終焉の鐘は音もなく(前編)
「ジーク様。フラムローザ周辺の反乱は大方鎮圧が完了しつつありますが、反乱の火は皇国の各地へ飛び火しつつある模様です。如何いたしましょうか」
皇都フラムローザの中心に聳えるクリスタリア城の王の間。窓から街の様子を見下ろす皇帝、ジーク・E・ヴァンガルドの背後から、従者の男がその内容とは裏腹に冷静な口調で尋ねた。
「如何も何も、これまで通り制圧してしまえばよかろう。幸いにも今この国におてんば娘はおらんのだ。反乱を起こすような愚民には我が威光を存分に刻みつけてやれ」
「は。では、直ちに討伐部隊の編制を急がせます」
「うむ。任せたぞ。皇帝たる私に牙を向く者など、一人たりともあってはならんのだ」
早足で部屋を出る従者の姿を目で追って、ジークはそう呟いた。自分こそが王でありこの国の頂点である。であればこの国の民は全てが自分の駒である。反乱が起きたのなら徹底的に殲滅する。力無き者が結託して王に逆らうなど言語道断。
それが彼の思想であり、今、彼は内心では少しばかりの焦りを覚えていた。王としての立場に僅かながらに亀裂が生じているという実感への焦り。そして、それを塗りつぶそうと、彼の思考は脱出不可能な負の渦の中に飲まれつつあった。
そんな哀れな皇帝を嘲笑うかのように、
「かの始まりの魔族を討ったアーサーの血筋と言えど、年月を重ねるとここまで醜く堕ちるとはな」
低く冷徹な声が突然王の間に響いた。振り返ったジークの目の前には黒色の宝石があしらわれたローブに身を包んだ一人のオーガの姿があった。
「な、何者だ貴様は……。薄汚い魔族が、どうやって結界を潜り抜けてここまでやって来たのだ……?」
王として狼狽えるわけにはいかないと、今すぐにでも声を上げろ、助けを呼べと囁く内なる自分を握りつぶし、ジークはところどころ震える声でオーガに問うた。
オーガはジークがその身に隠し込んだ怯えを見透かしたかのようにニヤリと笑う。
「薄汚い、とな。その言葉、そっくりそのまま貴公にお返ししよう。保身の為に自国の民を躊躇なく排除するとは、聞いていた通りプライドだけをはちきれんばかりに膨らませた、さながら風船のような暴君よなぁ。貴公と比べれば、王の座を力づくで奪い取ったこの私の方が幾分かマシに思えるぞ」
「な……なにぃ……?」
オーガの挑発にも似た台詞に、「風船」という例えのとおりにパンパンに膨れ上がったジークのプライドは、怯えや恐怖を瞬く間に憤怒の情で塗りつぶし、彼は殆ど無意識で、腰に吊るした剣の柄に手をかけた。始まりの魔族であるリムを斬ったとされ、代々ヴァンガルド家に伝わる王剣カリバニアである。
「まぁ、そう早まるな。私は貴公に感謝を述べに来たのだからな」
「感謝だと? 貴様のような魔族風情に感謝されるようなことは何もしておらんわ」
カリバニアの柄を握ったまま、ジークが吐き捨てる。それを見て、オーガはフッと笑う。
「いやいや、皇軍の兵士に化けた私の兵が高々数人の人間を殺しただけだというのに、ここまで大規模な内乱に発展したのは、やはり貴公の人望の無さ故の功績よ。おかげでこちらの作戦は順調なのだから、謝辞の一つでも述べねばなるまいて」
「き……貴様ァッ!!」
ジークは怒声と共に、ついに王剣カリバニアを抜き放ち、その切っ先をオーガの胸元へと向けた。
しかし、動けない。今斬りかかれば床に転がることになるのは自分であると、本能的にそう察している。国民を常に見下し、駒と扱ってきた暴君であっても、否、暴君であるからこそ、目の前のオーガの強さを誰よりもはっきりと感じ取り、動けない。
自らを越えるものなどいてはならない。民は常に従順でなくてはならない。そのような彼の思考は裏返せば人一倍に憶病な部分から来ている。いつ自分の寝首を掻く者が現れるか、いつ自分の足元が崩落するか。不安。恐怖。猜疑。
故に、彼はこの国の誰よりも民達の動きに敏感だった。僅かでも自らを貶めようとする動きがあれば、誰であっても徹底的に粛正する。バッドエンドの可能性は「限りなくゼロ」ではなく、「完全にゼロ」にせねばなるまい。この思考回路が、皇帝ジークの根幹であった。
そんな、常人ならばとっくに気が狂いそうな思考回路が、オーガを前にこれでもかという程の警鐘を鳴らしていた。
勝てない。勝てない。勝てない。
終わり。終わり。終わり。
膨れ上がったプライドすらも押しのける勢いで、今、彼の内には戦わずしての敗北が充満しているのだ。
「貴様は何者なのだ……、答えろ……!」
それでも、プライドの最後の切れ端。皇帝としてのガワだけはどうにか保ちながら、ジークは改めて問うた。
「名乗ったところで、これから全てを失う貴公には意味のない事だろうよ」
「黙れ! 俺はかの始まりの魔族の討伐者たるアーサーの血を引く皇帝ぞ! 魔族風情が逆らうなど、万死に値する!!!!」
瞬間。怒りの臨界点を越えたジークは、動いた。最後に残った微かなプライドの爆発が、胸の内に充満した「敗北」の予兆を吹き飛ばしたのだ。
だが、所詮はそれまでだった。怒声を撒き散らしてガルアスへと突進するジークは、暴発して重心から飛び出した銃弾のような状態で、王権を振りかぶりこそしている物の、もはやそこに剣筋などは存在しない。
それでも、王剣カリバニアに刻まれた退魔の刻印の力をもってすれば、掠りさえすれば目の前のオーガを殺せるだろう。ジークは心のどこかでそういう安堵感を芽吹かせていたのかもしれない。
オーガは動かない。傍から見れば気が触れたかのように剣を振りかぶって突っ込んで来る王に、ただただ嘲笑の表情を見せつけるばかり。
そして
「今此処で俺に楯突いたことを後悔しながら死ね!!!」
オーガの首筋目掛けて、ジークは王剣カリバニアを振り降ろした。