鞄の底
僕の鞄から、死んだ生徒の手帳が出てきた。
それだけなら、まだよかった。
問題は、その生徒が死んだのが二十八年前だということだ。
そして今朝。
七冊目の手帳に貼られていたのは、僕の写真だった。
* * *
《二年三組 柏木 澪》
一冊目の手帳に書かれていた名前だ。
見つけたのは、一週間前の月曜日だった。
教科書を出そうとして鞄に手を入れたら、底に見覚えのない生徒手帳があった。
古いものだった。
表紙は擦れて、角が丸くなっている。
顔写真は女子生徒。
黒髪で、前髪が少し長い。
彼女は笑っていなかった。
落とし物だと思った。
でも、生徒手帳のデザインが少し違う。
気になって裏を見ると、小さく発行年度が書いてあった。
二十八年前。
気味が悪くなって、僕はその手帳を机の引き出しに放り込んだ。
翌朝。
鞄の底に、二冊目があった。
三冊目。
四冊目。
……毎朝、一冊ずつ増えた。
名前も、顔も違う。
卒業年度も違う。
ただ、共通していることが二つあった。
全員、この学校の生徒だったこと。
そして。
誰一人、卒業していなかったこと。
* * *
昨日、六冊目を見つけたあと、僕は図書室へ行った。
古い卒業アルバムを調べた。
一冊目の柏木澪は、二年生の集合写真にいた。
三列目の端。
生徒手帳と同じ顔だった。
けれど、三年生のアルバムにはいなかった。
二冊目も。
三冊目も。
全員そうだった。
みんな、途中で消えている。
転校した? 退学したのかもしれない。
そう思おうとした。
でも、六冊目だけは覚えていた。
去年、この学校にいた生徒だったからだ。
彼の名前を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
廊下ですれ違ったことがある。
体育祭にもいた。
なのに、どうしても顔が思い出せなかった。
* * *
そして今朝、七冊目が入っていた。
まだ新しい手帳だった。
表紙に傷ひとつない。
嫌な予感がした。
開きたくなかった。
それでも開いた。
顔写真を見た。
僕だった。
名前も僕。二年三組。
住所も、生年月日も見た。
一字一句、間違いなかった。
全部、僕のものだった。
ただ一つだけ違った。
写真の中の僕は、泣いていた。
こんな写真を撮った覚えはない。
ページをめくった。
最後のページに、鉛筆で文字が書いてあった。
《今日、鞄の底を見せてはいけない》
その下に、もう一行。
《見せたら、戻れない》
チャイムが鳴った。
同時に教室の前のドアが開き、担任が入ってきた。
「おはよう。先に連絡な」
教卓に名簿を置く。
「今日の昼休み、持ち物検査するから」
誰かが「マジかよ」と言った。
教室に笑いが起きる。
僕だけ笑えなかった。
「机とロッカー、それから鞄。全部見るぞ」
担任は続けた。
「鞄は、中身を全部出して」
一拍置いて。
「底まで確認するからな」
* * *
一時間目。
出席確認が始まった。
担任が順番に名前を呼ぶ。
僕は七冊目の手帳を机の下で握っていた。
捨てよう。
そう思った。
窓から投げてもいい。
燃やしてもいい。
とにかく、鞄から離せばいい。
「佐川」
「はい」
次だ。
僕の名字は佐川の次だった。
担任の指が名簿を一行下へ動く。
「鈴木」
僕は顔を上げた。
飛ばされた。
「先生」
返事はない。
「先生、僕、まだ呼ばれてません」
担任が顔を上げた。
僕ではなく、教室全体を見回した。
「……今、誰か喋ったか?」
笑いが起きた。
冗談だと思った。
「先生。僕です」
立ち上がった。
誰も見ない。
前の席の陽太の肩を掴んだ。
「なあ」
陽太が振り返った。
目が合った。
よかった、見えている。
そう思った。
陽太は僕の顔を数秒見つめた。
そして眉を寄せた。
「……誰?」
* * *
二時間目。
僕の机から、名前が消えた。
三時間目。
下駄箱から靴がなくなった。
四時間目。
クラスのグループチャットから、僕のアカウントが消えた。
――僕のスマホには、ちゃんと残っている。
母さんに電話した。
呼び出し音が数回。
繋がった!
「もしもし。母さん」
沈黙。
「……どちらさまですか?」
切った。
もう一度かけた。
出なかった。
昼休みまで、あと十五分。
* * *
僕は七冊の手帳を抱えて職員室へ走った。
先生に見せればいい。
誰でもいい。
僕がいると証明してもらう。
廊下を走っても、誰も注意しなかった。
職員室のドアを開けた。
「先生!」
誰も顔を上げない。
机を叩いた。
音はした。
何人かがこちらを見た。
でも、僕を見ているんじゃない。
勝手に鳴った机を見ている。
そのとき。
抱えていた手帳が、一冊落ちた。
柏木澪。
床に落ちた手帳が、ひとりでに開いた。
最後のページ。
そこには、今までなかった文字が書かれていた。
《鞄へ戻って》
文字が増えた。
《もう時間がない》
また増える。
《見つかる》
背後でチャイムが鳴った。
午後一時。
持ち物検査が始まった。
* * *
教室へ戻ると、僕の席はなかった。
正確には、机はある。
でも、誰もそこを僕の席だと思っていない。
僕の鞄だけが、机の横に掛かっていた。
担任がそれを見つけた。
「これ、誰のだ?」
誰も答えない。
「名前、書いてないのか」
担任が鞄を持ち上げる。
やめろ。
「先生!」
ファスナーに手がかかった。
「それ、開けないで!」
僕は鞄へ飛びついた。
その瞬間。
甘い匂いがした。蜂蜜の匂いだった。
なぜか、少し安心した。
そのせいで、逃げるのが一瞬遅れた。
鞄の底から、白い手が伸びた。
一本。
二本。
三本。
何本も、小さな手が僕の腕を掴んだ。
「いやだ!」
引っ張られた。
腕が、肩が沈む。
鞄は普通の大きさなのに。
底だけがない。
暗い。
深い。
落ちながら、六人分の声が聞こえた。
『大丈夫』
『すぐ終わるよ』
『怖くないよ』
優しい声だった。
また、蜂蜜の匂いがした。
最後に、柏木澪の声がした。
『こっちは、あったかいよ』
* * *
「空っぽだな」
担任の声がした。
僕は暗闇の中で叫んだ。
ここにいる。
先生。
ここにいる!
外から光が差した。
鞄の口が、はるか上に見える。
担任の顔が覗き込んでいた。
「何もない」
違う。
いる。
七人いる。
「落とし物か。職員室に持っていくか」
ファスナーが閉まった。
光が細くなる。
待って。
やめて。
最後の一本が消え、真っ暗になった。
その暗闇の中で、誰かが僕の肩に触れた。
振り返った。
六人いた。
全員、生徒手帳の写真と同じ顔だった。
柏木澪が笑った。
初めて見る笑顔だった。
「大丈夫」
そう言って、僕の手に何かを握らせた。
生徒手帳だった。
僕のものじゃない。
顔写真を見る。
知っている。
前の席。
毎朝、振り返って話しかけてくる。
僕の友達。
名前は――。
名前は。
もう思い出せなかった。
「次は、その子?」
澪が聞いた。
僕は手帳を見つめた。
写真の中で。
友達が、泣いていた。
* * *
翌朝。
陽太は教室で鞄を開けた。
教科書を出そうとして、手を止めた。
底に、生徒手帳が一冊あった。
知らない男子の顔写真。
二年三組。同じクラスらしい。
なのに、名前を見ても何も思い出せない。
「なんだ、これ」
陽太は首をかしげた。
鞄の底から、かすかに甘い匂いがした。
蜂蜜みたいな、優しい匂いだった。
そのとき。
写真の中の男子が、一度だけ瞬きをした。




