修行
「シアナ、シアナ! 起きろ!」
朝早くからテニトカはシアナを起こした。シアナは大きく伸びをして辺りを見回す。
「はれ? ここどこ」
「寝ぼけているのか? お前は昨日からずっとここに住んでいるんだぞ」
大きくあくびをしながら、テニトカの言葉を聞いて、ああ、そう言えばそうだったと、ようやく現実へと戻ってきた。
「目は覚めたか? 森の見回りがてら、飯をとりに行くぞ」
そう言って出口に向かうテニトカの背を、シアナは慌てて追いかけた。
外に出ると、清々しい空気がシアナを包んだ。夏と言えども、やはり朝は肌寒い。薄着のシアナは自分を抱いて小さく震えた。
「寒いか」
「うん、少し。でも平気」
シアナの顔を見てテニトカは無言で歩き始める。
「森の見回りって特に何をするの?」
「別に。異常がないか見回り、異常があれば対処する」
アバウトすぎて、理解ができない。テニトカは頭をひねるシアナに顔だけを向けた。
「まあ、特にすることはないということだ。森の姿をその目に焼き付け、せいぜい道に迷わないように気をつけろ」
そう言ったテニトカは何かに気づき、ピタッと足を止めた。シアナはテニトカにぶつかる寸前、慌てて足を止める。
息を潜め、静かに見つめるテニトカの視線の先には、一匹の野兎がいた。どうやら食事中らしい。もそもそと口を動かしている。
「俺が手本を見せる。狩りの仕方をよく見ておけ」
テニトカはあくまでも冷たくそう吐き捨てた。その言葉にテニトカの目を見たシアナは、嗚呼、殺すのかと、意外にも冷静に悟った。
テニトカは足音を可能な限り小さくし、息を殺して獲物に近づく。やがて立ち止まると、グッと全身に力を込め姿勢を低くした。次の瞬間、バッとテニトカが飛び出したかと思うと、野兎はテニトカの口の中でもがいていた。テニトカが低い唸り声を上げながら口を閉めると、野兎はやがて静かになった。
「次だ。次の獲物はお前が捕れよ」
テニトカは野兎を口に銜えたまま、奥へと進んでいく。
テニトカが横切る際、シアナは野兎の見開かれた目に意識を取られた。俯き、顔を上げ、短く息を吸い込むと、先へと歩いていくテニトカの後を追いかけた。
しばらく歩くと、ふと、左の方から音がしたのに気がつき、立ち止まった。それに気づいたテニトカも足を止める。
「何かいる……」
呟いたシアナにテニトカはあくまでも冷静に頷いた。
音と言っても本当に小さな音だった。テニトカの憶測では草を噛み千切る音だ。人間の感性は自分のものに比べて相当劣る、と認識のあったテニトカは、自分でも気づきにくいような音を拾ったシアナに、内心、冷や汗をかいた。
「今の音は草をちぎる音だ。きっと食べているのはウサギか何かの草食獣だろう。ちょうどいいな。捕るか?」
テニトカは少し上ずった声でシアナに問う。するとシアナは無言で頷いた。
「……息を潜め、足音をできるだけ無くし、気配を消すんだ。そして、一気に飛びかかり、殺せ」
シアナは深く息を吸いこんでうなずくと、獲物の方向へと足音を忍ばせて歩き始める。
シアナは興奮していた。しかしその一方で、息を潜めることを怠りはしなかった。
徐々に近づくにつれ草木が薄くなり、その隙間から獲物の正体をとらえることができた。白ウサギはまだこちらには気づいていないらしかった。
シアナは限界まで近づくと一気に飛び出した。
ウサギがシアナに気づき、逃げる体制になると同時に、シアナは二歩目を踏み出した。
そしてシアナは滑り込むようにしてウサギを掴む。
しかしウサギももがく。
シアナは手に力を込めて、ウサギの首を絞めた。しばらくするとウサギは硬直した様に、死んだ。
ふう、と息を吐いてから、自分がいつの間にか今まで息を止めいたことに気がついた。
酸素が脳に届いたからだろうか。皮膚の神経が蘇ってくると、頬に濡れた感触があった。もしかしたら、緊張がほどけてどっと汗が噴き出したのかもしれない。
シアナの動きに息を飲んだテニトカは、シアナの流す涙にむしろ違和感を覚えた。まるで狼のような俊敏な動きだったのに、亡くなった命に悲しさを表すことが、おかしくてしょうがなかったのだ。
「テニトカ」
名を呼ばれたテニトカは、少しギクッとしたようにシアナを見る。
シアナはただ、涙に濡れた顔で笑ったのだ。
*
夜。シアナが眠ってしまったのを確認して、テニトカは静かに外へ出た。
一方、猿の長であるサオンも、群れの仲間に気付かれないように外へと出た。
二人が落ち合ったのはちょうどお互いの住処の中間。
「娘はどうなった」
サオンがそう尋ねると、テニトカは少し難しい表情を浮かべる。
「今日、狩りをしたんだが、そのときのシアナが……」
妙に珍しく、口ごもるテニトカ。そのテニトカにサオンは顔を引きつらせる。
「なんだ。はっきりと言え」
サオンの催促にテニトカは一度深く息を吸った。
「……狼のようだったんだ」
ハッとして目を見開いたサオンは少し興奮気味に問う。
「まさか、口で殺したのか?!」
「いや、そういうことではない。手で絞殺した。それよりも気配の消し方だ。あれは狼の狩りの姿にそっくりだったんだ。それに、ためらうこともなく一気に殺したんだ。既に死んだ狐を食うことすら嫌がったのにだぞ? 泣くし笑うし、意味が解らん……」
自問自答しているかのようなテニトカに、サオンも困惑しながら頷いた。
「人間の感情や思考まではわしにもわからん。が、気配の消し方が狼に似ているというのは少し気になるな……」
「俺は明日、サリーの所まで行って話をしてくる。あいつは人間が嫌いだからシアナは連れていけない。だからサオン、明日一日シアナを頼めぬだろうか?」
テニトカは真剣に、そして必死な表情で言うものの、サオンの表情は曇っていた。
「しかしな、わしの群れの半数は人間に殺されている。群れで人間に恨みのないものは……っ!」
突然ハッと顔を上げたサオンは一人頷くと、テニトカに向き直った。
「あいわかった。明日一日、娘を預かろう」
「助かる」
テニトカはほっとしたように、申し訳なさそうに、笑った。
「――と言う訳だ、シアナ。じゃあサオン、よろしく頼む」
サオンが頷くと、テニトカは翼を広げて舞い上がった。
残されたシアナはサオンに向き直り、頭を下げた。
「お世話になります」
「じゃあ早速だが、おいザン!」
名を呼ばれると、奥の茂みから一匹の若い猿が姿を現した。
「わしの孫のザンだ。今日一日お前についてもらう」
「ザンだ。お前のことは爺から話を聞いてる。爺も含めて群れの猿は皆、人間が嫌いだが、俺は嫌いじゃない。今日一日と言わずに、まあ、これからよろしく頼むよ」
「私はシアナ。こちらこそよろしく」
シアナが握手のため手を差し出すと、ザンは少し懐かしむように微笑んで手を握り返した。
「爺、どうせ群れに居ても非難の目を受けるだけだろ? 今日一日、この森を案内しようと思う」
ザンの言葉にサオンは頷くと、そそくさと姿を消した。
「ったく。爺も少しは愛想よくすればいいのに……。じゃあ飯でも食いがてら森を案内する。美味い果実のある場所知ってんだ!」
ザンはシアナに向けて満面の笑みを浮かべる。その顔にシアナも応えて笑った。
ザンは前を歩きながら、シアナに森の色々なことを教えてくれた。森をつくる木のこと、地面に生える草花の名前。本当に多くのことを語るのでシアナは感心しながら聞いていた。
「ものすごく物知りなのね。サオンに教えてもらったの?」
シアナがそう尋ねると、ザンは少し黙ってから呟くように言った。
「爺はここまで知りはしない。爺が知っているのは害が有るか無いか、どういう効能があるのか、そう言ったことばかりだ。俺は、人間から教えてもらったんだよ」
「え?」
「俺、昔は人間と仲が良くてよく教えてもらっていたんだ。そいつは物知りで色々なことを教えてもらった。お前のように、俺らと会話ができるわけではないが、身振り手振りで教えてくれたんだ」
ザンは立ち止まることなく、歩きながら懐かしそうに話す。その顔はとても穏やかだった。
「素敵ね。その人とは今も会っているの?」
ザンは初めて足を止める。シアナも慌てて立ち止まった。
「いや、その人は死んだよ。俺を庇って人間に撃たれたんだ」
シアナは言葉を飲み込んだ。何とか息を吸いこみ、口を開いた。
「恨みは、しなかったの……?」
ザンは再び歩き出した。
「恨んださ。その人間を殺してやろうかとも思った。でも、彼は最後に言ったんだ。頼む、逃げろ、生きろ、って。だから俺はこうして生きている。それに――」
ザンは立ち止まり、シアナを振り向いた。
「人間だって良い奴はいるんだ」
ザンはその顔に再びシアナに満面の笑顔を向ける。シアナは、涙が出そうになるのを抑え、笑い返した。
*
「なっ、美味いだろう?!」
ザンは林檎を頬張るシアナに、同じく林檎を飛ばしながら同意を求めた。
「ふむ。ほいふぃ!」
「バッカ、何言ってんのかわかんねーよ」
二人はたくさんの林檎を手に、腹いっぱいになるまで食べ続けた。
重くなった胃袋を抱え、二人は開けた草原に寝そべり、空を眺めた。流れゆく雲を見つめ、シアナは白い部屋のことを思い出した。
「ザン、私ね、しばらく前までずっと白い部屋の中に居たの。それに、せっかく外に出た時もすぐに帰っていた。だからこうして自然を感じることなんてなかった」
ザンは興味ありげに、だが何も言わずに、シアナを見つめていた。
「世界はこんなにも、美しい……!」
「そうさ! この世界は美しい! だから守ろう! この世界を」
ザンの言葉に頷いたシアナは、ふと木の葉の踏まれる音に起き上って振り返った。ザンもなんだろうと振り返る。
そこには白い狼が茂みから出ることなく静かにこちらを見ていた。
「っ! ……サリー……!」
ザンが呟くと、白い狼は静かに茂みの奥へと後退して行った。
「あっ……待っ――」
「シアナ!」
白い狼を呼び止めようとしたシアナをザンは引き止めた。
驚いたシアナはザンを振り向いたが、ザンは首を横に振るだけだった。再び視線を戻したが、そこにはすでに白い狼の姿はなかった。
「ザン、どうして引き止めたの?」
ザンに向き直ったシアナの問いに、ザンは首を横に振る。
「あの白狼はサリーっていうんだ。この森の白狼の唯一の生き残りさ。彼女はこの森一番の人間嫌いだ。いくらシアナといえども危ない」
ザンは夕日を背にして、森へと歩いて行く。
シアナが一歩踏み出したそのとき、どこか遠くから狼の遠吠えが聞こえた。その遠吠えはシアナの心を握るように苦しくした。