王女殿下の為に「しばらく婚約者ではないふりをしてほしい」と言われましたので、本当に婚約者をやめることにしました
昨夜の舞踏会の余韻がまだ街に残る、少し気怠い朝だった。
フォルスター伯爵令嬢エレナ・フォルスターは、屋敷の客間で、五年来の婚約者レオナルト・アーヴィングと向かい合っていた。
アーヴィング侯爵家の嫡男で、王宮財務部門に勤めるレオナルトは、昨夜の舞踏会でも帰りが遅かったらしく、目元に薄い隈を残している。
しばらく言葉を探すように黙っていた。
「しばらく、人前では俺の婚約者ではないふりをしてほしい」
カップの持ち手に添えていたエレナの指先が、ぴたりと止まった。
昨夜の舞踏会で、レオナルトに好意を寄せる第二王女セレスティアは、エレナを見るなり露骨に機嫌を損ねた。
その後、レオナルトは王女の機嫌を取り繕うために奔走していた。
王女の機嫌を損ねれば、彼女に近い高位貴族たちとの調整にも支障が出る。
だから事情そのものは、エレナにも理解できた。
エレナはゆっくりと顔を上げ、レオナルトを見据えた。
そこに怒りや悲哀の色はない。
ただ、目の前にある事実を確かめるように口を開いた。
「婚約を解消する、ということですか」
レオナルトは弾かれたように身を乗り出した。
膝がテーブルに当たり、ティーカップがカチャリと甲高い音を立てる。
「違う。そうじゃない」
彼は強く首を振り、まるで聞き分けのない子供を諭すように眉を下げた。
「殿下が落ち着くまでだ。あの調子だと、来週の予算会議にまで影響が出かねない。ほんの少しの間、君が身を引いていてくれれば丸く収まるんだ」
「身を引く」
「あぁ。婚約そのものを取り消すわけじゃない。夜会や王宮では俺と連れ立たず、殿下の前では距離を置いてほしい。表面上だけでいい。しばらく刺激しなければ、殿下の関心もいずれ薄れるはずだ」
レオナルトはそこで強ばらせていた肩の力を抜き、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
緊張が解け、いつもの合理的な、そしてエレナを完全に信頼しきった柔らかい顔つきに戻る。
「君なら分かってくれると思った」
甘く、耳馴染みの良い声。
この五年間、何度も、何度も聞いてきた響き。
その言葉が耳に届いた瞬間、エレナの中で何かがすっと止まった。
テーブルに視線を戻す。
紅茶の水面は波一つ立てず、ただ静かに熱を逃がし続けていた。
――君なら。
一年前。
珍しく二人で遠出をするはずだった旅行の前夜、彼から慌ただしい使いが来た。
急な予算編成が入り、どうしても王宮を抜けられないのだと。
翌日、詫びの品を持って訪れた彼に、エレナは少し肩を落とした。
「……分かったわ。
残念だけど、仕事なら仕方ないものね」
彼は安堵の息を吐き、「君なら分かってくれると思っていた」と笑った。
半年前。
侯爵家の領地で起きた水害対応のため、予定されていた結婚式が半年延期になった。
手配を進めていたドレスも、招待客への手紙もすべて白紙に戻った。
申し訳なさそうに頭を下げる彼に、エレナは小さく息を吐いた。
「仕方ありませんね。
式は逃げませんもの。落ち着いてからにしましょう」
彼はエレナの冷えた手を強く握り込み、「君なら理解してくれると信じていた」と囁いた。
三か月前。
ようやく二人で出席できた夜会の途中。
王女の使いが彼を呼びに来た。
戻ってきた彼は、ひどく困惑したような顔で「すまない、今日は先に帰っていてくれ」と言った。
エントランスで一人馬車を待ちながら、剥き出しの肩を撫でる夜風の冷たさに身をすくめた記憶。
あの時も翌日、「エレナなら事情を汲んでくれると思った」という走り書きの手紙が届いた。
どれも、一つ一つを切り取れば、婚約を破棄するほどの決定的な裏切りではない。
彼には彼の職責があり、事情があり、エレナを傷つけようとする悪意があったわけでもない。
こうして並べてみると、妙な共通点があった。
結局いつも、自分の予定だけが後ろへずれている。
今回もそうだ。
王女に向き合うより、自分が引いた方が早い。
レオナルトは、それを疑いもしなかった。
エレナはゆっくりと瞬きをした。
もう、答えは出ていた。
「分かりました」
エレナの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
レオナルトの顔に、ぱっと明るい色が差す。
「そうか。助かるよ、エレナ。君ならそう言ってくれると――」
「では、婚約を解消しましょう」
客間の空気が、不自然に止まった。
レオナルトの唇は半開きのまま固まり、瞬きすら忘れたようにエレナを見つめている。
窓の外から微かに聞こえていた馬車の車輪の音すら、遠退いてしまったかのようだ。
数秒の完全な空白。
やがて、彼は喉の奥で空気が引きつるような音を立てた。
「……は?」
「正式な手続きは、父を通して侯爵家へご連絡いたします。しばらくの間と言わず、このまま白紙に戻すのが最善かと」
「待ってくれ。何を言っているんだ。俺は別れたいなんて一言も言っていない」
レオナルトがバンッとテーブルを叩き、身を乗り出す。
ティーカップの中身が激しく揺れ、数滴がソーサーにこぼれ落ちて茶色い染みを作った。
「ええ。分かっています」
エレナは染みを作ったソーサーを見つめながら、淡々と答える。
「でも、私がこのままあなたと結婚したいかどうかは、また別の話でしょう?」
その言葉の意味がまったく理解できないというように、レオナルトは眉間を深く寄せた。
焦燥と混乱の入り混じった表情で、エレナを見つめる。
「なぜだ。王女殿下が相手なんだぞ。まともに取り合えばどんな波風が立つか分からない。少し間を置くしかない。仕方がないだろう」
「ええ。仕方がないと思います」
「なら――」
「ですから、殿下を優先してください」
きっぱりと言い切り、エレナは立ち上がった。
布地の擦れる音が、妙に大きく響く。
これ以上言葉を重ねても、同じところを回るだけだ。
「今日はもう、お引き取りください。お疲れのようですから」
有無を言わさぬ声音で告げ、エレナは踵を返した。
背後で「エレナ!」
と呼び止める焦った声がしたが、振り返ることはしなかった。
◇
数日後。
フォルスター伯爵家の執務室。
分厚い絨毯の上を歩く音は吸い込まれ、部屋には羽根ペンが羊皮紙を擦るカリカリとした乾いた音だけが響いていた。
父である伯爵は、机の上に置かれた書類とエレナの顔を交互に見比べ、深く息を吐き出した。
「本当に、これでいいのだな」
「はい。お父様にはご迷惑をおかけしますが、私の意志は変わりません」
エレナは背筋を伸ばし、はっきりと答えた。
父はそれ以上何も聞かず、書類の末尾に力強い筆跡でサインを書き入れた。
「向こうが異議を出せば多少揉めるだろうが、お前が望まぬ婚約を続けさせることはできん」
侯爵家からは、すでに何度か面会の申し入れがあった。
しかし、そのどれもに「若い二人の些細な行き違い」「少し感情的になっているだけ」という含みがあった。
レオナルト自身からも、手紙が何通も届いている。
そこには「君の機嫌を損ねたのなら謝る」「早く話し合おう」と書かれていた。
彼らはまだ、本気で婚約がなくなるとは思っていない。
数日経って頭が冷えれば、エレナの方から折れて戻ってくる。
そう信じて疑っていないのだ。
父から差し出された書類を受け取る。
婚約解消申立書。
そこに記された自分の署名と、先ほど書き加えられた父のサイン。
五年間続いた関係が、たった数枚の紙切れで終わろうとしている。
少しの寂しさがないと言えば嘘になる。
彼と過ごした穏やかな時間、楽しかった思い出も確かにあったのだから。
それでも胸にあるのは、重苦しい後悔ではなく、冷えた水のように澄んだ覚悟だった。
午後。
面会を拒絶し続けていたエレナだったが、この書類を渡すためだけに、一度だけレオナルトと会う約束を取り付けていた。
場所は、王都の中心にある落ち着いたサロン。
指定された個室の扉を開けると、そこにはすでにレオナルトが待っていた。
数日ぶりに見る彼は、ひどく憔悴しているように見えた。
目の下の隈は濃くなり、仕立ての良い上着にもどこか不自然なシワが寄っている。
エレナの姿を認めた瞬間、彼の中の安堵が顔全体に広がった。
「エレナ。来てくれて本当に……」
すがりつくように伸ばされた手を避けることもせず、エレナは持参した革の鞄を開けた。
彼が何かを言い終える前に、テーブルの上に一枚の書類を滑らせる。
「こちらを。侯爵家へお渡しください」
レオナルトの視線が、滑ってきた書類に落ちる。
そこに記された『婚約解消申立書』という無機質な文字。
そして、すでにインクが乾き切っている、エレナと伯爵の署名。
彼の呼吸が、ピタリと止まった。
血の気が引き、青白くなっていく頬。
テーブルの上に置かれたままの指先が、かすかに震え始める。
数日前まで確かにあった「エレナなら最後には許してくれる」という余裕が、ようやく彼の顔から消えた。
エレナは、テーブルに置かれた彼の手の震えを、ただ見つめていた。
◇
書類を渡したあの日から、フォルスター伯爵邸には穏やかな日常が戻っていた。
早朝。
少し冷たい空気が流れ込む自室で、エレナはインク瓶の蓋を開けた。
真新しい羊皮紙に、カリカリと硬いペン先が滑る音だけが響く。
五年間、ずっと隣にあった未来が消えた。
悲しくないと言えば嘘になる。
街で季節の花を見かけたり、茶葉の香りがふと鼻をかすめたりすると、彼と過ごした穏やかな午後を思い出す。
胸がちくりと痛み、ペン先が止まる瞬間もあった。
ただ、声を出して泣き崩れるような激しい絶望はなかった。
ぽっかりと空いた時間は、思っていたよりもずっと静かで、そして自由だった。
手元にあるのは、伯爵領の特産品である硝子細工の輸送経路改善案。
エレナは婚約前から父の領地経営を手伝い、帳簿や輸送費の計算にも慣れていた。
だが侯爵家へ嫁げば領地を離れる予定だったため、自分が最後まで責任を持てない改革に深入りすべきではないと考え、この案も途中で止めていた。
引き出しの奥で埃を被っていた束を引っ張り出し、改めて数字を追いかけていると、時間はあっという間に過ぎていく。
ノックの音とともに執務室の扉が開き、父が顔を出した。
机の上に広げられた膨大な資料と、インクで指先を汚している娘を見て、伯爵は目を丸くする。
「お前、まだそんなことをやっていたのか」
「途中で放り出すのは気持ちが悪かったので。計算し直してみたら、やはり現在の北側ルートは無駄が多いと分かりました。中継地点を変えれば、もう少し」
「……いや、ふさぎ込まれるよりはずっといいが」
父は苦笑交じりにため息をつき、エレナの手元にある書類の束を指差した。
「そこまでまとまっているなら、ちょうどいい。午後、商務庁へ行ってそれを提出してきてくれないか。私は領地の寄り合いがあって手が離せない」
「私が、ですか?」
「お前が作った案だろう。細かい質問には、お前が答えた方が早い」
それもそうだと頷き、エレナはペンを置いた。
◇
王宮に隣接する官庁街。
商務庁の建物は、実用性を重視した石造りの無骨な造りをしている。
案内された応接室は、書類の山とインクの匂いに満ちていた。
向かいの席に座り、無言で紙束に視線を落としているのは、商務官のユリウス・クロイツ。
子爵家の次男であり、近年急成長を遂げているクロイツ商会の実家を持つ男だ。
以前、夜会で二、三度挨拶を交わした記憶があるが、こうして間近で話すのは初めてだった。
濃い栗色の髪に、理知的な光を宿した薄茶の瞳。
仕立ての良い執務服を着崩すこともなく、ただひたすらに数字の羅列を追いかけている。
長い指が、ぱらりとページをめくった。
ややあって、ユリウスは顔を上げ、淡々とした声で言った。
「計算は正確ですが、この方法では一回あたりの輸送費が現状より一割上がります。緩衝材と速度制限を入れれば、採算はかなり厳しい」
真っ向からの否定。
貴族の令嬢が作ったものだからと、適当に褒めるつもりはないらしい。
むしろ、その方が話は早かった。
「一回あたりの輸送費は上がります。ですが、こちらをご覧ください」
エレナは手元の控えから、別の紙を抜き出してユリウスの前に滑らせた。
エレナが示したのは、過去三年間の破損率と、返品・違約金をまとめた一覧だった。
「現在は約二割の商品に傷が入っています。緩衝材と速度制限で破損率を三分の一以下にできれば、輸送費が増えても年間の利益は上がります」
ユリウスの視線が、リストの数字へ吸い寄せられる。
沈黙。
応接室には、どこか遠くで馬車が石畳を叩く音だけが響いている。
ユリウスは余白に数字を書き込み、しばらく計算したあと、短く息を吐いた。
「……なるほど。年間の損害補填額まで含めての計算でしたか」
「はい」
「悪くない数字です。ですが、それなら条件を一つ変えれば、さらに経費を下げられそうです」
ユリウスは地図を引き寄せ、ペン先で東の宿場町を示した。
「中継倉庫をこちらへ移せば、緩衝材の仕入れもまとめられます。資材費は下げられる」
「でも、春先は雪解けで道がぬかるみます。速度を落とすなら、到着が遅れませんか?」
「……確かに。なら、その時期だけ元のルートに戻す方がいいですね」
気づけば、二人で一枚の地図と計算書を挟み込み、熱中して言葉を交わしていた。
ユリウスは理にかなえば頷き、違うと思えばその場で指摘した。
エレナも疑問があれば問い返し、自分の考えを口にする。
「……以上で、問題ないかと」
「ええ。完璧です。この条件で承認を取りましょう」
ユリウスが満足げにペンを置き、書類をトントンと揃える。
窓の外を見ると、いつの間にか陽が傾き、部屋の中は橙色に染まりかけていた。
「長々と引き留めて申し訳ありませんでした。フォルスター伯爵令嬢」
「いいえ。こちらこそ、思い至らなかった点をご指摘いただいて助かりました」
席を立ち、短く礼を交わす。
商務庁の重い扉を抜け、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた瞬間。
エレナは、ふと歩みを止めた。
外へ出てから、エレナは思わず息を吐いた。
思っていたより、楽しかった。
意見を返され、こちらも言い返し、気づけば時間を忘れていた。
それがなんだかおかしくて、エレナは一人で少しだけ笑った。
風に揺れる街路樹の葉が、カサカサと乾いた音を立てる。
エレナはゆっくりと息を吸い込み、夕焼けに染まる石畳へ、軽い音を立てて一歩を踏み出した。
◇
王宮の廊下に敷き詰められた緋色の絨毯が、靴底の音を重く飲み込んでいく。
豪奢なシャンデリアから降り注ぐ光すら、今のレオナルトにとっては目障りなほど眩しかった。
数日前に突きつけられた、インクの乾いた『婚約解消申立書』。
その書類はすでに王宮内の法務局を通され、正式に受理されてしまっている。
まさか本気だとは思っていなかった。
数日経てば、彼女はいつものように困ったような、それでも仕方がないと受け入れる微笑みを浮かべて戻ってくる。
そう信じて疑わなかった自分への見事なまでのしっぺ返し。
焦燥で焼け焦げそうな胸の内を隠し、執務室へ向かおうとした彼を呼び止めたのは、甘ったるい香水の匂いだった。
「レオナルト様」
鈴を転がすような高く弾んだ声。
振り返ると、豪奢なドレスに身を包んだ第二王女セレスティアが、侍女も伴わず一人で立っていた。
普段なら周囲の目を気にする彼女が、今日はあからさまに上気した頬を隠そうともしない。
「殿下。このような場所で――」
「聞きましたわ。フォルスター伯爵令嬢との婚約を解消なさったとか」
セレスティアは扇で口元を隠しながらも、隠しきれない歓喜を滲ませていた。
レオナルトは微かに眉を寄せる。
「……手続きが済んだのは事実です」
「やはり。あの方も、ようやくご自分の立場がお分かりになったのね」
セレスティアは一歩、彼との距離を詰めた。
ドレスの裾が擦れる音が、妙に大きく響く。
「これで、もう遠慮はいりませんわね」
向けられた熱っぽい視線。
レオナルトの思考が、一瞬だけ止まった。
「何のお話でしょうか」
「とぼけないでくださいな。エレナ嬢との婚約を解消したのでしょう?」
彼女は当然のように、自分が選ばれたのだと信じ切っている。
婚約者がいなくなったのだから、次は自分へ向いてくれる。
その無邪気なまでの確信。
ここで初めて、レオナルトの中に明確な拒絶の意志が湧き上がった。
「違います」
冷たく、硬い声が出た。
セレスティアの笑みが凍りつく。
「私はエレナと別れるつもりなどありませんでした。婚約を解消したのは彼女の意思です。今でも、戻ってきてほしいと思っています」
「でも、私のために婚約をなくしたのでしょう?」
「私のために?」
レオナルトは眉をひそめた。
「わたくしがあの方を嫌っていることくらい、ご存じでしょう?」
「ですから――」
「だから何ですの?」
セレスティアは心外そうに扇を閉じた。
「わたくし、隠してくれなんて一言も言っていなくてよ。別れてくださったのは嬉しいですけれど、それはあなたが勝手になさったことでしょう?」
――あなたが勝手に。
レオナルトは反論しかけ、言葉を失った。
王女の機嫌が仕事に影響する。
それは事実だった。
だからこそ、波風を立てない方法を選んだつもりだった。
だが、エレナに身を引いてもらうことを、誰かに命じられたわけではない。
レオナルトの喉が詰まった。
数日前、自分がエレナに言った言葉が浮かんだ。
では、自分はなぜ、真っ先にエレナへそう頼んだのだろう。
答えはまだ言葉にならない。
ただ、王女ではなく、自分で選んだことだけは、もう否定できなかった。
「……失礼いたします」
レオナルトはセレスティアを残し、踵を返した。
何を間違えたのか。
今度こそ、エレナに確かめなければならない。
◇
フォルスター伯爵邸の面会室。
数日ぶりに顔を合わせたエレナは、青いシンプルなドレスを着て、ティーカップを傾けていた。
伏せられた睫毛にも、その立ち姿にも悲壮感はない。
むしろ、以前より肩の力が抜けているように見えた。
それが、レオナルトをさらに焦らせる。
「急に押しかけてすまない。どうしても伝えたいことがある」
レオナルトは勧められたソファに座るのももどかしく、身を乗り出した。
「殿下は、何も言っていなかった」
「……何をですか」
「君を隠せとも、婚約をどうにかしろとも。……俺が勝手にやったんだ」
エレナはカップをソーサーに置いた。
「そうですか」
「悪かった。今度はちゃんとする。だから……戻ろう、エレナ」
エレナはしばらく彼を見つめ、小さく息を吐いた。
「ひとつ、聞いても?」
「……何だ」
「どうして、私だったんです?」
「……何が」
「殿下が不機嫌になったから、私が隠れる。最初にそれを思いついたんでしょう?」
――君なら分かってくれる。
「それは……君なら、事情を分かってくれると」
「そう。私なら待つと思ったんですよね」
レオナルトは言葉を失った。
扇を閉じたセレスティアの顔が浮かんだ。
「そこです」
エレナはほんの少しだけ笑った。
「待ってくれ。だって、君は今まで……」
俺を理解してくれていたじゃないか。
そう続けようとした言葉は、喉の奥でつかえて出てこなかった。
「ええ。待ちました」
一年前の旅行が流れたとき。
結婚が半年延びたとき。
夜会で一人取り残されたとき。
そのたび、エレナは不満を口にせず、結局は受け入れてきた。
「でも、待てることと、待ちたいことは同じじゃないでしょう?
旅行も、式も、あの夜会も。あなたが困っていたから、まあいいかって。そうやって済ませてきました」
エレナは、ドレスの膝の上で指を組んだ。
「私も、嫌だって言いませんでしたから」
「なら……」
「でも、一度くらい聞いてほしかったです」
「……何を?」
「私がどうしたいか」
レオナルトはすがるように手を伸ばし、テーブルの上にあった彼女の指先に触れようとした。
だが、エレナはごく自然な動作で手を引き、カップの取っ手へと触れる。
宙を掻いた指先が、冷え切っていく。
「だったら、やり直せるだろ。もう二度と同じことはしない。だから……」
絞り出すような彼の声に、エレナはゆっくりと首を横に振った。
「……そうかもしれませんね」
そこへ一拍の間が落ちる。
窓の外から、かすかに風が木々を揺らす音が聞こえた。
「でも、私はもう戻りたいとは思っていません」
その声に迷いはなかった。
レオナルトは、喉の奥から絞り出すように問うことしかできなかった。
「君は……俺を嫌いになったのか」
この数年間のすべてが否定されるのが怖かった。
エレナは少しだけ伏し目がちになり、やがて顔を上げる。
「嫌いになったわけではありません」
レオナルトは一瞬、救われたように息を吸った。
けれど、エレナの表情に復縁を求める色はない。
「好きなら結婚しなければならない、というわけではないでしょう?」
レオナルトは何も答えられなかった。
レオナルトはゆっくりと視線を落とした。
テーブルに落ちた視線の先で、冷え切った紅茶の液面が、レオナルトの呆然とした顔を映し出していた。
◇
季節が巡り、王都の街路樹が赤や黄色に色づき始めた頃。
王宮財務部門の一室で、レオナルトは山積みになった資料の束に目を落としていた。
婚約解消後、周囲から持ち上がった第二王女セレスティアとの縁談は、レオナルト自身の固辞によって立ち消えとなった。
周囲からの風当たりは一時的に強くなったものの、彼は実務能力で切り抜け、社会的な立場を失うには至っていない。
だが、彼の日常の輪郭はひどく歪になっていた。
無意識に机の右端へ手を伸ばしかけ、レオナルトは途中で止めた。
以前なら、判断に迷ったときはエレナに話していた。
答えを求めていたわけではない。
ただ話しているうちに頭が整理されて、最後には笑われたり、呆れられたりしたものだ。
侯爵家も初めは「そのうち戻ってくる」と高を括っていたが、季節が変わる頃には誰も口にしなくなった。
仕事は今まで通り進む。
それなのに、ふとした拍子に何かが足りない。
そんな瞬間だけが、以前より増えた。
書類の束から顔を上げたレオナルトの視線の先には、ただ色あせた秋の空が広がっているだけだった。
◇
商務庁の執務室。
夕暮れの斜陽が、分厚い木の机に長い影を落としている。
羽ペンが紙を擦る音だけが響く静寂のなか、ユリウスが不意に顔を上げた。
「ここの見積もりですが、春先の天候不順を考慮していませんね」
淡々とした声音。
ユリウスの長い指先が、エレナのまとめた書類の一点を正確に叩く。
エレナは手元の控えに視線を落とし、即座に顔を上げた。
「過去十年の記録では、この時期の降水量はそれほど変動がありません。影響が出たとしても、予備日で十分に補える範囲です」
「街道のぬかるみは雨量だけでなく、雪解けの気温にも左右されます。馬車の車輪を取られれば、予備日など一日で潰れる」
容赦のない指摘。
しかし、エレナも引かずに別の資料の束を引き寄せる。
「それでしたら、荷車の規格を一つ落とし、積載量を分散させるのはどうでしょう。これなら重量による遅れは防げます」
ユリウスは無言のまま、エレナの差し出した追加資料に目を通す。
薄茶の瞳が数字の羅列を追い、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほど。積載量を減らした分の追加運賃と、遅延による損害額を比較しても、こちらの方が安全圏に収まりますね」
彼は手元のペンで元の数字に斜線を引くと、エレナの提案した数値を書き込んだ。
その淀みない動作を見つめながら、エレナはひそかに胸を撫で下ろす。
こういうやり取りにも、いつの間にか慣れていた。
エレナは資料を引き寄せ、次の数字を確かめた。
窓の外を見ると、いつの間にか太陽は完全に落ち、街路にはガス灯の淡い光が灯り始めていた。
「今日はここまでにしましょう」
ユリウスがペンを置き、書類を揃えながら立ち上がる。
エレナも頷き、膝掛けを畳んだ。
「そうですね。夜分までお付き合いいただき、ありがとうございました」
二人で執務室を出て、薄暗い廊下を歩く。
商務庁の重い扉を抜けると、ひんやりとした夜の空気が頬を撫でた。
秋の深まりを感じさせる冷気に、エレナは小さく肩をすくめる。
石畳を並んで歩き出してすぐ、ユリウスが横顔を向けた。
「夕食はまだですよね」
「はい」
「近くに二軒あります。肉料理の店と、魚料理の店。どちらがいいです?」
何気ない問いかけ。
その瞬間、エレナは反射的に「どちらでも」と言いかけて、やめた。
ユリウスは何も言わず、答えを待っている。
夜風が、ふわりとエレナの前髪を揺らした。
エレナは少しだけ考えた。
「……魚がいいです」
口にしてから、自分でも少し驚く。
ユリウスは何も特別な反応をせず、ただ頷いた。
「では、魚料理にしましょう」
そう言って、ユリウスが歩き出す。
ガス灯の光が、石畳に二つの影を長く伸ばしていた。
エレナもその隣に並ぶ。
「はい」
そう答えたエレナの声は、自分で思っていたよりもずっと軽かった。




