死霊の巨兵
「………………」
無防備に腹を掻きながら眠るギムレーを前に、レイトはその場に立ち尽くすしかなかった。周囲の死霊兵も突っ立ったままで、近くで繰り広げられているリュウカと死霊兵の先頭の音だけが聞こえてくる。
「あらあら、こんな場所で眠るなんて、いけない子ね」
そんな妙に気の抜けた空気の上から降ってきたのは妖艶な女性の声。上空を振り仰げば、やたらと露出の激しい水着みたいな服装をしたグラマラスな魔族の女が蝙蝠のような翼をゆったりと羽ばたかせながら、眠りこけるギムレーを見てクスクスと笑っている。
うわ……あれ絶対サキュバスだ…………。
どこからどう見てもサキュバスである。服装も、色気も、そこらへんの人に「サキュバスのイメージを描いてくれ」と頼んだら十回に九回くらいは出てきそうな、THEサキュバス。正直なところ、リシュアがかわいそうに思えてくるほどのナイスバディだ。
「戦ってたところ悪いのだけど、ギムレーは回収させてもらうわよ、灰色の冒険者さん」
サキュバスがパチンと指を鳴らす。すると唐突にギムレーの真下の地面がゆらゆらと波打ち始め、そのまま漆黒の水面へと姿を変え、ずぶずぶとギムレーを飲み込んでいく。
「待てよてめぇ!! 私らの兵を斬ってくれたお返しはきっちり受け取ってもらうぞ!!」
唐突に、死霊兵の壁の一角が弾け跳んだ。緋色の暴風が地を裂く勢いで、沈みゆくギムレーへと疾走する。リュウカだった。
この戦場に赴いてから、一体何十何百何千の死霊兵を斬り伏せてきたのか。彼女の両手に握られた二振りの大太刀は、その刀身を返り血で真っ赤に染め上げ、纏った戦装束も、元の鮮やかな緋色を、赤黒い血の色に塗りつぶされている。
「ッらぁぁぁっ!!!」
大きく踏み込み、同時に右手に握った大太刀をギムレーへ投擲、と見せかけて、リュウカは大太刀を手から離す直前に大きく身体を仰け反らせた。当然軌道は斜め上へと向いた。その先にはあのサキュバスの姿。
ブォン! と空を斬り裂いて大太刀はその身を駒の如く高速で回転させながら、サキュバスに向かって飛ぶ。サキュバスは避けるそぶり一つ見せない。
「あぁ、悪いが彼の帰宅の邪魔はしないでもらおうか」
船上で、ベルエルが動いた。手品のように手から魔導書を一瞬で消滅させ、空いた両手を胸の前で勢いよく合掌する。
「————————!!!!」
刹那、言語で表せない絶叫が死霊兵の群れの一角から轟いた。そこは丁度サキュバスの真下に位置している。
絶叫と共に死霊兵の形が水を掛けられた砂像よろしく崩れ、泥上になって膨れ上がり、上空へと凄まじい速さで伸びた。そして、それは瞬く間にサキュバスの浮かぶ高さにまで達すると、一本の巨大な手の形へと姿を変え、リュウカの投げた大太刀をその掌で受け止める。
「ちっ……なんだよあれ……!」
突如地面から生えた巨大な腕は、手の中でバキバキと音を立てて大太刀をへし折りながら、さらに全体を大きく波打たせて再び姿を変化させていく。腕の部分の根本が二股に割れ、脚を形成し、巨大な掌は中指が頭部に、残りの四指は小指と薬指、親指と人差し指がそれぞれ一本に収束し、左右に伸びて腕部となった。
「悪いが、死霊兵というのはあくまで器の形の一つに過ぎないのでね。何十人分の魂を収束させれば、この程度のサイズならばいくらでも量産できる」
そこに立っていたのは巨人。全身を筋肉で包みこんだ強靭な肉体を有した一体の巨大な死霊兵が、一切の感情がない、冷たく赤い眼光でレイトとリュウカを見下ろしていた。