暗影への前奏
ベルエル=グレムリアスにとって、魂というものは数百年に渡る長き人生の中で、常に玩具に過ぎなかった。
グレムリアスの血統が持つ、死者の魂を自在に使役する魔法。幼き頃からその才能を開花させたベルエルの遊び相手は死者の魂を封じ込めた死体。後の死霊兵の原型となる人形達だった。
命あるものは弱い。心臓を貫けば死。頭を捥げば死。崖から突き落としても死。燃やしても死。剣で斬り裂き、死。槍で突いて、死。ベルエルにとっての遊びに付き合って、生き残った友人は一人としていなかった。
だが、一度死んだ者達あれば話は別だ。心臓を貫こうと、頭を捥ごうと、そのうちに宿る魂を移し替えさえすれば、すぐに蘇る。崖から落下し、原形をとどめないほどに破裂した者も、その魂を別の器に移せば動き出す。それが、幼き頃のベルエルにはたまらなく愉快だった。自分だけの永遠の友達に囲まれて、彼は心底幸せだった。
そして、魔王軍に所属したベルエルが、一兵士として幾多の戦場を渡り歩くにつれて、彼の友達はただの遊び相手から従順な部下となった。決して死ぬことの無い、何千何万と倒れようと蘇る死霊兵である。
戦場へ赴くたび、彼は魂を集め続けた。敵味方、種族を問わず戦場で力尽きた者達、あるいは戦場となった街や村の住人達の魂を集め、死霊兵を生み出すためのリソースとして、己が内側に蓄え続けた。魔王軍の幹部に上り詰めてからもその収集は続き、ベルエル自身が把握しているだけでも蓄えた魂はざっと数十万。たとえ魔王軍が抱える十数万の魔族が全滅したとしても、それを余裕で上回るだけの兵力をベルエルはその内に持っていた。
が、それも今は過去の栄光に過ぎない。リュウカによって斬り飛ばされた腕はセシリアの魔法により修復済みだが、数百年に渡って溜め込み続けた魂は桜花のスミナギが発動した能力によってその全てが吸い取られ、空。
密かに企んでいた桜花の攻略に失敗したのみならず、自身の抱える兵力を根こそぎ奪い取られてリムレニア城へと殆ど逃走に近い形で帰還したベルエルは今、玩具を取り上げられた子供のように機嫌が悪い。後から広間に入ってきたガルアスの存在に気が付かない程に。
「らしくないじゃあないか、ベルエル。お前がそれほどまでに苛立っているとは」
広間の中央に置かれた円卓の上を指で幾度となく叩き続けるベルエルに、ガルアスはそう声をかけ、彼の向かい側の席に着いた。無論、ガルアスはベルエルの苛立ちの原因を既に知っている。ガルアスの命令の範囲外、独断で桜花を攻め落とすべく動き、無様に返り討ちにされたこと。そしてその際、彼にとっての最大の武器たる死霊兵の種となる魂を全て失った事。その全てをセシリアから聞かされていた。
「ああ。ガルアスか。すまない…………私としたことが………………」
全ては自らの責任。僅かとはいえ慢心が招いた大敗北。如何なる罰でも受ける覚悟を胸に、ベルエルはガルアスを見た。しかし、ガルアスはフッと小さく息を吐くだけで、その目に怒りや侮蔑の念はない。
「気にするな、ベルエル。独断で動いたことに関しては流石に褒めることはできんが、それでもお前が無事で帰還したならそれでいい。これから先の大戦には頭脳たるお前が必須だ。死霊兵にしても、所詮はただの駒に過ぎん。数百年分の努力を無に還されたのは辛いだろうが、失ったのなら新たに補充すればいいだけの話。幸いにも次の行程は明日にでも動き出す」
「次の行程……。ということは、ついに動いたか」
「ああ。我々にとっての最大の脅威たる皇女様は今頃優雅に船旅を楽しんでいるだろうさ」
「ようやく、人間同士の殺し合いの始まりか。確かに死霊兵の再補充も容易にできそうだ」
近く始動する計画の次段階を語る二人の前に、音もなく現れたセシリアが温かい紅茶の注がれたカップと焼き菓子を置く。
「お二人とも、どうぞ。ギムレーは治療を終えて呑気に昼寝していて、アルヴィースはまだしばらく戻らないって連絡があったわ。氷姫と嵐帝王の二人は……どうせいつもの場所でしょう」
「ありがとう、セシリア。すまんな、連絡役を任せてしまって」
「あら、いいのよガルアス様。戦闘は得意じゃないから。せめて偵察や伝達役では役立たないとね」
ガルアスとギムレーの中間の席に座りながら、セシリアは笑った。
「ああ、そうそう。各地に送り込んでいる魔族達だけど、指示があればすぐにでも動き出せる状態ですって。どうする? 今すぐに動かし始めることも出来るけれど」
「いや……始動は明日の朝だ」
セシリアの提案に、ガルアスは暫く目を閉じて思案した後、言った。
「万が一ということもある。千剣姫にはもう少しこの地から遠ざかっておいて貰いたい」
「分かったわ。では計画始動は明朝ということで、伝えておくわね」
「ああ。よろしく頼む」
はーい。とウィンクと共に軽い返事を残し、セシリアは霧のようにその場から消えた。おそらくは自慢の転移術で早速皇国各地に潜伏する味方へ、今のガルアスの指示を飛ばしに行ったのだろう。
「さて。いよいよだな、ガルアス。ルドガーを殺した時から二十年近く。短いようで長かったが、お前の悲願はもう直叶う」
「そうだ。ようやくだ。全種族の結束などというバカげた絵空事を言う王は死んだ。真に争いの無い世界はすぐそこにある…………。その為にも、最後の殺し合いは存分に楽しまねばな…………」
ガルアスは席を立ち、窓辺へと近づいた。眼下に広がる雲海、その下に広がるミラネア皇国に起こる惨劇を脳裏に描き、ガルアスは一人、声もなく笑った。