景色を楽しみながら湯につかり、のぼせる直前で風呂を出た二人はレイトの宿泊する部屋の前まで何気ない会話をしながら歩き、今に至る。
(感情の正体を見極めろ、か)
そんなことを考えながら、月明かりを頼りに自分のベッドにたどり着くと、そこには既に先客がいた。
(……は?)
風呂に行く前までは隣のベッドでレミィと眠っていたはずのリシュアが、なぜかレイトのベッドの上にお腹はむき出し、おまけにショーツは半分脱げかけで、まるでひっくり返ったカエルの様な姿で眠っているのである。
(……うん。やっぱりさっきのリシュアは幻だったらしい)
頭の中で、さっきまであれほど苦労して振り払おうとしていた妖艶なリシュア像が悲しいほどあっけなくガラガラと崩れ去っていった。
「ったく……風邪ひくぞ」
何か楽しい夢でも見ているのか、涎をたらしながら満面の笑顔を浮かべて眠っているリシュアにそっと布団をかけて、あの最初の出会いの夜のように、レイトはベッドに背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
あの妙に妖艶なリシュアは現れなかった。