潔癖恋愛
僕は潔癖症だ。
幼い頃から、気づいたらそうだった。原因なんてわからない。ただ、世の中のものが、他人が、自分が酷く汚ならしく思えた。
必然、周りから人は遠退いていき、陰口を言われ、いじめを受け、家では腫れ物扱い。潔癖症に加えて人間不信にもなった。
幸いというか家は金持ちだったので大人になると一軒家を購入してそこで一人気ままに暮らした。働かなくても一生遊んで暮らせるほどの金はあるが、暇は人を殺す。僕は在宅でできる仕事に就いて、日々忙しくない程度に働いた。
今も、いつもの様に手袋をしながらデスクワークを終え、ぐーっと伸びをした。
「愛梨沙(ありさ)、パソコンを消毒しておいてくれ」
「かしこまりました大和(やまと)様」
僕は側にいる無表情の愛梨沙にそう告げた。
一人気ままに暮らしたとは言ったが、それは三年前までの話。今は愛梨沙という女性を住み込みのメイドに迎えて二人で暮らしている。
最初はおぼつかないところもあったが、今は僕の指示に完璧に応えてくれる唯一無二の優秀なメイドだ。
ある日、僕は書庫に用事があって向かうと、愛梨沙が台に乗って高い場所の掃除をしていた。
「愛梨沙、精が出てるね」
「大和さ……」
愛梨沙が僕の声に振り向こうとすると、台から足を滑らせた。
「危ない!」
僕はとっさに……愛梨沙を受け止めた。
「怪我は……無いかい?」
愛梨沙は目を丸くした後、慌てて立ち上がる。珍しく表情があるなぁなんて思った。
「大和様! ご無礼を申し訳ありません!! 今すぐ入浴の準備と着替えを……!」
愛梨沙の言葉に僕ははっとした。
「……」
「大和様……? もしかしてどこかお怪我を……」
愛梨沙は心配した様で僕の顔を覗き込む。
「ああ……いや、風呂はいい」
「え……」
「僕はしばらく自室にいるから一人にしてくれ」
「あ……承知……いたしました……」
僕は怪訝そうな愛梨沙を置いてその場を去る。
「……」
自室に戻った僕は考えた。さっきの事だ。僕は愛梨沙に触った。潔癖症の僕が。だが……不思議と嫌悪感は湧かなかった。何故だ……何故……。
僕は愛梨沙との出会いを思い出した。
三年前のあの日は……珍しく外に出ていた。運悪く、土砂降りの日だった。夜遅くになって帰ろうとしていたら、雨の中傘も差さず公園のベンチに座って俯いているみすぼらしい格好の女性がいた。
あまりにあまりにもだったから……つい、声をかけてしまった。
「お嬢さん、傘は無いのかい?」
女性に傘を差し出す。その女性はのろのろと顔を上げこちらを見た。生気の無い顔だった。女性は何も言わない。
「……風邪をひくよ」
女性は何も言わない。
「……ご飯は食べたのかい?」
女性は何も言わない。
「……うちに来るかい?」
どうしてそんな事を言ったかって? 見かねたからだよ。
女性はようやく頷いて立ち上がった。相合傘とでも言うのだろうか。どうしても密着してしまう。まあ、後で洗えばいいだけだ。今は我慢しよう。その時はそう思った。
女性を家に上げると僕はまず風呂場へ誘導した。汚い体で家を歩き回ってほしくなかったから。頭の先から足の先まで入念に洗えと言っておいた。女性の歩いた所は除菌スプレーをかけて拭いた。もうその時の僕は他人にどう思われようとどうでもよかった。
脱衣場には僕のパジャマを用意しておいた。汚い服であちこちに触れてほしくなかったから。体格がそれほど変わらなさそうだったので大丈夫だろうと。パジャマはまた買えば良い。捨てるつもりで彼女にあげた。
風呂上がりの女性はいくぶんかさっぱりした様に思った。女性が風呂に入っていた間に作った料理を出すと、あっという間にたいらげられた。それほど腹が減っていたのか……。
女性に話を聞くが、彼女は何も言わない。このまま見捨てる訳にもいかないから……僕は折衷案を出した。
「君、ここで働かないかい?」
「ここで……?」
女性はかすれた声を出す。
「ああ、ここでメイドとして働く。衣食住と給金は保証する」
そう言うと彼女は小さく首を縦に振った。
「決まりだね。僕は厳しいから。そうだ、君、名前は?」
彼女は微かに口を動かして言った。
「……愛梨沙」
それから愛梨沙は献身的に働いてくれた。嫌な顔一つせず……まあ、無表情ではあるのだけど。他人といて、こんなに心地良いのは初めてだった。陰口も、腫れ物扱いもしない……彼女は……。
そこまで考えて僕は理解した。
「僕は……愛梨沙が好きなんだ」
なら、もうやる事は一つだ。
次の日僕は愛梨沙を自室に呼び出す。
「大和様、いかがいたしましたか?」
いつもの愛梨沙。無表情で、感情の起伏が少なくて、愛おしい。
「愛梨沙……僕は今から大切な事を言う」
「はい」
僕はすっと息を吸い込む。
「君が好きだ、愛梨沙」
愛梨沙は驚いた表情をした。まあ……そうだろうな。雇い主から突然こんな事を言われるなんて。これはなんらかのハラスメントに当たるのではないか? と思い、告白するよりどぎまぎした。おかしな話だ。
愛梨沙の顔を見つめていると、暗い表情になる。そして愛梨沙はこう言った。
「少し……考えさせてください」
愛梨沙がそう言うのは無理のない事だと思って僕はそれを承諾した。
愛梨沙に告白してから三日経った。返事はまだ無い。しかし、いつも通りに仕事はこなしてくれる。メイドの鑑だ。なので僕もいつも通り自室で仕事をしていた。
すると、扉をノックする音が聞こえた。愛梨沙だろう。
「入りたまえ」
「失礼します」
いつもの愛梨沙の声がした……が、その愛梨沙はいつもの格好ではなかった。メイド服ではなく私服。うんうん、それも可愛い……ではなく。手にはキャリーケースを引っ提げていた。
「愛梨沙……どうし……」
「大和様、今までお世話になりました」
僕の言葉に食い気味に被せたかと思うと愛梨沙は紙を手渡した。そこには「辞表」と書かれていた。
「消毒はきちんと済ませてあります」
こんな時まで愛梨沙は愛梨沙で。僕を気遣ってくれて……。
なんで? なんてわかってる。きっと告白のせいだ。嫌……だったのだろう。それはそうか。気持ち悪いと思う。こんな奴に仕事以外で関わりたくはないだろう。
だからせめて笑って送り出そう。
「愛梨沙、ありがとう。よく尽くしてくれた。これからは好きな人生を歩んでくれ」
僕がそう言うと、愛梨沙は体を震わせて泣き出した。
「愛梨沙……!?」
僕はびっくりして立ち上がる。
「お部屋を汚して……申し訳ありません……」
それは愛梨沙の頬から伝う涙の事を言っているのだろう。いや、そんな事はどうでもいい!
「愛梨沙……どうして泣いているんだい? 僕に告白された事なんて忘れていいのだよ? 悪かったね、嫌な思いをさせて……」
「違う……違うんです……」
愛梨沙は涙を拭いながら言う。
「嬉しかったんです……とても……とても……。私だって大和様の事をお慕いしております……」
「え……」
嬉しい? なら……。
「どうして出ていくなんて……」
「私は……汚い人間なんです」
愛梨沙はぽつりぽつりと語り出す。
「私は、お金も愛も無い家庭に生まれました。学校を卒業したらすぐ体を売って働き始めて……」
僕は愛梨沙の吐露を黙って聞いた。
「それが私にできる事でした。それ以外の方法なんてわからなかった」
今まで話してくれなかった愛梨沙の事。
「お金は全部家に入れて。でもあの雨の日、家族に突然住居を追い出されました」
だから傘も差さずに……。
「途方に暮れて。なんで私って生きてるんだろうって。もう死のうかと思いました。でも……そんな時にあなたが現れた」
愛梨沙は泣きながら笑顔を向けた。
「正直あの時は体目当てだと思っていました。なのにあなたは一切手を出さない。理由は後でわかったんですけど」
潔癖症だからね。
「……あなたは、私にたくさんのものをくれました。でも……これ以上は駄目なんです」
「何故?」
愛梨沙の瞳からは止めどなく涙が溢れる。
「だって私は汚れているから。大和様に相応しくないから。だからっ……だから……」
僕は静かに手袋を外して愛梨沙に近寄る。そしてその手を取った。
「大和……様……?」
愛梨沙は唖然としていた。それはそうだろう。潔癖症が他人の手を握るだなんて。でも、僕は愛梨沙に伝えたかった。
「愛梨沙は、世界で一番綺麗だ。この僕が保証する」
「大和さっ……」
愛梨沙はまた泣き始めた。
「ずっと一緒にいてくれ」
「はいっ……!」
僕は泣いている愛梨沙の顔に寄り、愛梨沙もそれに気づき、僕達は唇を重ねた。
「知っていますか? 口の中って人体で一番汚いところらしいですよ」
「それを今言うかね」
僕達は笑いあった。
愛梨沙の笑顔。僕はそれをずっと守ると誓うよ。




