人間の証明
人間が真に人間的であるためには、人間が本質的にも、現実的にも動物と異なるためには、その人間的欲望が実際に人間の中で人間の動物的欲望に打ち克つ必要がある。
アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』(上妻精・今野雅方訳)
「わたしたちって人間なのかな?」
「ぼくらは人間だよ」
姉の言葉にそう返した。椅子に座る姉は、どこか遠くを見ていた。
「どうして、そう言えるの?」
「そりゃあ、ぼくたちはヒトの形を持って生まれて、生きてるじゃないか……」
姉は憂鬱そうに小さく切られた林檎を口にした。
「甘いわね」
「林檎だからね」
「でも、この味覚は偽物。大脳皮質の味覚野だってAB--ArtificialBrain《人工脳》が代替……脳の全てがABに入れ替わってるじゃない。わたしたちは自分の意識で知覚してないのよ」
「ぼくは姉さんの話を自分の意識で聞いてるよ。それにこの御時世、脳も体もいじってない人間なんていないさ……AM--ArtificialMuscle《人工筋肉》のおかげで前時代に比べて外傷が原因で死ぬ割合は劇的に減ったんだ。ABのおかげで、ぼくらは一度に3つの事を考えることが出来る」
「でも、それは人間が元々持っていた機能では無いわ」
「進化だよ。テクノロジーで進化したんだよ。キリンの首が長くなったように、ぼくらの先祖が二本足で歩き始めたように。」
「後付けの進化……でもね、進化論は誤りだらけなのよ」
「人間が猿から誕生することはあり得ない」
「アルフレッド·ウォレスね……」
姉はぼくを見て、いつものように微笑した。艶のある黒髪をかきあげる癖とともに。
「どこから来たのか分からない私たちは何処へ向かうのかな?弟」
「さぁね。でも、その内姉さんの疑問にも答えが出るかもしれないよ」
「待ってられないわ。わたし、おばあちゃんになっちゃう。そんなに長く生きるつもり無いもの」
「じゃあ、どうするの?」
「わたしが、証明するの。わたしが人間であるということを証明するの」
そう言った4日後、姉は死んだ。
姉が死んだ日、ぼくは第三世界経済圏--以前はアフリカと呼ばれた地域で戦争資源委託者として、ソマリアで反経済圏勢力のゲリラ狩りに当たっていた。つまりは傭兵だ。ベースキャンプから基地に戻り、上司から連絡を受けたぼくは急いで東京へと戻った。
姉は服毒自殺した。ABも毒のせいで焼かれて、死に際の状況を辿ることは出来なかった。安らかな顔でぼくを孤独に追いやったのだ。弟に嘘をつき、何処か遠い場所へ行ってしまった。
あらゆる物が民営化された。軍事、司法、行政、エトセトラ。でも、そんな物が民営化されて身近になったのはつい最近で、死は-ー暴力の果てにある物ではない、自ら選択する-ーずっと昔から身近な所、ぼくらに委ねられてきた。姉は委ねられた物を迷う事なくつかった。それだけだった。
民間司法会社の霊安室で姉を見たとき最初に思ったのは、姉は自分が人間であると証明出来たのかということ。哀しみや喪失感は無く、ただただ疑問が浮かんだ。ぼくにとって、姉の死は二人称の死ではなく三人称の死だったのかもしれない。
ぼくは早々に仕事に戻った。姉の葬儀を簡単に済ませ、飛行機に乗った。姉は両親と同じ墓標の下で眠っている。もう二度と行くこともないだろう。行っても何の意味もないから。
会社のオフィスで次の勤務地を言い渡され、また飛行機に乗る。次もまた第三世界経済圏だったが、場所が最悪だった。
国家が経済圏に再編される前は中央アフリカ共和国と呼ばれていた地域。前時代から続く宗教紛争は泥沼と化し、誰一人として脱け出せなくなった。国民は皆、骨董品の銃--多くはAKを手に、聖戦の名の元に殺し合いをしている。少年兵と麻薬と教義が支配する生き地獄。そんな場所に行くのだ。
だが、別に内戦を止めに行くわけではない。どちらかと言えば、ぼくらも彼らと同じようにたくさんの人を殺しに行く。クライアントは経済圏の上層部で、第三世界経済圏にとって旧中央アフリカ共和国は目の上のたんこぶだ。早く取り除きたいが、平和的に解決するためにはタイムスリップしなければならない。そこでぼくたち戦争資源委託会社に依頼が来た訳で。クリスチャンもムスリムも関係なく、首を転がしてくれと。ぼくは殺戮をしに行く。
赤茶けた土とその上に転がる首のない子供。基地に行くまで、幾度となくそんな光景を目にした。基地までの経路で昨日戦闘があったという。テクノロジーの差による一方的な虐殺で死んだクリスチャンの骸。
ぼくら、戦争資源委託会社の社員は皆身体を先進経済圏の一般市民以上にいじっている。代替されるArtificialPartsは全て軍用の物で、中には全身を代替している者もいる。社員の殆どが元特殊部隊員や元軍人だったりするから入社する時には内蔵もArtificialPartsだというやつは多い。ぼくは脳と筋肉と骨だけ代替している。
だが、後進経済圏、とりわけ中央アフリカやソマリアといった前時代から情勢が不安定な地域の代替率は極めて低い。そんな生身の少年兵と身体の至るところに人殺しのテクノロジーを組み込んだ大人。ぶつかった時の結果は明らかだった。
基地に到着するとぼくより先に入った同僚たちや他社に勤務する友人たちが迎えてくれた。暑くてやってられない、と言うと冷えたビールを寄越してくれた。
貨物がどんどん運ばれていく。ぼくらが使うたっぷりの弾薬と武装。
自律状態のHellhawkがローターを回しながら飛んでいく。機首の先端に取り付けられた機銃は、帰投するまでに死体をどれ程の高さまで積み上げるのか。
ぼくらに作戦なんて物は無かった。ちょっとドライブに出掛けて、ちょっとピクニックして、たくさん殺してこい。上司はそう言ってエアコンの効いた部屋でビールを煽った。その言葉通りにぼくらはドライブに出掛けた。
「なぁ、ぼくらは人間だよな?」
「少なくとも、エイリアンじゃねえだろうよ。プレデターでもないな」
装甲車のハンドルを握るジョシュは退屈そうにぼくの質問に答えた。
「じゃあターミネーターか?」
「まぁ、それが一番近いかもな……どうしたんだよ、変なことばかり聞くけど」
そう会話する中、装甲車に取り付けられた機銃が勝手に唸りを上げる。装甲車を走らせるだけで人がミンチになり、ぼくらの給料になる。
あの日、姉さんと最後に話した日。あれから、姉さんの言葉が頭にこびりついて離れなかった。
わたしが、証明するの。わたしが人間であるということを証明するの
ArtificialPartsを嫌っていた時代錯誤な姉。自分が自分である、人間である確証が欲しかった姉。
幼い頃から変わった人だった。どうでもいいことを気にかけて熱を出して、両親が墓標の下に埋まった時には涙一つ見せなかった。ぼくも見せなかったが。
そんな姉が最後に気にかけたこと、人間の証明の結果はどうなったのだろう。証明してから死んだのだろうか。数式で証明出来る訳が無い。どうやって証明しようとしたのだろうか。
「まぁ、人間じゃないやつがこうして会話してるってのは考えられないよな」
「いや、最近じゃあそうでもないみたいだぜ。ピーターいるだろ?あいつ、Hellhawkの火器管制システムに載っけたAIと喋ってたってさ。冗談で口説いたら、上手く切り返されて一本取られたとか言ってたな……」
「まるで人間だな」
「あぁ、大差無いだろうよ。ハードウェアが違うだけかもな……俺らとの違いって」
AIとの違いがハードウェア--形だけなら、身体をいじり回して生の肉体を失った人間とAI。違いなんて何処にあるのだろう。どうやって、証明すれば良いのだろう。
「後はまぁ、死や命とか?」
「抽象的だな」
「それぐらいしか残ってないだろ。どれだけ捻っても出てこねえよ……それといい加減運転替われ」
「自動運転にすればいいだろ」
「この先の悪路は自動運転じゃ無理だ」
「テクノロジーも万能じゃないってか?」
「どうやらそうらしい……」
ハンドルが助手席に移動し、ぼくはそれを握った。
「昔はテクノロジーが人間を変えるんじゃないかって危惧してたらしい」
「その後は社会に影響を与えるって風潮になった」
「テクノロジー決定論」
「国家が存在していた頃、独裁国家でデモが起きたりするとテクノロジーの勝利なんて言われたんだろ?」
「空想家さ……ソーシャルメディア--テクノロジーは圧政に苦しむ方だけの物じゃない。デバイスを与えただけで革命が成功するわけじゃないだろう?それに於ける決定論は色々と抜けてるんだよ。それに、今は自律論が主流だ」
「俺がいた米州経済圏で、AIが開発中の兵器の発展系を提示したらしいからな……」
「人間も、もういらないかもな」
「人間だけは自然淘汰されないんじゃないのか?」
「進化論の誤り……アルフレッド·ウォレス」
「まぁ隕石とか核戦争でもない限り、人間は絶滅しねぇよ」
「……もしも、核戦争後に生殖機能を残して全身をArtificialPartsで代替するようになったとしたら……それは人間と呼べるか?」
「そりゃ、セックス出来るターミネーターだろうよ」
ジョシュはタバコに火をつけて、道に転がる肉片を横目に言った。
「今の俺たちは、瀬戸際に立ってるのかもな……」
基地に戻ると、見知った顔たちが慌ただしそうにしていた。訳を聞くと
「今からクライアントが視察に来るんだと。近くに来たからついでに寄ってくって、ここは娘夫婦の家じゃねえっての……」
ぼくらを雇った経済圏のお偉いさんが寄るそうだ。基地にいる連中からしたら迷惑以外の何でもない。基地で雇用している現地民も帰さなくてはならないから、彼らからしても甚だ迷惑な話だ。
「面倒だなぁ、俺たちはいつも通り……だろ?」
「あぁ、ちょっと腹が痛いからな……作業出来そうにない」
ぼくとジョシュは喫煙所に直行した。いつもジョシュとぼくは面倒な時、喫煙所に逃げ込む。そうすれば大抵は凌げるからだ。
タバコに火をつけて、どうでもいい話をしているとドアが開いて、ぼくを呼ぶ声がした。レーヌだった。
「またここにいたのね……チーフに怒られるわよ?」
[構わないよ。それにチーフだってぼくらのことは言えないよ。エアコンが効いた部屋で昼間からビール飲んでるんだ……一服するのなんて可愛い物だろう?」
「そうだぜ、レーヌ。お前も吸うか?」
「言ったでしょ、わたしタバコやめたの」
「その割には、この間隠れて吸ってたみたいだけど?」
バレてないと思っていたようで、酷く動揺していた。ボーイフレンドには敵わねぇな、とジョシュが言うとそのまま出ていってしまった。
それから暫く、喫煙所に籠っていた。その時おかしな物を見た。喫煙所の窓から子供が走っていく姿。雇っている現地民はとっくに帰っている筈だった。更に、子供は大きな袋を持っていた。それが意味するのは。
「ジョシュ、見たか?」
「あぁ、きな臭いな。ここで雇っている奴じゃねぇ……紛れ込んだか」
「とにかく急ごう。もうすぐお客さんが乗ったTransportHawkが到着する」
ぼくとジョシュはヘリポートへと走った。TransportHawkは既に着陸態勢を取っていて、ヘリポートには同僚や上司、レーヌの姿もあった。そしてヘリポートへと走る子供の姿も。
レーヌたちはTransportHawkのローター音で子供に気付いてない。カーゴからお客さんが降りてきて、上司と握手している。
間に合わないと判断したジョシュが、ハンドガンをホルスターから抜いた。乾いた銃声が2発、茹だるような熱気に包まれたヘリポートに響く。 子供の頭と胸に1発ずつ、45口径のホローポイント弾が撃ち込まれ頭から脳漿が飛び散り、胸にはぽっかりと穴が空いた。袋は前のめりに倒れた勢いでレーヌたちがの足下へ放り出された。
銃声でやっとこちらに気付いた上司たちが、お客さんを避難させようとしている。が、レーヌの足下の袋が光り始めた。ぼくはレーヌの元まで走り、袋を上へ投げてレーヌに覆い被さった。
熱と大きな音と背中への衝撃、身体の中で何かが弾けて潰れる感覚。それが、ぼくが意識を失う直前に感じた全てだった。
次に目覚めたのは、白い部屋だった。酷く身体が重く、気持ち悪さと身体中に絡み付く違和感に襲われた。周りを見回すとよく分からない機械とチューブがぼくに向かっていた。
目を覚まして暫くすると白衣を纏った男が部屋に入ってきた。ウチの会社の医療部だった。
「フジタニ·ショウゴさん。声を出してみてください」
「……やぁ、ドクター……これでいいか?」
「ありがとうございます。気分はどうですか?」
「最悪だ……気持ち悪いし、身体が重いんだ。自分の身体じゃないみたいだよ」
「じきに慣れます……」
ドクターはそう言って数値を記録し、状況を説明し始めた。
あの後、ぼくは基地の診療所に担ぎ込まれて、今は集中治療室から個室に移されたらしい。あの場にいた者は全員無事で、お客さんは予備のTransportHawkで帰っていったという。しかし、何よりもレーヌが無事だったことが僕の心を安堵させた。
「それで、あなたの身体のことなのですが……」
ドクターの顔が曇った。
「何ですか?」
「爆発の際、衝撃でTransportHawkのローター部分が破損し、あなたに突き刺さりました。それだけではなく、様々な破片があなたの体内に……」
「……それで」
「あなたの内蔵とArtificialParts群は治療不可能でした。なので、あなたの損傷した部位を全てArtificial Partsで代替しました。現在、あなたの90パーセントはArtificialPartsです。どうかご理解下さい。我々にとって、あなたたち戦争資源委託人は貴重な資産ですので無駄には出来ません」
ドクターが出ていった後、ずっと考えていた。今のぼくを見たら、姉は何と言うのかと。人間じゃないわ、あなたは何、とでも言うのだろうか。
だが、ぼくはあの時確かに感じた。熱と大きな音がぼくを包み、身体にローターが突き刺さって内蔵が潰れる中で、確かに生を、人間を感じた。自分が人間である確証を得た。
姉もそうだったのではないだろうかと、ふと思った。姉は自分が人間であることを証明するために、人間を感じるために毒を飲んだのではないか。そして、ぼくと同じように確証を得た。--証明出来たかはともかく--だから安らかな顔をして逝ったのだ。ぼく1人を残して。だが、安らかな顔をして逝ったのだから姉なりに疑問に対して答を見出だせたのだろう。
「よう、調子はどうだ?」
「まだ慣れないね……違和感が抜けない」
ジョシュが葉巻とタバコを手に見舞いに来た。葉巻は上司、タバコはジョシュからの見舞いの品だった。
「ぼくに葉巻は似合わないだろ……チーフも何考えてるんだか……」
「いいじゃねぇか、早く似合わねぇ姿を皆に見せてやれよ」
そう言うとジョシュはぼくの肩を叩いた。代替したばかりで馴染んでないArtificialBorn《人工骨》が鈍く痛んだ。抗議すると、大して悪びれた様子もなく謝ってきた。
「レーヌはどうしてる?」
「大分、滅入ってるみたいだぜ。さっさと身体馴染ませて復帰しやがれ、そんでレーヌに顔見せろ」
「そうだな……火くれ」
ジョシュに火を貰い、見舞いのタバコを1本吸った。医療部のスタッフに見られたら、大変だ。
「にしても、9割がArtificialPartsか……。本当にセックス出来るターミネーターになっちまうとはな」
ジョシュは笑って、そう言った。だからぼくも笑って、こう返した。
「ぼくは人間だよ」