41話 喰らい合い
サリューネと別れた俺は、ジェパルドの西にある荒れ果てた高原へと移動していた。
一昔前に、この場所では戦争があったらしく、戦った人間が身に着けていたと思われる鎧や縦の残骸が、風化せず景色に溶け込んでいる。
そんな場所に、一人の男が立っていた。
全身を黒いマントで覆い隠した人物。
街で暴れている魔族と同じ格好。そして、明らかに人のものとは違う雰囲気。まず間違いなく、幻影族の片割れだろう。
弟と全く同じ格好。
地味で特徴のない格好のくせに、どこか現実離れした気配の弟とは違い、必要以上の存在感があった。
「よう」
「よくここが分かりましたね」
「知り合いに魔族に詳しい人間がいてな。あんたの弟。まだ兄離れができない餓鬼らしいじゃねえか。となると、保護者であるあんたは近くにいるんじゃねえか、と考えたわけだ」
サリューネに詳しい話を聞いたところ、幻影族の弟は、体は不死身だが、兄とあまり離れて行動することができないという制約があるらしい。
「で、だ。近くにいるってことさえ分かれば、あとはこいつが匂いをかぎ当てるって寸法さ」
「ガウ!」
フェンリルが手柄を自慢するかのように誇らしげな鳴き声をあげている。
人の形に変身するとはいえ、元は犬……いや。狼か。まあ、どっちにしても人間よりもはるかに嗅覚が優れた存在だ。それを頼りに、弟と似たような匂いを発する奴が近くにいないか探らせてみたところ、あっさりと見つかったわけだ。
「なるほど。それで? あなたは何をしにここまで来たのですか?」
「それ、説明する必要、あんのか?」
この場に来たことが既に答えだ。
「弟の報告にあった、狼型の魔族を従えた男、というのはあなたのことでしたか。なるほど。天剣の勇者と同じくらい厄介だと判断した弟の判断は間違いではなかったようですね」
どうやらこいつらの中での俺の評価は、エイジと同程度ということらしい。
こんな奴の評価が高くても、全然うれしくない。どうせなら、美女に好かれたかった。
「それで? どうするのですか? 見たところ、他に誰も連れてきていないようですが。その狼だけで、私をどうにかすると?」
「何、勘違いしてんだ? それなら、わざわざ俺がこんな場所まで来る必要ねえだろ。お前は、俺が一人でやるに決まってんだろうが」
「あなたが?」
顔は見えないが、声だけで、僅かに驚いていることが伝わってくる。いや、馬鹿にしているのか?
「あなたのその両の拳はもう使い物にならない。いや、その手ではもう、武器を使うことさえままならないでしょう。片目は塞がり、残った目も頭から流れる血の所為で、ほとんど前が見えていない。見ただけでは分からないが、おそらく体も無事ではないのでしょう。見るも無残な有様……いえ、ゴーレム族と正面から殴り合って、この程度で済んでいるだけでも、賞賛に値する、と言った方が良いでしょう」
軽く見ただけで俺の状態は、ほぼ正確に言い当てられた。
「ですが。そんな状態のあなたに何ができるというのですか?」
そんな改まって、何ができるかと聞かれてもな。
「色々とできるっての。まだ足は動くし、痛みさえ我慢すりゃ口も動かせる。その気になりゃ、お前を咬み殺すくらいのことはできんだよ。それだけできれば、戦うには十分だろ?」
「……」
フードをしているため顔は見えないが、俺を侮蔑しているか、馬鹿にしている、といったところだろう。
「少し分かりづらかったか? なら分かり易く言ってやる。今の俺は、両手をまともに使うことができず、目もほとんど見えない。体中あちこち怪我だらけだし、何箇所か骨折もしてる」
自分の体の状態なんてものは、相手に言われるまでもなく俺自身が一番良く分かっている。
「そんな状態でもなぁ、お前如きを相手にするくらいなら俺一人で全く問題ねえって見下してんだよ!」
顔の表情を変えるだけでも痛みが走る。だが、その程度の痛みでは抑えきれないくらいの衝動が湧き上がってきていた。
「御託はいいからよぉ。とっととやろうぜ。こっちは久しぶりの獲物を前にして、もう限界なんだよ」
目の前にいる魔族は口調は丁寧で物腰も柔らかい。パッと見だと、紳士のようにも見える。だが、そんなもの、全てまやかしに過ぎない。
対峙しているだけで、ひしひしと伝わってくる強烈で濃厚な殺気。
口では俺に引いてもらおうとしているように聞こえるかもしれないが、実際は俺が引くなんて考えていないし、もし引いたとしても逃す気なんてさらさらない。迷わず背後から殺そうとしてくるだろう。それが分かるほどのあからさまで真っ直ぐな殺意。
たった二人でこんな巨大な都市に喧嘩を売るような連中。……いや。この都市を攻撃するということは、周囲にある五カ国。そしてその五カ国と敵対するということは人間族を相手にするということ。そんな大それたことをやろうとしているとんでもない連中だ。
つまりそれは――これ以上ないほど喰い出のある獲物だということだ。
そんな極上の獲物を前にして、こみ上げてくる衝動を抑えることができそうにない。もう限界だ。
「味あわせてくれよ。てめえのその狂おしいばかりに発しているそれを。人には出すことのできない、芳醇で極上な魔族の殺意って奴をなぁ!」
行動を起こしたのは、ほぼ同時だった。
俺が突進するのと同時に、魔族のの両手から二本のナイフが放たれた。
かわしながら一気に距離を詰めようと試みる。が――
「――あぶねっ」
かわした場所に飛来してきた物体を辛うじて手甲で受けることができた。
地面に長さ十センチほどの鉄製の針が突き刺さっている。
飛針か。
「ふっ」
「――ちっ」
その後も、飛来してくる投げナイフと飛針の連携を、転がっている岩や木を利用して避わし続ける。だが、かわすことで精一杯。しかも、毒が塗ってある可能性があるため、ダメージを受けることを覚悟で近づくこともできない。
投げナイフに飛針。しかも飛針の方は出所がまるで見えないときたものだ。
なかなか厄介な連携だった。
「凄まじい反射神経ですね」
「まあな」
本当は反射神経とはちょっと違うけど。わざわざ説明するのも面倒なので肯定しておく。
にしても、正面から強引に攻め込むのはちょっと面倒くさそうだ。
仕方ない。攻め方を変えるか。
視線を魔族から外し、素早く周囲に這わせる。と、ちょうど都合よく、足元に使えそうな小道具が転がっていた。
「おらぁっ!」
気合と共に地面を全力で蹴り付ける。
激しい土ぼこりが舞いあがる。
これで俺の姿を覆い隠したはず。
「ふっ――」
にも関わらず、短い掛け声とともに、ナイフと飛針が正確に俺めがけて飛来してきた。
今度は一切回避行動を取らず、魔族に向かって正面から最短距離で突っ込んだ。
ナイフと飛針が金属音をあげて弾かれる。俺が持っていた岩に、だ。
地面を蹴りつけたのは、土ぼこりをあげるためでなく、この岩を掘り出すためだ。それを盾にしながら突進していたのだ。
土ぼこりを突破し、魔族が立っていた場所に到着する。が、その場所には既に魔族の姿はなかった。まあ、この場にいないことは予想済みだが。
「ぶっ飛べや!」
持っていた岩を軽く宙に放り、そこに渾身の力を込めた蹴りを叩き込んだ。
砕け散った無数の岩石がそのまま、移動した魔族に飛来する。
「……ふん」
鼻で笑いながら、無数の石つぶてを軽々と避わされてしまった。
「今のも駄目かよ」
「残念でしたね。今の攻め方は悪くはありませんでしたよ。ですが、運の悪いことに、私は貴様のような単細胞を相手にするのが最も得意なんですよ」
言いながらナイフを構える。
周りにはもうナイフを防げるような障害物などなく、距離も二十メートルは離れてしまっている。
どうやらチェックメイトのつもりらしい。
「なるほどな。そいつはまた本当に残念な話だ」
言いながら両手をあげて降参のポーズを取る。
「――お前にとって、だけどな」
口元を吊り上げて笑う。
それが合図になった。
突然背後から現れた巨大な白い物体が魔族に襲い掛かっていた。
「なっ!?」
「俺はな、力押しするのは実は苦手分野なんだよ。一番得意なのは、テメェみたいに中途半端な知恵者気取って逃げ回る奴を相手にすることなんだわ」
聞こえてないだろうが、一応宣言しておく。
俺は岩石を投げると同時に、その影に隠れるようにして、子犬化したフェンリルも投げておいたのだ。
距離を取ることに長けた奴は、敵に接近された際には恐ろしく脆いものだ。加えて襲い掛かっているのは狼バージョンのフェンリルだ。
大分物足りないけど、決着がついちまったかもな。
「舐めるなあっ!」
「お~。やるじゃん」
予想に反して。だが、期待していた通りに、フェンリルを跳ね除けてみせる魔族。
巨大化したフェンリルに眼前まで迫られていたというのに、あれを跳ね飛ばしたようだ。
どうやら身に着けていたマントに、何かしらの魔力付加がされていたらしい。不自然なほど吹き飛ばされたフェンリルは、子犬バージョンになって俺のすぐ隣に着地していた。
「キサマァ!」
「何、怒ってんだよ。言っておくけど、別に嘘はついてねえぞ? 俺は一人で相手にするって言ったけどな。こいつ、俺の武器だし。ようは剣みたいなもんだ。剣を投げたからって文句を言われる筋合いはねえよ。なあ?」
「ワン!」
俺の言葉を肯定するように、フェンリルが一鳴きする。その前足には、魔族が着込んでいたマントが引っかかっている。吹き飛ばされる際に奪い取ってきたらしい。
魔族は、それまで全身を包んでいたマントをフェンリルに剥がされ、初めて素顔を晒していた。
「へぇ」
その素顔を見て、思わず感嘆の声が洩れる。
魔族はなんとも言えない異形の風体だった。
三本の腕に三つの目。
マントの下に隠されていた三本目の腕。あれが出所の分からなかった飛針の正体か。なるほど。分からないわけだ。
「醜悪な顔だ。なるほどな。そんなんじゃ、隠したくもなるわな。なあ?」
「ワン!」
とりあえず、フェンリルと一緒に感想を一言。
「殺す!」
物騒な言葉と共に、三本の腕でナイフと飛針を投げつけてくる。
「無駄だっての」
俺は飛来するナイフの片方の柄の部分を空中で軽く掴み、そのまま後ろから飛来してくるもう一本のナイフと飛針を軽く打ち落として見せた。
「なっ!?」
「人間にはさ。逆境で強さを発揮する奴ってのは、実はあんまりいないんだよ。絶対的な自信を持って、相手を見下した状態じゃないと力を発揮できない。そんな連中ばかりなのさ。あんたもそうじゃないかと思ったから、わざと苦戦してるフリしてたんだよ。じゃなきゃ、こんなおっせえ攻撃で、俺が追い詰められるわけがねえだろうが」
驚いている魔族に、ゆっくりと説明してやる。
正直、期待はずれもいいところだった。
速度は元々大したことはなく、出所が見えないからこそ意味があった飛針を、こうしてタネが明かされた後に使っても、当たるわけがない。
「大体なぁ。武器の使い方が全然なってねぇ。飛び道具を使うなら、せめてこのくらいはやってくれねえとな!」
言いながら、手にしたナイフを魔族に向けて全力で投げつけた。
高速で飛来したナイフは、魔族に回避する暇を与えず、三本ある腕の一つに突き刺さり――そのまま、衝撃で腕を胴から引き千切った。
「がああああああああああ!」
魔族の口から絶叫があがる。
「き、さまあああああああ!」
「何怒ってんだよ。わざわざ腕を二本にしてやったんだぜ? 本来なら莫大な手術費がかかるであろうところを、親切心からタダでやってやったんだ。怒る理由が分かんねえよ。これで大手を振って、街中を歩けるじゃねえか」
相手をさらに挑発するように、へらへらと笑いながら、そう指摘してやる。
「……ああ。そう言えば、まだ目が三つあるって欠点があったか。ま、そっちの方をどうにかしたところで、女にモテるようにはならねえだろうけどな。そのままだと見てるこっちが気分悪くなることだし。ついでに抉り取ってやるよ」
言いながらゆっくりと足を魔族の方へと進める。
「っ!」
魔族は投げナイフと飛針を俺の足元に投げつけて牽制しながら、後ろに向けて大きく跳躍した。
距離にして50メートルほどだろうか。
そこは、ある意味完璧な場所だった。
近くに遮蔽物がなく、俺が小細工に使えるような物は何もない。それでいて、俺が接近するまでに、呪文の詠唱を終えるのに十分な距離。
完璧なまでに……俺の予想通りの場所だった。
「ビンゴだ」
魔族が予想通りの場所に着地したことを確認し、思わずそうつぶやいていた。
さきほどの攻防。ナイフをかわしながら接近し、岩石を目くらましにして、フェンリルを仕掛ける。そこまでがフェイクだ。
この魔族は体術とナイフの腕はまずまずだが、それだけでは決定力にかけている。だからと言って、接近戦を仕掛けてくる様子もない。確かに強いと言えば強いのだが、明らかに実力不足だった。
何せ相手は、ジェパルドという街そのものを、たった二人で壊滅させようというのだ。大量破壊兵器の一つや二つ、持っていて当然のはず。
だが、そういった武器は兄弟のどちらも持っていなかった。
ならば、どうするのか、と考えた結果、結論として思い浮かんだのが、魔法だ。
魔法という現象は使用するにあたって、詠唱を欠かすことができない。それは一般の魔法だけでなく、特異である召喚魔法でも同じことが言える。そのことを俺はサリューネから聞いていた。
つまり、もしも敵と一対一で戦闘を行う場合、魔法を使うにはある程度距離が必要だということだ。
そんなわけなので、ある程度追い詰めるか、逆上させてやりさえすれば、距離を取って本命である魔法を使おうとすると考えたわけだ。
そして、その通りに動いた。
フェンリルに気を取られている隙に、俺がトラップを仕掛けておいたその場所に。
「なっ!?」
魔族が驚愕の声をあげている。
着地したその場所には、一本のナイフが突き刺さっていた。
先ほど、試合場で俺を生き埋めにした、あのナイフだ。それをどさくさに紛れてきっちりと回収しておいたのだ。
ここに来る前に軽く特性を確かめてみたところ、あれにエンチャントされている魔法は、ナイフが地面に刺さった際に発動するというものではなく、ナイフを地面に突き刺した状態で近くに生物がいると発動する、といったものだということは分かっていた。
今、魔族が立っている場所は、完璧にその効果の発動範囲内だ。
「おおおおおおおおお!?」
魔族が着地した瞬間、魔法が発動する。
周囲の地面が盛り上がって隙間なく壁を作り、頭上から巨大な岩石が降下してくる。
「言ったろ? 逃げ回る奴を相手にするのは得意だって」
今度は間違いなく聞こえてないであろう魔族に向かって、再度宣言しておいた。
数瞬後、地響きと共に巨大な岩でできた棺に完全に蓋がされた。
フェンリルに接近されたときに跳ね飛ばすことができたのは、マントがあったからだろう。だが、今はそんなものはなく、完全に無防備な状態だった。いくらなんでも、生身であの岩の棺から出てくることはできないだろう。
これで詰みか。
勝負は決したかもしれないが、まだ事態は収拾していない。
いくら天剣を持ってパワーアップしている詠二でも、不死の相手にそう長くは持たないだろう。
確実にトドメをさしておくか。
そう考え、岩の棺に向かい、足を進める。
――古より地の底に追いやられし暴食なる魔蟲ヴィングデルよ
――我が命に従い
「ん?」
――目の前にある全ての物を
直後、何か地面の下から、何かが這い上がってくる振動を足が感知する。
「これは……やばそうだ。ちょっと逃げるぞ。フェンリル」
「ワン!」
――喰らい尽くせ
それが地面から這い出してきたのは、俺達が大きく飛び退いた直後のことだった。
例えるなら体長50センチの巨大な芋虫。ただでさえ生理的嫌悪を覚える外見だったが、本当の特徴は別にあった。
それは口だ。
目というものが存在せず、代わりに恐ろしく鋭い牙のついた凶悪な口のある芋虫だ。
そんなおぞましい生物が、何百、何千という群れを成して、地面から這い出して来た。
「遥か昔、国を一晩で喰らい尽くしたと言われる伝説の魔神ヴィングデル」
蟲によってできた巨大な洞穴から、閉じ込めたはずの魔族が姿を現した。
「知性を持たず、食欲のみに支配された禁断の魔蟲だ。こいつらを相手に、貴様の小賢しい策など、張り巡らせる余地などないと知れ!」
木も、岩も、打ち捨てられていた馬車の残骸も、折れた鉄製の剣や槍すらも、進行方向にあるものは全て喰らい尽くしながら突き進んでくる。
対象を喰らうことに特化した圧倒的な殺意の塊。
「……面白くなってきやがった」
終わりかと思ったところで、もう一幕あるとは。中々、楽しませてくれるじゃねえか。
口元に笑みを浮かべながら、異形の蟲共に向けて拳を構えた。
「主様」
が、俺の取ろうとしていた行動を静止するかのように、隣から声がかけられた。
見ると、人間の子供バージョンになったフェンリルが、真剣な顔でこちらを見ていた。
「邪魔するんじゃねえよ。大人しく犬になってろよ」
「流石に黙って見ていられませんよ」
「なんだ? 俺が負けるとでも思っているのか?」
「そういうわけではありません。ただ、こうしている間にも、命の危険にさらされている人たちがいることを忘れないで欲しいだけです」
「……」
フェンリルに言われて、今現在も魔族による被害に遭っている連中がいたことを思い出した。
どうやら、あまりにも魅力的な存在が目の前に現れた所為で、ちょっとばかり熱くなり過ぎていたらしい。ペットに諭されるとは、屈辱もいいところだったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
冷静になった頭で、改めてこちらに向かってきている蟲の大群を確認する。
数が多い。多すぎる。
狙いが俺だけにしては大袈裟すぎるその数を見て、その本来の用途を理解した。
魔族の狙いは俺だけではなく、俺の背後にある物。つまり、ジェパルドという街全体なのだろう。
街を覆っているあの召喚魔法は、日影を安全だと思わせることで、あの場所に住民を留めるためのもの。そして、本命のこいつが隠れている住民を根こそぎ喰らい尽くす。
俺一人なら、なんとか対処できなくもない。だが、今この場で俺がこいつを止めなければ、街にいる人間は建物ごと全てが喰われ尽くされるだろう。
魔族が現れたという事実そのものすらも喰らい尽くされる。冗談抜きで、ジェパルドという大都市が壊滅する危機を迎えていた。
「……仕方ないな。俺も奥の手――っつうか、反則技使わせてもらうわ。先にやったのはお前なんだから、文句は言うなよ?」
聞こえているかは分からないが、一応魔族に向かってそう宣言してから、フェンリルに視線を送る。
視線の意味を理解したフェンリルは、すぐにまた小さな子犬の姿に戻った。
「魅せてやるよ。味あわせてやるよ。喰らわせてやるよ。何よりも貪欲で、強欲な殺意を! 全てを喰らい尽くしても満たされることのない、俺の顎門って奴をなあ!」
全てを喰らい尽くす大量の魔蟲が目前に迫る中、俺はその場に留まり、前を見据えたままとある言葉を口ずさみ始めた。
――古より次元の狭間に漂いし最強の神狼フェンリルよ
――我が命に従いこの世に存在する全ての存在を
この世界に来て最初の日。ヴァドルの東にある森にて召喚の儀を行った際、頭の中に浮かんだ呪文だ。
詠唱は途中で止めたが、変化はその段階ですでに起き始めていた。
詠唱を始めた直後から、それに呼応するようにフェンリルが巨大な遠吠えを始めていた。
とてもその小さな体から発しているものとは思えないほどの巨獣の咆哮。まるで、フェンリルではない巨大な『何か』が雄叫びをあげているかのような叫び声。が、その錯覚もすぐに消えうせる。錯覚ではなくなり始める。
遠吠えを始めた直後から、フェンリルの周りの地面から黒い霧が染み出してきていた。その漆黒の霧が純白の体毛に纏わりつき、膨れ上がり、そして、実体化する。
やがて、その場所には巨大な漆黒の狼が現れた。
街すら一呑みできそうなほど巨大な口を持つ体躯に、血のように赤く輝く瞳。
この姿こそが俺の召喚した武器。『魔神フェンリル』の本当の姿だ。
「ウオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
大地を揺るがすような巨大な遠吠えをあげ、ヴァドルにある山を喰いつくし、一瞬にしてこの世から消滅させたその凶悪な顎門が魔蟲と、その後ろに立つ魔族に向けられる。
対峙しただけで十分に伝わるはずだ。こいつが霧でできた幻なんかではなく、実際この場に存在する正真正銘の化け物だということが。
「あ、あ……う、あ、あ、あ……」
ついさきほどまで、怒りの形相で俺を睨みつけていた魔族が、フェンリルを見上げながら、口を大きく広げ、声にならない悲鳴を漏らしている。
魔族だけじゃない。
知性を持たず、食欲しかないはずの魔蟲の群れすらも、突然現れた規格外の化物を前にして、その動きを止め、恐怖に体を震え上がらせていた。
「さて、と。お互い、手札は全て出しつくしたことだし、最終戦へと洒落込もうじゃねえの」
相手の反応は見えない振りをして、ただ目の前にいる敵に向かって語りかけた。
「こっから先は駆け引きも何もねえ。ただ純粋な殺し合いだ。勝てば生き残るし、負ければ死ぬ。今更止めに入る奴もいねえ。遠慮はいらねえぞ。お互い本能の赴くまま存分に――」
「ま、待て! 待ってくれっ!!!」
「喰らい合おうじゃねえか」
魔族が恐怖に引きつった顔で必死に静止の声をあげていた気がするが、もう遅い。
口の端を吊り上げた笑みを浮かべながら、止めていた呪文の詠唱の最後の一文を唱え上げる。
――喰らい尽くせ
直後、その場にいた魔族は、自分の召喚した化け物もろとも、この世界からその姿を消失させた。
詠二視点
ジェパルドに住む人々は、自分達の真上で行われる戦いを、日影に隠れ、ただ見守ることしかできずにいた。
戦う力がない、という理由ではない。力があったとしても、誰も二人の動きにはついていけなかったのだ。
ナイフを投げては、空高く舞い上がり続け、攻撃をかわしては逃げ続ける魔族。天剣を持つことで超人的な脚力を見に付けていた詠二がそれを追って、空を舞う。
魔族はなんらかの魔力付加がかかった装備品を身につけているらしく、行動が制限されるはずの空中で、何度もその軌道を変化させていた。
対する詠二は、直線的に飛びあがり、すれ違いざまに斬り付ける、といった動きで対応していた。
空中で不規則に移動し続ける魔族の動きを見切ることなんて、常人ではまずできないだろう。だが、詠二はそれをやっていた。
ランダムに移動する空中での動きを読み、攻撃を加える。
魔族の方も、ただやられるがままになっているわけではなく、詠二に向けて短剣を投げつけてはいたが、全て弾かれ、または避けられており、その体に傷を負わせることはできずにいた。
今のところは、お互いダメージのない状態だったが、その戦闘を有利に進めているのは詠二の方だった。
魔族は常に飛び続けることができるわけではないらしく、定期的に地面に着地し、また飛び上がる必要があるらしい。
その魔族が着地する際、詠二はその場所に先回りし、再度飛び立たれる前に天剣による一太刀を見舞っている。
その行動は、回数を重ねるほど鋭く、正確になっている。まだ、致命傷を負わせることはできずにいたが、確実に魔族を追い詰めていた。
「はあああああああ!」
そしてとうとう、放たれる無数のナイフを避け、弾き、その剣が魔族の体を切り裂いた。
「――かはっ」
苦悶の声と共に、魔族の体がくの字に折れる。
十分な手応えを手に感じ、詠二は勝ちを確信した。が――
「なにっ!?」
もう動くことができず、死に体だと思っていた相手が、地面に倒れる直前、無数の投げナイフを詠二に向けて投げつけてきた。
とっさに天剣で叩き落としたが、全てを防ぐことができなかった。
「く――」
一本のナイフが天剣を避け、詠二の左腕に突き刺さった。
突き刺された腕から伝わる激しい痛みに、詠二はその場に膝をついた。
「これが噂に聞く天剣だと? くはははは。我ら魔族を駆逐した天剣も、貴様如き若造が手にすると、とんだなまくらに変わるものだな」
詠二が痛みを堪え体勢を立て直した頃には、魔族は嘲笑うかのように、また空へと飛び上がっていた。
詠二はパニックに陥りそうになる頭を、必死に押さえつけ、冷静になるよう努めた。
「(手応えは確かにあった。剣は間違いなく、魔族の体を切り裂いたはずだ。……効いていないわけじゃないはずだ)」
冷静に状況を分析し、ただ、斬れたところがすぐに再生しているだけだ、という予想を立てた。
「(斬っても再生するというのなら、再生する暇を与えず、存在そのものを消滅させるまでだ!)」
仮説を立て、それが真実だと思い込む詠二。
だが、今の詠二は自分で思うほど、冷静ではなかった。本当に冷静であれば、目の前にいる存在がただのフェイクだという可能性に気付いたはず。だが、すぐにでも魔族を仕留めたいと思う気持ちが、詠二の余裕を完全に消し去ってしまっていた。
すぐさま、自分の立てた仮説に対処するための方法を実行に移してしまった。それが完全に間違った選択だということに気付かずに。
「光よ!」
詠二が吼えると、天剣はその意思を汲み取り、その形状を変化させ始めた。
光を発するのではなく、周囲から光を集める。やがてそれは実体化し、人一人を丸ごと飲み込みかねないほどの巨大な一つの剣へとその姿を変えていた。
あまりに神々しく力強い光に、その場にいた人間は全員が詠二の姿に目を奪われていた。
そのため、『それ』に気付いたのは、詠二と正面から対峙していた魔族だけだった。
詠二がどれほど強力な力を使おうと、自分を殺すことは絶対にできない。それが分かっていた魔族の男は、天剣の勇者が最後のあがきをしようとするのを、内心笑いながら見下ろしていた。
が、詠二が光を集め、巨大な剣を作り出したその瞬間、魔族の目は、その天剣の向こう側に現れた『それ』の存在を捉えた。
「なっ!?」
魔族の顔が驚愕に顔が歪む。
その目に映ったのは、これからこの街の住民を喰らい尽くす蟲の群れが現れると思っていた方角。自分の兄が潜伏していると思われる場所。そんな場所に突如として現れた、街を飲み込みかねないほど巨大な漆黒の狼の姿を。
「ああああああああああああああああ!」
目の前で詠二が声を張り上げ、巨大な光の剣を自分に叩きつけようとしている。
そんな状況になっているというのに、それが魔族には全く見えていなかった。
その瞳に映るのは、巨大な狼が自分の目の前にいるであろう極小な何かを、その巨大な顎門で喰らい尽くしている光景だった。
巨大な光の剣が、自分の体に叩け付けられようとしている。それがぶつかる直前、ヘクターと名乗った魔族は、狼が襲いかかったのが、離れた場所にいる兄であるという事実を認識した。
――自分の命が尽きたことで。
「そんな! ばかなああああああああああ!」
断末魔の叫びと共に、魔族の姿は光の中に融けるようにして消え去った。