由果の葛藤
電車の扉が開くのももどかしく、由果は駅へと降り立った。
オフィス街はまだ退社時間には早いはずであったが、意外にも人の往来が多かった。恐らくは営業マンが大半かもしれない。それ以外にも配達員やパートタイムのOLもチラホラと見られるが、由果がいつも行く商店街や若者達が群れる繁華街などとは、完全に異質な世界であった。
ファーストフード店やコンビニなどは皆無に等しい、その代わりに喫茶店や食堂、レストランなどという看板が多い。由果の御贔屓なファミレスなどとは風格が違う門構えのレストランや、ちょっと入るには気が引ける年代物の食堂などは、ビル群に似合わないようでいて、自然と溶け込んでいるようにも感じる。
由果は、自分には決して似合っていない街並みを歩き出した。しかし、制服姿の由果を気にするものなど誰一人としていない。
駅前付近はさして高いビルなどは見当たらない。精々が十階程度で、それも点在しているような感じだ。暗い路地裏などを作るようなものは無い。建物自体も相当に古いものが多く、駅前周辺の開発が遅れている印象を与える。その為だろうか、食堂の看板が多く目立つ。
噂の『喫茶店』があるのは、恐らくは前方に一段とそびえるビル群のどこかではないかと、由果は予想をたてた。
前方五百メートルほどの向こうに、最低でも三十階建て、最高だとどれ位なのか判らないほどのビルが乱立しているブロックが見える。しかし、狭い土地に無理やりビルを建てたような印象を受けるのは、その全てがデザインの凝らした創りになっておらず、真四角の機能重視なものばかりからかも知れない。
昼間でも暗い路地裏。
高層ビルの谷間にしか存在しないであろうそれは、まだ明るい日の光の下、蜃気楼のように揺らめいて由果を誘っているようだ。
十五分ほどで高層ビル群の足元へと由果は到着した。
間近かで見るそれらは、傾いた日差しに上部三分の一ほどを日向にしてそびえている。下部は辺りの建物にさえぎられ黒々とした影を落とす。
人通りは一層多くなっていた。その全ては、周りのオフィスビルから吐き出され、また吸い込まれて行く。客観的に見て、由果の腕に鳥肌がたった。大人の世界とはいえ、まるで機械仕掛けのように脇目も振らずに行き交う人々に、薄ら寒い感触を受けたからだ。
由果は、下げた鞄を今一度胸に掻き抱いて、遮二無二、路地に飛び込んだ。
異世界に一人入り込んだような意識に耐えられなくなった為の衝動であった。
ほとんど両目を閉じた状態で走り込んだ路地は、うっすらと湿り気を帯びた空気が充満し、日差しの届かぬ影響か、肌寒い感覚が包んだ。その先は薄暗がりというよりは、漆黒に近いねっとりとした闇のように感じられる。
後ろを振り返れば、由果の眼前に伸びる漆黒の闇とは無縁な明るい世界が広がっている。人の往来も見られる。だが、その反対側は、これほど対象的なもはないであろう如く静まり返っている。
由果の決心は揺らいでいた。暗闇に自ら進み出る勇気は、由果には無いのだ。だが、その懸念は電車に乗る時からあったはずである。今更、ここまで来ての後退は、最初からなにもしていないのと同じだ。
実際、由果がそこまで深い考えでいたかは定かではない。ただ、由果はゆっくりとした動作であったが、明るい世界に背を向けて歩き出していた。
本当にここまで来るつもりだったのだろうか?
由果は、薄暗く狭い路地を奥へと進みながら自問していた。
勢いであったろうか? 否、自分の意思に冷静に従ったはずである。
こんな暗い路地裏まで想像していただろうか? 否、話の内容から、蛍の光源より尚暗い光が見えるという表現を考えても、暗黒に近いものであったはずだ。
独りで来る寂しさを考えなっかった? 否、あの話の輪の中では、架空の物語にも似た騙り事に他ならなかった。現実であるはずは無く、その場の全員が確実に真実では無いと認識していたはずである。
路地の行く手が不意に壁に阻まれた。ビルの奥、切れ間まで来たという証拠でもあるのだが、あまりの暗さに認識が遅くなった。いや、考え事をしていたためかもしれない。
突き当たりの左手は、わざとそうしたのか極小の隙間しか存在しない。恐らくネズミでさえ苦しいのではないかと思われた。
必然的に由果は、右に折れた。
必然…それは表現的に正解ではないかもしれない。確かに、それ以外に道は無い。だが、由果には引き返すという発想が生まれなっかたのも確かなのだ。
思考は自問の続きがエスカレートしていた。
暗闇に多少眼が慣れ、わずかな明るさでも足元くらいまでは確認できるくらいになっている。自然と恐怖心が薄れているには、入った瞬間の肌寒さが無いせいかもしれない。唸るような低い機械音はエアコンの作動音だろう。その室外機が日差しの無い路地奥に暖房の役目をはたすなど設計者は考えたのだろうか。
由果は考えていた。自分というものを。自分の存在というものを。
果たして答えが出るものでは無いが、始めてしまった思考に歯止めは効かない。
一番の疑問は、今あるべき自分の所在かもしれないと、由果は思っていた。何故、そんなことを考えるのかはわからない。ただ、そう思ってしまった。暗闇を前進する自分は、既に範疇に無いが、学校での自分の住処はあるのだろうか? と考える時、疑問はいつも着いてきた。毎日ではないにしろ、数日置きに考える疑問。その答えはいつも行き詰まる。イジメに臆病になり、息を潜めるような生活、他人に極力深入りしない生活、笑える馬鹿話は出来るが深刻な悩みは打ち明けることのない生活、他人が傷ついていても見ないふりな生活、気が付けばいつも俯いてばかりの生活。
由果は、暗闇の中で叫び声を上げたかった。いや、悲鳴だったかもしれない。そんな衝動の駆られながらも、必死で耐えながら歩を進めた。既に、いくつかの角を曲がったような気もするが、それすら幻想かもしれないと思えた。
周りは一層の暗闇に包まれていた。恐らくは、両手を確認するのでさえ顔の近くまで挙げなければ叶うまい。
それでも由果の歩みは止まらない。暗闇の中をただただ進んだ。
思考は迷宮に入り込んでいた。自分が存在する意義などという疑問だった。その瞬間に先ほど路地に入るまでの世界が脳裏をよぎった。自分の存在さえ知らぬような人々に、自分はどんな存在だったろう? 違和感を与える存在であったことは確かかもしれない。だが、そこで自分がいなくなったとしても、誰かが気に留めてくれたろうか? 例えば、あの往来の中、自分の喉をナイフで切り裂いて見せても、誰一人歩みを止めることは無かったのではなかろうか? では、自分がここで存在する意味はなんなのだろう? 親姉妹は悲しむかもしれないが、クラスメートなどは翌日には、自分の存在さえ忘れてしまうかもしれない。現実に、毎日のように流されるニュースの殺人事件や死亡事故など他人事と聞き流してる自分が居るではないか。
由果は、何気なく自らの頬を触れてみた。生暖かい水分が感じられた。泣いていると感じたわけではない。ただ、そんな感じがしたから確かめただけだ。
自分は、いったい何をしたくて、こんな世界に生まれたんだろう?
確かめたくとも、確かめることすら恐ろしい世界は、いったい自分に何を要求するのだろう?
由果の自問は、確実に最終的な答えを求め始めていた。それは、誰しもが安易に考えることで、それ故に難しくもある答えで、行き着けば誰しもが否定しないことでもあった。
ぼやける視界は涙のせいなのか、由果は暗闇の中で右の袖口で両目を拭った。
その瞳に、ほのかな光が写った。気が付けば、どこをどう入り込んできたのかもわからない状況であった。
ただ、理解できるのは、先程確認したよりも、尚一層路地の中は暗くなっているということだろう。今では、きっと鼻を摘ままれても、その本人すら確認できないだろう。
その闇の中、まだ遥かに遠い感覚だが、光が見える。油断すると見失うかもしれないほどはかない光源。青いようで、緑色にも感じる。瞬くような時は赤く感じたりもする。
由果の鼓動が早鐘のように高鳴った。
伝説の『喫茶店』に、今、辿り着いたのかも知れない。
粘着質の闇を振り払うかのように、由果は走り出していた。無意識の行動ではあったろう。だが、いままで考えていたことが、せめて暗がりで起こった幻影であればいいと願う本心であったかもしれないことを、由果自身が意識していたかどうか…。