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天使

彼女と天使の夜と朝

作者: たかはしあつし

 ありふれた夜に、ありふれていない天使と。

 よくあることなのでしょうけど、彼女は、飛び降りるために、この屋上にやってきました。理由は色々あって、説明は難しいのだけど、とにかくもう飛び降りるしかないと思ってしまうような理由が色々あって、彼女はここに立ったのです。

 それはよく晴れた、満月の前の夜で、風は心地よくそよいでいました。


「ねえ、ちょっと。死なせないわよ」


 よくある調子ではない、妙に強気な説得の台詞が聞こえたので、彼女は振り返りました。


 その、凛としていながらどこか優しげな声の主は、まあ簡単に言うと、天使でした。

 無造作な感じのショートカットは黒髪で、その上に虹色のわっかが浮いていました。背中の翼は、物理的には飛べるわけがないような、小さな翼です。

 そして、この明るい夜の中でも、天使のまわりだけはさらにもうちょっと、ぼんやりと明るいのでした。

 だけれどその姿は、天使にしては何となく華やかさのない、さわさわとした佇まいで、だけれどふわふわしてはいなくて、しっかり踏みしめて、天使はそこに立っていました。

 だから彼女は、思わずこう言ってしまったのです。


「あなた、ほんとうに天使なの?」

 すると天使は、やっぱり強気な調子で、頭の上や背中を指差しながら、

「失礼な人ね。このわっかや翼を見ればわかるでしょう? こういうのが天使じゃなかったら、どういうのが天使だっていうの?」

 と言い返してきました。それはそうなのですけど、

「だけどあなた、天使っていったらもっとこう、優雅で華やかで、そうそう、輝くようなブロンドだったりするものでしょう?」

 天使は、ショートカットの黒髪をいじりながら、まったくこまったものだわという表情を作って、溜息まじりに答えました。

「あのね、それは偏見というものよ。見ての通り、わたしは黒髪だし、赤毛の天使や、くせ毛がひどい天使だっている。あなたたち人間がそういう偏見を持っているから、髪を染めたりパーマをかけたり、そんなことしちゃう天使が増えちゃうのよ」

 彼女はびっくりして聞き返しました。

「え! そんなことしちゃう天使が増えちゃってるの!?」

「増えちゃってるの! 天使だってあれこれいろいろ、人並みに大変なのよ」

 それを聞いて彼女は、気になったことはすぐに口に出してしまう性格だったので、こうたずねました。

「ねえ、天使なのに『人並み』って、おかしくない?」

 天使は「むむっ」という顔をして、ちょっとの間、息を止めてしまいました。そしてから、あわてて言葉を放り出しました。

「たとえ! もののたとえよ! つまらないことばかり気にしてると早死にするわよ!」

 もちろん、これはまったく不適当な言葉です。

「ねえ、わたしってばいまここから飛び降りようとしてたところなんだけど、知ってるわよね?」

 天使は「むむむっ」という顔になってしまいました。それによく見ると、

「ねえ、あなた、わっかが泳いでるわよ」

 黒髪の上で、天使の輪が、あたふたゆららと泳いでいます。天使のことをよく知らない彼女にも、それが動揺のしるしであることは明らかでした。

 天使は「むむむむっ」という顔で黙り込んで、うつむいてしまいました。

 彼女は芝居がかった口調でたたみかけます。

「わたしってほんとうに運のない女ね。もう死んじゃおうと決めてここに立って、そしたら天使が現れて、天使に会えるなんて素晴らしい幸運だと思ったら、あなたみたいにへんちくりんな天使だなんて。ああほんとうに、わたしって運のない女だわ」

 別に本当にそう思っているわけではなくて、彼女は、かわいらしいものを見るとをいぢめてしまいたくなる性質の人間なのです。彼女は、この天使らしくない天使を、ちょっと気に入ってきていたのでした。


 だけれど天使には、そのあたりのことがどうも通じなかったようでした。彼女が台詞を言い終えても、天使は無言でうつむいています。

 そして彼女が「ねえどうしたの、じょうだんよ」と声をかけようとした瞬間、黒髪の上で泳いでいたわっかの動きがぴたりと止まって、そして「ぷちん」という音がしました。

「え? なに? なんのおと?」

 少しの隙間のあと、天使はうつむいたまま、かすかに聞き取れる低い声で答えました。

「堪忍袋の緒が切れた音よ」


 彼女は、その意味がすぐには理解できずに、ちょっとのあいだ頭の中で「堪忍袋の緒が切れた」を繰り返しました。そして、

「ええ! ちょっと待ってよ! 何で天使に『堪忍袋の緒』なんて物騒なものが備わってるのよ! それに仮にあったとしても、天使なんだからそんなかんたんに切れちゃまずいでしょう!?」

「うるさいわねしょうがないでしょう。あるものはあるのだし、切れたものは切れたのよ」

 ゆらりと顔を上げて、低い声で抑揚のない調子で、天使が言いました。よく見ると天使はやっぱりとてもきれいな顔をしていて、だけれどいまはその顔は無表情で、その美しさは恐怖を増すばかりです。

 今度は彼女があわてるときです。いくらこんなのでも、相手は天使です。怒らせてしまったら何をされるのかわかりません。もちろん彼女は飛び降りるつもりだったのですけど、相手は天使です。何か想像もできないような、死ぬよりもひどいめにあわされてしまうかもしれないと思ったのです。

「いやじょうだんよ。じょうだんだってば。黒髪の天使だって素敵だし天使が人並みに苦労してるのもわかったし、あなたに会えてほんとうにうれしいわ!」

 彼女が一息でそう言い終えると、天使は「ふ〜ん」という表情で彼女の顔を見てから、こう言いました。

「まあいいわ。今回は大目に見てあげるわよ」

 それを聞いて彼女がほっと息を吐くと、天使は、強気な顔に戻って、断固とした口調でこう続けました。

「というわけで、飛び降りるのはやめてくれるのね?」


 今度は彼女が黙り込んでしまいました。

 天使も何も言わず、まるで満月のような月の明かりが静かに、そして切れかけの非常灯が不安げに、その場を照らしていました。

 どれほどの時間が流れてからか、やっと口を開いたのは、彼女でした。

「ねえ、死にたくなる気持ちって、天使にわかるのかしら」

 うつむいたまま、彼女の言葉は続きます。

「人間の世界には、いろいろあるのよ。わたしがどうして死にたくなったのか、一言では、原稿用紙百枚でも説明し切れないけど、ほんとうのところは、わたしにもぜんぶはわかってないけど、いろいろあるのよ。いろいろなことがあったの」

 そこまで言うと、彼女はうつむいたまま、屋上のふちに腰を下ろしました。天使は何も言わず、彼女のつむじを見つめています。

「だからね、もう、だめなの。天使にはわからないのかもしれないけど、もう、だめなのよ」

 だけれど天使は何も言わずに、彼女のとなりに、寄り添うように座りました。天使のまわりの空気は、ちょうどあたたかくて、ぴったりとやわらかくて、彼女は、「ああ、この人、ほんとうに天使なんだ(天使だから人じゃないけど)」と思いました。

 その空気と同じような声で、天使は話しかけました。


「わたしね、飛び降りようとしている人を止めにきたのは、あなたで三人めなの」

 天使は、慎重にひと呼吸おいてから、続けました。

「ひとりめのひとは、とてもやさしいひとで、わたしはそのころ、天使に生まれてしまったことにさえ悩んでいるような、出来の悪い新人天使で、飛び降りようとしてたそのひとと話しているうちに、逆にわたしが大泣きしてしまって、そうしたらそのひと、飛び降りるのやめてくれたのよ」

 天使は、とても大切なことを思い出すときの表情と口調で、その話をしました。

 彼女も、「天使なのに『新人』っておかしくない?」と思いましたけど、今度はそのことを口に出しませんでした。天使にとって、とてもとても大切な思い出なのだとわかったからです。

 けれどもそのあと、天使の表情は、どんな人間よりも悲しくて苦しそうな顔に変わりました。


「ふたりめのひとは、とてもかなしいひとで、ほんとうに、ほんとうにあきらめてしまっていたの。もちろん、死のうとするようなひとは誰だって、あきらめているものだと思うけれど」

 天使は、そこで区切りました。彼女は、うつむいたままうなずきました。非常灯も、切なげにまたたきました

「だけどそのひとは、もうほんとうにどうしようもなく、ほんとうに、あきらめてしまっていたの。わたしはもう新人ではなくなっていたからちゃんと説得しようとしたけどぜんぜんだめで、結局わたしったらまた大泣きよ」

 天使は力なく笑いました。その笑いは、彼女が今までに聞いたどんな笑いよりも無力でした。

 その短い笑いのあと、少しの沈黙のあと、天使は言いました。

「そのひと、飛び降りたわ」

 また、言葉のない時間がしばらく。そして、

「わたしは、落ちていくそのひとを叫びながら追いかけて、抱きとめようとした。ビルの三階とかそのへんで、わたしはそのひとに追いついた。だけど、だけどね」

 彼女はうつむいたままだったけれど、だけれど彼女は、天使の瞳から涙が溢れるのを見ました。

「そのひと、わたしの身体を透り抜けて、落ちていってしまった」


 天使は言葉を途切れさせ、その一瞬の空白を、涙の気配が埋めました。だけれど天使は、すぐに言葉を続け始めました。

「天使はね、ほんとうにあきらめてしまったひとには、もう触れられないの。手を握ることも、頭を抱きしめることも、落ちていく身体を抱きとめることも、できないの」

 駆け出してしまいそうな心を、早口で投げ捨ててしまいたい言葉を、懸命になだめて。そんなふうにして、天使はしゃべり終えました。

 それは、どんな気持ちなのだろう。それを考えると、彼女はとてもかなしくなってしまいました。そんなの自分だったらとても耐えられない。天使なんてやってられない。

 まるでその声が聞こえたかのように、天使は言いました。

「だけどね」

「どんなにこわれそうになっても、天使はほとんど不死身だから、死ぬこともできないの。それに、天使として生まれたら、天使をやめることもできないの。だから、どうにかするしかないのよ」


「わたしのわっかが切れかけのドーナツ蛍光灯みたくまたたいているのを見て、天使長様は休暇をくれたの。だけど、何もする気は起きなかったし、どんなに休んでもどうにもならないって思ってた」

「だけどね」

 天使は、うつむいたままの彼女に向き直って、言いました。

「どうにかしたわ」

 彼女は「え?」と顔を上げました。天使は、涙を止めて、だけどたくさんの涙が残る瞳で、彼女の瞳をぎゅうっと柔らかく見つめながら、ゆっくりとたしかめるように、続けました。

「一言でも、原稿用紙百枚でも説明し切れないけど、わたしは、どうにかしたの」

 彼女はくいつくように天使に聞き返しました。

「でもどうやって? どうしたらいいの? わたしも、あなたみたいにどうにかできるの?」

 天使は、優しく、首を横に振りました。

「どうしたらどうにかできるのかなんて、教えてあげることはできない。天使でも人間でも、自分でどうにかしなくちゃいけないのだし、自分でしかどうにもできないのだから」

 だけれどその声は、拒むものではなくて、包み込むような響きでした。まるで満月のような月の明かりと、いつのまにかあの非常灯までも、まるで満月のように静かで優しい光を届けて。

 そして、天使はこう続けたのです。

「でも、あなたはだいじょうぶ」


 だってほら、わたしはあなたをだきしめることができるもの。


 天使の腕の中には、温かさに柔らかさ、優しさに穏やかさ、懐かしさも、破裂しそうな愛しさとひとかけらの切なさと、たしかな強さと、しあわせなすべてが溢れていて、彼女は、何もかもだいじょうぶだったこどものころのように、たくさん泣いて、そしてたくさん泣いて、そして最後に、ふにゃあとあくびをしたのです。


 目を覚ますと、空は明るくなってきていました。まるで満月のような月は白くかすんで、切れかけの非常灯はまたたいていました。そして、天使はもういませんでした。

 だけれど彼女にはたしかに、天使に包まれている感触がたしかに残っていて、だからわたしはだいじょうぶなのだと、彼女はわかるのです。


 だってわたしは、天使に抱きしめられたのだから。

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