由果の光陵
ぼんやりと、だが確かにその光源は、暗闇の中に存在していた。
走り出した足は、光源の麓まで来て止まった。
よく見れば、それは古びたランプの形をしており、ランプの中に今にも消えそうな電球が入れられているのだった。ぼやけて見えたのはランプを覆うガラスが故意に青く塗られているせいだろう。
ランプの下にこれも古ぼけた木で出来た看板らしきものが釣り下がっている。文字が刻まれていなければ、単なる板切れくらいにしか思わなかったであろう。
「SCENERY」
由果は文字を声にしてみた。「風景」という意味だと理解した。中学時代に単語試験に出てきたのを、記憶の底で覚えていた。
その更に下に、重々しい木製の扉が控えていた。由果は木材に詳しいわけではない。だが、その扉が安物の家に取り付けられるようなものではないことは分かった。表面に暗くて良くわからないがレリーフのようなものが彫り込まれている。間違いなく手彫りされたもので、素人眼に見ても重厚な雰囲気である。
由果は恐る恐るながら、その扉に手を掛けて押し開けた。
眩しいくらいの光量に、一瞬由果の両目は眩んだ。しかし、細めた眼には柔らかい白色の光が入り込んできた。今まで暗闇を放浪してきたための症状であった。
店内は意外に広かった。路地裏の中にある建物である。隙間を利用して作られたものであるならばカウンター席だけの細長いものかも知れないと予想していた由果には拍子抜けであった。
入った正面はカウンター席が確かに並んでいる。しかし、その奥は厨房になっており対面キッチンの様相である。それに、右手奥に広がるテーブル席の数も二桁ではないかと思えるような空間であった。
でも、そのどれにも人影は無かった。客は、今入って来た由果一人なのだ。
不安は大きくなったが、明るい空間に安堵したことも確かな由果は、入った正面のカウンター席に座った。
厨房の奥を覗き見る余裕まで出来た自分が、ちょっとおかしい気分になったが、整然とした調理器具の合間に人影はなかった。
「いらっしゃいませ」
いきなり声を掛けられて、由果は座ったばかりの椅子から転げ落ちそうになった。
落としそうになった鞄を胸に押し当てるようにして、由果は背後を振り返った。
そこには小さな庭箒と塵取りを持った小太りな中年男が立っていた。背はそれほど高くはないだろう。精々が165センチくらい。ビール腹なのかポコンとした下腹部が目立つ。ボサボサに近い髪に丸眼鏡を掛け、似合うとはとてもいえない口髭を蓄えている。服装は、白ワイシャツに黒のベストで赤い蝶ネクタイ。ひと昔のボーイさんみたいに見える。
しかし、彼はどこに居た?
店の扉の前ではしげしげと周りを観察した。店内に入ってからも、店の奥まで見渡した。そのどこにも彼の姿は確認できなかったのではないか?
「こんな時間のお客さんは珍しいんですよ。それも学生さんとは滅多にないことです」
小太りの男は丸眼鏡の奥の眼を細くして由果を観察していた。その後「いやぁ、なに、いやぁ、なに」と呟きながらカウンターの中へと入って行った。
庭箒と塵取りを傍らに置くと、対面カウンターに取り付けのシンクで丹念に両手を洗い、真新しいタオルで水気をふき取った。
「さて、学生さんがいらしたのは、本当に久しぶりです。今時の学生さんは、一体どんなものを食しているのか、わたしは世間に疎くて知りません。出来るだけスタンダードな注文だとありがたいのですがね」
そう言う男の顔は、にっこりと満面の笑みである。不安と懐疑心に覆われた由果の気持ちも溶けるかのような慈愛に満ちていた。
「あぁ、わたし、きくちといいます。花の菊に池で、菊池です。みなさんはマスターとしか呼びませんけど」
「あ、あたし、ゆかです。田んぼの突き出た由に果実の果で、由果」
「喫茶店で自己紹介は変ですねぇ。お見合いみたいですよ」
そう言われてみて由果自身もおかしく思えて吹き出した。自然と笑いが込み上げてきてくすくすと鼻が鳴った。
「いやぁ、やっと笑っていただけましたね。ここへ来られる方は、異様に暗い路地を歩んで来られます。だからでしょうかねぇ、皆、一様に初めての方は暗い顔をしていらしゃいます。和んでいただきたい喫茶店で暗い顔は似合いませんからねぇ」
菊池マスターはそう言って、カウンター上のサイフォンを引き寄せた。次いで水を注ぐとアルコールランプに火をつけて、コーヒーの粉を手早く入れた。
「これは、わたし用なんですよ。何を御所望ですか?」
菊池マスターは、コポコポと泡を立てだしたサイフォンを一度軽く揺すった。気泡が気持ち小さくなったのを確かめて、にっこりとした表情を由果に見せた。
「あの、アップルティーってありますか?」
学校での話の中にあった『アップルティー』を注文することは、ちょっとした勇気を要した。帰って来た者がいない喫茶店で、帰ってきた者が飲んだであろう『アップルティー』。
「ありますよ」
当然という表情で菊池マスターは微笑んだ。
「わたしは、ハーブも嫌いではありませんが、やはり紅茶に合うのは林檎じゃないかと思うんです。今じゃ、手軽な粉もありますが、あれって本物の林檎から作られたものは無いって知ってました? 大概は香料なんですよ。嘆かわしいですよね。わたしのところでは、こうやって林檎の皮から香りを出し、果肉からしっかりと甘味を引き出します。ほのかに甘く、しっかり香る。これが大切なんです」
ニコニコと饒舌に語る菊池マスターは、アップルティーが本当に好きなんだろうと感じられた。こんな人が怪しげな都市伝説に登場するなど由果には考えられなかった。きっと、ここにたどり着くまでの暗闇に怯え、辿り着くことが叶わなかった人たちが吹聴したことだろうと勝手に解釈した。
「ねぇ、マスター。自分の存在理由なんて考えたことある?」
甘酸っぱい香りが由果の鼻腔をくすぐりだした頃、唐突かなと思いながらも由果はあの暗闇で自問自答していたことを投げかけてみた。子供の自分ではわからないことも、大人であれば他愛の無いことかも知れないと思えた。
「おやおや、哲学的ですね。今の学生さんはそんなことを学ばれているのですか?」
驚きの表情が嘘っぽく無いのが、由果には新鮮だった。普段はみんなに合わせるように大袈裟に驚いて見せたりしていた。相手のわざとらしさも見えるのだから、自分の仕草も嘘っぽく見えてるだろうと確信していた。けれど、それで良かったのだ。
菊池マスターは、湯気の立つカップを由果の前に置くと、短めの両腕を組んで首を傾げた。途端に林檎の甘酸っぱい香りが溢れた。
「考えたことが無いと言えばうそになりますねぇ」
そう言って首を戻すと、自分用に淹れたコーヒーをランプから下ろしカップに注いで口を付けた。
「いえ、ただ漠然と考えたんです。ちょっと、毎日が充実してない気がして」
真面目に考えようとする菊池マスターを見て、なんだか由果は恥ずかしくなった。そして、照れ隠しのように置かれたアップルティーを飲んだ。ほのかに甘い中に紅茶の渋みが伝わってくるが、嫌味な感じは全く無い。
「おいしい」
率直な感想が、無意識に口を吐いた。それを聞いて菊池マスターは、眼鏡の奥の眼を細めた。
「充実していないのは関心しませんね。何が原因なんでしょう?」
ほわっとしたアップルティーの所為か、菊池マスターの人柄なのか、由果は僅かの時間で心か溶けていたと言っていい。いつもの俯いた翳りの世界から開放されたような気分だった。そのため、毎日の愚痴にも似た日常を語り始めていた。
三部作のつもりが、どうやら四部作になりそうです。
次回が最終回。飽きずに読んでくれている方には申し訳ないです。