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由果の陰影

「感じ悪いっていうのかな? とにかくみんながお互いを疑心暗鬼に見てるのよね。親友なんて呼び合っていても、標的にされたら巻き添えにされたくないものだから、言葉どころか視線すら合わせてもらえない。まったく、学校って何なのかな?」

由果は、今まで親姉妹にすら話した事がない学校生活の実情を、初めて会った菊地マスターに話していた。

「なるほど。現代教育の歪みというものでしょうかね」

ウンウンと頷く菊池マスターは、短めの両腕を組んで感慨深げだ。由果の心中を理解しての行為なのかは定かではないが。

「そんな難しいものじゃないと思うわ」

と、由果の反応は逆に冷めていた。

「あたし達って、そんなに難しく考えて毎日学校行ってるわけじゃないもの。ただ、毎日を無難に過ごせれば、それで明日を生きられると感じてるんだと思う。力関係とかじゃないのよね。毎日、入れ替わるゲームみたいなものだもの。明日は我が身にならないようにすることが、懸命な命題なのよ。マスターには、分からないか」

 遠く空を見つめる由果の眼には、何が映っているのだろうか。少なくとも、幸福な明日を夢似る少女ではないだろう。

「おかわりはいかがですか?」

 そう言って、ティーポットから湯気の立つアップルティーを由果のカップに注ぐと、菊池マスターは自分のコーヒーカップにもコーヒーを注いだ。

「わたしの時代は、皆が皆、貧しいような時代でしてね。一億総中流家庭なんてチャッチコピーがあったんですが、中身は見栄の張り合いみたいなもので、隣近所の仕草を見ては真似て生活してました。所詮は貧しい者が本物の裕福には適いません。気づいた頃には廻りがその日暮らすために必死になる毎日でした。子供も大人も、働きながら勉強し生活したものです。悩むことは、今日を生きること、明日も生きることでした」

 菊池マスターも空を見つめるように感慨に耽っているようであった。昔を懐かしむ。そんな感じかもしれない。

「時代は変わったのよ、マスター。あたしも、マスターの時代に生まれていれば、こんな生きてるか死んでるかわかんない毎日を過ごさなくても良かったかも」

 大きな溜め息とともに吐き出された由果の言葉は、落胆というよりも諦めに近いものだったろう。時代の違いは如何ともしがたい現実である。必死になる生活が、内容で意味を成さないのは、由果でなくても理解するのは容易い。今の由果の生活に、昔の生活を重ねることは、ベースとなる水準が違うだけに、問題の定義自体が違うと言っても過言ではないのかもしれない。昔は良かったなどと言えるのは、大人の理屈でしかない。現代を生きる自分たちには近づこうともしないで、上からの目線でしか結論付けない講釈など意味が無いと由果は以前から考えていた。それは教師の論理で、延いては自分たちの親の論理にもなるのだと由果は結論付けていた。

「そうですか? それでも廻りに居る大人やお友達が、みんな同じな訳はありませんよ。細かく説明すれば力になってくれる人も多いはずでは?」

 由果の瞳を覗き込むように菊池マスターは顔を近づけた。眼鏡の奥で、小動物のような黒目に由果が映っている。

「マ、マスターは優しいね。でも、あたしの廻りは、そんな人はいないの。誰もが厄介なことには首を突っ込みたくないのよ。見ても見ない振り、聞いても、その時は同情する素振りだけ。実際に力になってくれることなんてないのよ」

 顔を背けて、由果は菊池マスターの視線から逃れようとした。その所為で吐き捨てるような言葉になったのは仕方ないことだったろう。

 由果は、話し相手から、これほどまで真正面で見つめられたことが無かった。誰もが自然と視線を外しながら話し合う。自分ですら正面から相手を見つめて話した記憶が無い。それだけに、堂々と自分を見つめ話しかける菊池マスターに恥ずかしいような気持ちが湧き上がった。

「あなたは、本質的なものを判断出来ない、欠陥人間であるのかもしれませんね」

 深い深い溜め息と同時に吐き出された言葉に、由果の身体がビクンと跳ねた。言われた言葉の内容よりも、この男も今までの大人達と同じだと痛感した反応であったろうか。その途端、心を許して何もかもを曝け出した自分が、僅かでも理解してもらえると期待していたことにも腹が立った。

 文句のひとつも言って立ち去りたいと、背けた顔を菊池マスターに戻して、由果は凍りついた。果たして、そこに居た人物は誰であったろうか? 由果が知っているのは好々爺のような優しい笑みを湛えた小男ではなかったろうか。だが、今、由果の目前に佇んでいるのは、まるで能面のような無表情の人形であった。人間としての生気溢れる瞳はどこにも無く、冷たい深海に住む生き物のような光の無い瞳孔が由果を見つめていた。

 総毛立つとはこのことだろうか。鳥肌にも似た悪寒が駆け巡ると、僅かな産毛が逆立つのがわかる。

「あなたが間違った判断に身を委ねるのは、あなたの尊厳がどこにあるのかで決まってしまいます。あなたは、自らが不幸だという論理を、自分のプライドと相談しながら築き上げ、助けてもらえないことに嘆き、つまらない毎日が周囲に原因があるとしました。挙句に大人を非難し、自らその範疇を抜け出してしまいました。これは、もう救いようがないと言っても過言ではないでしょう」

 滔々と話す菊池マスターから由果は眼を逸らせなくなっていた。自分を非難されていることは理解出来た。でも、その内容まではわからない。

「い、いったい、なにを…」

 やっとの思いで搾り出した言葉であったが、それだけであった。暖かであった店内は、いつの間にこんなに冷えたのだろうかと思えるほどに寒かった。膝が小刻みに震えている。それだけではない。ねっとりとした空気が水の質量を持ったかのように肌に絡みつく。海の底にでも連れてこられたかのようだ。

「わたしの言葉など理解できないでしょう。それほどまでに、あなたは間違った迷路を堂々巡りしているのですから。相手に理解されないとは、同等に相手を理解しないと言っているんです。どんな人なのか理解するには会話は不可欠ですし、誤解を生まないためには更に時間と会話は必要になります。そうして人間関係は成り立って行くのです。そんなものに大人も子供も有りません。しなければならないことを放棄すれば、その代償は自ら高くしているのと一緒です」

 ズズズーっとコーヒーを啜る菊池マスターは、やっとの思いで俯いた由果を見つめている。

「そこまで行くと、最終的な結論付けは存在理由や存在意義などという、一種哲学的に思える方向性を持ち出します。ですがそれには、何の意味もありません。社会で孤立することをすでに選択している哲学は、いくらその命題が壮大でも結論はひとつだからです。あなたは、その結論を既に見出してますよね? それ以外に他者を入れない結論付けはできないんです」

 由果の震えは全身にまで及んでいた。カウンターに肘を付き、自分を抱くように俯いて、ただ目の前のティーカップの中身が、琥珀色の小波を立てるのを見つめていた。菊池マスターの声は遠く山彦のように木霊して聞こえる。虚空の頂上で、遥か夜空の彼方から聞こえるのは、悪魔の囁きなのかもしれない。しかし、波打つ琥珀色のティーカップは、由果の存在が間違いなくそこにあることを告げている。逃げ出したい衝動と、このままうずくまってしまいたい心細さに、由果の心は引き裂かれそうであった。

「あなたの間違いを今更正すことは難しいでしょう。ですが、簡単な選択なら可能かもしれません」

 菊池マスターの口調が、心なしか優しくなったように感じて、由果は視線を上げた。菊池マスターは由果に背を向けて、高い棚の中から、色グラスを取り出すところであった。

 棚の中には、黄色、橙、緑、黄緑、紫、白、黒、桃色、灰色、赤、青といったグラスが収められている。それを、もっとよく眼を凝らして見れば、グラスの中心に同色のほのかな揺らぎが見えたかもしれない。

 由果の前に置かれたのは、赤いグラスと紫色のグラスであった。置かれたグラスは、何か特別な力でもあるのか、由果の視線を捕らえて放さない。まるで誘うかのように照明に輝いて、淡い光に包まれながら、由果の指先を待っているようだ。

「この赤いグラスは、あなたを幸せな夢の世界へと誘います。決して覚めることの無い永遠の御伽噺の世界に行けるのです。こちらの紫のグラスは、あなたを今すぐに大人へと変えるグラスです。つまらない学生生活を切り捨て、軽蔑していた大人と同等の地位に今すぐに行けるグラスです。どちらを選ぶもあなたの自由ですが、選んだら最後、もう元に戻る事は出来ません。あなたは、どちらを選ばれますか?」

 由果の耳に菊池マスターの声が届いていたかは定かではないが、曖昧な意識の中で自然と手は伸びた。ゆっくりとした動きで、由果は赤いグラスに触れた。

 途端に視界が真っ赤に染まった。凍えるように寒かったのが嘘のように暖かい空気に包まれると、今まで感じたことも無い快感が全身を駆け巡る。例えるなら、疲労困憊した身体を暖かい湯に浸け、眠りに落ちる寸前の快感とでも云えようか。それすらも陳腐な例えでしかない。

 緩やかな意識の混濁に誘われながら、由果は思い出していた。

『伝説の喫茶店に行き、アップルティーを飲んだ客は、二度と帰っては来ない』

 そう思い出したものの、浮遊するかのような虚脱感の中。由果は深い眠りに落ちた。

「他愛の無い選択は、意識しても同じ結論なんでしょうかねぇ」

 眼を細めてそう言う菊池マスターは、淋しげな表情にも見えた。カウンターの赤いグラスを棚に戻しながら、中に揺れる淡い炎のような光源を、一度大きく揺らした。

 振り向いたカウンターに、由果の姿は既に無い。

「マスター。あっついアップルティー、くださいな」

 由果の飲み終えたカップを下げ終わらぬうちに、重い一枚板のドアを開け、二十代前半の女性が入って来た。

「おや、いらっしゃいませ。珍しいですね、仕事帰りに来るなんて」

 そう言ってポットをコンロに掛ける菊池マスターは、好々爺とした笑みを湛えて迎えた。



          END




奇妙な話になりましたが、言いたいことは詰まってます。お待たせしました、最終話であります。


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