あっちむいてよboy!(5)
『私は幽霊も怖いし、神様も恐れ多くて怖い。やっぱりただの人間でいられるのが最も最良だ。どうして世界の事象は私に話しかけてくるのだろう』
液晶の光に照らされた神様の顔が不服そうだ。人の時間は短いくせにじれったい。何故ここまで待たなければならないのか。
「麻理恵、大国に巨大な隕石が落ちたそうだ。怖いなあ」
「それより、網膜の移植の治療の実験が始まったんですって。医学の進歩ってすごいわ。小春ちゃんにも夢が出てきたわね」
平日の朝食時、家族の会話が入り乱れる。水谷家は今日も平和だ。
隣では神様が茶碗の上でちゃんと半熟の目玉焼きを箸で割って食べている。器用な人だ。
「私の目は世界中の人が治療を受けた最後でいいや」
「何言ってるの」
麻理恵が本気でたしなめるのに、私は目を伏せてご飯を口に入れる。
偽善じゃなくて、それだけ私の目のことなんて興味がないということ。
けれど、神様が隣から珍しく口を挟む。
「欲は持つだけならただだ。目が治るなら、期待してもいいんじゃないのか」
「おお、神様君いいこと言うじゃないか」
「期待なんてしない」
私は箸を置いて席を立った。
期待すれば、一体いつになるのだろうと心が乱れるだけだ。手に入るものは、身の丈に合ったものだけで充分。
神様との出会いだって、奇跡のようなものなのに。
私にはその奇跡だけで充分だ。その奇跡の代償は何なのか、と夢の続きで恐ろしくなる。
「それより、私が大学に合格出来るか皆で神様にでもお願いしてよ」
その言葉に、両親の視線が神様に向かう。その神様じゃなくて。
実際に神様が隣にいたら怖いでしょう。
やっとそのとき兄が欠伸をしながらダイニングに入ってきた。
「母さん、コーヒーちょうだい」
「はいはい。この子にはちー君のことだけで充分ね」
「? 何の話だ「
怪訝な顔をする洋三に、麻理恵は知らん振りで朝食の用意を始める。
神様も箸を置いて立ち上がった。やや早足で小春を追う。
「朝からどうしたんだ? 喧嘩か?」
「食卓に隕石が落ちたんだ「
父親が素知らぬ顔でお茶をすすった。
「コハル」
自室に入ろうとしていた私の体を神様がやや切羽詰まったように掴む。
「人は運命や奇跡だと言うが、それは当然の物事だ。自然に得るべきものだと思っていい」
「何? 何のこと?」
「奇跡は誰にもあり得ないことではない。必ず起こり得るんだ」
「そうだね。私も神様に会えたもの」
私は微笑した。神様は何を必死に励ましてくれているんだろう。
「私は目が治る時代がやってきたら、ちゃんとそのことを喜んで受け入れるし、ちゃんと手術だって受けるよ」
私は正直に神様の優しさに応えた。神様は目に輝きを宿し、私を正面に無期を変える。
そして断りも無しにキスをした。
「お前が生まれてからこれまで、この唇を奪ってきたのは俺だ」
「……?」
顔を真っ赤にする私に神様がしたり顔で笑う。
「お前をこれまで抱いたのも、俺だ。お前が何も感じなかったのは、俺ではない男と交わらせることが許せなかったからだ」
首筋を柔らかく吸われて、膝が崩れそうになる。神様はそんな私を抱きしめて、耳元に囁いた。
「俺はお前のためなら神にもなるし悪魔にもなるし、男にもなる。俺なら…感じさせてやれる」
どうやって部屋に一人になったのかわからない。私は襖にもたれて座り尽くしていた。
神様は私の病気の秘密を知っている? 私の人生の謎の記憶も知っている?
それより何より、私の不感症のことを知っている?
一気に顔が火を噴いた。体中がぶるぶると震え出す。私の病気が悪化しそう。やっと大学に入り直そうとしている時期なのに。
「神様の馬鹿」
私は涙目でぼやいた。
「馬鹿息子め」
机上を拳で叩く。王は頁に記されていく文面に苛々と目を通した。
本には気にかかる事だけが映るようになっている。
「何をお怒りに?」
「あの馬鹿息子が、真理に口を付けたのだっ。何度触れれば気が済む! あの馬鹿は」
「馬鹿馬鹿と…、貴方の跡継ぎではございませんか」
「あのように人間に溶け込みすぎては神気も疑うわ」
「あら、人世界も素晴らしいですわよ。何もかも包容した短いあの美しさが」
「その美しさを微塵に変えようとしているのが身内にいると思うと憎らしくてな。やるせないのだ」
「あの子も、その均衡をあらゆる事象で保とうとしておりますわ。信じて任せてらっしゃいな」
「お前はどうしてそこまで暢気でいられるのだ」
陽の光をまとった女神がしとやかに笑う。
「あの星が、奇跡から生まれた星だからですよ」
その一言で、王は納得したように憤りの気を収めた。