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金木犀の降る日には。

作者: 服部有紀

 降水確率50パーセント。傘を持って家を出るほどでもないな、そう判断して手ぶらで家を出ることにした。雨が降らないほう賭けたのはいわゆる習性みたいなものだ。10パーセントから20パーセントは絶対信じない。50パーセントはほぼ降らないだろうとたかをくくり、70パーセントを超えたところでようやく傘を持っていこうかで迷いはじめるのだ。

 雨の少ないこの地方では降水確率なんて大抵の人間が胡散臭い占いと同意義にしか考えていない。

 だって降らないんだもの、雨。

 家から歩いて三分の駅前にあるバイト先へ向かう道すがら、ポケットに入れたスマホを起動させるとメッセージが一件入っていた。送り主はバイト先の店長からだった。見慣れた文面に呆れつつ、わたしは少し嬉しくなる。

 『件名:おはようございます

  内容:煙草が切れたのでお願いします。』

 以上、これだけ。

 あらかじめ作っておいたテンプレートを張り付けたようなそっけない文章なのに、敏感すぎる心臓が跳ねまわる。財布なんか持って来てないんですけど、と悪態をつくふりをして心に湧き上がってくる感情をかみ殺した。

 『おかえり食堂』で働きはじめて二年が経つ。気づけば毎度毎度、当然のように未成年のわたしに煙草を買わせる店長の非常識さがわたしと店長を繋ぐか細い糸になっていた。わたしの通勤路に煙草屋があることを面接のときに知った店長はそれだけでわたしを採用することにしたというようなことを後になって聞かされた。その時は少し複雑な気もしたけれど、今になって考えればものすごい幸運だったのだ。

 「おばちゃん、おはよう」 

 「おはようさん、また煙草買いに来たんかね、あんたは?」

 こじんまりとした店の窓から不機嫌そうな老婦人が顔を出した。朝の陽ざしに鬱陶しげに目を細め、品定めするようにわたしをじろりと睨む。二年前から常連になったわたしのことをヘビースモーカだと信じているおばちゃんは煙草屋のくせに煙草はやめろと説教するのが趣味ならしい。

「いつもの、お願いします」

「あんたも好きじゃななぁ、ほんまにええ加減にしとかれぇよ」

「うん、でもおばちゃんこれはうちが吸ようるわけじゃないけぇ、心配せんでええよ」

 何度自分で吸うために買い求めているわけではないと伝えてみても、効果があったためしはない。今度店長から直々に言ってもらおうかな、と考えて首を振る。二年も言い続けた結果がこれだ。きっと意味なんてない。

 ずいっとカウンターがわりの窓際に差し出された煙草は日本ではあまりなじみのないパッケージのものだ。ラクダと天秤が印刷された包装紙にはローマ字で「GARAM」と書かれている。原産国は印度で商品として店頭に並んでるところなんてきっとここくらいだろう。

「ありがとね」

 お礼をいって代金を温かいおばちゃんの手のひらに乗せる。

「今日もアルバイトなんかね?」

「うん」

「お勤めごくろうさん。気ぃつけられぇよ」

 おばちゃんはそう言って小さく手を振った。相変わらず無愛想な表情だけど、その言葉は温かくわたしの背中を押す。

 「いってきまーす」と、間延びしたわたしの声が高くも低くもないマンションとビルの間を抜けてゆく。電信柱の突き刺さった細い道を小走りに駆けだすと、通勤ラッシュにきしむことのない電車が小さな駅から発車するのが見えた。

 

 『おかえり食堂』は古い民家を改装してつくられたこじんまりとした店舗で、アットホームな雰囲気とリーズナブルな値段で家庭的な料理が食べられるとあって地元の人間にはもちろん、都会から来る仕事帰りの働き世代にも人気のお店だ。

 今年三十になったばかりだという若い店長が営むこの小さな食堂はわたしを含む数人のアルバイトスタッフと店長の通称ハルさんで切り盛りしているから休日のランチやディナーはちょっと信じられないくらい忙しい。よく晴れた今日みたいな土曜日もいつもと変わらない充実した忙しさが待っていると疑いもせずに思っていた。

 99パーセントそうなるはずだったのに、それ以外の1パーセントなんて考えたこともなかったのに。1パーセントの残酷な現在はいつだって突然わたしたちの目の前に突き付けられる。

 真っ暗な店内に人影はなく、すでに開店しているはずなのに看板すら出ていない。何かあったことには違いない。でもハルさんからメールはいたって普段どうりだったし……

 わたしは急いで店の裏口へ回った。風にのってかすかにあの煙草の匂いがする。なんだ、ハルさんいるじゃんか。その苦くて甘いような匂いに安心して膝から力が抜けそうになった。

「ハルさん、どしたんですか? こんなところでさぼっとったら常連さんに怒られますよ?」

 ハルさんは白衣のボタンもとめずにぼんやりとコンクリートの階段に座って煙草をふかしていた。

 短くなった煙草から、エプロンの上に灰が崩れ落ちている。ぼんやりと定まらない視点を無理やりわたしに向けたハルさんは困ったように笑った。

「そーなんじゃけどなぁ、今日はもう店できそうにないんよ。せっかく来てくれたのに使いっぱしりみてぇなことさしてごめんな、佳奈ちゃん」

 少し長くなったひげをさすりながら、ハルさんはまるでどこも見ていない。憔悴しきったような横顔にはいつもの優しげな雰囲気はない。

「そ、そんなことないですけど、ハルさん何かあったんですか?」

 わたしはハルさんの隣に腰を下ろす。手を伸ばしてぎりぎり届くそれくらいの曖昧な距離。それは届きそうで届かない絶望的な不可侵領域。届いていはいけない好きという感情を抑制できるギリギリの距離。

 ハルさんが好き。

 それはけして叶ってはいけない恋だった。ハルさんには奥さんがいる。左手の小指にはまった指輪の意味を知らないほど子どもでもないけれど、だからと言ってこの気持ちを諦められるほど大人でもないわたしはきっとバカ。


 ハルさんは何かあったのかというわたしの質問に答えることなく、片手を差し出した。

「煙草、ある?」

 わたしは黙ってそれを手渡す。

「いつも、わりぃね」

「いいですよ、別に。煙草くらい」

 ハルさんは箱を軽く叩いて一本取り出すと、口にくわえた煙草に安っぽいライターで火をつける。ハルさんの身体に染み付いたこの一連の動作が映画のワンシーンでも見ているように綺麗すぎて、わたしはついつい見とれてしまう。

 ハルさんのため息とともに吐き出された紫煙が秋の高く澄んだ空にゆるりと吸い込まれてゆく。


「俺の奥さんがね、昨日亡くなったんよ」

 何度か煙を吐き出した後でハルさんがポツリと言った。

 ハルさんの薄いくちびるから零れ落ちた言葉が棘のようにのどにひっかかって飲み込めない。

「あ……」

 どう、しよう。こんな時、なんて言えばいいんだっけ。

 どれだけ探してもたった一言が見つからない。今のハルさんにかけてあげられる言葉なんてわたしは最初から持っていなかったことに気がついて、頭のなかでつくりかけた単語を壊す。

「昨日は、早く帰ってくるから晩ご飯つくって待っとるねって電話があったのに俺ろくに返事もせずに忙しいからって電話切ってそれっきり。それが、奥さんの声、聞いたんが最後じゃった」

「どうして、あの……」『亡くなった』という言葉はあまりにも直接すぎる気がして、わたしは言葉を濁した。

「事故だったんよ。泥酔した運転手が運転しよる大型トラックが突っ込んできて、衝突したときの衝撃で頭を強く打ったのがいけんかったって言われた。病院に着いたときにはもう……、俺はいっつもあの人のこと一人にして、最期にすら間に合わんかった」

 「あの人」とい言ったときのハルさんの表情に胸が押し潰されそうになる。ああ、もう聞きたくない。知ってるよ、ハルさん奥さん大好きだったもんね。ケータイに奥さんからの着信あったときの嬉しそうな横顔も、照れくさそうに手作りのお弁当食べてるハルさんも全部見てたから。苦しかったけど、嫌いになんてなれなかった。

 一人にしてしまったのだという後悔が痛いくらいに伝わってくる。でも、わたしにはハルさんの気持ちはわかってあげられない。代わってあげることなんてできないから。できるのはただ、どうしようにもない思いを吐き出すハルさんの隣にいること。それだけなのだ。

「どうして……、どうしてあの人じゃったんかなぁ。生まれてこのかた悪いことなんかひとっつもしたことがなような人で、救いようがないお人よしで……こんなことになるなら、もっとそばにおればよかった、もっといろんなところに連れて行ってやればよかった、もっと、もっと優しくして……」

「ハルさんっ」

 わたしはその静かな慟哭をさえぎってハルさんの手に自分の手を重ねた。ハルさんが驚いたようにわたしの顔を見る。

「佳奈ちゃん……」

「違います。それは違います、きっと奥さんはそんなハルさんだったから好きで、そんなハルさんを愛していたんだと思います。いつも一生懸命で、みんなに苦笑いされても奥さん自慢しちゃうような、大事に大事に奥さんからのメール読んでるところとか、そんなハルさんだから」

 ハルさんの頬に、涙の滴が伝う。ハルさんは声をあげることもなく、静かに涙を流していた。ただ、ただ涙ばかりが零れ落ちて真っ白いエプロンに吸い込まれていく。

 押し殺したようなハルさん声に余計に辛くなる。

「ごめん、……っごめん。俺、みっともないよなぁ」

 ごしごしと目元を拭って涙をごまかすように紫煙を吐き出す。

 甘くて、ピリピリした煙とわたしたちの上にしなだれかかっている金木犀の香りでむせかえりそうだ。

 わざとらしくせき込んで目に浮き上がった液体を煙のせいにする。わたしが泣いたら、ハルさんはきっと泣けなくなってしまうから。

「そんなこと、ないです。わたし見てませんから、大丈夫です」

「はははっ、俺大人失格じゃわ。佳奈ちゃんにまで気ぃつかわして」

 でも、とハルさんは言う。

「今、はじめて涙が出た。何かまだ夢見とるみたいで、信じられんくて奥さんの寝顔みても涙すら、言葉すら出てこんかった」

 知ってるよ、どうしても受け入れることができなくて悲しいも、辛いもわからなくなると涙が出なくて、泣けないんだよね。


 わたしたちが生きている世界には信じられないような理不尽があふれている。と今更のように思い知る。明日、突然死んでしまうかもしれない。明日、突然最愛の人を失うかもしれない。99パーセントおこらないと信じてつくられた幸福はこんなにも脆いもので、理不尽と呼ばれる最悪の1パーセントは残酷なほど平等に訪れることなんて知らなかった。否、知らないふりをしてきた人間に対するこれは罰なんだろうか。

 いつか学校の先生がこんなことを言っていた。

 『みなさんがこれから生きていく社会は、理不尽なことであふれています。けして良いことばかりではないでしょう。それでも、前を向けるような理不尽に負けない大人になってください』

 でも、理不尽に負けない人なんていないのかもしれない。圧倒的な力の前に絶望して、みっともなく泣いて、めちゃめちゃにやっつけられて、もう生きていたって仕方がないと立ち上がることすら諦めて動けなくなる。それでも、負けたあとで、悲しみのあとでいつか、ずっとずっと遠いいつかでもいい、ハルさんには笑っていてほしいから。


「ハルさん」

「ん?」

「まだ間に合います」

 自分でも何故こんなことを言ったのかわからなかったけど、不思議な確信があった。ハルさんの奥さんはまだちゃんとこの世界にいてハルさんのことを待ってる。ハルさんが愛した人だから、待ってくれているはずだから。

 色なき風が金木犀の花をいっせいに散らす。金色の雨がわたしたちの上に降り注いぎ、甘くて切ない香りが空っぽになった心を通り抜けていった。


「陽菜……?」

 ハルさんが木漏れ日の中に手を伸ばす。

 けして届かないと知っていてもずっと側にいるよ、大丈夫、今ならまだ伝えられる。

 

 ここへ、帰ってきてくれてありがとう。


 ありがとう。

 大好きだよ、愛してる。


 「おかえりなさい」

 

 

 







 

 

  

 

 





 

 

 


 

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

未成年が煙草を購入すること、未成年に煙草を販売する行為は法律で禁止されていますがフィクションですのでご容赦下さい。

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