36話 衝撃の事実?
ツバキ 視点
「主様! 流石でした!」
闘技大会の予選を終え、詠二と別れて控室に戻ったところで、すかさず勝利を祝う声がかけられる。
「ったり前だろうが。このくらい余裕だっての」
飛びついてきたフェンリルの頭を鷲掴みにしながら軽く応えてやる。実際、詠二の援護があったおかげで、予選を終えたにも関わらず、かなりの余裕が残っていた。
「お疲れ様です。ツバキさん。それと……予選突破、おめでとうございます」
フェンリルの後ろから、一緒に応援していたサリューネも姿を見せた。
「サンキュ。サリューネの応援のおかげで、ぎりぎり何とか勝てたよ」
「……全然、ぎりぎりには見えなかったんですけど」
「もし余裕に見えたっていうなら、それは愛の力だ」
正面からサリューネの顔を見据え、真顔でそんなことを言ってみる。
「……そうですか」
反応が薄い。流石に、このネタは使いすぎたか。
「そんなことより、今は暇か? よかったら勝利を祝って、これから二人で食事でもどうだ?」
「え? え? ええっ!?」
二人、という単語に過敏に反応し、驚きの声をあげているフェンリルのことは当然無視。
「すみません。私、今から少し、用事があるもので……」
サリューネは申し訳なさそうに俺の誘いを断ると、そのまま再会の約束をすることもなく、足早にその場から立ち去ってしまった。
顔を合わせてから別れ際まで、終始素っ気ない態度のままだった。
「俺、なんか悪いことしたか?」
「数え切れないほど」
俺の問いに対して、すかさずそんな切り替えしをしてきたフェンリルの頭に、軽く拳を落とす。
「きゃいんっ!!!」
本性丸出しの悲鳴を上げてうずくまるフェンリルを見下ろしながら、ちょっとばかり真面目に考えてみた。
サリューネが俺に対して、素っ気無い態度を取るようになったのは、今回が初めてのことじゃない。むしろ、この街に来てからずっとあんな感じだった。
俺達は数日前にこのジェパルドに到着したのだが、それまでそれなりに友好的な態度で接していたというのに、街に入ったとたんに態度がよそよそしくなったのだ。
彼女はもともとジェパルドに用があり、そのために偶然同じ場所に向かおうとしていた俺と同行していただけ。立場的には、旅の安全を守る単なる傭兵のようなもの、といったものなのだが……実際はそんな単なる契約だけの関係だけでなく、友人と呼びあえるくらいには仲良くなったはずだった。(本当は恋人と呼びあえるくらいにしたかったのだが、残念ながらそこまで到達することはできなかった。無念だ)
が、この街に到着した瞬間、まるで今までの関係などなかったかのように、サリューネの態度が豹変したのだ。
冷たくなった、というか、ただ素っ気なくなったといった感じか。なんか、他の重要な件に思考を割いているため、俺なんかを相手にしている暇はない、といった態度だ。
「主様が予選を勝ち抜いたことも、あまりうれしそうじゃありませんでしたね」
殴られた頭をしきりにさすりながら、フェンリルがそんなことを口にしている。
「そだな」
俺の目から見てもその通りだったので、普通に肯定する。
彼女の性格上、そのことは手放しで喜んでくれると思っていただけに、ちょっとショックだった。
「……男の匂いしますね」
サリューネの消えた方向を見ながら、フェンリルが不吉な言葉をつぶやいた。
「……マジかよ」
男の匂い。それがどんな匂いかなんて知らないし、知りたいとも思わない。だが、サリューネからその匂いがしたということは……つまり、体に相手の匂いが染み付くような行為をしていた、と?
まだ陽が高いっていうのに? あの初心そうなサリューネが?
「いえ。実際にサリューネさんの体から別の男の匂いがするってわけじゃなくて、ただの僕の勘ですけど」
「てめぇが言うと紛らわしいんだよ!」
自分が犬だということを自覚してねえのか、この野郎は。
「まあ、主様が想像しているような行為に及ぶかどうかは別ですけどですね。たぶん、男に会うというのは間違ってないと思いますよ。さっきも、僕と会うまで、知らない男の人と一緒にいましたし」
それだけ言って、俺の顔色を窺うように見上げてくるフェンリル。
「ふ~ん」
それを聞いたからと言って、俺にどうしろと? 全力で阻止しろとでも言いたいのだろうか。
「いいんですか?」
「何がだ?」
「サリューネさんは主様が囲っていた情夫じゃないんですか? それを他の間男に取られてもいいんですか?」
「……どこでそんな言葉を覚えたんだよ」
予想外の単語が大量に使われたその問いに、思わず突っ込みを入れずにはいられなかった。
街に入ってからは例によってフェンリルを放し飼いをしているのだが、その間に、どこかからかそういった知識を仕入れたらしい。
俺は偏った知識を持ち始めた子供に、ちょっとばかり社会科のお勉強を教えてやることにした。
「フェンリル。いいか。よく覚えておけよ」
「はい?」
「良い女ってのはな、男を選ぶ権利ってのを持ってるもんなんだよ」
「男を選ぶ権利?」
「ああ。女は常に最善の男を選び続ける。そうすることで男を見る目を磨き続けるわけだ。で、男の方は女を取られたくないから必死で自分を磨く。男女ってのは、こうして互いに成長していくわけだ。だから、女を取られたからって一々相手の男に目くじらを立ててるようじゃ、そいつの器が知れるってもの。男の価値を下げるだけなんだよ」
「ほぇ~」
感心したように頷いているフェンリル。
そのまま適当にはぐらかして、これ以上、サリューネの件は追求してこないようにした。
「(しかしなんというか……やっぱ、美人には、男がついるんだよな~)」
旅の途中、それとなくサリューネにこの街に立ち寄ろうとしている理由を訊ねていたのだが、何度聞いてもはぐらかされていた。
何か、重要な用事があるようだったので、深く追求することはしなかったのだが、それがサリューネの冷たい態度や、今のフェンリルの話を聞く限り、男と逢うことだった、という可能性が高くなった。……一応、予想の範囲ないではあるが、やっぱりショックだった。
「……はぁ」
フェンリルに気付かれないように小さくため息をついた。
そんな軽くヘコミ気味な俺を追撃するかのようなタイミングで、前方から見覚えのある人物が歩いてきた。
金髪に修道服のような格好。体つきは未成熟だが、顔だけはサリューネ同様の美人。なおかつ既に男付きの女だった。
「っ!」
あっちの方も俺の存在に気付いたようだ。その端正な顔を露骨に顔を歪めている。どうやらこっちの美人さんは、俺に対してあまり良くない感情を持っているらしい。……相変わらず。
「おい。フェンリル」
「はい? なんですか?」
「お前、今から俺が何を言っても、絶対に喋るなよ?」
「はい!」
理不尽な命令に嬉々として返事をしているフェンリル。これは犬時代から続けてきた教育の賜物という奴だ。
「よう。久しぶりだな。エリス」
久しぶりに再会した修道服を着込んだ元王女様に、笑顔で挨拶する。
「その子は?」
挨拶を返してくれず、いきなり棘のある声で質問を叩きつけられてしまった。
まあ、無視する気はないようなので、とりあえず質問に答えておくか。
「俺の弟」
「!?」
驚愕の表情を顔に張り付かせるフェンリル。が、言いつけどおり、何も言ってはこなかった。これも教育の賜物だ。
「エージはどうした?」
いきなり質問されたお返しに、こちらからも一つ質問してみる。
「エイジ様なら、一人で出歩いているわ。たぶん、今行われている試合を見学しているんじゃないかしら」
次の対戦相手の下見といったところか。ご苦労なことだ
「……」
質問に答えると、それきり黙り込むエリス。
てっきり、最低限の会話で済まし、すぐにどこかに消えるものだと思っていたのだが、なぜか、その場から動く様子を見せず、質問に答えたままの場所で俯いているエリス。
別に俺が邪魔だから、どこかに行け、というような雰囲気ではない。俺の顔をちらちらと見ている。何か話をしようとしているが、どう切り出すか迷っているような感じだ。
「世間話をする気はないんだろ? 用件は?」
中々切り出して来ないので、こっちから話を振ってやることにした。
まだ少し迷っているようだったが、すぐに意を決したように、俺を睨みつけてきた。
「あなた。エイジ様との試合、負けなさい」
単刀直入だった。
「あのさぁ。もう少し、ひねろうとか、会話を楽しもうとかいう気はないのか?」
「ないわね」
きっぱりと言い切られてしまった。
久しぶりに会ったというのに、相変わらず俺のことは大嫌いなご様子。
……詠二の野郎。俺がいない間にエリスに俺の良いところを聞かせまくって好感度を上げておく、くらいのことしてねえのかよ。使えねえ奴だな。
以前と変わらず、嫌悪感を隠そうともしないエリスの態度。そんな態度をされた相手が、素直に言うことを聞くとでも思っているのだろうか。……思っているんだろうな。
「あのな。あいつが向こうの世界で習っていた武術の名前は、古雅流って言う古武術なんだけどな」
エリスの命令を素直に聞いてやるのもつまらないので、ちょっとばかり話題を変えてみることにする。
「……」
いきなり話題を変えたことに対しての不満は口にせず、俺の意図を読み取ろうとしているエリス。何を言おうとしているのか、図りかねている感じだ。
「その道場の規律で、身内同士で真剣勝負をする際、実力以外のものの影響で勝つような事態に陥った場合、自害しなくてはならないってのがあるんだよ。ちなみに、自害ってのは、自殺って意味な」
「なっ!?」
嘘だけど。今時、そんな時代錯誤で理不尽な規律があるわけないけど。
俺の嘘をあっさりと信じ込み、絶句しているエリス。人のことを散々嫌っているわりに、その言葉はあっさりと信用するらしい。相変わらず、残念な頭をしているようだ。
「それで? 何だって? 俺に何をして欲しいんだって? エージに死んで欲しいから、その手伝いをしろ、だっけ?」
へらへらと笑いながら、エリスを問いただしてみた。
「――っ!」
凄い顔で睨まれてしまった。ま、当然か。
からかうのはこの辺にしておこう。これ以上やると、本気で殺意を向けてきそうだし。
「事情があるんだろ? 話してみな」
にやけた顔を隠し、真面目な表情を作りながら訊ねる。
実は、自害というのは嘘だが、破門にされるという規律は本当にあったりするのだ。身内同士での対戦だからこそ、手を抜かず死力を尽くして戦わなければならない。その結果、どちらかが大怪我を負うことになったとしても。実践最強を目指しているだけあって、そのあたりはシビアなのだ。
まあ、そんなものも、別の世界に来ちまった今となっては、守る必要性の全くないし、詠二の奴も守る気はないだろうけど。それは当然言わないでおく。その方が面白そうだし。
「……なぜ、あなたに言わなくちゃならないの?」
「聞かなきゃ俺は何もできないからだよ」
「聞いたところで、あなたに何かできるの?」
「だから、言ってんだろ。何をするにしても、聞かないことには何もできないって。それとも何か? 俺じゃ話を聞かせることにすら無駄。全くの力不足っていいたいのか?」
「そういうわけではないけど……」
てっきり、その通りだ、と言われるものだと思っていたが、意外にも否定されなかった。
どうやら、予選を見たおかげでエリスの中の俺の評価が変わっているようだ。
ヴァドルを出る時までは、実力もないくせに口だけが達者な男、くらいにしか思っていなかったはずなのに、今は少なくとも詠二の勝利を脅かしかねない強さを持ち合わせている男、くらいには上がっているらしい。……いや。下がったのか?
エリスはあきらかに俺に事情を話すことを嫌がっていたが、真面目な顔で問い詰め続けると、しぶしぶ話し始めた。
エリスと詠二がこの街に来た理由。そして、商人との会談の場での話の内容を。
「……なるほど。賭け、ね」
聞いてみたら、中々面白い話だった。
ギャンブルの類には滅法弱いくせに、また無茶な賭けに乗ったものだった。詠二らしくない。まあ、それだけ亜人を商品として扱われたことに憤りを覚えたってとこか。
「それにしても、天剣を賭けるなんてな。エージにしては、随分大それたことしやがったな」
率直な感想を口にする。エリスも否定しないところを見ると、その件に関しては同意見のようだ。
俺なら、天剣を使うなら、もうちょっとローリスクハイリターンな取引にするところだ。……いや。ノーリスクハイリターンかな。
「とりあえず、事情は大体分かった」
「そう。なら――」
「俺としても、別にどうしても勝ちたいわけじゃない。あいつにそんな事情があるっていうなら、勝ちくらい譲ってやってもいいぜ」
「えっ!?」
言う通りにしてやると言ったのに、その言葉を聞いて大げさに驚いているエリス。
「なんだよ。その意外そうな顔は。お前が言いだしたことだろうが。俺だってできることなら協力はするっての。一応、あいつの友人だぞ?」
友人、という単語を口にすると、はっとしたような顔をするエリス。……そんなに見えないのか?
「け、けど、譲るって言っても、一体どうやって? エイジ様はあなたがわざと負けたら、死んじゃうんでしょ?」
別に死にはしないけど。
「おいおい。その言い方だと、俺達が全力でやりあったら、絶対に俺の方が勝つ、みたいに聞こえるぞ? エージ、全然信用されてねえじゃん。いいのか? エージの臣下として、それで」
「っ!?」
指摘してやると、顔を真っ赤に紅潮させてしまった。
ちょっと前まではサリューネがこういった反応をしてくれていたので満たされていたのだが、彼女がいなくなったため、欲求不満からどうも悪戯心が刺激されてしまう。まあ、エリスの場合は、やり過ぎると冗談ではすまなくなるので、ほどほどにするけど。
苦笑しながら、エリスが何かを口にする前に、俺から喋りかける。
「まあ、わざと負けるのが駄目なら、本気で負ければいい。……いや。本気でやりあったように見せかけて、負ければいい。それだけのことだ。だろ?」
「……どういうこと?」
「どういうことも何も、そういうことだっての」
言葉の意味を考えるように、しきりに首を傾げながら、訝しげな視線を送ってくるエリス。
何も難しい話なんかしていない。要するに、本人に手を抜いていることがバレなきゃいい、というだけの話なのだ。
俺からすれば、詠二の奴もエリスと大して変わらない、残念な頭をしているように見えるので、そのくらい簡単に思いつくのだが、エリスからしたらそうではないため、意味が理解できないのだろう。
「じゃあ、そういうことで」
俺はそんなエリスに軽く別れの言葉を告げ、傍でずっと黙っていたフェンリルに目配せをする。
用件は伝わったし。俺の考えも伝えたし。思ってることをそのまま俺の口から言うと怒りそうだし。
「ちょっと! ちゃんと説明を――」
「何にしても、お互い、次の相手に勝てるかどうかは決まってないんだけどな」
納得が行かず、呼び止めてきたエリスの耳元でそんな意味深な台詞をつぶやいて、困惑させてみたりしながら、俺はその場を後にした。
すぐ後ろから、エリスの方を何度も振り返りながら、何か言いたそうにしているフェンリルが、結局何も言わずにとてとてとついてくる。
「主様」
エリスの姿が見えなくなったところで、やりとりをずっと黙って聞いていたフェンリル口を開いた。
「ん?」
「主様は、エリスさんに何かしたのですか?」
「なんでだ?」
「なんか、主様にだけは冷たいみたいですし」
主様に『だけ』?
「いや。あいつはただエイジ以外には冷たいんだよ」
「そんなことありません。エリスさんは優しいですよ!」
「あ?」
あいつのことを大して知らんくせに、何をほざいてんだ、この馬鹿犬は。
「だって、僕達がまだお城にいた時、主様は幼い僕を置いて、いきなりどこかに消えちゃうことってよくあったじゃないですか」
その、俺が育児放棄してどこかに蒸発した、みたいな言い方をするのは止めて欲しかったが、とりあえず、その件を追及するのは後回し。今は黙って話の続きを聞くことにする。
「それで困っていた僕にご飯の用意をしてくれたのはエリスさんですから」
物凄く意外な言葉が飼い犬の口から飛び出した。
「……マジで?」
「マジです」
真顔で断言しているフェンリル。
詠二が傍にいる時以外、いつも不機嫌そうな顔をしている印象があるエリス。そんなエリスが、自分から進んで子犬の世話していただと? しかも、憎むべき相手であるはずの俺の飼い犬を?
「レメディが世話してくれてたんじゃなかったのか?」
「あの人は、僕を甲斐甲斐しく世話をしているところを周りにアピールして、自分の評価をあげようとしていただけです。誰も見ていないとこだと、普通に無視されますよ」
「……」
衝撃の事実! 善人だと思って子供を預けていた家政婦は、実はとんでもない悪人だった。
「まあ、それは冗談ですけど」
「てめぇ。飼い犬の分際で、主に冗談を言っていいと思ってんのか」
嘘つき馬鹿犬小僧の頬を掴み、おもいきり両側に引っ張ってやる。
「いああああ! ごめんなふぁい! ごめんなふぁい!」
最近、少し生意気になってきたので、少しばかり長めにおしおきしてやることにした。
ちなみに、レメディが実は悪女だった、というのは嘘だが、エリスが世話をしてくれたというのは本当のことらしい。
単に彼女は小動物が好きなだけ、ということもありえる話なのだが……。
考えてみれば、いくらお人好しばかりがいるといっても、頭があまりよくなく、性格の悪い人間が少し変わった力を持っているというだけの理由で一時的にとはいえ国のトップにおいて、他が何も言わないわけがないか。
つまり、エリスは性格は良い、ということか? そうなると、俺にだけ態度が冷たいということになる。
……第一印象が悪すぎたか。
その後の積み重ねもあるだろうが、やっぱり、空腹で行き倒れているところに、激辛飲料を飲ませたのが原因っぽい。まあ、あんなものをいきなり飲まされたら印象が悪くなって当然か。あれは完全に寝ぼけていたための行動だったのだが、今思うと、流石にやりすぎたかもしれない。今度謝ろう。
「まあ、エリスのことはそのうちなんとかするとして。……それにしても、知り合いと会う時、お前が人間の姿をしてると、一々説明するのが面倒だな」
両頬をひっぱられ続け、涙目になっているフェンリルを見ながら、ふと思い出したことを口にした。
エリスにはフェンリルのことを、とっさに弟だと言って誤魔化したのだが、この先、前のフェンリルの姿を知っている知り合いに会った時、それで通せるとは思えなかった。
特にレメディなんかと会った時なんかは難しいだろう。彼女には下手に誤魔化しは効かないし。
かと言って、正直に話すのもどうかと思う。あの子犬がこの姿になったと言って、魔族かもしれない、と思われたらまずいらしいし。
本人は全く気にしていないだろうけど。
「お前さ、犬の姿の状態で喋ることってできねえの?」
ちょっと思いついたことを本人に聞いてみることにした。
「できるわけないじゃないですか。馬鹿ですか? 主様は」
「……」
「いいですか? 狼と人間は顔の骨格が全く違うんです。そして、狼の骨格では人の言葉を喋ることなんてできない。こんなの常識ですよ。まったく……主様は少し漫画やアニメに影響され過ぎですよ」
「……普通の犬は人間の姿に変身したりしねえよ」
軽い突っ込みの後、生意気な犬小僧に再度おしおきすることにした。
予選が一通り終わり、本戦が始まるまで、ちょっと時間が空いていた。
他の選手達は予選での疲れを少しでも取るために、徹底して体を休めているそうなのだが、俺は全く疲れていない。というわけで、執拗なお仕置きを重ねた所為でぐったりとしてしまったフェンリルをその場に放置し、一人で街を散策していた。
コロシアムの外に出てみると、すぐ近くで、大きな掲示板を前に大勢の人間が集まり、誰が優勝するかを当てる博打で大いに盛り上がっていた。
暇つぶしに、それを覗いてみることにする。
全員が注目しているその掲示板には、予選を突破した八人の名前と、その名前の隣に、小数点二桁までの数字が書き込まれている。どうやらそれは、その人物が優勝した場合に、賭けていた金額がどのくらいの金額になって返って来るかを表した倍率らしい。
人気は四人に集中していた。
一番人気は俺でも詠二でもなく、グレゴールンという名の男だった。そして、次点はヘクターという男だ。
この二人は俺や詠二と違い、誰とも組まず、たった一人の力で予選を勝ち抜いたのだそうだ。そのおかげで周りの評価もあがったということらしい。この二人に続く人気第三位が詠二。そして、その次に俺といった感じだ。
予選の第一試合において、主に活躍していたのは俺だったが、それが観客の目には、詠二は決勝のために力を抑えて戦っていた、と映ったらしい。まあ、何かと有名な天剣の勇者様だ。そう見えて当然か。実際、詠二は本気を出していなかったのだから、観客の目も中々肥えていると言えるのかもしれないけど。
「ん?」
視線を掲示板から外したところで、ちょっとばかり気になる光景……というか、人物の姿が偶然視界に入ってきた。
「あれは、サリューネと……」
視線の先にいたのは二人。一人は見覚えのある……見間違いようのない青髪の美女。そして、その隣には見たこともない男。
年は三十台前半といったところだろうか。2メートル近い長身に、筋肉を大量につけていると思われるがっしりとした体格。短髪で色黒の肌。顔は……中々渋い。良い男、と言っていいレベル。そんな感じの男だった。
二人はどこか人目を気にして、常に周囲を警戒しているような雰囲気だ。
その姿は、まるで世間から隠れながら逢瀬を重ねる恋人同士のように見えなくもない。
「……まさか、あのガキの勘が当たっちまうとはねぇ」
現場を目にした俺は、思わず空を見上げ、口からは大きなため息が零れていた。