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指定席シリーズ

眠れぬ夜は

作者: 間宮 榛



 暑い夜だった。頭の中もぐつぐつ音を立てて沸騰してるんじゃないか、そんな気がするくらい暑い夜だった。パイプベッドの上で何度も寝返りを打ち、羊を数えたり、深呼吸したりしてみた。それでも眠気はさっぱりやってこなくて。腹の上に乗っていたタオルケットを撥ね除けて、俺は寝ることを諦めた。

 窓は開いているが風はなく、カーテンを全開にしても空気は全然動かない。風鈴の音なんて、ここのところ聞いた覚えがない。汗で体に張りつくシャツを指でつまんで剥がし、そのまま動かして体に風を送る。湿気が多くあたたかい風だったが、それでもないよりはましだった。

「……あっつー……」

 口に出すと余計暑く感じる、というのをどこかで聞いていたからあまり口に出さなかったが、ぽろりとおもわず出てしまった。暑いなら冷房をかければいいじゃないかと言う人がいるかもしれないが、冷房は嫌いだ。あの人工の冷気を浴びると、とたんに喉が痛くなったり体調がおかしくなったりする。第一夏は暑いものなのだから、扇風機とうちわがあれば十分なはずだ。昔の人はこれで夏の暑さを凌いでいたのだから。今は地球温暖化で温度も上昇してるぞ、なんて言われても、結局夏は暑いものだと決まっているんだ。

 暑いのが当たり前。頭の中でそう理屈をごねてはみても、暑いのにかわりはない。

 体は正直で、とめどなく汗を流す。失われた水分を補充するために、俺は部屋を出た。階下の台所でグラスにお茶を二杯飲み、暑苦しい空気の中を泳ぐように自室に戻った。

 まだまだ眠気はやってくる気配すらなくて、俺はベッドに体を沈めることをやめ、ベランダに続く網戸を開けた。棚の上に置いてあったシガレットケースと灰皿を持って、ベランダに出た。外も中もあまり温度はかわらず、体にまとわりつく湿気の多い空気は肌をべたべたさせる。不快な空気のなか室外機に腰を下ろし、シガレットケースを開ける。

 たまにしか吸わない煙草が湿気るのももったいないから、と選んだ密封できるタイプのケースから煙草とライターを取り出す。くわえて火を点けると、ジジ、と先が燻り、それから紫煙が揺らめいた。

 あまり吸わずに、口から指に移す。

 ふぅ、と息を吐くと、煙草の先から立つ煙と混ざって空気に溶けた。

 いつだったかウルが以前にくれた林檎型の灰皿の蓋を開け、蓋の隣にライターとシガレットケースを置いて立ち上がる。右手に煙草、左手に林檎の灰皿を持ち、ベランダを囲う柵にもたれた。

 右手の煙草からは途切れることなく線のような紫煙がメントールの匂いを広げながら真っすぐ天に昇る。先に行くほど淡くなり、夏の高い夜空に溶け込んでいった。


 煙草は、特に好きというわけではない。じゃあ何で吸うんだと聞かれたら、煙を見るためだと答えている。空中にたゆたう煙。紫煙というわりには白いな、と思う。別に煙が何色でもかまわないが、ただ煙が静かにあがるのが見たいだけだ。少しの空気の動きで、俺の呼気が当たるだけでも揺らぐ白く細い線。お釈迦様が極楽から垂らす蜘蛛の糸のように頼りない。

 けれど、このたなびく煙を見ていると、何故だか落ち着く。

 肺一杯に吸い込んで、ふうっと吐き出した煙を見ているのも好きだ。塊になった煙が昇って消えていくと、心の中のぐちゃぐちゃしたこととか消化不良なこととかイライラとか、落ち着かなさとかが全て煙に溶けて消えていったような錯覚に陥る。そうして、すうっと気が楽になる。

 だから時々揺らめく煙が見たくなって、俺は煙草に火を点ける。別にお香とか線香とか細い煙が出るやつは沢山あるけど、外でも煙を見たくなった時に一番便利なのは、やっぱり煙草だった。

 何より不自然じゃない。外でいきなりお香や線香に火を点けたら珍妙な目で見られることだろう。だから、煙草にした。

 煙草は最近禁煙の場所が増え肩身が狭いが、まぁ気にしない。煙草が吸いたいのではなく、煙草の煙が見たいだけだし。煙草の灰になった部分が増え、その分煙があがる。


 隣の家の窓を見ると、潤の部屋はすでに真っ暗だった。

 当たり前か。夜中だもんな、今。

 潤は眠れているのかな、なんてことを考える。潤は昔から寝つきがいいから、きっと今も眠っているのだろう。窓を隔てた向こう、勝手知ったる他人の部屋を思い出し、ベッドに横たわる君が瞼の奥に浮かび上がる。

 …………破廉恥だ。

 急に恥ずかしくなって、頭を振って想像の潤の姿を追い出す。煙がぐにゃりと曲がり、潤の姿も波紋が広がったように不鮮明になって消え去った。


「……何やってんだ、俺……」


 道には誰もいないからいいものの、端から見たらきっと怪しい蛍族だ。少し熱い頬を誤魔化すように灰の増えた煙草に口をつけ、大きく煙を吸い込んだ。

 ふぅ、と吐き出した紫煙は不健康な臭いとメントールの匂いがして、星空とベランダの俺を霞となって隔てて消えた。





 眠れぬ夜は、煙草に火を点ける。

 この紫煙が途切れたら、また眠る努力をしよう。


 君に逢える朝は、まだ遠い。



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