39話 詠二始動
詠二視点
「ツバキ!」
椿がリング状で巨大な岩石に押しつぶされる瞬間を、詠二は観客席から見ていた。
ただでさえ深手を負っていた上に、あんな巨大な岩石に押しつぶされては、いくら椿でも、あれで無事だとは思えなかった。
自分が控え室に近い出入り口にいたのなら、助けに入ることもできたかもしれない。そんな後悔の念が押し寄せてくる。すぐにでも友の助けに走りたい衝動に駆られる。が、それらを必死に抑えこんだ。詠二にはそれよりも先にやるべきことがあったからだ。
「貴様! どういうつもりだ!」
動揺し、悲鳴をあげる観客をかきわけ、詠二はその人物に剣の切っ先を向けた。
ヘクターと名乗るフードの男は、詠二に剣を差し向けられても、微動だにせず、ただ俯いている。
椿がナイフを投げつけられたというのに、すぐに動かなかったのは、自分が動くと信じていただめだと考えた。自分を信用し、この男の対処を任せてくれたのだと。
だからこそ、詠二は椿を救出に行かず、この男の元に足を進めた。
今、重要なのは、椿を信じ、これ以上、目の前の男に追撃をさせないことだった。
「地に伏せ、両手を頭の上に乗せろ。今すぐにだ」
油断無く剣を突きつけながら、ヘクターに命令する。
詠二の声が聞こえているのかいないのか、ヘクターは詠二の方を見向きもせず、項垂れるように首をもたげ、蹲っている。
剣を持つ詠二の手に力が篭もる。
「聞こえているんだろ!」
――古より太陽に嫌われし闇の魔女バルゼドルよ
――我が命に応じ、その憎き陽の光を
俯きながら僅かに発していたヘクターの声を詠二の耳はとらえた。
「――っ!」
漂流者である詠二は、ヘクターのつぶやきが呪文の詠唱だと気付くのが遅くなってしまった。そして、気付いてから斬りかかるのは、あまりにも時間がかかりすぎていた。
――喰らい尽くせ
ヘクターの詠唱が終わる。
その瞬間、霧が生まれた。
天を覆いつくす血のように赤く濃い霧。
その禍々しい霧が広がっていく様を、そこにいる全員が、ただ眺めることしかできずにいた。
霧はその広さを増していき、ついには太陽の光を覆いつくしてしまった。
街全体が赤一色に染め上げられる。
「なにが……」
詠二が声を発した瞬間、太陽を覆いつくしていた赤いカーテンに、この世のものとは思えない禍々しい女の顔が浮かびあがり、醜悪な笑みを浮かべた。
街中から悲鳴があがる。
直後、変化が起きた。
赤い光に照らされ、できていた人の影が起き上がり、人々に襲い掛かり始めた。
「……影の魔物?」
目の前で起きた現象。そして、突然現れた化け物に気を取られ、剣の切っ先を一番注意しなくてはいけない男から外してしまっていた。
「っ!?」
正気に戻り、振り返った詠二の目に、飛び去るヘクターの後姿が映る。
「――しまった」
すぐに後を追おうとする。だが――
「く……はっ」
影の魔物に背後から首を絞められていた観客の姿が目に映った。
「このっ!」
とっさに剣の向きを変え、魔物に斬りかかる。
エイジの一振りで、影の魔物の体はあっさりと分断され、その姿は消滅した。
「もろい。これなら――」
わずかに見えた救い。が、それは瞬時に失われることになる。
今、助けた観客の影から、もう新しい魔物が生まれ始めていた。
影の魔物は観客の数だけ存在している。何匹切っても、すぐに別の魔物が現れる。影から生まれるそれらの魔物は、人の数だけ存在する。それは、とても対処できる数ではなかった。
「こんなの、どうしようもないじゃないか……」
自分が一人助ける間に、他の何百人という人間が襲われる。そのあまりの絶望感に、思考が止まりかけた。
そんな時、詠二の目の前を巨大な白い影が通り過ぎた。
一瞬、新手の敵かと思い身構える。が、すぐにそれが間違いであることに気付いた。
影が走るたびに、その進路上にいた魔物が次々に消滅していく。
その動きは、明らかに現れた魔物と敵対していた。
目を凝らして、その影の正体を確認する。
狼だ。
巨大な白い狼が、驚くべきスピードで走り続け、民衆を守るように影の魔物を蹴散らしていた。
「あれは……」
「エイジ様!」
観客席から聞こえてきた自分を呼ぶ声で、我に返った詠二。素早く、声のした人物に顔を向ける。
「エリス!」
素早くエリスの姿を見つけた詠二は、彼女が無事であることを確認し、すぐに質問を口にする。
「なんなんだ、これは!?」
「おそらく召喚魔法です」
それは人間の使うそれとは明らかに別物で、魔族の使う魔法。
別世界に住む凶悪な魔物と契約し、呪文によりその禍々しい生物をこの世界に呼び出す、といった忌まわしい魔法だ、と短く説明するエリス。
「どうすればいい!?」
詳しい説明は省き、今はただ対処法だけを聞く。
「この魔法を破るには、術者を倒す必要があります! エイジ様は私達に気を取られずに、早く術者を――」
「エリス! 後ろだ!」
「えっ?」
話に夢中になっていたエリスは、自分の影から生まれた魔物の存在に全く気付いていなかった。
すぐに駆け寄ろうとしたが、距離が遠い。
「(――間に合わない!)」
絶望が詠二の脳裏を過ぎる。
「そんな醜いツラで、女を迫ってんじゃねえよ」
声と共に巨大な岩石が飛来し、エリスの背後にいた影を押しつぶした。
いきなりのことで、地面にへたり込んでしまうエリスだが、なんとか無事な様子だ。
「自分の彼女くらい、ちゃんと守れよな」
「ツバキ!?」
そこには、巨大な岩に押しつぶされたと思っていたはずの友人の姿があった。
ゆったりとした足取りで、エリスの元へと歩いてくる椿。
「ったく。このくらいのことで、テンパってんじゃねえよ」
「ツバキ! 後ろ!」
「言われなくても分かってるっての」
エリスの時と同様、突然影の魔物は背後から現れ、巨大な腕を振りかぶり、椿に向かって振り下ろした。
その腕が接触する瞬間、椿の姿が消える。
直後、首をねじ切られた影の魔物が、塵になってその姿を消失させた。
「その様子だと、大丈夫みたいだね」
「いっつぅ……。全然大丈夫なんかじゃねえっての。見て分かんねえのか?」
魔物の首を放りながら、苦痛に顔を歪ませている。
岩の壁に挟まれたダメージはほとんどないみたいだが、ゴーレム族と素手で殴りあった所為で、顔と両手に、見るからに深刻そうな怪我を負っている。喋るだけでもつらそうだ。
手を見ると、試合が終わった直後よりも、明らかに怪我が悪化していた。どうやら、素手で岩の囲いを破壊してきたらしい。
それでも、今の動きを見る限り、そこいら中に徘徊している影の魔物程度なら、余裕で対処できるであろうことは簡単に予想できた。
「今の動きを試合でもやってれば、そんな状態にはならなかったと思うけど」
「男にはな。たとえ痛みを伴ったとしても、意地をはらなきゃならねえ時があるんだよ」
格好いい台詞を口にしているものの、その顔には、やらなければ良かったという後悔がありありと浮かんでいたことが、格好良さを半減させていた。
本来の椿なら、そんな表情を人前で晒すようなことはないのだが、どうやら今は、あまりのダメージに表情を隠す余裕すらないらしい。
「できれば、その辺のことをもうちょっと聞きたいところだけど。今はそんな状況じゃないから」
「みたいだな」
軽く話をしている間に、影の魔物が周囲に集まり、いつの間にか取り囲まれてしまっていた。
「エリス。立てるか?」
「え、ええ……」
椿に促され、ゆっくりと立ち上がるエリス。
エリスの無事を確認した椿と詠二は、間にエリスを挟むようにして互いに背を預け、目の前の魔物に剣と拳をそれぞれ構える。
予選と同じように、背中を預け合う二人。エリスがいることで少し状況は違ったが、あの時と同様に、詠二の顔に自信が戻ってきた。
だが、詠二が自信を取り戻したところで、状況が改善されたわけでもなかった。
今は詠二の周囲に魔物が密集してきているが、他の場所にも魔物は大勢いて、それら全部が一般市民に襲い掛かっているのだ。
「エイジ。一つ気付いたんだけどな」
「何?」
「この騒ぎが起こった直後、俺の影からは魔物は生まれてこなかった。これがどういうことか、分かるか?」
背中越しに聞いてきた椿の問いに、詠二は油断なく構えながら、素早く思考する。
赤い霧が出た直後、椿の影から魔物は出なかった。椿はあの時、岩に押しつぶされていて、完全な闇の中にいた。つまり、影がなかったということだ。
「たぶん、太陽の光をあの赤い霧を通して浴びて、それでできた人間の影から生まれるんじゃないのか?」
豪快。粗野。短絡的。
他人が椿に抱く印象は大体そんなものだ。だが、実際は違う。それどころか全くの逆だ。
どこまでも冷静で冷徹な智略家。それがこの男の本性だということを詠二は理解していた。
だからこそ、椿の言葉は疑わずに受け入れた。
「それが分かったところで今更どうしようもないじゃないの!」
話を聞いていたエリスが叫ぶ。
一度生まれた魔物は、日陰に入ったところで消滅なんてしない。
わざわざ日陰に入ってから魔物を倒す、なんて真似ができるような余裕なんて、自分達はともかく、民衆にあるわけがなかった。
「あの霧は、俺達の頭上から動かない。つまり、光は一方向からしか来ないってわけだ。なら、別の方向から強い光を当てて、影を消すことはできないのか? そうすりゃ少なくとも、日陰にいなくても新しい魔物は生まれなくなる」
「別の光?」
「そ。別の光を発する物体。持ってるだろ?」
言いながら、意味あり気な視線を詠二に送る椿。
「そうか!」「あっ!」
言われて、詠二とエリスは同時に声をあげた。というより、自分達がいかに余裕をなくしているのかを気付かされた。
今はもう、闘技大会の試合中ではない。つまり、何の制約もないということ。指定された剣を使わなければならないという制約なんて、とっくになくなっていたことに。
「エイジ様!」
「ああ!」
持っていた剣を捨て、手を高く掲げながら声を上げる。
「光よ!」
すると、何もなかったはず詠二の右手には、光り輝く剣が握られていた。
瞬間、辺りに眩い光が広がっていく。
椿の予想通り、新たに生まれた光からは影の魔物は出てこなかった。それだけではなく、その光にあたった影の魔物はみるみる消滅していく。
「全員、今のうちに日影に隠れろ!」
現存する魔物まで消えたことは、うれしい誤算だった。
天剣の光が届いた闘技場内の魔物は消滅したようだが、それ以外の場所――街の方では未だに魔物が暴れ回っている気配がする。
「魔族は僕が倒す! 戦える者は協力して街の魔物を倒して欲しい!」
武器を持って魔物と敵対していた兵士達に呼びかけ、短く指示をする詠二。
「はっ!」
命令された戦士達は、まるで初めから詠二の私兵であったかのように従順な態度を取っている。
「エイジ様。お気をつけて」
「ああ。エリスも。無理はしないで」
「はい」
短く言葉を交わす。今はあまり時間がないため、それしか言えなかった。
「エイジ」
「何?」
「俺はしばらく動けそうにないからな。援護は期待するなよ」
「分かった。任せて!」
力強く応えると、すぐに魔族に向かう詠二。
「大分、勇者らしくなったじゃねえの」
駆け抜けていく詠二の背中を、腫れ上がった顔で無理矢理笑みを作りながら見送る椿だった。