存在
暗闇の中、冷たい風が頬を撫でた。シアナはゆっくりと目を開き、肩を撫でた。
(治ってる……いや、あれは夢だったのかもしれない)
シアナはゆっくりと上体を起こし、頭に手を当てた。思い出されるのは昨日の出来事。
(あれ、私いつ家に帰ったっけ?)
寝起きでぼやぁとして頭が冴えない。シアナはゆっくりと昨日の行動をたどる。
(いつものように私は帰った?)
いや、帰ってなどいない。あのとき確かにシアナは研究所に侵入したのだから。となればあの出来事は……。
「現、実、?」
口に出さねばまた夢物語にしてしまうかもしれないほど受け止めきれない出来事。昨日のことが走馬灯のように思い出され、頭の中を駆け巡る。頭の理解よりも早く、胸に膨らんだ感情が、涙となって流れ出した。
「うっ……あ、うぅ……」
嗚咽が零れてシアナは口に手をあてた。
「シアナ?」
突然名前を呼ばれ、シアナは後ろを振り返る。暗闇に朝日が差してテニトカの美しい毛並が露わになった。
「テニ、トカ……」
口に出さねば存在をかき消してしまいそうで、息を詰まらせながらもその名を呼んだ。
テニトカは不思議そうに見つめている。
「それは涙か? つまりシアナは今悲しいのか?」
シアナは返事を返すことができなかった。
今は会話ができないと判断してか、テニトカは泣いているシアナを通りすぎて洞窟の外へと姿を消した。
しばらく泣き続け、涙が枯れてしまった頃、ようやくテニトカが帰ってきた。その口の中で狐が力なくうなだれている。
シアナがテニトカの方を向くと、テニトカは狐をおろしてシアナに問いかける。
「話せるか?」
「うん……」
小さく呟かれた言葉を聞いて、テニトカはシアナの前に腰を下ろした。
「人間は涙で感情を表現できていいな。俺たちはなかなか涙が出ない」
シアナは手の甲でもう一度目を擦った。
テニトカはシアナをさぐるように見つめ、尾を左右に振る。
シアナは小さく口を開いた。
「テニトカ、傷はもう大丈夫?」
「ああ、俺はすぐに治ってしまうからな。弾も出した。もう大丈夫だ」
シアナはよかったと小さく呟いた。
テニトカは思い出したかのように声を上げる。
「傷と言えばシアナ、その回復力はどうしたんだ? そういう体質か?」
テニトカの問いにシアナは薄く笑って答える。
「ええ、神が与えた特別な力なんだって。その力が他人に無いというのはリンに聞いたわ」
「それだ」
テニトカはシアナの言葉を遮るように声を上げ、
「お前はなぜ俺たち動物と話ができる? それはリンや俺は勿論、他の動物にも可能なことなのか?」
と尋ねた。しかしシアナはキョトンとしてテニトカを見つめる。テニトカもその表情の真意がわからずキョトンとしてシアナを見つめる。
「普通でしょ?」
「普通だと思っていたのか?」
その言葉は普通ではないということを肯定しているようなものだ。
「え、喋れないの、普通?」
「ああ、でなければ俺が捕まることはない」
言われてみれば確かにそうだ。
シアナは驚いて硬直してしまう。
それはシアナが話せることは普通であり、突然話せる、つまり、産まれた時からごく普通に話していたということを証明していた。
運命。シアナがテニトカと出会ったのは偶然にして必然。運命なのかもしれないとテニトカは感じた。
「シア……」
ぎゅるるるる……とテニトカの話をかき消す大音量がシアナの腹から鳴り響いた。シアナは頬を赤く染めて言った。
「おなかすいちゃった……」
それもそのはず、昨日の事件から一口も食べていないのだ。
テニトカは足場に横たわる狐を差し出した。まるで喰えと言っているかのように。
シアナは眼を丸くしてテニトカを見る。
「食え。遠慮はいらん」
遠慮とかの問題ではない。狐を食べる? ありえない。シアナの生活の中では、動物を食すということが全くなかった。ご飯で出てくるのはいつも、人工食なのだ。本物の獣の肉など食ったことが無い。ましてや、殺して食べる。リンを殺したように殺せと、肉を食せと、同じ動物であるテニトカが言うことが、信じられなかった。
シアナは思わず立ち上がり、怒声を出した。
「何を言うの! 私は、他の命を殺してまで腹を満たしたいとは思わないわ!」
その言葉に、テニトカは、シアナ以上に激怒した。
「馬鹿者が! 他の命を食わずに生きるだと? そんなことができる動物など存在せんわ! まったくもって理解していない。人間は理解をしていないのだ。全ての生の原型が食であることに気づいていない! 人工食など、甘ったるい。そんなもの、もとはと言えば命だろう!」
シアナは、テニトカの激怒に息を飲む。
「命を知らんものが、命を大切にする? たわけ! そんなふざけたこと、俺が許さん! いいか、命とは食し生きていくものだ。生きるために、食すのだ。リンのような死とは、格が違う!」
リンの名が出されてなお、シアナは、唇を噛みしめることしかできない。
「産み、育て、殺し、食べる。命とは輪廻するものだ。後世に渡って、命は巡る。命を知りたいのなら直接、食え。その者の存在を確認して、食え」
重苦しく、冷たい声で、テニトカは言った。
シアナはゴクリと唾を飲み込み、そっと狐に目を向けた。
見開かれているものの、焦点の合うことがない瞳。少しだけ開かれた口。二度と動くことなどないけれど、今まで見てきた食事とは全く違うそれに、シアナは少し恐怖する。
そして、ゆっくりと、震える手を伸ばした。
「し、死ぬぅ……」
「たかが腹痛だろう。大袈裟な……」
シアナの悲痛を、テニトカは、呆れを含んだ声で、冷たく言った。
狐を食べて数時間後、シアナは謎の腹痛にうなされていた。たかが腹痛ではない。立てない。動けない。口からは、うめき声しか出なかった。
はあ、とテニトカはため息をつくと、立ち上がった。
「サオンを連れてくる」
「サオン?」
聞きなれない名前に、シアナは首を傾げる。
「猿だ。この森の長老ともいえる方だ。俺の前の森の主だ。知識も技術もある凄いお方だ。俺の指導者でもあるし、弾も出してくれた」
「うん、なんか凄い人なのはわかった」
実際、腹痛の方に意識が集中して、よく頭に入らなかった。それを知ってか知らずか、テニトカは無言で外へ出て行った。
しばらく、とも言わないうちに、すぐ戻ってきたテニトカの後ろから、白髪まじりの大きな猿が、顔を覗かせた。
「ん? お前……」
猿はテニトカに何かを言うと、テニトカは少し驚いた様子を見せた。その様子をシアナは腹を押さえながら見ていた。
(何なのか知らないけど、来たのなら早く診てよ……!)
少々、テニトカと猿は話し込んで、ようやく猿はシアナの前に寄った。
「わしは、この森の前の主、サオンだ」
「とりあえず、はやく、お願いします……」
絞り出した声でお願いするシアナに、サオンは図々しいと思いながら、渋々と言った様子で、シアナの腹に触れた。撫でるようにして全体を触った後、ある一か所で手を止めて、いきなり強く押した。
「ぐっ……」
シアナの口からうめきとは別の声が漏れる。
サオンはほとほと呆れた様子で、手を離した。
「こりゃ、腹を下しとる。何か悪いものでも食ったか?」
「き、狐を……」
「生か?」
「はい……」
顔を地面に突っ伏して、シアナは答えた。
サオンはため息をつく。
「人間は弱い。狐を生で食べると腹を下すに決まっておろう。人間の胃は、生の肉に耐えれる力を備えていない。特に近年はそうだ。これからは焼いて食べることだな」
「あ、あの……それで、何をすれば、この腹痛は……」
「いらんな。しばらくすれば治る。それまで安静にしていろ」
シアナの顔がサァっと青ざめた。
しばらく経つと、徐々に腹痛は収まった。
「あの、ありがとうございました。それと、自己紹介が遅れました。シアナ・カルウと言います」
奥でずっとテニトカと話していたサオンにシアナは頭を下げて、お礼を言った。
しかし、それに答えることはなく、テニトカとサオンは顔を見合わせる。
「シアナ、少し話がある。座ってくれ」
テニトカの促しに、首を傾げつつも、シアナは二人の前に、腰を下ろした。
テニトカはソワソワして落ち着きがなく、サオンはサオンで微動だにせず、シアナを、シアナの瞳を見つめていた。
そんな二人の緊張感に、シアナは、唾を飲んだ。
「シアナ」
「はい」
「生まれはどこだ」
「はい?」
サオンの言葉に疑問を浮かべながら、
「カルドレール王国、ですけど……」
と、自分の今いる国の名前を出した。
カルドレール王国は、第一大陸の中央部に位置する、小さな国である。いくつかの国に接しており、外国から国内へ入ることは可能である。
しかし、それがなぜ質問されるのかよくわからなかった。
「違う。国のどこの出身だと聞いているんだ」
ああ、そっちか。どうやら、外国の話ではなかったようだ。
「町はずれの、雑木林の、一軒家です」
シアナの答えに、サオンは顔をしかめた。正直、しかめると、しわのせいか、テニトカの威嚇よりも恐ろしいので、やめてほしい。シアナは冷や汗が頬を伝うのを感じた。
「真実だな?」
「はい」
一体、何のことを探っているのだろうと、シアナは頭を左右に動かす。サオンはそんなシアナから一切眼をそらさない。
「お主、他の人間から、不思議に見られたことなどは無いのか?」
「いいえ? 基本、私は、地下室で外に出ることなく過ごしていましたし、外に出るようになったのは、リンが連れられてから数日間だけの話です。それも、父か母が、車で送ってくれてましたし……」
サオンは徐々に顔色を悪くしていく。何かまずいことでもあったのかと、シアナはだんだん心配になってくる。
「あの、話の意図がよくわからないのですが……」
シアナが遠慮がちにそう尋ねると、テニトカが口を開いた。
「つまり、サオンが言いたいのは、お前が王家の者ではないのか、ということなんだ」
「お、王家?」
あまりにぶっ飛んだ質問に、シアナは間抜けな声を出した。
王家と言われたのはもちろん初めてだし、どこからそういう話になるのかがわからない。
「その様子だと、よく理解できていないな。ということは、お前は本当に、王家と関わりがいないのか……」
口を開いたのはテニトカではなく、サオンだった。サオンは独り言をブツブツと呟き、やがてシアナを見た。
「この王国は、王を絶対とし、崇拝していた。そして国王になるものまた、王族の血を引く者だった。歴代の王たちは、代々、平和な国を築いていった。その王への信仰心が高いのは何故だと思う?」
サオンは、シアナに問いかけるように話す。しかし、シアナはわからないので、首を傾げるだけだった。
「王位につくには血縁ともう一つ、重要なものがあった。それは――赤髪であり、深緑の瞳を持つ者であること」
シアナははっとしてサオンを見る。
「そう、お前のような容姿だ。しかし、その血縁者は王家のみのはず。しかもその容姿で産まれるのは一世代に一人しかいない。その枠を越えているお前が、王家の者でないことは、わしには信じられんのだ」
シアナは視線をそらし、眉を寄せた。
「ごめんなさい。本当に、何も、わからないんです……」
真剣に鋭く問いかけるサオンに、曖昧に返すシアナ。二人の姿を見て、テニトカは口を挟んだ。
「サオン、どうやらシアナは何も知らないようだ。関わりがないとすれば、今深く問うたところで、答えは出ない」
テニトカの言葉に、サオンはため息をついてシアナから視線を逸らした。シアナは自分が今まで本当に何も知らなかったことに、不甲斐なさを感じていた。
「シアナ。実は、お前の血筋はそこまで重要なことではない。本題にうつらせてもらう」
テニトカの真剣な声に、シアナは居住いを正し、テニトカの眼を見つめた。深く、飲み込まれそうなほどに美しい、黄金の瞳を。
「ここ数年、人間たちは急激に成長し、国には新しいものが溢れた。が同時に、森は減っていたのだ。我々動物は住処を失い、食料も失った。弱いものは飯にありつけずに、餓死していった。その光景は無残で、今でも鮮明に覚えている」
森の動物たちが地を埋めるかのごとく、死んでいる光景が脳裏によぎる。シアナはうっと、溢れだしそうなそれを必死に抑えた。
「しかも悪いことは立て続けに起こってな。研究所の化け物が脱走し、何人もの人間を殺した」
シアナはユウリに言われたことを思い出す。その化け物はきっと――王女を殺したという動物。シアナは眉を寄せる。
「もちろん、森の動物たちもその化け物に恐怖したが、それ以上に恐怖しなければならなかったのは、人間の方だった。人間はその化け物を捕らえるためか、森に入り、出会った動物たちを次々に虐殺、捕獲した」
その残酷さに、シアナは、呼吸を忘れるほどのショックを受けた。
「人間は動物に対し、関心を無くし、動物は人間に対し、憎悪という感情を持った。それもたった数年の間にだ」
テニトカはすぅっと息を吸い込む。
「人と動物は共存せねば、互いに生きてはいけない。このままではすぐにでも、この国は崩壊する。どうか、その特殊な能力で、我々と共に世界を救ってほしい……」
テニトカは、冷静に、そして焦りを含んだ声でそう言った。その声は、もう時間が無いことを如実に伝えているかのようであった。
「私は……」
シアナは何とか口を開き、返答を試みるも、返答が決まっていないのだから、何も出てこない。シアナが口を閉じると重苦しい沈黙が流れた。
シアナの脳裏には、ずっと過ごしてきた真っ白い地下室が広がっていた。その地下室の中で、小さな少女は、自分に問いかける。「私は何故ここに居て、何のために生きているのか」と。続いて元気よく犬の吠える声が聞こえた。
「……私は」
沈黙を自ら破ったシアナに二匹は顔を向ける。
「自分が生まれてきたことに、ずっと疑問を持っていた。なぜ、私は地下室でずっと閉じこもっているのか、何のために生きているのか、不思議でたまらなかった。でも、いつからそうしているのか、なぜそうしているのか、重要なことは何も覚えてないの……」
グッと膝の上で拳を握る。
「だから、もしそれが、何かの鍵になるのなら、どうか、私に協力させてください」
シアナは自然と唇を噛みしめた。
(父さん、母さん。ごめんなさい。私は、あなた達が教えてくれなかった、私の存在理由を自分で探すわ)
シアナの目に、強い光を見たテニトカは、サオンと顔を見合わせて、頷いた。
「よく言ってくれた。我が同胞よ」
テニトカは立ち上がり、翼を広げ、不敵にわらったのである。