風船葛と夕立
女学校を出たてのいとはん(おじょうさん)と、青年のお話です♪
饕餮サマ主催『風船葛企画』参加作品。
それまで綺麗に晴れ渡っていた空が、暗雲俄かに立ち込め、もはや日没かと見紛うばかりに暗くなってしまった。
時刻は午後四時前。
それまで煩いくらいだった蝉の声もピタリとやんでしまっている。
最も暑い時間、夏の風物詩である夕立がやってくるようだ。
いとはんは雨が降り出す前に何とか家にたどり着きたいと小走りに急いだのだが、なにせ振袖に袴姿では急ぐにも限界がある。あと五分ほどで家、というところで残念ながら白雨につかまってしまった。
乾き切った埃っぽい地面に大粒の雨が一粒落ちてきたかと思った次の刹那には、吸い込まれて丸い模様を描き出す。それはポツポツから始まったが、あっという間に盥をひっくり返したような土砂降りに変わる。
往来を行く誰もが慌てて近くの軒下に避難する。
お稽古帰りのいとはんも突然の雨に傘など持ち合わせておらず、急いで広めの軒先を見つけてそこに飛び込んだ。
地面は激しい雨に泡立ったよう。
今出ていくと一瞬にしてずぶ濡れになるのは間違いない。今でももう十分にしっとりと濡れてしまっている。
いとはんは手にしていた風呂敷包みから手拭いを取り出すと、髪や着物についた雫をポンポンと叩くように拭いた。髪を半分結い上げたところに結んでいる、お気に入りのちりめんの大きなリボンは特に丁寧に。
見上げた空はまだ黒いまま。
「当分止みそうにないわね。雨脚が弱まるまで少し雨宿りさせてくださいな」
いとはんは聞こえているはずもない見知らぬ軒下の持ち主に向かって独りごちてから、周りをゆっくりと見渡してみた。
こんなに暑い時間に外をウロウロしている人も少なかったのか、雨宿りしている人はそう多くはない。手拭いで着物を拭いている人、途方にくれながら空を見上げている人、様々だ。
どれくらい降るのかしら。あんまり帰りが遅いとみんなが心配してしまうし、困ったわ。かと言ってずぶ濡れで帰ってもまた然り。どうしましょう。
いとはんも少し途方にくれながらぼんやりと空を見上げていたのだが、ふと目のはしに白く小さな花が目に入った。
可愛らしく咲くそれは、いとはんが借りている軒先から庭の方にまわったところあたりからみっしりと茂っていた。壁に立てかけられた簾一面に這うその蔓や葉は、涼しげな緑の日影を作っていた。
これはまあ、かわいらしい花だこと。なんていう花なのかしら?
夏の日差しをいっぱいに浴びた青々とした葉っぱ。激しい雨に打たれながらも、むしろそれを喜ぶように咲く小さな花。
雨粒が打ち付けるたび小刻みに震える花が可愛らしく、名も知らぬそれに、いとはんはつい見入ってしまった。
しばらく夢中で見ていると、
「かわいらしい花ですよね。風船葛というのですよ」
と、ふいに後ろから声をかけられた。
「え……?」
聞き覚えのない若い男の声に、いとはんは弾かれたように振り返った。
そこには小柄ないとはんよりもずいぶんと背の高い、見知らぬ男の人が真っ黒なコウモリ傘を手に立っていた。
どなたかしら?
どこかで会った記憶もない青年。
声には出さなかったものの、きょとんとした顔にはしっかりと出ていたのを読まれたのであろう。
「突然に声をかけてしまってすみません。貴女があまりにもその花を熱心に見ておいでだったのが微笑ましくて、つい」
いとはんよりも少し年上に見えるその青年は、自分のやってしまった行動に今更照れたのか、ばつが悪そうに微苦笑しながら傘を持っていない方の手で自分の頭をかいていた。
涼やかな切れ長の目は、一見冷たそうに見えたのだが、笑うと少し目じりが下がって優しくなる。よく見れば整った顔立ちの青年。
「まあ。それはとんだはしたない姿をお見せしてしまいましたわ」
花に夢中になりすぎて間抜けな顔をしていたかもしれない、こんな素敵な方にそんな姿を見られていたなんて、といとはんは恥ずかしくなったが、
「いいえとんでもない。花がお好きなのですね」
なめらかな白磁のような頬を少しく赤らめて、それを隠すかのように手を添えるいとはんの姿が愛らしく、青年はさらに眼元を和らげた。
「ええ、花は好きですわ。……これは風船葛という名前なのですね。初めて見ました」
「その実が風船のように膨らむので……そう、ちょうどホオズキのような感じの実です」
「まあ、そうなのですか。よくご存知ですのね」
「大学で植物を学んでいるのです」
「だからお詳しいのですね」
意外にも青年との会話が弾むことに内心驚く。
女学校育ちで、卒業してからも花嫁修業と言ってお稽古三昧ないとはんは、同世代の、いや若い男性と話したことなど皆無に等しいからだ。そして本来が人に対してはやや控えめな性格だったので、今日初めて会った若い男性と気楽に話せているのが自分でも不思議でならなかったから。
傘ごしに空模様を見ていた青年は自分の腕時計を見て、
「あまり遅くなってはおうちの方も心配するでしょう。雨脚もずいぶんとマシになりましたから、よろしければ送っていきましょう」
青年のその言葉につられて空を見上げれば先程よりは明るくなっており、叩きつけるようだった雨も、傘があれば歩くことができるほどには弱まっていた。
いったいどれくらい夢中で花を見ていたのかしら。
そしてそんな自分をどれくらい、この青年に見られていたのだろうか。そう思いまた恥ずかしくなったのだが、彼の言うとおり、これ以上遅くなると家族が心配する。ここは青年の言葉に甘えることにした。
「ありがとうございます。家までそう遠くないのでお言葉に甘えてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
青年はそう言うと、傘をいとはんの方にさしかけた。
家までの、ほんの少しの距離。
今度も自然と話が弾んだ。
「風船葛はね、種もかわいらしいのですよ」
「種が、ですか?」
「ええ。丸くて黒い種なのですが、白いハートの模様があるのです」
「ハート? とってもロマンチックな種ですのね!」
「そうですね」
「ぜひ一度見てみたいものですわ」
植物に詳しい彼の話も面白く、ハートの形がついているというかわいらしい種を想像して顔を綻ばせていると、ちょうど家の前に着いた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました。……あ」
青年に向かって深々と頭を下げたいとはんがもう一度彼に向き合った時、自分の立っていた方とは反対側がしとどに濡れていることに気付いた。いとはんを濡らすまいという彼の優しさが見えてきゅんとなったが、次の瞬間には申し訳なさが頭をもたげる。
仕立ての良さそうなさらりとした白いワイシャツが、水を含んで肌に張り付いている。半袖から出た腕も、しっかりと濡れてしまっていた。
いとはんは慌てて手拭いを取り出すと、
「少し使ってしまったもので申し訳ないのですが、とりあえずはこれをお使いくださいませ。私のせいで不快な思いをさせてしまって申し訳ございません」
そう言って青年の腕をそれで拭い、濡れたシャツの水分を少しでも取り去ろうと努力した。
半泣きになって手拭いで一所懸命拭いてくれようとする彼女の姿がまた微笑ましく、初めは驚いたものの、その姿に否と唱えることもできずにされるがままになる青年。
「貴女が気にすることなど何もないのですよ。僕が勝手に送っていくと名乗り出ただけのことですから」
「しかし私が濡れていないのに、傘の持ち主である貴方が濡れてしまいました」
眉を下げ、瞳は今にも雫をこぼさんばかりになっているいとはん。
そんな健気な彼女に、また愛らしいと口元をほころばせた青年は、
「では、この手ぬぐいをお借りしていってもいいですか?」
と、いとはんが手にしていた、撫子の花が愛らしい手拭いを、そっとその華奢な手から取り上げた。
「それはもう濡れてしまっております。家から新しいものをお持ちしますのでお待ちくださいませ」
そんな使いさしを、と困惑するいとはんを微笑みながら見ていた青年は、
「これで充分ですから。ああ、そうだ。これをお借りするお礼にいつか風船葛の種をお見せしましょう」
そう言ってさっさと手拭いを首にかけてしまった。
「お礼など……!」
「ああ、雨脚もずいぶんと弱まりました。では僕はこれで」
いとはんは抗議をしようと彼の顔を見上げたのだが、すっかりはぐらかされてしまい、その隙に青年は早足でその場を後にしてしまった。
お名前すら、聞き忘れてしまったじゃない……
呆然と青年の消えた方向を見続けるいとはんだった。
それからというもの。いとはんは風船葛の家の前を通るたびに青年のことを思い出し、ぼんやりと物思いに耽ることが多くなった。
夕立の日の、ほんの一瞬の偶然。あれから彼には会えていない。
手拭いが惜しいわけでもない。風船葛の種が見たいわけでもない。
彼にもう一度会いたい。
そう思いながら風船葛の宿を通り過ぎる。
あの日愛でた花はいつしか実を結び、彼が言っていたとおり、日に日に緑の風船が膨らんでいった。
そんな折、いとはんにお見合い話が舞い込んだ。
母が説明しているのをどこか心ここにあらずで聞いているいとはん。ほっそりとした白い指で釣書を弄びながら思いを馳せるのは彼の風船葛の君。
見合い《けっこん》という言葉を耳にしてすぐさま思い出したのが彼のこと。
この期に及んで、最近の物思いが淡い恋心だったのだと自覚したいとはん。
しかし大きな家に生まれた身として、お見合いは当然のこと。自由な恋など最初から考えたこともなかったのだけれど。
自覚してしまった恋心だが、だからと言ってどうすることもできない。どこの誰だかわからなし、もう一度会えるかもわからない。
それならばいっそ自分の心の奥深くに、そっと大事にしまっておこう。
「……聞いてるの? いとはん?」
母の声にハッと現実に戻ると、すっかり説明は終わっていたようだった。まったく話を聞いていなかったにも拘らず、
「はい。大丈夫ですわ」
どこかぼんやりとした瞳のまま答えるいとはん。どうせまた同じことを見合いの場でも聞かされるのだから、今聞かなくても大丈夫よね、と心の中で思う。
「お見合いは明後日の土曜日よ。あまりぼんやりしないで頂戴ね」
そんな彼女の様子に、諦めたように苦笑した母はそう言って席を立って行った。
お見合いの日は、あいにくの雨だった。あの時のようにどしゃ降りではないが、それでもしっかりとした雨脚。
いとはんは撫子の襲も綺麗な振り袖姿で、いつものように髪は上半分だけを大きなリボンで結い、後は背に流している。すっと背筋を伸ばした居住まいは凛としていて美しい。
大きくつぶらな黒い瞳は、心の奥にしまっておこうと決めた風船葛の君のことを想い、硝子戸の向こう雨に濡れる前栽を眺めていた。
入り口の襖がそっと開く音がして、
「失礼します」
そう言って部屋に入ってきたのは、仲人さん。そして相手の両親と思われる初老の紳士と夫人。
そして。
「初めまして、ではないですね」
若い男の人の、少しいたずらっぽい声音。
そっぽを向いていたいとはんの耳に届いたそれは、記憶の中で何度も何度も聞いたものと同じ。
まさか、と思いながらも心がはねた。
自分の妄想が、そう聞こえさせたのかとも思った。
期待と不安に鼓動を逸らせながら、しかしゆっくりと視線を声の方向にむけると。
「あ……!」
「こんにちは。今日はお土産もありますよ」
驚きに目を見開く。
そこには切れ長の瞳を柔らかく緩めた青年が、あの時の手ぬぐいの上に風船葛の種を載せて立っていたのだった。
読んでくださってありがとうございました♪
セピア、とかレトロモダン、とかロマンチックを目指してみたのですが……w